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一章 誘惑と騎士
逃避行
しおりを挟む「……どういう風の吹き回しよ?」
と、リリアーナは隣を歩くアスベルを睨む。
「それはさっきも話しただろう? 詳しい事情は知らないが、上はお前の処刑を決めた。だか俺はそれを、不当だと思った。だから俺は、お前を逃すことにした」
アスベルはリリアーナの方に視線を向けることなく、淡々と言葉を告げる。
「それは分かってるわよ。じゃなくてあたしは、あんたがそんなことをする理由が分からないって、言ってるの」
「……? 理由なら今話しただろう。俺はお前の処刑が不当だと──」
「だから、そうじゃないって! ちゃんと話を聞きなさいよ、馬鹿!」
思わず声を荒げるリリアーナ。今は深夜で周囲に人影はない。それでも目立つようなことはするべきではない。そう分かっているのに、感情を抑えることができない。
「あんた、あれだけルールとか正しさとかを気にしてたのに、今になってあたしを逃すなんて意味わかんない。どうして上の命令に逆らってまで、あたしを逃すことにしたの? ……もしかして、何だかんだ言ってあたしに惚れてたりした?」
「そんな訳がないだろう。何を言っているんだ、お前は」
呆れたように息を吐くアスベル。相変わらずムカつく奴ではあるが、その態度はいつものアスベルと変わらない。だからますます、リリアーナは困惑してしまう。
「ほんと、なんなのよ……」
アスベルは人目を避けて、周囲を警戒しながら入り組んだ山道を歩く。最初は騙して別の牢屋に連れて行くつもりなのかとも考えたが、そんな気配はない。
国境までこのペースで行くなら、数日はかかるだろう。どうしてアスベルはそこまでして、自分を助けるのか。リリアーナにはその理由が、全く分からなかった。
「お前の監視と警護をするにあたって、お前のこれまでの罪状について調べた」
そんなリリアーナの困惑を察してか、アスベルはいつもと同じ淡々とした口調で言う。
「お前は確かに悪だ。お前に騙されて破産した人間も少なくない。この国の貴族にも、お前に騙された奴がいる。傾国というのは些か大袈裟だとは思うが、お前を放置すれば迷惑を被る人間は少なくないだろう」
「……だったらどうして、そんなあたしを助けるのよ?」
「お前が誑かした貴族の中に、ミルザードという男がいたな? 領民を不当に苦しめ私服を肥やしていた悪人だ。お前はその男を陥れ、有能な次男と当主の座をすげ替えた」
「……ああ、そんなこともあったわね。でもそれは偶々、結果的にそうなっただけよ? それであたしが善良だなんて思ったら、大間違い。あたしは、あたしが楽しいと思ったことしかやらない。それで人間がどうなろうと、知ったことじゃないわ」
この場では嘘でも、アスベルに媚を売った方がいい。リリアーナもそれは理解していた。それでも彼女は、本心を口にした。善良だと勘違いされたまま情けをかけられるのは、無実の罪を着せられることより気に入らない。
リリアーナは背後からアスベルを睨む。アスベルは相変わらず感情を感じさせない声で、続ける。
「お前の内心がどうであれ、それで救われた人間がいるのも確かだ。……お前は確かに悪だ。だが、お前はこんなところで処刑されるべきではない」
「それ、あんたが決めることじゃないでしょ?」
「だろうな。……だが、お前の事情を抜きにしても、ここでお前に死なれては面倒だ。ここでお前に死なれてまた戦争にでもなれば、血を流すことになるのは俺の部下だ」
アスベルは周囲とリリアーナに気を配りながら、音もなく静かに歩き続ける。やはりこの男の考えは分からない、とリリアーナは小さく息を吐く。
「でもあんた、上官の命令に逆らったんでしょ? 大丈夫なの? 怒られるだけじゃ済まないでしょ、こんな真似して」
「さあな」
「さあなって、あんたね……」
