【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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序章

門出の庭に、風は吹く

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 江戸の空に、薄くたなびく朝靄が広がっていた。
 町全体がまだ眠りの名残を引きずり、通りには人影もなく、しんとした静寂が漂っている。

 かつて幕府の要職を務めた家々が軒を連ねるその一帯は、朝な夕なに馬の蹄の音が響き、黒塗りの駕籠が静かに往来を行き交う、いわば江戸の“奥”とも言うべき場所である。
 塀は高く、門は重く、軒先には家紋を染め抜いた幕が静かに垂れ、通りを歩く者も自然と背筋を正す――そんな気配が常に漂っていた。

 その中にあって、ひときわ整った佇まいを見せる屋敷がある。

 白漆喰の塀は新しく、瓦は曇りなく、門扉は簡素ながらも品格を備えている。
 華美ではない。だが、無駄を削ぎ落としたその構えには、揺るがぬ自負と静かな覚悟が滲んでいた。

 それが――
 香月家が幕府より拝領した、道場付きの武家屋敷である。

 門をくぐれば、白砂の中庭を挟んで母屋と離れが整い、その奥には板張りの稽古場が広がる。
 木刀の音が響けば、ただの家屋ではないことはすぐに知れる。

 この屋敷は、代々幕府の武芸指南役を務めてきた香月家に対し、その功績と名声、そして当代の次男・香月悠臣の実力と人柄を評価した幕府が、公式に道場開設の場として与えたものであった。

 広々とした敷地の中央には、白砂を敷き詰めた庭が静かに広がっている。
 その奥に、練り上げの土塀に守られるようにして建つのが、香月流剣術の稽古の場──道場棟である。

 まだ世間に名が広く知られるには至っていないが、この地がいずれ剣を志す者たちの新たな「道」となることを予感させる、静謐な威厳を漂わせていた。

 その庭先で、柔らかな陽の光に照らされながら、一人の青年が箒を手に、黙々と掃き清めていた。

 香月悠臣(こうづき ゆしん)──二十二歳。
 香月家の次男にして、まもなく「香月流剣術道場」を開門せんとする若き道場主。
 その血筋は、代々幕府の武芸指南役として知られ、名門の名に恥じぬ技と心を受け継ぐ男である。

 細く引き締まった背中は、過酷な修練の日々を物語っていた。
 動きは静かで滑らかで、無駄がない。
 ひとつ、またひとつと落葉を集め、縁側の板を拭き上げるその所作は、まるで心を整えるための儀式のようだった。

 内に秘めた気配は、剣士としての気迫とは異なる。
 高鳴るでもなく沈むでもなく──ただ、静かに張りつめていた。
 それは「開く者」としての覚悟。
 剣を振るう者ではなく、これからは“道を授ける者”として生きていくための、気息を抑えた静謐な決意だった。

 そんな彼の背に、そっと、朝の空気を割るように、少女の声が届いた。

「兄上……おはようございます」

 箒の動きを止めた悠臣がふと振り返る。
 その先には、陽の光を纏いながら、そっと庭石を踏んでくる少女の姿があった。

 淡い撫子色の小袖に、袖口と裾へ細やかに施された梅の刺繍。
 結い上げられた黒髪には、白梅を模した簪がひとつだけ。
 控えめながらも愛らしく、年若い少女らしい清らかさがそこにはあった。

 香月美織(こうづき みおり)──十五歳。
 香月家の末娘にして、悠臣の実の妹。

 幼い頃より香月の名に恥じぬよう、厳格な母に想像を絶するほどに厳しく、幅広い教養と礼儀作法を叩き込まれ、琴、和歌、書道、茶道、華道、作法、医学、香の調合までも学び続けてきた。
 年の離れた兄たちを尊敬しながら、彼らの背を追って育ってきた少女である。

