2 / 33
第一章
志、門を叩く日
しおりを挟む
文久元年──十一月。
空気に冬の気配が混じり始めた江戸の朝。
吐く息が白く揺れるなか、まだ陽も昇りきらぬうちから、
香月家の門前には人々の列が静かに伸び始めていた。
「……まるで、寺子屋の入門日みたいだな」
通りを見下ろす石垣の上、
肩を軽く寄せて立つ沖田が、眩しそうに目を細めて呟く。
その隣では、伊庭が腕を組み、じっと列の先を見据えていた。
「いや、寺子屋の比じゃない。
浪人者に、商家の若旦那──
あそこには明らかに“腕試し”に来た目つきの奴までいる」
「ふふ、ほんとですね。
香月道場がこんな騒ぎになるなんて、思ってもいませんでしたよ」
沖田が肩をすくめると、伊庭がわずかに笑みを浮かべる。
「……あの人の名が広まれば、当然のことでしょう」
ふたりが視線を向けた先。
香月家の門前には、百をゆうに超える若者たちが列をなし、
冷たい朝の空気のなか、ひとりひとりがその番を待っていた。
列を彩る顔ぶれは、まさに千差万別だった。
武家の礼装に身を包み、どこか誇らしげに立つ名家の次男坊。
着古した羽織に身をすくめながらも、眼光鋭く辺りを窺う浪人。
町人風の若者、手甲を締め直す農家あがりの少年──
中には、目に試すような色を宿し、静かに周囲を睨む者の姿も。
それぞれが、それぞれの理由でこの門をくぐろうとしている。
名を上げたい者。
生きる術を求める者。
誰かを護る力を欲する者。
ただ“剣”というものに、人生の賭け所を見出した者──
百を超える志の群れは、なおも静かに膨らみつづけていた。
「……まさか、こんなに集まるなんて」
縁側の柱の影に佇み、その光景を見つめていた美織が、
思わず小さく息を呑み、呟いた。
庭先には朝露が降り、薄絹のような光が笹の葉をなぞっている。
その中を、従者たちが慌ただしく行き来していた。
湯桶や木札を抱え、何度も門と屋敷を往復する足音。
佐江の張りのある声が飛び、炊き出しの準備が進められていく。
美織も袖をたくし上げ、湯呑を運びながら応援に加わっていた。
──想像を遥かに超える門弟志願者の波。
香月家全体が、まるで目覚めたばかりの獣のように、
静かに、着実に動き出していた。
香月流剣術道場、開門。
その報せは、江戸の剣術界に衝撃を走らせた。
「師範は、香月悠臣──“鬼神”と呼ばれた男だとか」
「実戦で鍛えられた流派らしい。町道場とは格が違う」
「香月といえば、あの香月家だろ。政にも武にも名を刻んだ名門さ」
うわさは尾ひれをつけながら、熱を孕み、拡がっていった。
気づけば香月家の道場は、
一夜にして江戸中の注目を一身に集める存在となっていた。
そして、その熱は門の内側へも静かに届いていた。
屋敷の奥、稽古場の白木の板間。
無人の床に射し込んだ朝の光が、ゆるやかに一本の筋を落とす。
誰もいないその空間には、張りつめた気配が満ち始めていた。
それは、剣の場が持つ独特の“呼吸”──
目に見えぬ静謐が、まるで胎動のようにゆっくりと膨らんでいく。
(兄上……)
ふと、美織が縁側から目を上げる。
凛としたそのまなざしには、誇らしさと──ほんの少しの不安が混じっていた。
ずっと背中を見てきた兄。
何も語らずとも、誰よりも誠実に剣を貫いてきた人。
──いま、その背が、百を超える“志”に試されようとしている。
そして彼は、それらすべてに、ただ“静かに”応えるつもりでいるのだ。
朝の張りつめた空気のなか──
その姿は、まるで一陣の風が澄んだ空気を切り裂くように、志願者の列へと現れた。
