【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第一章

志、門を叩く日

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 文久元年──十一月。
 空気に冬の気配が混じり始めた江戸の朝。
 吐く息が白く揺れるなか、まだ陽も昇りきらぬうちから、
 香月家の門前には人々の列が静かに伸び始めていた。

「……まるで、寺子屋の入門日みたいだな」

 通りを見下ろす石垣の上、
 肩を軽く寄せて立つ沖田が、眩しそうに目を細めて呟く。

 その隣では、伊庭が腕を組み、じっと列の先を見据えていた。

「いや、寺子屋の比じゃない。
 浪人者に、商家の若旦那──
 あそこには明らかに“腕試し”に来た目つきの奴までいる」

「ふふ、ほんとですね。
 香月道場がこんな騒ぎになるなんて、思ってもいませんでしたよ」

 沖田が肩をすくめると、伊庭がわずかに笑みを浮かべる。

「……あの人の名が広まれば、当然のことでしょう」

 ふたりが視線を向けた先。
 香月家の門前には、百をゆうに超える若者たちが列をなし、
 冷たい朝の空気のなか、ひとりひとりがその番を待っていた。

 列を彩る顔ぶれは、まさに千差万別だった。

 武家の礼装に身を包み、どこか誇らしげに立つ名家の次男坊。
 着古した羽織に身をすくめながらも、眼光鋭く辺りを窺う浪人。
 町人風の若者、手甲を締め直す農家あがりの少年──
 中には、目に試すような色を宿し、静かに周囲を睨む者の姿も。

 それぞれが、それぞれの理由でこの門をくぐろうとしている。

 名を上げたい者。
 生きる術を求める者。
 誰かを護る力を欲する者。
 ただ“剣”というものに、人生の賭け所を見出した者──

 百を超える志の群れは、なおも静かに膨らみつづけていた。

「……まさか、こんなに集まるなんて」

 縁側の柱の影に佇み、その光景を見つめていた美織が、
 思わず小さく息を呑み、呟いた。

 庭先には朝露が降り、薄絹のような光が笹の葉をなぞっている。

 その中を、従者たちが慌ただしく行き来していた。
 湯桶や木札を抱え、何度も門と屋敷を往復する足音。
 佐江の張りのある声が飛び、炊き出しの準備が進められていく。

 美織も袖をたくし上げ、湯呑を運びながら応援に加わっていた。

 ──想像を遥かに超える門弟志願者の波。
 香月家全体が、まるで目覚めたばかりの獣のように、
 静かに、着実に動き出していた。

 香月流剣術道場、開門。

 その報せは、江戸の剣術界に衝撃を走らせた。

「師範は、香月悠臣──“鬼神”と呼ばれた男だとか」
「実戦で鍛えられた流派らしい。町道場とは格が違う」
「香月といえば、あの香月家だろ。政にも武にも名を刻んだ名門さ」

 うわさは尾ひれをつけながら、熱を孕み、拡がっていった。

 気づけば香月家の道場は、
 一夜にして江戸中の注目を一身に集める存在となっていた。

 そして、その熱は門の内側へも静かに届いていた。

 屋敷の奥、稽古場の白木の板間。
 無人の床に射し込んだ朝の光が、ゆるやかに一本の筋を落とす。

 誰もいないその空間には、張りつめた気配が満ち始めていた。

 それは、剣の場が持つ独特の“呼吸”──
 目に見えぬ静謐が、まるで胎動のようにゆっくりと膨らんでいく。

(兄上……)

 ふと、美織が縁側から目を上げる。
 凛としたそのまなざしには、誇らしさと──ほんの少しの不安が混じっていた。

 ずっと背中を見てきた兄。
 何も語らずとも、誰よりも誠実に剣を貫いてきた人。

 ──いま、その背が、百を超える“志”に試されようとしている。

 そして彼は、それらすべてに、ただ“静かに”応えるつもりでいるのだ。

 朝の張りつめた空気のなか──
 その姿は、まるで一陣の風が澄んだ空気を切り裂くように、志願者の列へと現れた。

 派手さもなければ、裃(かみしも)のような仰々しさもない。
 だが隙のない身支度と、細部に至る気配りからは、育ちの良さと抑制された気品がにじみ出ていた。

 背筋はすっと伸び、歩みに迷いはない。
 ただそこに立つだけで、周囲の空気がわずかに波打つ。

 ──御影直熙。

 その名が声に上るよりも早く、門前に並ぶ志願者たちの間に緊張が走った。

「……御影家の……?」
「まさか、あの御影の嫡男が……?」
「いや、あり得ない。家格的に考えて……」
「偵察じゃないのか?」

 ささやきは、火種のように列の端から端へと広がり、場を微かにざわつかせる。

 御影家──江戸でも名の知れた旧家であり、諸士のなかでもとりわけ格式を重んじる名門。
 武士の本分を貫き、血統と礼節を何より尊ぶ、いわば“保守”の象徴ともいえる存在。

 その御影家の嫡男が、開門から間もない私塾に、門弟として自ら足を運んだ──
 それは、常識では測れない“異例”だった。

 信じがたい。
 いや、まるで夢を見ているような光景だ。

 列の中には警戒の視線を向ける者もいれば、何か裏があるのではと訝しむ者もいた。

 だが──
 直熙の瞳は、ただ一点を見つめたまま、いささかも揺れていなかった。

(構わない。何を言われようと、どんな目で見られようと──)

 その面差しに気負いはなく、むしろ水面のように澄んでいる。
 そして、不思議と──誰ひとりとして彼の傍らに並ぼうとする者はいなかった。

 内心は凪いでいる。
 覚悟はすでに、この道場へ向かうその朝に定めた。

 この一歩が、自分の人生をどう変えるか──
 それさえも、恐れる気持ちはなかった。

(名ではなく、御影直熙という人間が、何を選び、何を得られるか……それを、ここで試したい)