 けれど兄・悠臣の前では、誰よりも年相応の素顔を見せる。
 彼女の中には、剣の道とは違う、温かな“守る想い”が息づいていた。
 そして悠臣にとっても、美織は唯一、肩の力を抜いて向き合える存在だった。

「こんなに早くから……風邪を引くぞ」

「今日は、兄上にとって大切な日でしょう? 私も、何かお役に立ちたくて」

 小さな笑みを浮かべた美織は、両手で小箒と湯呑の盆を抱えていた。
 白布をかけたその盆からは、梅の香を含んだ薬湯のやさしい湯気がふわりと立ちのぼっていた。

 彼女の手元から溢れるその香りは、ただの薬ではない。
 気遣いと温もりと、長年寄り添ってきた家族への、ささやかな祈りのようでもあった。

 二人はしばらく、言葉少なに掃除を続けた。
 手を動かす音、箒の擦れる音、そして朝の風にそよぐ笹の葉の音だけが、庭の静けさに溶けていく。

 やがて悠臣は、納戸から一枚の木製看板を抱えて戻ってきた。
 ずしりとした重みを感じるその板には、黒々とした墨文字が刻まれている。

 ──「香月流剣術道場」

 それは、道場の名であると同時に、香月家の新たな“道”そのものだった。

 無言のまま、兄妹は門前の支柱へと向かう。
 悠臣が看板を掲げ、美織が支えを添える。
 掲げ終えた瞬間、東の空に射し込んだ朝陽が、墨文字をやわらかく照らした。

「……ここが、誰かの“道”になるのですね」

 美織の声は、かすかな揺らぎを含みながらも、確かな響きを持っていた。
 その眼差しには、まだ見ぬ剣士たちの姿が映っているかのようだった。

 悠臣は一歩退き、掲げられた看板を静かに見上げた。

「……始まりだな」

 ふたりのあいだを、言葉よりも深く、あたたかな沈黙が満たした。

 門はまだ閉ざされたまま。
 だが、その向こうで息を潜めていた何かが、確かに目を覚まし始めていた。

 ◆

 陽が高くなるにつれ、香月家の門前には、訪れる者の足音とともに、品格を湛えたざわめきがゆるやかに広がりはじめた。

 開門を翌日に控えた今日、香月家には縁ある親類や江戸の名士、旗本筋の剣客たちが、祝儀を携え、次々と屋敷を訪れていた。
 彼らの多くは、香月家が代々幕府の武芸指南役を務めてきた由緒に深い敬意を抱く者たちであり、また道場主となる悠臣の人柄と剣の技量を高く評価する者たちでもあった。

 控えの間では、長兄・鷹臣(たかおみ)と両親──当主・香月忠臣(こうづき ただおみ)とその夫人・佐江(さえ)──が正装にて来客を迎えており、悠臣もその傍らで一人ひとりに礼を尽くし、丁重に挨拶を交わしていた。

 そのなかで、応対にあたる末娘・美織の姿もまた、ひときわ目を引いていた。
 淡い撫子色の小袖に、袖口と裾に施された梅の刺繍が揺れるたび、控えめな香が仄かに漂う。十五の少女とは思えぬほどの落ち着いた佇まいと、柔らかさを含んだ所作は、来客の誰もが思わず目を細めるほどだった。

 訪れる者一人ひとりに膝をつき、静かに頭を下げる彼女の姿には、香月の娘としての矜持と、兄の門出を心から祝う想いが、自然な気配としてあたたかく滲んでいた。

 そんな折、門の向こうから姿を現したのは、伊庭八郎であった。

「どうしても、一目、お祝いを申し上げたくて──」

 軽やかな声音で口を開いたその表情には、変わらぬ誠意とまっすぐな敬意が宿っている。

「悠臣さんのような方に教わる弟子は、きっと幸いでしょうね」

 その言葉には、剣士としての尊敬と、友人としての信頼が、自然に込められていた。

「君がそう言うと、余計に照れくさいな」

 悠臣は穏やかに微笑しつつ、深々と礼を返した。

 伊庭はふとその背後に目をやり、美織に気づくと、にこやかに軽く頭を下げた。
 美織もすぐに膝を正し、丁寧に会釈を返す。その一瞬、ふたりの視線が静かに交わり、どこか遠い記憶が、胸の内でやわらかく揺れた。