派手さもなければ、裃(かみしも)のような仰々しさもない。
だが隙のない身支度と、細部に至る気配りからは、育ちの良さと抑制された気品がにじみ出ていた。
背筋はすっと伸び、歩みに迷いはない。
ただそこに立つだけで、周囲の空気がわずかに波打つ。
──御影直熙。
その名が声に上るよりも早く、門前に並ぶ志願者たちの間に緊張が走った。
「……御影家の……?」
「まさか、あの御影の嫡男が……?」
「いや、あり得ない。家格的に考えて……」
「偵察じゃないのか?」
ささやきは、火種のように列の端から端へと広がり、場を微かにざわつかせる。
御影家──江戸でも名の知れた旧家であり、諸士のなかでもとりわけ格式を重んじる名門。
武士の本分を貫き、血統と礼節を何より尊ぶ、いわば“保守”の象徴ともいえる存在。
その御影家の嫡男が、開門から間もない私塾に、門弟として自ら足を運んだ──
それは、常識では測れない“異例”だった。
信じがたい。
いや、まるで夢を見ているような光景だ。
列の中には警戒の視線を向ける者もいれば、何か裏があるのではと訝しむ者もいた。
だが──
直熙の瞳は、ただ一点を見つめたまま、いささかも揺れていなかった。
(構わない。何を言われようと、どんな目で見られようと──)
その面差しに気負いはなく、むしろ水面のように澄んでいる。
そして、不思議と──誰ひとりとして彼の傍らに並ぼうとする者はいなかった。
内心は凪いでいる。
覚悟はすでに、この道場へ向かうその朝に定めた。
この一歩が、自分の人生をどう変えるか──
それさえも、恐れる気持ちはなかった。
(名ではなく、御影直熙という人間が、何を選び、何を得られるか……それを、ここで試したい)
その覚悟を纏うかのように、直熙は静かに列を進んでいく。
──前日、香月家へ祝儀の挨拶に訪れていた若者。
その姿を見ていた者たちが、記憶を呼び起こされる。
「……昨日の、あの人……!」
「御影の若様が……まさか、本当に……?」
列のざわめきに呼応するように、石垣の上で様子を見ていた伊庭の瞳が、鋭く細まった。
「……御影の御曹司、か……」
珍しく驚きの響きを含む声が漏れる。
名を呼ぶまでもなく分かる“気配”──
磨き抜かれた所作と、滲み出る育ちの良さ。
その佇まいは、空気そのものを制するほどだった。
その隣では、沖田が目を細め、軽やかな笑みを唇に浮かべていた。
「ふふっ……これは、面白くなってきましたねぇ。
まさか御影家の坊ちゃんが“本気”で来るとは」
声は柔らかでも、その奥の眼差しは──まぎれもない“剣士の目”だった。
「……香月さん、ますます目が離せませんねぇ」
ふたりのやり取りを背に、沈黙を貫いていた土方が、ふと息を吐いた。
「……香月の名に惹かれたってだけじゃねぇな、ありゃ」
低く乾いた声。だがその奥には、明確な洞察が宿っていた。
「御影の家柄で、あそこまで迷いなく頭を下げるってのは──
生半可な覚悟じゃねぇ」
伊庭が静かに頷き、問いを向ける。
「……土方さん、あの青年……どう見ます?」
土方は腕を組み、悠然と列の中──
香月悠臣と向き合う直熙の姿を見据えながら、答えた。
「覚悟の重さと、剣の深さが釣り合ってりゃ……
面白ぇ弟子になるだろうよ。……ただし、“本気”ならな」
その言葉には、香月悠臣という男の“選び抜く眼”を知る者だけが持つ、深い確信がにじんでいた。
──そして、直熙は悠臣の前に進み出る。
悠臣は、ゆるやかにひとつ、息を整えるように吐き、
