春にとける、透明な白。

葵依幸

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(1-2) 病室と彼女の提案

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ーー緋乃瀬冬華ひのせとうか



 彼女が数日前にこの病院へ転院してきた新しい患者さんだということは後々母から聞いて聞かされることになる。

 祖母の部屋に若い、可愛い、美人な女の子が入ってきたけれど、年相応に、とてもとてもいい子ではあるけれど、それでもいっちょ前に男である我が息子は、決して変な気を起こしちゃ駄目よっ? と歳不相応の若ぶったポージングで母は言った。

 自分に似てすっごく可愛いけれど、と念押しするのでツッコミ待ちなのかと思ったけどどう転んでも痛い目しか見ないので聞こえないふりをした。

 それに、残念だけれど、とてもじゃないがそういった「変な気」を起こすような相手ではなかったのだ。



「貴方がするお話っていうのが気になるの。だから今度、私にも聞かせてくれないかしら?」



 突然現れた彼女は口を開けて固まった僕にそう繰り返した。



「何を言ってるのかサッパリですね。もしかして可哀そうな人だったりしますか?」

「可愛そうな人だったらお話聞かせてくれる?」

「いえ、どっちかというともう少し距離を置きたくなりますね……」



 せめてペン先が届かないぐらいの距離感ぐらいには。



「心配しなくても平気よ。ここは病院だから」

「この人は入院する病院を間違ってるんじゃないかと心配になってきましたよ」



 ついでにこの人を入院させたうちの母親にも。

 ことあるごとに振り回される指先ーー、に握られたシャーペンが描く軌道は狂気に等しく、恐怖すら覚える。



「どういうことなのさ、ばあちゃん……?」



 祖母に助けを求め視線を向けるとそこにはとても悪い笑顔があった。

「可愛いお嬢さんじゃろ?」



 いや、意味不明だ。

 それに可愛いというより綺麗な人の部類に入るんだろうけど、余計な言葉は火傷しそうなので黙っておく。



「はぁーっ……」



 どう解釈すればいいのか分からない女の人の登場に眉を寄せるが、ただ単純に同室の人が増えたという話だ。それ以上でもそれ以下でもない。ばあちゃんに話し相手が出来たと思えばそう悪いことでもないし。



「で、葉流くんはどんな面白おかしいお話をしてくれるのかしら」



 その相手がちょっと頭のおかしいお嬢様だという点を除いては。



「僕は噺家じゃありません」

「そんなのは期待していないわ? ただ単純に貴方が面白いって聞いて興味を持ったのだし。貴方のお話をただ単純に聞かせてもらえたのなら私は嬉しいかなって思うのだけどーー、」



 話しながら彼女がちらり、と祖母に視線を向けたのは気遣いなどではなく、ただの目くばせだった。



「おばあ様とお話しするついでに私ともお話してくれないかしら」

「二人より三人、三人より四人というじゃろうよ?」



 そこまで言われて突っぱねるのもどうにも意地が悪いと思った。それに祖母がそういうのであれば仕方ない。



「はぁーっ……」とため息で答え、「構いませんけど。僕は人を笑わすのは苦手ですよ」とりあえず、間違いがないように告げた。

 それに対して緋乃瀬さんは満足げに首をかしげると口の端で笑う。



「聞いていた通り面白い子みたいだね。改めてよろしく、秋宮葉流くんーー?」



 くるりと背を向ける彼女。

 それを追って弧を描くように流れる黒髪ーー。

 黙っていれば見惚れるほどの美貌だと言わざる得ないけれど、その実、うちの母にも似た「滅茶苦茶迷惑な人」だ。

 そして絶対に関係を持ってはいけない相手だとも。



「ふふふっ、ここでの生活は楽しくなりそ」



 そういって、ガラガラと窓を開ける彼女。吹き込んだ乾いた風は申し訳程度に開かれていたカーテンを膨らませる。その向こう側に見えていたのはベットに備え付けのテーブルとそこに広げられた原稿用紙の束だった。

 脇のサイドテーブルに積み上げられた本やノートパソコン。見覚えのある光景にそれだけで女が何をしていたのかは何となく分かった。分かってしまった。その途端、心臓を握られたかのような、息苦しさが襲う。