 そして、伊庭の背後より、さらにひときわ重厚な気配が近づいてくる。

 織宮家──

 古くは織田信長の分家筋に連なる、由緒正しき名門にして、政と剣において常に高い格式を保つ家柄である。
 香月家とは、代々にわたり同盟で深い絆を築き、互いに幕府内において重んじられる存在として、共に歩んできた長い歴史があった。

 一団の先頭に立っていたのは、現当主・織宮郡司(おりみや ぐんじ)
 五十代半ばを過ぎた壮年ながら、その佇まいには厳かな風格と理知の気配があり、話し声には静かな威厳と柔らかさを湛えていた。

 控えの間に通された郡司は、深く一礼し、香月忠臣と向かい合った。

「忠臣殿──香月家のこの佳き日を、我が織宮家一同、心より祝い申し上げます」

 そう言って差し出されたのは、桐の蒔絵が施された黒塗りの箱。中には、織宮家の名を冠した祝盃が納められていた。

「これは、門出の祝いとして。我が家からの心ばかりの贈り物です。明日、お使いいただければ幸いに存じます」

「……郡司殿、かたじけのうございます」

 忠臣が静かに頭を下げる隣で、織宮家の長兄が一歩前に進み出る。

 織宮章司(おりみや しょうじ)──香月鷹臣と同い年、二十七歳。
 文武両道の才を若くして示し、今では織宮家の外交や対外折衝の中核を担う人物である。

「香月殿のご子息が、これほどまでに立派な道場を築かれたこと。我らとしても、心より誇らしく存じております」

 章司の口調には、家格を保ちつつも親しみと誠意が溢れており、鷹臣がそれに応えるように微笑を浮かべた。

「章司殿にそう仰っていただけるとは、何よりの光栄。……あの日、父上の命で共に剣を学んだ日々が、今も脳裏に焼きついております」

「まったくだ。お主の初太刀を受けたときのこと、今でも忘れられぬ。武家の子が抱く“覚悟”というものを、あのとき私は初めて見たのだ」

 章司が懐かしむように目を細めると、鷹臣もまた静かに笑みを返す。

「弟・悠臣もまた、我らと同じように、己の道をまっすぐに進んでくれると信じております」

 ふと章司は視線を落とし、微笑みながら静かに呟く。

「……兄弟がいるというのは、実に羨ましいものだな」

 穏やかな声音であったが、その響きには微かな寂寥が混じっていた。
 だが、顔を上げた章司の眼差しには、変わらぬ誇りと礼節が宿っていた。

 その隣で、伊庭がふっと肩をすくめて笑う。

「やっぱり、あの頃の話になると置いていかれますね。章司さんと鷹臣さんの思い出は、まるで古武士の書簡みたいで」

「おいおい、それでも昔はずいぶん懐いていただろう。“章司兄上”と、あれほど素直に呼んでいたくせに」

「そりゃあもう、兄上みたいに何でも出来る大人には憧れてましたから。でも今こうして肩を並べられるようになって、不思議な気持ちなんです」

 伊庭の言葉に、章司の表情がさらにやわらいだ。

「それでこそ八郎だ。お前の真っ直ぐな志が、こうして香月殿との縁を導いたのだろう」

「……はい」

 そのひと言には、年若き剣士としての矜持と、変わらぬ敬意が込められていた。

 その後も訪問は途切れることなく続いたが、美織は怯むことなく、客人ひとりひとりに真心をこめて応対を続けていた。
 その静かな所作のひとつひとつに、香月の娘としての誇りと、兄への変わらぬ想いが込められていた。