目の前の佇まいをまっすぐに見据える。
すっと折られた腰、淀みのない礼の形。
流れるような動きには、武士としての躾と、長年の鍛錬が刻まれている。
(……いい姿勢だ)
悠臣は一瞬だけ目を細めた。
礼法の美しさに加えて、そこに確かに宿る“意志の芯”を感じ取っていた。
(……名に驕らず、家に頼らず。己で立つ覚悟が、あの目にはある)
御影直熙という名が、どれほど重いかを悠臣は知っている。
だが、今目の前にいるその男は──
その重さを盾にすることなく、己の足でこの門を叩いてきた。
それが、悠臣の胸を静かに打った。
「香月殿。
通達の通り、参上いたしました。
本日は──どうか、お手柔らかに」
直熙の声音は穏やか。
だが、その中には明確な“本気”が込められていた。
悠臣は静かに応える。
「……承知しております。
では、他の者と同じく、列にお並びください」
その瞬間、場がどよめいた。
だが悠臣の表情には、一点の揺らぎもない。
まるで、最初からその覚悟を見抜いていたかのように──ただ、まっすぐに受け入れた。
御影直熙という男が、誰よりも“覚悟”を携えてここに来たことを。
それは、言葉にされる前から伝わっていた。
だからこそ、“同じく”と告げる。
それは、特別視でも拒絶でもない。
ただ誠実に、“ひとりの志願者”として迎えるという、香月悠臣なりの矜持だった。
再び列へと戻る直熙の背を、志願者たちの視線が無言で追う。
そこにはもう、名門の御曹司に対する驚きだけではなかった。
己と同じく、“志を持ってここに立つ者”として──
確かな敬意が、わずかずつ芽吹き始めていた。
──この男は、“家”の名ではなく、“己”でここに立とうとしているのだ。
そしてその姿こそが、香月流剣術道場の「本当の始まり」を告げていた。
志の場に、特別扱いは存在しない。
香月悠臣が貫こうとする“道”は──
今、確かに息を吹き込まれていく。
直熙の一件が静かに収束を迎えたころ──
香月家の門前に並ぶ志願者たちの列のなかに、また一人、ひときわ目を引く人物が姿を現した。
──天城朔也。
淡い鼠色の着流しに身を包み、どこか人懐こさを漂わせた穏やかな笑み。
その柔和な雰囲気に、初見の者は思わず警戒を解きそうになる。
だが、その奥に潜むものは明らかだった。
剣士特有の研ぎ澄まされた気配、そして燃えるように静かな意志の光。
町の雑踏に紛れれば、気さくな隣人の兄のようにすら見えるだろう。
しかし、無駄のない立ち姿と、歩みに宿る芯のある重みが、
この男の中に確かな“核”があることを雄弁に語っていた。
その姿に、美織の目がふいに見開かれる。
(……あのときの)
──数日前の町角。
人だかりの中で突然起こった、不逞浪士による乱闘騒ぎ。
その場に居合わせた美織が目にしたのは、
たった一人でその騒動を鎮め、鋭くも冷静に立ち回る青年の姿だった。
右腕にかすり傷を負いながらも、彼は誰にも動じずその場を収め──
傷口から滲む血を見た美織は、思わず駆け寄っていた。
懐から手拭いを取り出し、彼の腕に巻いたあの感触。
薬を塗りながらも、言葉少なに、ただ怪我を気遣ったあの瞬間。
──美織は、自分が香月家の者であるとは名乗らなかった。
その青年が、今──志願者の列にいる。
「……傷が、よくなっていてよかった」
声は控えめに、けれど微笑みはあのときと変わらない優しさを宿していた。
朔也は思わず目を見開き、そして、すぐに戸惑うように視線を逸らした。
(……香月家の、令嬢……?)