「っーー、ふーっ……」



 それを祖母に悟られたくはなくて、静かにゆっくりと、躓いてしまった呼吸を深呼吸で正す。

 面白い話を聞きたいというのもそれが原因なのか。

 勝手に判断するのもどうかと思ったけれど、多分間違ってはいない。間違っていないなら、尚更、あまり関わり合いにはなりたくない。



「どうかした?」

「いえ、別に」



 向けられた視線の居心地の悪さに窓の外へと視線を逃がす。

 少しずつ冬の訪れを感じはするけれど、景色はまだ暖かい。秋だ。紅く染まった木々の並びで浮かんだ景色を塗りつぶしていく。



 ……馬鹿らしい。



 そうやって自分で自分を貶すことでしか平常心を保てない自分自身が。どうしようもなく情けない。



「売店でテレビカード買って来てあげるからさ、テレビでも見て暇つぶしなよ」

「そうだねぇ、そういえばテレビも久しく見てないねぇ」



 分かってますよ、とばかりに頷く祖母に背を向け一度病室を後にする。どういうつもりかは知らないけど、見知らずの人の前で「桃太郎が実は鬼の子供でした」なんて話をしなくてよかったと思う。出てきた

のが変人で呆気にとられはしたけど、もし嬉しそうにそんな話をしていたら僕もあの人といい勝負だっただろう。



「ほんと、何考えてんだか……」



 祖母が、あの人の事を忘れているわけがない。

 なのに、なんで……。



 むかむかと腹立つ気持ちはあるものの、それを本人にぶつけるほど大人げないだろう。かといって飲み込むにはどうにも扱いきれない塊が胸の内に転がっている。小石ぐらいの、何か。それを腹いせに蹴飛ばしながら売店へ向かい、それでも気持ちは落ち着かなくて、テレビカードのついでに飲みたくもないカフェオレを買ってそのまま中庭のベンチで啜る。



 秋色に染まっていた落ち葉は随分と落ちて枝の色が目立つ。



 寒空の、白い空の色は僕の気持ちなんてお構いなしで、それがかえって気持ちを冷ましてくれた。

 少しずついつのもの感覚を取り戻し、同室に人が入ったのは祖母にとっていいことなんだよな、と自分に言い聞かせる。あの様子だと祖母は何も気にしていない様子だったし、母はこの病院で働いているけれど、だからと言って傍についていられるわけでもない。例えそれが義母だとしても扱いは他の患者さんとそう変わらないだろうし、きっと母ならそうする。身内びいきするような性格ではない。

 だから、そんな祖母の向かい側に僕とそう年の変わらないぐらいの女の子が入ってくれて、ほっとすべきなのだ。ちょっと変わった人であることは別にしても。



「戻るか……」



 あまり遅いと祖母も心配するだろう。

 どうせ荷物は部屋に置きっぱなしだからそのまま帰ることはできないのだけど、それでもどれだけ平常心を装っても祖母には見抜かれている気がした。



 病室へと戻った時には太陽はいつの間にか傾き始めていて、夕焼けへと姿を変えて、周囲の景色をオレンジ色に染め上げていた。

 祖母は静かに寝息を立てて眠っており、その横のテーブルに「たぶん使うことはないんだろうな」と思いながらも買ってきたテレビカードを置く。

 こうしてみると生きているのか死んでいるのか分からない。だから、かすかに聞こえる呼吸の音は僕をほっとさせてくれる。



「…………」



 神経質になりすぎなのかもしれない。

 けれど、一度それを経験した身としてはどうしても身構えてしまう。意識しようと、しまいと。それを。

 そんな中、カリカリと原稿用紙の上をシャープペンシルの先が走る音を耳がとらえている。

 言ってしまえば魔が差した。気がついたときには吸い寄せられるかのようにそちらへと視線は移り、少しだけ開いていたカーテンの隙間から彼女の様子を窺っていた。

 赤く染まる白い肌。風に広がる黒髪と端が持ち上がる原稿用紙。

 真剣な眼差しで文字を綴る彼女の姿はこの世のものとは思えず、何処かに飾られている絵画のように映った。



「どんな話を書いてるんですか?」



 手に取った原稿に目を落とすと、吹き抜ける風の中、青い空と草原がそこには広がる。春の日差しを感じさせる、暖かな気温と、その中でこちらを振り向く彼女。それは儚げで、それでいて力強くて、まぶしくて。笑みの上に涙を浮かべ、じっと何かを見つめている。



 何かを……、いや、僕か……?