 そして、屋敷の縁側に差し込む晩秋の陽光が、しんとした静けさを伴って室内を照らしはじめる頃──
 香月家に集った縁と想いは、まるでひとつの流れが一点に収束するかのように、“始まり”という名の地へとゆるやかに向かっていた。

 香月家に祝意を届ける客足は、昼の刻を迎える頃にはさらに賑わいを見せていた。
 訪れる者は、親類縁者のみにとどまらず、江戸において一目置かれる名家筋や、幕府中枢に名を連ねる家々にまで広がりを見せていた。

 その折、門前に一際静謐な気配を纏った一行が姿を現す。

 御影家──。

 その名は、幕府高家筋の中でも筆頭に数えられる名門。
 古来、朝廷との儀礼を司り、政治と礼節を重んじてきた家柄であり、他の武家とは一線を画す、「静なる権威」を体現する家でもある。

 この日、香月家を訪れたのは、御影家の家令を伴った使者。
 そして、その当主の名代として姿を見せた若き人物こそ──

 御影 直熙(みかげ なおひろ)、十九歳。

 幕府高家の三男にして、文武に秀でた若き武家の子。
 白練の紋付に浅葱の袴を端然と着こなし、整えられた黒髪と涼やかな目元が、黙して多くを語る。
 その立ち姿には、血筋でも言葉でもなく、己の存在そのものに宿る静かな威厳があった。

 控えの間に通されると、直熙は一歩進み出て香月家一同に深く一礼し、漆黒の桐箱を恭しく差し出す。

「本日、父に代わりご挨拶に上がりました。香月家の御門出、御影の一同、心よりお祝い申し上げます」

 声音は柔らかく抑えられ、感情の波は少ない。
 だがその言葉のひとつひとつには、名家に育った者が身に染み込ませた誠意と矜持が確かに込められていた。

 香月家の当主・忠臣は、品格を湛えた所作で深く礼を返す。
 その横で、長兄・鷹臣も、悠臣もまた、無言のままに直熙の立ち居振る舞いを注視していた。

「お若いのに……見事なお作法だな」

 と、夫人・佐江がふと微笑を漏らす。
 その言葉に応じるように、美織もそっと膝を正し、静かに一礼を返した。

 ふと、彼女の視線が直熙の横顔を掠める。

 ほんの一瞬。
 だがその瞬間、静かな光を纏ったような余韻が、美織の胸の内に微かに灯った。

 ──ただの挨拶の場とは、どこか違う。

 その場に居合わせた香月の者たちもまた、直熙を「使者」としてではなく、
 名家の一員として、そして一個の“武士”として、無意識に評価の目を向けていた。

(……ただ者ではないな)

 そう鷹臣が胸の内で呟く。
 虚飾をまとわず、慎み深さの中に芯を持つ立ち居振る舞い。その中には、自らの名と家を背負う覚悟が確かに宿っていた。
 同じく名門に生まれ、幼くして多くを背負ってきた鷹臣の目に、それはどこか――自らと似た“孤高さ”として映った。

 やがて、悠臣と直熙の視線が正面から交差する。

 その眼差しの奥に、ふたりだけが知る“記憶”が、静かに立ち上がる。
 かつて剣を前に交わした、あの一瞬の対峙。言葉は交わさずとも、互いの“志”を理解した、あの日の感触。

(──香月流に、入門を望んでいるのか)

 言葉にせずとも伝わるものがあった。
 変わらぬ眼差し。その奥に灯るものは、剣に己の生を預けようとする者だけが持ち得る、静かなる熱だった。

 悠臣は一歩前に進み出て、深く頭を下げる。

「祝儀、確かに頂戴いたしました。御影の御当主にも、何卒よろしくお伝えください」

 直熙はその言葉を受け、目を伏せ、深く礼を返した。

 ──その一礼は、単なる形式ではない。

 それは、門をくぐる者が捧げる“覚悟”であり、
 自らの未来と、香月流に託す信念の証そのものであった。

 直熙は祝意の言葉を丁寧に述べ終えると、静かに身を引き、控えの間を辞した。
 その所作には、一切の無駄がなかった。
 足音ひとつ立てず、衣擦れさえも沈黙の中に吸い込まれるような、まるで空気に溶けていくような静けさ。
 洗練された礼法の奥に、育ちの深さと凛とした自律が滲んでいた。