表には出さぬつもりでも、その顔に浮かぶ僅かな動揺は隠せない。
あのとき、唯ならぬ身分だと思ってはいたが──
よりにもよって、香月悠臣の実の妹だったとは。
(……そんなに、遠い人だったなんて……)
胸の奥で、ひとつ、小さな何かがひっそりと音を立てて崩れた。
それでも、美織のまなざしは変わらなかった。
あのときと同じ──まっすぐで、優しく、揺るがない。
「……よかった。お怪我、大事に至らずにすんで」
「……はい。あなたのおかげで」
声音は努めて平静を装っていたが、
言葉の端々には、誤魔化しきれない素直さと、ほんの僅かな照れが混じっていた。
そんなふたりの様子を、少し離れた石垣の上から眺めていた沖田総司が、口元を緩めた。
「……あらら。土方さん、いいんですか? こんな光景、見逃しちゃって」
隣の土方歳三は、しかめっ面のまま、わずかに舌打ちする。
「うるせぇ……香月家の令嬢に、気安く手ぇ出せるかっての」
「ふふ。“出せるわけがない”じゃなくて、“出せない”んですもんね?」
「言葉遊びすんな。面倒な立場にいるのは、どっちも同じだろうが」
ぶつくさとぼやきながらも、その視線にはどこか呆れと、わずかな温かみがにじんでいた。
──そして、列の先。
天城朔也が悠臣の前に進み出たとき、
悠臣の目がふと細められる。
「……まさか、お前が来るとはな」
朔也はわずかに口元を引き、静かに応じた。
「あのとき、香月さんに名前を呼ばれたのが……人生で初めての“承認”でした」
「……ああ」
まだ幼かったあの日。
道場の片隅で、掃除用の竹箒を手に、誰にも名を呼ばれることのなかった少年。
その彼に、悠臣はただ一言、「名前は?」と尋ねた。
それだけのやり取りが──
朔也という少年の胸に、どれほど深く刻まれていたのかを、悠臣は今、初めて知る。
「……こちらこそ、驚きました。香月さんが、道場の主になっていたなんて」
「“継いだ”んじゃない。“背負った”わけでもない。ただ──“始めただけ”だ」
悠臣の言葉に、朔也はふと目を伏せ、小さな笑みを浮かべた。
「……それでも、俺はここで学びたいと思いました」
幼き日に交わした、ただ一度の言葉。
それは今──
“志”という名の炎となって、再び交差し、新たな道を照らし始めていた。
──過去の邂逅は、この瞬間、“偶然”から“必然”へと変わった。
空気に冬の気配が混じり始めた江戸の朝。
吐く息が白く揺れるなか、まだ陽も昇りきらぬうちから、
香月家の門前には人々の列が静かに伸び始めていた。
「……まるで、寺子屋の入門日みたいだな」
通りを見下ろす石垣の上、
肩を軽く寄せて立つ沖田が、眩しそうに目を細めて呟く。
その隣では、伊庭が腕を組み、じっと列の先を見据えていた。
「いや、寺子屋の比じゃない。
浪人者に、商家の若旦那──
あそこには明らかに“腕試し”に来た目つきの奴までいる」
「ふふ、ほんとですね。
香月道場がこんな騒ぎになるなんて、思ってもいませんでしたよ」
沖田が肩をすくめると、伊庭がわずかに笑みを浮かべる。
「……あの人の名が広まれば、当然のことでしょう」
ふたりが視線を向けた先。
香月家の門前には、百をゆうに超える若者たちが列をなし、
冷たい朝の空気のなか、ひとりひとりがその番を待っていた。
列を彩る顔ぶれは、まさに千差万別だった。
武家の礼装に身を包み、どこか誇らしげに立つ名家の次男坊。
着古した羽織に身をすくめながらも、眼光鋭く辺りを窺う浪人。
町人風の若者、手甲を締め直す農家あがりの少年──
中には、目に試すような色を宿し、静かに周囲を睨む者の姿も。
それぞれが、それぞれの理由でこの門をくぐろうとしている。
名を上げたい者。
生きる術を求める者。
誰かを護る力を欲する者。
ただ“剣”というものに、人生の賭け所を見出した者──
