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要はあの夜を思い出す
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いずれ学校には行かなくてはならないと思っている。ヒガンや死せる者の話さえしなければいいのだとわかっている。
死せる者は日中に活動することはないし、日が暮れるまでは彼らの存在を意識することもない。日中、要の目に映る世界は、ほかの生ける者とまったく同じ世界だ。視えないふりなどする必要もない。自分に嘘をつく必要もない。ただ話題にしなければ済むこと。簡単なことだ。
死せる者は、闇に潜み、通りかかった人から必要な養分を得る、やぶ蚊みたいなものだ。一度に大量に食われることがなければ命はもとより健康にも影響はない。死せる者などいてもいなくても構わないし、その存在を多くの人が知るべきだなどとは微塵も思わないから、他人に触れ回るつもりはない。
だけど。
自分にとってあたりまえの日常が誰とも共有できていないのは、まるで自分だけ異なる世界に存在している気分になるのだった。視えているかいないかだけの違いで、ヒガンが存在していることに変わりはないのに。
ヒガンだけではない。要にも視えないところにだって世界はある。ヒガンに棲むのは死せる者だけではない。還りし者もいる。
生ける者のほとんどは、死の迎え方によって死せる者と還りし者に分かれる。死せる者は魂魄のコンとハクの両方を備えており、還りし者はコンしか持たない。『ヒガン考』によれば、コンとは魂魄の魂で精神を支える気、ハクとは魂魄の魄で、肉体を支える気、とあるから、還りし者とは実態を持たないのだろう。少なくとも、要は視たことがないし、祖父からも還りし者について聞かされた覚えがない。
おそらくヒガンには、還りし者の方が圧倒的に多い。いわゆる輪廻転生の流れに乗った者たちだ。死を迎えて一定期間をヒガンで過ごすと新たな生を得て、生ける者としてシガンに送られる。自分もそうやって幾度となくシガンの岸に流れ着いたコンなのかと思うと不思議な気分になる。
シガンに棲みながらヒガンの一部を視ている要でも、視えないものは多い。だから、自分の視ている世界の存在を認めてほしいなどと思っているわけではない。そこに在る、ただそれだけの現象なのだとわかっている。
どうしたいわけでもない。どうなるものでもない。わかっているのに、次の一歩を踏み出す地面が見えなくて、片足を上げたまま下ろす場所をずっと探している。
そして日が落ちるとヒガンの光景を眺め、今立っている場所を確かめずにはいられない。
ただし、満月の夜はコンビニには近づかないことにしている。誘蛾灯に集まる虫たちのように、死せる者がコンビニの明かりに吸い寄せられてくるからだ。正確にいうならば、コンビニに吸い寄せられる生ける者に吸い寄せられる死せる者、なのだが。
襲われたところで害はないとわかってはいても気分のいいものではない。襲われないに越したことはない。
だから満月の夜は死せる者の群れから離れた場所から眺める。それでも蘭子の姿はすぐに見つけられる。
そういえば、と初秋のできごとを思い出した。初秋の、薄月夜のことを。
あの溺れた人はどうなったのだろう。助かっただろうか。
雲が多い晩で、そのせいか狩りをする者も少なかった。たしか、要は国道のガードレールに腰かけて浜辺を見下ろしていた。
目を閉じ、あの夜の光景を瞼の裏に映し出す。すると案外詳細に覚えていた。
薄雲に覆われた月が朧げに灯っていた。その淡い月光のもと、蘭子が浜辺を歩いていた。目的があるわけではなさそうで、飲み込まれそうな波の轟音の中をゆっくりと散歩しているようだった。
蘭子は歩みを止め、薄雲に覆われた星々の代わりのように瞬いている、湾の対岸の明かりを眺めたりした。
それから、すいと伸びた手が宙に浮かぶなにかを捕まえるかのように握られた。何が見えていたのかはわからない。だけどそこに存在するものではなかったらしく、開いた手のひらには何も握られていなかった。
風が鳴る。雲が流れ、月があらわになり、波頭が白く光る。
間を置かずして、単調だった波音に乱れが生じた。
蘭子は、音につられて岩場に顔を向けた。
砂浜の一端は磯になっており、その岩場の先で波を乱す水音が聞こえたのだった。波音に紛れるかすかな音ではあったが、空耳ではない。車の通行が途絶えていたこともあって、要の耳にも届いた。
岩の影になって月の光が届かない場所があった。遠目にも、その黒い波間から光る杭のようなものが突き出しているのが見える。光るように見えるのは、薄月の明かりに照らされているだけで、それ自体が発光しているのではないのかもしれない。
光るものの正体を近くで見極めるべく、蘭子はゆらりと磯へ向かって歩み始める。
杭は波が打ち寄せるたびに揺れ、浮沈を繰り返し、やがて消えた。とぷんと音が聞こえそうな沈み方だった。
蘭子は疾風のように夜を走り、光る杭を追って波間に身を沈めた。
寸刻の後、蘭子が浮上した。人の形をしたものを抱えている。光る杭と見えたものは人の腕だったようだ。
蘭子の腕の中で、面と腕が月光に白く浮かぶ。ガクリと折れた首筋は一段と映えている。その白い首筋に、蘭子が覆い被さる。抱き締めているのか、耳元で声をかけているのか、要のところからではよく見えない。
風が吹く。流れてきた厚い雲が月にかかると、夜の海は再び闇に飲み込まれる。二つの人影も闇に紛れ、後には荒ぶる波音だけが残された。
あの人は助かったのだろうか。それにしても、蘭子が人助けをするとは意外だった。しかも生ける者を。祖父の言う通り、生ける者のハクを持った死せる者なのだと思った。
やはり、蘭子と話してみたい。そのような機会がまた訪れるだろうか。
要は『ヒガン考』をそっと机の引き出しにしまった。
死せる者は日中に活動することはないし、日が暮れるまでは彼らの存在を意識することもない。日中、要の目に映る世界は、ほかの生ける者とまったく同じ世界だ。視えないふりなどする必要もない。自分に嘘をつく必要もない。ただ話題にしなければ済むこと。簡単なことだ。
死せる者は、闇に潜み、通りかかった人から必要な養分を得る、やぶ蚊みたいなものだ。一度に大量に食われることがなければ命はもとより健康にも影響はない。死せる者などいてもいなくても構わないし、その存在を多くの人が知るべきだなどとは微塵も思わないから、他人に触れ回るつもりはない。
だけど。
自分にとってあたりまえの日常が誰とも共有できていないのは、まるで自分だけ異なる世界に存在している気分になるのだった。視えているかいないかだけの違いで、ヒガンが存在していることに変わりはないのに。
ヒガンだけではない。要にも視えないところにだって世界はある。ヒガンに棲むのは死せる者だけではない。還りし者もいる。
生ける者のほとんどは、死の迎え方によって死せる者と還りし者に分かれる。死せる者は魂魄のコンとハクの両方を備えており、還りし者はコンしか持たない。『ヒガン考』によれば、コンとは魂魄の魂で精神を支える気、ハクとは魂魄の魄で、肉体を支える気、とあるから、還りし者とは実態を持たないのだろう。少なくとも、要は視たことがないし、祖父からも還りし者について聞かされた覚えがない。
おそらくヒガンには、還りし者の方が圧倒的に多い。いわゆる輪廻転生の流れに乗った者たちだ。死を迎えて一定期間をヒガンで過ごすと新たな生を得て、生ける者としてシガンに送られる。自分もそうやって幾度となくシガンの岸に流れ着いたコンなのかと思うと不思議な気分になる。
シガンに棲みながらヒガンの一部を視ている要でも、視えないものは多い。だから、自分の視ている世界の存在を認めてほしいなどと思っているわけではない。そこに在る、ただそれだけの現象なのだとわかっている。
どうしたいわけでもない。どうなるものでもない。わかっているのに、次の一歩を踏み出す地面が見えなくて、片足を上げたまま下ろす場所をずっと探している。
そして日が落ちるとヒガンの光景を眺め、今立っている場所を確かめずにはいられない。
ただし、満月の夜はコンビニには近づかないことにしている。誘蛾灯に集まる虫たちのように、死せる者がコンビニの明かりに吸い寄せられてくるからだ。正確にいうならば、コンビニに吸い寄せられる生ける者に吸い寄せられる死せる者、なのだが。
襲われたところで害はないとわかってはいても気分のいいものではない。襲われないに越したことはない。
だから満月の夜は死せる者の群れから離れた場所から眺める。それでも蘭子の姿はすぐに見つけられる。
そういえば、と初秋のできごとを思い出した。初秋の、薄月夜のことを。
あの溺れた人はどうなったのだろう。助かっただろうか。
雲が多い晩で、そのせいか狩りをする者も少なかった。たしか、要は国道のガードレールに腰かけて浜辺を見下ろしていた。
目を閉じ、あの夜の光景を瞼の裏に映し出す。すると案外詳細に覚えていた。
薄雲に覆われた月が朧げに灯っていた。その淡い月光のもと、蘭子が浜辺を歩いていた。目的があるわけではなさそうで、飲み込まれそうな波の轟音の中をゆっくりと散歩しているようだった。
蘭子は歩みを止め、薄雲に覆われた星々の代わりのように瞬いている、湾の対岸の明かりを眺めたりした。
それから、すいと伸びた手が宙に浮かぶなにかを捕まえるかのように握られた。何が見えていたのかはわからない。だけどそこに存在するものではなかったらしく、開いた手のひらには何も握られていなかった。
風が鳴る。雲が流れ、月があらわになり、波頭が白く光る。
間を置かずして、単調だった波音に乱れが生じた。
蘭子は、音につられて岩場に顔を向けた。
砂浜の一端は磯になっており、その岩場の先で波を乱す水音が聞こえたのだった。波音に紛れるかすかな音ではあったが、空耳ではない。車の通行が途絶えていたこともあって、要の耳にも届いた。
岩の影になって月の光が届かない場所があった。遠目にも、その黒い波間から光る杭のようなものが突き出しているのが見える。光るように見えるのは、薄月の明かりに照らされているだけで、それ自体が発光しているのではないのかもしれない。
光るものの正体を近くで見極めるべく、蘭子はゆらりと磯へ向かって歩み始める。
杭は波が打ち寄せるたびに揺れ、浮沈を繰り返し、やがて消えた。とぷんと音が聞こえそうな沈み方だった。
蘭子は疾風のように夜を走り、光る杭を追って波間に身を沈めた。
寸刻の後、蘭子が浮上した。人の形をしたものを抱えている。光る杭と見えたものは人の腕だったようだ。
蘭子の腕の中で、面と腕が月光に白く浮かぶ。ガクリと折れた首筋は一段と映えている。その白い首筋に、蘭子が覆い被さる。抱き締めているのか、耳元で声をかけているのか、要のところからではよく見えない。
風が吹く。流れてきた厚い雲が月にかかると、夜の海は再び闇に飲み込まれる。二つの人影も闇に紛れ、後には荒ぶる波音だけが残された。
あの人は助かったのだろうか。それにしても、蘭子が人助けをするとは意外だった。しかも生ける者を。祖父の言う通り、生ける者のハクを持った死せる者なのだと思った。
やはり、蘭子と話してみたい。そのような機会がまた訪れるだろうか。
要は『ヒガン考』をそっと机の引き出しにしまった。
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