 透き通った強い瞳の光に飲み込まれるような感覚に陥り、お手本のような破裂音と共にやってきた痛みで現実世界に意識が引っ張り戻される。目の前で涙目になっていたのは草原の上の彼女ではなく、ベットの上で固まっている彼女だった。頬に広がった熱がぶたれた事を思い知らせる。



「へっ、へんたいかね! きみひゃ?!」

「か、かんだ……」

「うるさい!」



 べちんと今度は僕から奪い返した原稿用紙の束で頭をたたかれる。

 それ自体はさほど痛くはなかったけど自分が何をしでかしたのか、ようやく頭が遅れて理解する。



「す……すみませんでした……」



 怯みつつも謝罪の言葉が零れ落ちる。原稿用紙をぎゅっと抱きしめて顔を赤らめている姿はまるで着替えを覗かれたかのようだ。だけど、実際との所は書いていた文章を読ませてもらっただけだ。確かにデリカシーに欠ける行動だったとは思うけど、そこまでムキになることだったのかな……、なんて思ってしまうのは僕の身勝手だろう。



「え、えーっと……。すごい、ですね……?」



 なにが、とは聞き返されなかった。不満げに眉を下げ、睨みつけるようにして緋乃瀬冬華さんは抱えていた原稿用紙を後ろに回し、僕から視線を逸らす。何かを見ているってわけでもなく、お互いその空気に耐えられなかっただけだ。



「人に読まれるのは、……苦手なのよ。ごめん、痛かったよね」



 目をそらしたままではあるものの謝られ、こちらの方が悪いことをしたのにバツが悪そうに俯かれるとますます言葉が見つからなくなる。あーとかうーとか、言葉にならない言葉を繰り返しつつ、おばあちゃんは相変わらず寝息を立てているのを確認してどうにか自分で切り抜けるほかないと頭を下げた。



「僕の方こそすみませんでした。なんだか気になっちゃって……」

「うん……わたしもちょっと驚いただけだから。……許す」



 あれ? っと首をかしげたのはあまりにも最初の印象と違っているように思えたからだ。

 なんだかもっと、大人っぽくて人を手玉に取りそうな印象を持っていたのにいまの目の前の彼女はどちらかといえば年下の、子供のように感じた。



「冬華さんって……おいくつですか……?」

「は……? 16……だけど……?」



 一つ上か。だとすればそう不思議でもない。その見た目に踊らされて随分大人っぽくも見えたけれど、自分とそう変わらないのであればそこまで緊張する必要もないのかもしれない。



 そう思えばこそそれまで得体のしれないもののように見えていた存在も急に見知ったものに見えてくるから不思議なものだ。

 クラスにはいないタイプだけど高校生になればこういう人も学年に一人や二人いるのかもしれない。

 タイプといえばまったく正反対に位置するであろう幼馴染の顔がふと浮かび、自分の中の「同世代の女の子像」はアイツの印象がかなり強かったんだと気づかされる。幼馴染の春川舞花は言ってしまえば子供っぽい奴だったから。



「ていうか、何か用? あんまりじろじろ見られると居心地悪いんだけど」

「すみませんっ……そんなつもりはなかったんですけど……」

「そんなってどういうつもりの事かな。突然であった病室の美少女に見惚れてしまったって事じゃなくて?」

「それはまぁ……きれいな人だなぁ、とは思いましたけど……」

「けど?」

「…………」



 さっき自分が見た「光景」を素直に話すべきか少しだけ悩んだ。

 あなたの文章を読んで景色が頭の中に浮かび上がったんですだなんてちょっと頭のおかしい人みたいだ。



「なんなのさっ」



 意図せずにまた見つめてしまう結果となり、こういう時は素直に伝えるのが一番かもしれないと開き直る。



「緋乃瀬さんの文章凄いと思います。読んだっていうか飛び込んだって感じで、……びっくりしました」

「びっくり……」

「びっくりしました」

「……へえ……?」



 きょとーんと目を丸くした緋乃瀬さん。

 自分で言っておいてなんだけどバカみたいなこと言ってるなーって自覚はある。けれどそこに書かれている文章を読んで本当にそう感じたのだから嘘ではない。



「凄かったです」



 伝わってないのかもと、繰り返す。

 そんな僕に対し彼女が何を思ったか分からないが、目を細め、挑発するように「良い趣味してんじゃん」と口の端で笑った。



「嫌いじゃないな、君の事。改めてお願いなんだけど、私のところにも遊びに来てよ。暇なんだよね、病室って」



 広げて見せたのは原稿用紙の束とシャープペンシル。

 彼女の周りに積み上げられているのは暇つぶしのための道具だ。読んだのか読んでいないのか区別のつかない本の山がここ数日でできたのだとすれば彼女にとっての入院生活は随分窮屈な物なのだろう。病状は聞く気にも起きないけれど、その白い肌が決して短くはない病院での暮らしを物語っている。