 廊下へと出ると、その後を悠臣が追ってやって来た。

「御影殿……わざわざのご訪問、痛み入ります」

 穏やかな口調でそう言いながら、悠臣は直熙の歩みに自然と並ぶ。
 互いに深く言葉を交わすでもなく、ただ数歩、並んで歩くその間。
 沈黙の中に交わされるのは、武家の男同士にしか理解し得ぬ、無言の応対と敬意の気配だった。

 直熙は立ち止まり、悠臣に向けて小さく頷いた。

「──香月様に、改めてご挨拶を申し上げる機会がいただければ、光栄に存じます」

 落ち着いた低い声音には抑制が効いていたが、その奥には確かな熱がひそんでいた。
 決して多くを語らずとも──志の片鱗は、その言葉の選び方や抑揚の中に、確かに感じ取れた。

 悠臣はゆっくりと頷き返す。

「その時を……お待ちしております。……道は、いつでも開かれております」

 簡潔でありながら、その言葉には剣士としての誠意と、志を受け止める覚悟が滲んでいた。

 直熙はもう一歩下がり、深く礼をとると、再び何も言わずに踵を返す。
 まっすぐに門の方へと歩を進めるその背に、迷いはなかった。

 ──その背中を、誰よりもじっと見つめていたのは、美織だった。

 縁側の柱の影に身を寄せるように立ち尽くす彼女の視線は、静かに直熙を追っていた。
 先ほど交差した、あの一瞬の視線──
 ただそれだけのことのはずなのに、胸の奥に淡い波紋が広がるような余韻が、今も静かに残っている。

(……もう少し、何かを……)

 言葉にはならない。けれど、確かにそこに“何か”があったという感覚だけが、胸に宿り続けていた。
 先ほどの、冷静な瞳の奥に、一瞬だけ宿った揺らぎ。
 まぶたの裏に焼きついて離れないのは、その“ほんのわずかな色”だった。

 それが何なのか、美織にはまだ分からない。
 けれど、その感覚はまるで誰かに触れられたかのように、胸の奥で小さく疼いていた。

 ──その様子を、離れた廊下の陰から静かに見つめていたのは、母・佐江である。

 娘のわずかな仕草、視線の行方、脈のように震える睫毛、吐息の揺れ──
 些細な変化に過ぎぬものを、佐江は見逃さなかった。
 母として、そして香月家を支える者として長年培われてきた“眼”が、何よりも確かにその兆しを捉えていた。

 けれど、佐江は声をかけなかった。問いただすことも、諫めることもなく──
 ただひとつ、娘の背を、静かに見守っていた。

 その眼差しの奥に宿っていたのは、懸念だったのか、それとも予感だったのか。
 答えはまだ分からない。けれど、母の直感だけが、そっと囁いていた。

(あの御影の子に……この子は──)

 まだ名も形も持たぬ想い。けれど、いつか芽吹き得る何かが、たしかにそこにある。

 やがて御影家の一行が静かに辞去すると、門前には再び訪問者の列が伸びはじめる。
 けれどその場にいた誰もが、御影という名が残した深い余韻を、どこか胸の奥に感じていた。

 美織は静かに袖口を握りしめると、誰に教えられたわけでもなく、ごく自然にその背へ頭を下げた。

 かすかな風が、庭の梅の枝を揺らす。
 その風のなかに、まだ名を持たぬ感情が、そっと芽吹きの兆しを見せていた。

 ◆

 御影家の一行が門を後にして間もなく、香月家の道場前にはふたたび、人を引き寄せるような気配が静かに満ちていった。
 それは、どこか懐かしさを湛えながらも、歳月を積み重ねた者たちの──“再会”というより、“連なり続ける歩み”を告げる気配だった。

