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草食
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仄暗い夕闇の中を点々と煌る街灯の下、ぼくはぼろぼろの自転車を走らせる。ときどき、弛んだチェーンががこんと音を立て、外れかかっては元に戻る。額の切る風は痛いほどに冷たかった。走れども走れども、頭上の街灯は連なり、眼前に広がる灯りは強くなってゆく。妙に眩いネオンの光は煌びやかでありながらどこか安っぽく、剥がれかかったアスファルトに転がる煙草の吸殻を七色に照らす。虹色と呼称するにはあまりにも下品なその光景が、ぼくは大好きだった。
雑居ビルの下で、自転車を止めた。錆びついたブレーキが風邪をひいた鶏のような悲鳴をあげた。一瞬の暗闇のあと、蛍光灯が青白く照らす薄汚れた廊下を、ぼくは歩いた。鈍色の壁は無機質で寒々しい。よく見ると、ところどころひび割れている。人差し指でひびをなぞると、指先を切った。じわりと滲む青みがかった赤は、ぼくの身体から流れでてさえいなければ、さぞかし綺麗だろうと思った。
指を咥えながら、突き当たりの階段を登る。足音が頭上高くまで昇り、また降ってくるのを繰り返す。壁はなぜか紅桃色に変わっていた。陰影を強調したような縞模様の施された壁は、螺旋状に伸びる階段を筒状に包んでいる。生温かかった。ぴちゃん、ぴちゃん、と水温が鳴った。足触りがぬるぬるしていた。湿度を帯びたビル内は、艶かしくぼくの行く先を導いてくれた。
最上階にたどり着いた。壁と床は一面先程と同じ紅桃色で、ヒダのような凹凸を足で踏むと、ぐっしょりと湿っており、液がスニーカーまで染みてくる。仕方がないので、スニーカーと靴下を脱ぎ捨てた。ずぶずぶと、生き物のように壁がぼくの脱いだそれを飲み込んだ。足底で覚える感触は温かく濡れていた。いつのまにか、部屋中に薄黄色の霧が充満していた。大きく深呼吸をした。酸っぱかった。
ふと、視線を感じた。感じた方向の壁に、ぽっかり穴が空いていた。覗いてみると、しなやかで柔らかい大きな目玉がこちらを伺っていた。
館内放送が鳴った。「えい」だの「やあ」といった声が響いた。すると、足元にぼこっと何かが飛び出してきた。そいつは放送の声が鳴るたびに上下した。蹴飛ばしてみると、「ぎゃあ」という悲鳴が耳をつんざいた。同時に、穴の向こうから甲高い声が漏れるのを聞いた。
再び穴を覗いた。蠢くたびにぐにゃぐにゃと歪む目玉は、放送の声に呼応して上下していた。重力に逆らい、また倣う。その繰り返しだった。水風船のように姿形を変えた。そのたびに甲高い声が響いた。目玉の虹彩が真っ赤に染まった。白い部分にも、無数の血管が走った。どんどん膨張する目玉は、ついにはぼくの覗いていた穴をも埋めてしまった。
僕はエレベーターで降り、その場を後にした。頭上から破裂音がした。
ビルを出た。自転車に跨ってペダルを漕いだ。信号前でブレーキをかけた。官能的な声がした。
雑居ビルの下で、自転車を止めた。錆びついたブレーキが風邪をひいた鶏のような悲鳴をあげた。一瞬の暗闇のあと、蛍光灯が青白く照らす薄汚れた廊下を、ぼくは歩いた。鈍色の壁は無機質で寒々しい。よく見ると、ところどころひび割れている。人差し指でひびをなぞると、指先を切った。じわりと滲む青みがかった赤は、ぼくの身体から流れでてさえいなければ、さぞかし綺麗だろうと思った。
指を咥えながら、突き当たりの階段を登る。足音が頭上高くまで昇り、また降ってくるのを繰り返す。壁はなぜか紅桃色に変わっていた。陰影を強調したような縞模様の施された壁は、螺旋状に伸びる階段を筒状に包んでいる。生温かかった。ぴちゃん、ぴちゃん、と水温が鳴った。足触りがぬるぬるしていた。湿度を帯びたビル内は、艶かしくぼくの行く先を導いてくれた。
最上階にたどり着いた。壁と床は一面先程と同じ紅桃色で、ヒダのような凹凸を足で踏むと、ぐっしょりと湿っており、液がスニーカーまで染みてくる。仕方がないので、スニーカーと靴下を脱ぎ捨てた。ずぶずぶと、生き物のように壁がぼくの脱いだそれを飲み込んだ。足底で覚える感触は温かく濡れていた。いつのまにか、部屋中に薄黄色の霧が充満していた。大きく深呼吸をした。酸っぱかった。
ふと、視線を感じた。感じた方向の壁に、ぽっかり穴が空いていた。覗いてみると、しなやかで柔らかい大きな目玉がこちらを伺っていた。
館内放送が鳴った。「えい」だの「やあ」といった声が響いた。すると、足元にぼこっと何かが飛び出してきた。そいつは放送の声が鳴るたびに上下した。蹴飛ばしてみると、「ぎゃあ」という悲鳴が耳をつんざいた。同時に、穴の向こうから甲高い声が漏れるのを聞いた。
再び穴を覗いた。蠢くたびにぐにゃぐにゃと歪む目玉は、放送の声に呼応して上下していた。重力に逆らい、また倣う。その繰り返しだった。水風船のように姿形を変えた。そのたびに甲高い声が響いた。目玉の虹彩が真っ赤に染まった。白い部分にも、無数の血管が走った。どんどん膨張する目玉は、ついにはぼくの覗いていた穴をも埋めてしまった。
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