百を超える志の群れは、なおも静かに膨らみつづけていた。
「……まさか、こんなに集まるなんて」
縁側の柱の影に佇み、その光景を見つめていた美織が、
思わず小さく息を呑み、呟いた。
庭先には朝露が降り、薄絹のような光が笹の葉をなぞっている。
その中を、従者たちが慌ただしく行き来していた。
湯桶や木札を抱え、何度も門と屋敷を往復する足音。
佐江の張りのある声が飛び、炊き出しの準備が進められていく。
美織も袖をたくし上げ、湯呑を運びながら応援に加わっていた。
──想像を遥かに超える門弟志願者の波。
香月家全体が、まるで目覚めたばかりの獣のように、
静かに、着実に動き出していた。
香月流剣術道場、開門。
その報せは、江戸の剣術界に衝撃を走らせた。
「師範は、香月悠臣──“鬼神”と呼ばれた男だとか」
「実戦で鍛えられた流派らしい。町道場とは格が違う」
「香月といえば、あの香月家だろ。政にも武にも名を刻んだ名門さ」
うわさは尾ひれをつけながら、熱を孕み、拡がっていった。
気づけば香月家の道場は、
一夜にして江戸中の注目を一身に集める存在となっていた。
そして、その熱は門の内側へも静かに届いていた。
屋敷の奥、稽古場の白木の板間。
無人の床に射し込んだ朝の光が、ゆるやかに一本の筋を落とす。
誰もいないその空間には、張りつめた気配が満ち始めていた。
それは、剣の場が持つ独特の“呼吸”──
目に見えぬ静謐が、まるで胎動のようにゆっくりと膨らんでいく。
(兄上……)
ふと、美織が縁側から目を上げる。
凛としたそのまなざしには、誇らしさと──ほんの少しの不安が混じっていた。
ずっと背中を見てきた兄。
何も語らずとも、誰よりも誠実に剣を貫いてきた人。
──いま、その背が、百を超える“志”に試されようとしている。
そして彼は、それらすべてに、ただ“静かに”応えるつもりでいるのだ。
朝の張りつめた空気のなか──
その姿は、まるで一陣の風が澄んだ空気を切り裂くように、志願者の列へと現れた。
派手さもなければ、裃(かみしも)のような仰々しさもない。
だが隙のない身支度と、細部に至る気配りからは、育ちの良さと抑制された気品がにじみ出ていた。
背筋はすっと伸び、歩みに迷いはない。
ただそこに立つだけで、周囲の空気がわずかに波打つ。
──御影直熙。
その名が声に上るよりも早く、門前に並ぶ志願者たちの間に緊張が走った。
「……御影家の……?」
「まさか、あの御影の嫡男が……?」
「いや、あり得ない。家格的に考えて……」
「偵察じゃないのか?」
ささやきは、火種のように列の端から端へと広がり、場を微かにざわつかせる。
御影家──江戸でも名の知れた旧家であり、諸士のなかでもとりわけ格式を重んじる名門。
武士の本分を貫き、血統と礼節を何より尊ぶ、いわば“保守”の象徴ともいえる存在。
その御影家の嫡男が、開門から間もない私塾に、門弟として自ら足を運んだ──
それは、常識では測れない“異例”だった。
信じがたい。
いや、まるで夢を見ているような光景だ。
列の中には警戒の視線を向ける者もいれば、何か裏があるのではと訝しむ者もいた。
だが──
直熙の瞳は、ただ一点を見つめたまま、いささかも揺れていなかった。
(構わない。何を言われようと、どんな目で見られようと──)
その面差しに気負いはなく、むしろ水面のように澄んでいる。
そして、不思議と──誰ひとりとして彼の傍らに並ぼうとする者はいなかった。
内心は凪いでいる。
覚悟はすでに、この道場へ向かうその朝に定めた。
この一歩が、自分の人生をどう変えるか──
それさえも、恐れる気持ちはなかった。
(名ではなく、御影直熙という人間が、何を選び、何を得られるか……それを、ここで試したい)
その覚悟を纏うかのように、直熙は静かに列を進んでいく。
──前日、香月家へ祝儀の挨拶に訪れていた若者。