 門前に現れたのは、堂々たる風格と朗らかな気をまとった男・近藤勇。
 その隣には、言葉少なに鋭さを秘めた眼差しを湛える、土方歳三の姿があった。

「おう、道場破りに来たぞ」

 晴れやかな笑みと共に声を放った近藤に、玄関先に出ていた香月家の若い従者たちは一瞬目を丸くした。
 だが、その隣で無言のまま立つ土方の視線がわずかに動いた瞬間──場の空気が、ぴん、と張り詰める。

 声もなく、姿勢も乱さず。
 ただ立っているだけで、空間に緊張を走らせる“気”の重み。
 それは、剣に生きる者だけが纏う、静かな威圧だった。

 やがて、奥の廊下より悠然と姿を見せたのは、悠臣。

「ようこそお越しくださいました。……土方殿、近藤殿」

 深く一礼する悠臣の表情には、驚きも戸惑いもない。
 むしろ、再びここに訪れてくれたことへの、静かな喜びが滲んでいた。

 十年前──まだ奉公人であった土方と庭先で出会って以来、ふたりの縁は絶えることなく続いてきた。
 身分の違いを越えて剣を語り、稽古を交わし、互いの変化を見つめ合いながら、志をともに磨いてきた。
 やがて土方を通じて近藤と出会い、試衛館の面々とも“剣を志す者”としての絆が自然と育まれてきたのだ。

 土方は静かに歩み寄り、無言のまま悠臣へ手を差し出す。
 悠臣もまた、あたりまえのようにその手を取った。

 ──重ねた掌に、言葉は不要だった。
 年月の積み重ねと、剣に向き合ってきた日々の重み。
 交わされた握手には、変わらぬ信頼と、変化を越えてなお在り続ける“志”の気配が、しっかりと宿っていた。

「……剣は、変わらず貫かれておるか」

 低く、静かな問いは、形式ではない。
 道を歩み続ける者にのみ許される、真の問いだった。

 悠臣は微笑を浮かべ、そっと頷く。

「ええ。ようやく──“この場所から始められる”と思える日が、やってきました」

 その答えに、土方のまなざしがわずかに緩む。
 口数は少なくとも、心の内では確かに、喜びと敬意が灯っていた。

 その背後から、空気をやわらかくほぐすような声が届いた。

「わぁ……やっぱり、いい場所ですねぇ」

 姿を見せたのは、沖田総司。
 続いて、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助──試衛館を代表する面々が、次々に顔を見せる。

 彼らにとっては、この香月家の門をくぐるのは初めてだったが、土方との繋がり、伊庭との交友を通して、悠臣とも幾度か稽古を交え、剣の在り方を語り合った者たちだった。

「これが新しい香月道場……話に違わぬ、清らかさですね」

 山南が目を細めて微笑むと、藤堂が周囲を見回して感嘆の吐息をもらす。

「剣の気が……染みついてるっていうか。床を踏むだけで、背筋がしゃんと伸びる気がするな」

「伊庭じゃねぇか、まだ生きてたのか!」

 と永倉が笑いながら伊庭の背を叩くと、伊庭は肩をすくめて微笑を返す。

「ええ。どうにか。……無茶のほうは、そちらにお任せしてますので」

「そりゃ安心だなぁ」

 原田が声をあげて笑い、場に温かな空気が広がっていく。

 しかし──彼らが稽古場の畳を踏んだ瞬間、その表情が、すっと引き締まった。

 磨き込まれた床板、ぴたりと張られた畳。
 木目の流れが自然に呼吸し、壁に射す光が静かに空間を包んでいる。
 剣の痕跡があるわけではない。けれど、そこに満ちているのは確かに、“在り方”の気だった。