「悪くないと思うけどな、美少女と過ごす病室の日々。……きっと良い思い出になると思うんだよねっ」



 ケラケラと笑って提案する彼女は何処まで本気なのか分からなかった。



「思い出って、ここでの生活での、ですか?」

「人生の、だよ」



 言って見つめる先は日が暮れるにつれてはっきりと浮かぶようになったあの彗星だ。

 後ろのベットでおばあちゃんは寝ている。開け放たれた窓から吹き込む風はもう暖かくはない。足元から冷えてくるような感覚に僕は返事するよりも先にそれを閉めた。



「飛べない鳥を可哀そうだとは思ってくれんかね」

「……自分が鳥だとでも?」



 いつもの癖で無意識に言い返してしまい、しまったと体が強張る。もう一発叩かれるかと思いきや彼女が浮かべていたのは不敵な笑みだった。僕の様子を窺うように覗き込み、耳にかけていた髪がほろりと頬を撫で落ちる。大人っぽくて、少しドキっとさせられる表情。鼻で息を吸ってしまいそうになり、ちょっと息詰まった。



 苦手だ、この人。



 自分の周りにはいないタイプだった。母はいつもやかましいほど元気だし、舞花はせわしないし。ぎゃーぎゃー喚く相手には適当に受け流せばいいって知ってるけど、こんな風にいちいちこっちの反応を窺ってくる相手にはどう返せばいいのか分からない。



「……おばあちゃんをよろしくお願いします。いい話し相手になってくれると思うんで」

「うんっ、知ってる」



 我ながら返事になっていないな、とは思うものの他に言葉が浮かばなかった。

 居心地の悪さを感じつつもリュックを背負い、恐らくは「狸寝入り」に変わっていた祖母の寝顔に不満を覚えつつもその場を後にする。そろそろ面会の時間も終わりだ。



「またね、葉流君」



 透き通るような、聞き逃せばそのまま消えてしまったであろうか細い声に僕は振り返ることもなく扉を閉める。



 やっぱり苦手だ、ああいう人ーー。



 静まり返った廊下は随分暗く思える。夜と夕暮れの境目。

 片田舎の地方病院では入院患者もそう多くはない。すれ違う、顔を知っている看護師さんに会釈しつつ廊下を歩いていると思いに反して気持ちは徐々に落ち着いていく。



 彗星が落ちてくるまで、後半年とちょっと。



 談話スペースとして設けられているロビーのテレビではそれに関する報道が行われ、対策を協議中だとか、今更そんなの遅すぎるとかなんとか。どちらにせよ、僕らには関係あるようでないような話に思える。彗星が落ちてくるといわれても、未だに実感はない。ないからこそ、日常はこうして続いているのかもしれないけれど。



 と、取り留めのないことを考えていたら突然後頭部に何かを突き付けられた。



「動くな、動けばお前の命はない!」

「……仮にも自分の勤務先で言うセリフではないと思うんだけど、母さん?」

「ばぁーん!」



 指で拳銃のポーズを作っていた我が母上は大げさに効果音を奏でながら頬を膨らませている。



「ハルハルは死に急ぎ野郎かい?」

「撃った奴に言われたくねぇよ」

「忠告はしたハズだっ」



 我が母ながらなんとも大人げない……。こんな人がドクターで患者さんは平気なんだろうか。いや、そこそこ人気はあるらしいのだけど。これなら緋乃瀬さんの方がずっと大人だ。



「もう少しさ……どうにかなんないの」

「ああ、冬華ちゃんに会ったのね」



 鋭い。無駄に頭の回転が速いのが癪に障る。

 相手にするだけ無駄だ。さっさと帰ろうと足を踏み出すとぎゅいっとリュックごと体を後ろに引っ張られた。



「気になる? ねぇ、気になる??」

「ならない。だから離して」



 アンタの夕食の準備もしなくちゃならないんだから。

 こうして遊んでいるということは今日のシフトは終わったのだろう。

 なら即座に僕を解放し、自分が帰るまでに食卓を揃えさせようというのが計画的だろうに。

 視界の端で睨んでいると母は嬉しそうに両手を広げ、「後で話してあげようっ」とコンプライアンスも真っ青なセリフを吐き出す。

 そのうちクビになんじゃないかなこの親。すげぇ不安だ。うちの家計はこの人にかかってるっていうのに。



「んじゃ、先帰るから」

「おーっ」



 呆れつつ今度こそその場を後にすると後ろから「はーっるきゅん」と更に場違いな声を投げかけてくる。



「あー……?」



 多少の恥ずかしさを覚えつつも反応しないと永遠と呼び続けるので仕方なく振り返る。



「今夜はカレーが良いッ」



 どうでもいいリクエストだったので今夜はハヤシライスに予定を変更した。

 食卓での聞きたくもない緋乃瀬冬華さんに関するあれこれが母なりの仕返しだったのだとしたら、どうかしている。

 結果的に僕は、彼女と関わったことを後悔する結果となるのだから。
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