その姿を見ていた者たちが、記憶を呼び起こされる。
「……昨日の、あの人……!」
「御影の若様が……まさか、本当に……?」
列のざわめきに呼応するように、石垣の上で様子を見ていた伊庭の瞳が、鋭く細まった。
「……御影の御曹司、か……」
珍しく驚きの響きを含む声が漏れる。
名を呼ぶまでもなく分かる“気配”──
磨き抜かれた所作と、滲み出る育ちの良さ。
その佇まいは、空気そのものを制するほどだった。
その隣では、沖田が目を細め、軽やかな笑みを唇に浮かべていた。
「ふふっ……これは、面白くなってきましたねぇ。
まさか御影家の坊ちゃんが“本気”で来るとは」
声は柔らかでも、その奥の眼差しは──まぎれもない“剣士の目”だった。
「……香月さん、ますます目が離せませんねぇ」
ふたりのやり取りを背に、沈黙を貫いていた土方が、ふと息を吐いた。
「……香月の名に惹かれたってだけじゃねぇな、ありゃ」
低く乾いた声。だがその奥には、明確な洞察が宿っていた。
「御影の家柄で、あそこまで迷いなく頭を下げるってのは──
生半可な覚悟じゃねぇ」
伊庭が静かに頷き、問いを向ける。
「……土方さん、あの青年……どう見ます?」
土方は腕を組み、悠然と列の中──
香月悠臣と向き合う直熙の姿を見据えながら、答えた。
「覚悟の重さと、剣の深さが釣り合ってりゃ……
面白ぇ弟子になるだろうよ。……ただし、“本気”ならな」
その言葉には、香月悠臣という男の“選び抜く眼”を知る者だけが持つ、深い確信がにじんでいた。
──そして、直熙は悠臣の前に進み出る。
悠臣は、ゆるやかにひとつ、息を整えるように吐き、
目の前の佇まいをまっすぐに見据える。
すっと折られた腰、淀みのない礼の形。
流れるような動きには、武士としての躾と、長年の鍛錬が刻まれている。
(……いい姿勢だ)
悠臣は一瞬だけ目を細めた。
礼法の美しさに加えて、そこに確かに宿る“意志の芯”を感じ取っていた。
(……名に驕らず、家に頼らず。己で立つ覚悟が、あの目にはある)
御影直熙という名が、どれほど重いかを悠臣は知っている。
だが、今目の前にいるその男は──
その重さを盾にすることなく、己の足でこの門を叩いてきた。
それが、悠臣の胸を静かに打った。
「香月殿。
通達の通り、参上いたしました。
本日は──どうか、お手柔らかに」
直熙の声音は穏やか。
だが、その中には明確な“本気”が込められていた。
悠臣は静かに応える。
「……承知しております。
では、他の者と同じく、列にお並びください」
その瞬間、場がどよめいた。
だが悠臣の表情には、一点の揺らぎもない。
まるで、最初からその覚悟を見抜いていたかのように──ただ、まっすぐに受け入れた。
御影直熙という男が、誰よりも“覚悟”を携えてここに来たことを。
それは、言葉にされる前から伝わっていた。
だからこそ、“同じく”と告げる。
それは、特別視でも拒絶でもない。
ただ誠実に、“ひとりの志願者”として迎えるという、香月悠臣なりの矜持だった。
再び列へと戻る直熙の背を、志願者たちの視線が無言で追う。
そこにはもう、名門の御曹司に対する驚きだけではなかった。
己と同じく、“志を持ってここに立つ者”として──
確かな敬意が、わずかずつ芽吹き始めていた。
──この男は、“家”の名ではなく、“己”でここに立とうとしているのだ。
そしてその姿こそが、香月流剣術道場の「本当の始まり」を告げていた。
志の場に、特別扱いは存在しない。
香月悠臣が貫こうとする“道”は──
今、確かに息を吹き込まれていく。
直熙の一件が静かに収束を迎えたころ──
香月家の門前に並ぶ志願者たちの列のなかに、また一人、ひときわ目を引く人物が姿を現した。
──天城朔也。
淡い鼠色の着流しに身を包み、どこか人懐こさを漂わせた穏やかな笑み。