 剣をただ振るうだけの場ではない。
 この場には、人を育て、志を伝え、時代を導くための「静かな覚悟」が満ちていた。

「……ここで剣を学ぶ者たちが、やがてこの国を支える柱になるかもしれませんね」

 山南がそっと呟いた言葉に、誰もが頷いた。

 彼らが追い求めてきたのは、“斬る”ための剣ではない。
 人を活かし、人を導くための“在るべき剣”。
 その魂が、確かにこの場所に息づいている。

 香月家が紡いできた剣の系譜と、これからここで芽吹く者たちの未来──
 その交差点に立つこの道場に、いま、静かに、確かに、新たな風が吹き始めていた。

 稽古場に張り詰めていた空気が、ふと緩みはじめたその時──
 土方のまなざしが、そっとひとりの少女へと向けられた。

 香月家の末娘、美織。

 十一月の陽光に黒髪がほのかに照らされ、やわらかく揺れる。
 凛とした姿のなかに、まだあどけなさの名残を宿す面差し。
 だがその瞳には、年若くとも確かな意志の光が宿っていた。

 土方はごく小さく頷き、低く静かな声で言葉を投げかける。

「……随分、立派になったな。美織殿」

 その声音に、美織ははっと顔を上げた。
 視線が交わった瞬間、胸の奥でなにかが微かに脈打つ。

「……はい。土方さまこそ……お変わりなく」

 言葉を絞り出すようにそう返すと、美織はすぐに目を伏せる。
 その頬はほんのりと紅に染まり、息づかいまでわずかに乱れていた。

 胸の奥に、かすかに痛みをともなってよみがえる記憶──
 兄の傍らで手毬を抱え、庭先に座っていた幼い日。
 香月邸を訪れた奉公人の青年が、自分にやさしい言葉をかけてくれた、あの静かな午後。