「……どうやらお前は少し、俺のことを勘違いしているようだな」
アスベルは足を止め、リリアーナを見る。その瞳は夜空に輝く月よりも色がない。真っ黒で濁っていて、何より冷たい。
「俺は別に、上からの命令を盲信している訳じゃない。というか俺は結構、命令を無視をしている」
「そうなの?」
「ああ。俺は独断専行が多いからな、一部の上官以外からは怒鳴られてばかりだ」
少しだけおどけるように目を細め、また歩き出すアスベル。予想外の事実に一瞬足を止めてしまったリリアーナは、慌ててその背中を追う。
「俺は今まで、数え切れないほどの魔族を殺してきた。いや、魔族だけじゃない。同族である筈の人間も、何人も何人も殺してきた。……俺はお前に悪だと言ったが、俺だって別に善人な訳じゃない」
風が吹く。闇に溶けるようなアスベルの黒い髪を、冷たい夜風が揺らす。
「しかし俺は別に、上に命令されて嫌々やってきた訳じゃない。俺はどんな時でも自分の正しさを信じ、自分の意思で剣を振るってきた。だから俺に、後悔なんてものはない。今までも、これからも」
「でも、それは……」
それは、全ての責任を自分で負うということ。言葉で言うほど、簡単なことではない。自分の意思で、誰のせいにもせず、たった1人で戦い続けてきた男。
その生き方は少しだけ自分に似ていると、リリアーナは思った。……似ているだけで、完全な別物ではあるが。
「あんたの考えは分かったわ。あんたが思っていたより、ずっと馬鹿だってことも」
「ああ、そうだ。賢ければ、こんな真似はしないさ」
「でもあんた、あたしを逃した後どうするつもりなの? 最悪、今度はあんたが、牢屋に入れられることになるかもしれないのよ?」
「さあな。これまではどうにかなったし、今回もどうにかするさ。俺はただ、俺の正しさを信じるだけだ」
「……なにそれ、ほんと馬鹿。馬鹿すぎて笑っちゃう」
リリアーナは何だか馬鹿らしくなって、肩から力を抜く。ここで奥の手を使えば、余計な不安を消すことができる。それでも今は、この男を信じてもいいかなと思ってしまった。
堅物な癖に、馬鹿で真面目なこの男を。
「まあでもあたし、正しいって言葉嫌いなのよね。押し付けがましいし、結局正しさなんて、自分たちにとって都合がいいってだけでしょ?」
「否定はしない。理由はどうあれ、俺はその正しさを使って多くの魔族を殺してきた」
「そして今度はあたしを助ける。自分勝手よね」
リリアーナはアスベルと視線を合わせないまま、言葉を続ける。
「でも、あたしもそれは変わらない。あたしはあたしの楽しさを信じて、自由気ままに生きてきた。そのせいで魔族と人間の関係にヒビが入ろうと、知ったことじゃない。……あんたが何と言おうと、あたしは正しさなんて信じない」
リリアーナは小走りで山道を駆け上がり、アスベルの正面で足を止める。アスベルもそんなリリアーナの前で足を止め、彼女を見る。
2人の視線が、正面から交わる。冷たい夜風が、2人の間を吹き抜ける。
「でも、ありがとう。あんたのお陰で助かった。礼を言うわ」
リリアーナが頭を下げる。月光に照らされたその姿は、身震いするほど美しい。……しかしそれでも、アスベルは顔色1つ変えることなく言葉を返す。
「まだ、道中だ。礼を言うには早い。……それに、お前にはルル……猫を助けてもらった借りもある。できる限りのことはするさ」
リリアーナは笑う。アスベルは笑わない。
「あたしは、傾国の魔女。サキュバスの中のサキュバス。リリアーナ・リーチェ・リーデンよ。あんたは特別に、リリィって呼んでいいわよ?」
「俺はアスベル。アスベル・カーンだ。お前が無事に魔族の国に辿り着くまで、お前の監視と警護を務める者だ」
リリアーナは手を差し出し、アスベルはそれを握った。そうして、2人の旅が始まった。
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