その柔和な雰囲気に、初見の者は思わず警戒を解きそうになる。
だが、その奥に潜むものは明らかだった。
剣士特有の研ぎ澄まされた気配、そして燃えるように静かな意志の光。
町の雑踏に紛れれば、気さくな隣人の兄のようにすら見えるだろう。
しかし、無駄のない立ち姿と、歩みに宿る芯のある重みが、
この男の中に確かな“核”があることを雄弁に語っていた。
その姿に、美織の目がふいに見開かれる。
(……あのときの)
──数日前の町角。
人だかりの中で突然起こった、不逞浪士による乱闘騒ぎ。
その場に居合わせた美織が目にしたのは、
たった一人でその騒動を鎮め、鋭くも冷静に立ち回る青年の姿だった。
右腕にかすり傷を負いながらも、彼は誰にも動じずその場を収め──
傷口から滲む血を見た美織は、思わず駆け寄っていた。
懐から手拭いを取り出し、彼の腕に巻いたあの感触。
薬を塗りながらも、言葉少なに、ただ怪我を気遣ったあの瞬間。
──美織は、自分が香月家の者であるとは名乗らなかった。
その青年が、今──志願者の列にいる。
「……傷が、よくなっていてよかった」
声は控えめに、けれど微笑みはあのときと変わらない優しさを宿していた。
朔也は思わず目を見開き、そして、すぐに戸惑うように視線を逸らした。
(……香月家の、令嬢……?)
表には出さぬつもりでも、その顔に浮かぶ僅かな動揺は隠せない。
あのとき、唯ならぬ身分だと思ってはいたが──
よりにもよって、香月悠臣の実の妹だったとは。
(……そんなに、遠い人だったなんて……)
胸の奥で、ひとつ、小さな何かがひっそりと音を立てて崩れた。
それでも、美織のまなざしは変わらなかった。
あのときと同じ──まっすぐで、優しく、揺るがない。
「……よかった。お怪我、大事に至らずにすんで」
「……はい。あなたのおかげで」
声音は努めて平静を装っていたが、
言葉の端々には、誤魔化しきれない素直さと、ほんの僅かな照れが混じっていた。
そんなふたりの様子を、少し離れた石垣の上から眺めていた沖田総司が、口元を緩めた。
「……あらら。土方さん、いいんですか? こんな光景、見逃しちゃって」
隣の土方歳三は、しかめっ面のまま、わずかに舌打ちする。
「うるせぇ……香月家の令嬢に、気安く手ぇ出せるかっての」
「ふふ。“出せるわけがない”じゃなくて、“出せない”んですもんね?」
「言葉遊びすんな。面倒な立場にいるのは、どっちも同じだろうが」
ぶつくさとぼやきながらも、その視線にはどこか呆れと、わずかな温かみがにじんでいた。
──そして、列の先。
天城朔也が悠臣の前に進み出たとき、
悠臣の目がふと細められる。
「……まさか、お前が来るとはな」
朔也はわずかに口元を引き、静かに応じた。
「あのとき、香月さんに名前を呼ばれたのが……人生で初めての“承認”でした」
「……ああ」
まだ幼かったあの日。
道場の片隅で、掃除用の竹箒を手に、誰にも名を呼ばれることのなかった少年。
その彼に、悠臣はただ一言、「名前は?」と尋ねた。
それだけのやり取りが──
朔也という少年の胸に、どれほど深く刻まれていたのかを、悠臣は今、初めて知る。
「……こちらこそ、驚きました。香月さんが、道場の主になっていたなんて」
「“継いだ”んじゃない。“背負った”わけでもない。ただ──“始めただけ”だ」
悠臣の言葉に、朔也はふと目を伏せ、小さな笑みを浮かべた。
「……それでも、俺はここで学びたいと思いました」
幼き日に交わした、ただ一度の言葉。
それは今──
“志”という名の炎となって、再び交差し、新たな道を照らし始めていた。
──過去の邂逅は、この瞬間、“偶然”から“必然”へと変わった。
3
あなたにおすすめの小説
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる