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監禁前夜
五話・憤怒の先にあったモノ①
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車の中はひどく静かだった。
運転手が時折サイドブレーキを動かす音だけが響いている。
隣に座ったメアは、車に入ってからは一言も喋らない。
ゆっくりと流れていくガラスの向こうを眺めているだけだった。
そんな車内には優しい芳香剤の香りが満ちる。桜によく似た香りに癒される余裕もなく、アイネは膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ口を真一文字につぐんでいた。きつく握った指の先まで血が巡っていないのか、先ほどからやけに爪先が冷え冷えて感じる。
けれど、そんなことどうだって良かった。この現実を変えられるなら、そんなもの些末な代償だ。……変えられなんて、しないけれど。
「ねぇ、……俺はね、アイネ。これでも怒ってはないんだよ? いや、そりゃ『なんで?』とは思うけどさ。でもね、アイネが大変だったことも分かってるから」
「…………は?」
声が震えた。『大変だったことも分かってる』、それが何を意味するのか分からないほど愚かではなかった。風景から視線を移しこちらを見つめる瞳が、本気であることが分からないほど付き合いは浅くなかった。
昼間に聞いた、メアの無邪気な言葉が頭に蘇る。
――「そりゃ分かるよ、……見てたもん」
あの言葉は冗談ではなかったのだ。いや、あの場では冗談だったのかもしれない。けれど、彼はすべてを知ったうえで冗談にしていたということになる。アイネの今も、過去も、すべて。
アイネが拒み続けた『知られたくない』という現実は、さも当然のようにそこに居た。こちらに微笑み、手を振るその様は模範的で友好的な隣人だ。めまいがする。
「お父さんも酷いことをするよね。アイネの大事な経験をあんな強引に奪うなんて」
「っ、…な、んで……それを……」
「それからー……あぁ、中学の先輩だっけ。甘い言葉でアイネを誑かして、教室で犯して……でも、この時は気持ちよくなれたんだよね。それは良かったね」
見ていたのかと疑いたくなる言葉だった。淡々と紡がれるメアの言葉を契機に次々と心の奥底に沈めた記憶が浮かび上がってくる。今日だけで何度己の過去を思い返しただろう。何度苦々しい気持ちになっただろう。だが、これほどまでに息苦しさを感じたのは初めてだった。殺してくれとすら思うほどに。
(……メアだけは、お前だけは、何も知らないでいてほしかった。子どもの頃みたく、身体のことなんて気にしないで、笑ってたかった。お前にも笑っててほしかった。一緒に笑いたかった)
けれど、きっと裏切りを犯したのは自分の方なのだ。
肌に幾度も咲く情痕が、幾度も開かれた秘部の蕾が、男の悦ばせ方を知っている指が、舌が、アイネという存在のすべてが裏切りの証に思えた。
嗚呼、泣いている。また心の奥底で、あるいは脳髄のその奥で、小さな幼子が泣いている。「だから嫌だったのに」と、数時間前の選択を恨んでいる。自業自得の四文字が冷ややかな目でこちらを見た。
「でもね、もう安心していいよ」
「あん、しん……?」
車に乗せられる直前と同じように、メアの声音がころりと切り替わる。あの無邪気な瞳がにぱっと笑ってアイネを映す。先ほどまでの重く陰った音色も、虚ろを映した淡い水色交じりの灰色の水晶も、初めから存在していなかったようにどこにも無い。
まただ。二面性という言葉だけで納得するには悍ましい不気味さが、今のメアには張り付いていた。「なにかがおかしい」、そう思う。
されども、車中にてその影を掴むことはついぞ出来ず、
気付けば車は大学近くにある高級マンションの地下駐車場へと辿りついていた。
運転手が時折サイドブレーキを動かす音だけが響いている。
隣に座ったメアは、車に入ってからは一言も喋らない。
ゆっくりと流れていくガラスの向こうを眺めているだけだった。
そんな車内には優しい芳香剤の香りが満ちる。桜によく似た香りに癒される余裕もなく、アイネは膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ口を真一文字につぐんでいた。きつく握った指の先まで血が巡っていないのか、先ほどからやけに爪先が冷え冷えて感じる。
けれど、そんなことどうだって良かった。この現実を変えられるなら、そんなもの些末な代償だ。……変えられなんて、しないけれど。
「ねぇ、……俺はね、アイネ。これでも怒ってはないんだよ? いや、そりゃ『なんで?』とは思うけどさ。でもね、アイネが大変だったことも分かってるから」
「…………は?」
声が震えた。『大変だったことも分かってる』、それが何を意味するのか分からないほど愚かではなかった。風景から視線を移しこちらを見つめる瞳が、本気であることが分からないほど付き合いは浅くなかった。
昼間に聞いた、メアの無邪気な言葉が頭に蘇る。
――「そりゃ分かるよ、……見てたもん」
あの言葉は冗談ではなかったのだ。いや、あの場では冗談だったのかもしれない。けれど、彼はすべてを知ったうえで冗談にしていたということになる。アイネの今も、過去も、すべて。
アイネが拒み続けた『知られたくない』という現実は、さも当然のようにそこに居た。こちらに微笑み、手を振るその様は模範的で友好的な隣人だ。めまいがする。
「お父さんも酷いことをするよね。アイネの大事な経験をあんな強引に奪うなんて」
「っ、…な、んで……それを……」
「それからー……あぁ、中学の先輩だっけ。甘い言葉でアイネを誑かして、教室で犯して……でも、この時は気持ちよくなれたんだよね。それは良かったね」
見ていたのかと疑いたくなる言葉だった。淡々と紡がれるメアの言葉を契機に次々と心の奥底に沈めた記憶が浮かび上がってくる。今日だけで何度己の過去を思い返しただろう。何度苦々しい気持ちになっただろう。だが、これほどまでに息苦しさを感じたのは初めてだった。殺してくれとすら思うほどに。
(……メアだけは、お前だけは、何も知らないでいてほしかった。子どもの頃みたく、身体のことなんて気にしないで、笑ってたかった。お前にも笑っててほしかった。一緒に笑いたかった)
けれど、きっと裏切りを犯したのは自分の方なのだ。
肌に幾度も咲く情痕が、幾度も開かれた秘部の蕾が、男の悦ばせ方を知っている指が、舌が、アイネという存在のすべてが裏切りの証に思えた。
嗚呼、泣いている。また心の奥底で、あるいは脳髄のその奥で、小さな幼子が泣いている。「だから嫌だったのに」と、数時間前の選択を恨んでいる。自業自得の四文字が冷ややかな目でこちらを見た。
「でもね、もう安心していいよ」
「あん、しん……?」
車に乗せられる直前と同じように、メアの声音がころりと切り替わる。あの無邪気な瞳がにぱっと笑ってアイネを映す。先ほどまでの重く陰った音色も、虚ろを映した淡い水色交じりの灰色の水晶も、初めから存在していなかったようにどこにも無い。
まただ。二面性という言葉だけで納得するには悍ましい不気味さが、今のメアには張り付いていた。「なにかがおかしい」、そう思う。
されども、車中にてその影を掴むことはついぞ出来ず、
気付けば車は大学近くにある高級マンションの地下駐車場へと辿りついていた。
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