 あれは確かに、少女の心に芽生えた、初めてのときめきだった。

 そして今──
 目の前に立つのは、あのときと同じまなざしを湛えた、けれど剣士として成した男の姿だった。

 そんなふたりのやり取りを、廊下の柱の影からにやにやと眺めていた男がひとり。

 沖田総司である。

 にこにこと頬を緩めながら、やがて耐えきれなくなったように、ふらりと二人のもとへ歩み寄った。

「へぇ……土方さんが“娘さん”に声をかけるなんて、なかなか珍しい光景ですねぇ」

 軽やかな声音に、土方の眉がぴくりと動く。
 美織は驚いて沖田を見上げ、思わず目を丸くしたあと、またそっと目を伏せた。

「……沖田」

「いやいや、失礼。つい、珍しいものにつられてしまいまして。ご挨拶を──」

 悪びれることもなく、美織の前に立った沖田は、涼やかな笑みを浮かべて丁寧に頭を下げる。

「あなたが香月さんの妹さんですね。お噂は、かねがね」

 美織は少し戸惑いながらも、礼を返した。

「……はい。香月美織と申します。兄たちから、いつもお名前を伺っております」

 その姿に沖田はふっと目を細め、感心したようにうなずく。

「なるほど……たしかに、お兄さん譲りの品と凛々しさがありますね」

 そして、ちらりと隣の土方を見やりながら、
 声の調子をわずかに落としつつ、わざとらしく小声で囁いた。

「……“ほんとうに立派に育ったな”って、さっきちょっと感動してたんですよ。ね、土方さん?」

「……くだらん」

 土方がわずかに眉をひそめて、ぼそりと返す。

「はは、怒らない怒らない。……いいじゃないですか。長い縁ですし」

 そう言って沖田は、どこか優しげな眼差しを美織に残したまま、ふらりと場を離れていった。

 その軽やかな背を見送りながら、美織はふっと肩の力を抜くように微笑む。
 そして、改めてそっと、土方の姿を見つめ直した。

 奉公人だったあの頃とは違う。
 今、彼は多くの場をくぐり抜けた、ひとりの剣士。
 その背には、幾重もの時を重ねた覚悟と静けさが、確かに刻まれている。

 けれど──
 美織の胸の内には、あの日のままの、優しいまなざしの温もりが灯り続けていた。

 言葉にはできない。けれど、確かにそこにある想い。

 春を待つ蕾のように、ひっそりと息づきながら、
 それは、心の奥で静かに揺れていた──。

 ◆

 日が傾き、空がゆるやかに茜へと染まりゆく頃。
 香月家の屋敷には、先ほどまでの賑わいの名残だけが、淡く漂っていた。

 訪れていた客人たちも皆、礼を尽くして引き上げ、
 華やかな時を過ぎたあとに残されたのは──ほんのわずかな、余熱のような気配。

 ようやく訪れた静寂が、屋敷を包み込む。

 縁側に、ふたりの影が並んでいた。
 香月悠臣と、その妹・美織。

 澄み渡る夕暮れの風が、竹簾をやさしく揺らし、
 庭の木々をざわりと撫でていく。
 暮れなずむ空の色が、少しずつ群青へと傾く中──
 ふたりの間に、淡く温かな沈黙が満ちていた。

 やがて、美織がそっと口を開く。

「……皆さま、兄上のことを……本当に、心から慕っておられましたね」

 その声音に浮かんでいたのは、驚きでも、羨望でもない。
 むしろ、静かな誇りと……ほんのわずかな、切なさ。

 悠臣は、やわらかく目を細めながら、
 庭へと伸びる長い影と、紅に染まった空を見つめる。

 しばしの沈黙ののち、静かに息を吐き、言葉を継いだ。

「……ありがたいことだ。だけど……それだけの想いを、俺は背負ってしまったということでもある」

 美織は何も言わず、そっと目を伏せる。
 膝の上で揃えた指先が、ふと小さく動いた。

 ふたりの間には、風が通り抜けていく。
 その音はまるで、これから歩む道の静けさを象徴するように。

 悠臣は、ゆっくりと両の手を膝の上で握りしめる。
 それはまるで、何かを確かめるように──あるいは、心に刻むように。

「……だからこそ、裏切れない。どれほど険しい道でも……ここが、俺の“道”だ」

 その声には、剣士としての気概だけではない。
 香月家を継ぐ者として、そして──何より、“信じてくれた者たち”への、深く静かな誓いが込められていた。

 美織は、そんな兄の横顔をじっと見つめていた。

 それは、尊敬でも、憧れでもない。
 もっと、胸の奥にやさしく染みわたるような──“理解”という想いだった。

 ふと。

 庭の一角に掲げられた「香月流剣術道場」の看板に、
 傾いた夕陽が斜めに差し込んだ。

 漆黒の文字が、夕焼けの朱を帯びて、ゆっくりと浮かび上がっていく。

 まるで、今まさに芽吹こうとする“志”を──
 沈みゆく陽が、黙って見守っているかのように。

 始まりは、誰かの声に告げられるものではない。

 こうした静かな時の中でこそ、本物の“道”は、そっと歩みを進めてゆくのだ。

 悠臣はふと空を仰ぎ、
 群青に染まりゆく西の空へと視線を投げた。

「……明日から、また一歩だな」

 ぽつりと零れたその言葉は、誰かに向けたものではなかった。
 けれど確かに、己の胸に刻むような響きが、そこにはあった。

 美織もまた、そっと目を閉じる。
 そして、兄のその静かな横顔を心に映しながら、小さく頷いた。

 陽はゆるやかに沈み、空の色は夜の気配へと変わってゆく。

 けれどその下で──
 香月の剣は、なおも静かに、たしかに、
 夜明けの先を見据えていた。

 ──香月流剣術道場。
 その“始まり”が、いま、確かに刻まれたのである。
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