 その覚悟を纏うかのように、直熙は静かに列を進んでいく。

 ──前日、香月家へ祝儀の挨拶に訪れていた若者。
 その姿を見ていた者たちが、記憶を呼び起こされる。

「……昨日の、あの人……!」
「御影の若様が……まさか、本当に……?」

 列のざわめきに呼応するように、石垣の上で様子を見ていた伊庭の瞳が、鋭く細まった。

「……御影の御曹司、か……」

 珍しく驚きの響きを含む声が漏れる。
 名を呼ぶまでもなく分かる“気配”──
 磨き抜かれた所作と、滲み出る育ちの良さ。
 その佇まいは、空気そのものを制するほどだった。

 その隣では、沖田が目を細め、軽やかな笑みを唇に浮かべていた。

「ふふっ……これは、面白くなってきましたねぇ。
 まさか御影家の坊ちゃんが“本気”で来るとは」

 声は柔らかでも、その奥の眼差しは──まぎれもない“剣士の目”だった。

「……香月さん、ますます目が離せませんねぇ」

 ふたりのやり取りを背に、沈黙を貫いていた土方が、ふと息を吐いた。

「……香月の名に惹かれたってだけじゃねぇな、ありゃ」

 低く乾いた声。だがその奥には、明確な洞察が宿っていた。

「御影の家柄で、あそこまで迷いなく頭を下げるってのは──
 生半可な覚悟じゃねぇ」

 伊庭が静かに頷き、問いを向ける。

「……土方さん、あの青年……どう見ます?」

 土方は腕を組み、悠然と列の中──
 香月悠臣と向き合う直熙の姿を見据えながら、答えた。

「覚悟の重さと、剣の深さが釣り合ってりゃ……
 面白ぇ弟子になるだろうよ。……ただし、“本気”ならな」

 その言葉には、香月悠臣という男の“選び抜く眼”を知る者だけが持つ、深い確信がにじんでいた。

 ──そして、直熙は悠臣の前に進み出る。

 悠臣は、ゆるやかにひとつ、息を整えるように吐き、
 目の前の佇まいをまっすぐに見据える。

 すっと折られた腰、淀みのない礼の形。
 流れるような動きには、武士としての躾と、長年の鍛錬が刻まれている。

(……いい姿勢だ)

 悠臣は一瞬だけ目を細めた。
 礼法の美しさに加えて、そこに確かに宿る“意志の芯”を感じ取っていた。

(……名に驕らず、家に頼らず。己で立つ覚悟が、あの目にはある)

 御影直熙という名が、どれほど重いかを悠臣は知っている。
 だが、今目の前にいるその男は──
 その重さを盾にすることなく、己の足でこの門を叩いてきた。

 それが、悠臣の胸を静かに打った。

「香月殿。
 通達の通り、参上いたしました。
 本日は──どうか、お手柔らかに」

 直熙の声音は穏やか。
 だが、その中には明確な“本気”が込められていた。

 悠臣は静かに応える。

「……承知しております。
 では、他の者と同じく、列にお並びください」

 その瞬間、場がどよめいた。
 だが悠臣の表情には、一点の揺らぎもない。
 まるで、最初からその覚悟を見抜いていたかのように──ただ、まっすぐに受け入れた。

 御影直熙という男が、誰よりも“覚悟”を携えてここに来たことを。
 それは、言葉にされる前から伝わっていた。

 だからこそ、“同じく”と告げる。

 それは、特別視でも拒絶でもない。
 ただ誠実に、“ひとりの志願者”として迎えるという、香月悠臣なりの矜持だった。

 再び列へと戻る直熙の背を、志願者たちの視線が無言で追う。

 そこにはもう、名門の御曹司に対する驚きだけではなかった。
 己と同じく、“志を持ってここに立つ者”として──
 確かな敬意が、わずかずつ芽吹き始めていた。

 ──この男は、“家”の名ではなく、“己”でここに立とうとしているのだ。

 そしてその姿こそが、香月流剣術道場の「本当の始まり」を告げていた。

 志の場に、特別扱いは存在しない。
 香月悠臣が貫こうとする“道”は──
 今、確かに息を吹き込まれていく。

 直熙の一件が静かに収束を迎えたころ──
 香月家の門前に並ぶ志願者たちの列のなかに、また一人、ひときわ目を引く人物が姿を現した。

 ──天城朔也。

 淡い鼠色の着流しに身を包み、どこか人懐こさを漂わせた穏やかな笑み。
 その柔和な雰囲気に、初見の者は思わず警戒を解きそうになる。
 だが、その奥に潜むものは明らかだった。
 剣士特有の研ぎ澄まされた気配、そして燃えるように静かな意志の光。

 町の雑踏に紛れれば、気さくな隣人の兄のようにすら見えるだろう。
 しかし、無駄のない立ち姿と、歩みに宿る芯のある重みが、
 この男の中に確かな“核”があることを雄弁に語っていた。

 その姿に、美織の目がふいに見開かれる。

(……あのときの)

 ──数日前の町角。

 人だかりの中で突然起こった、不逞浪士による乱闘騒ぎ。
 その場に居合わせた美織が目にしたのは、
 たった一人でその騒動を鎮め、鋭くも冷静に立ち回る青年の姿だった。

 右腕にかすり傷を負いながらも、彼は誰にも動じずその場を収め──
 傷口から滲む血を見た美織は、思わず駆け寄っていた。

 懐から手拭いを取り出し、彼の腕に巻いたあの感触。
 薬を塗りながらも、言葉少なに、ただ怪我を気遣ったあの瞬間。
 ──美織は、自分が香月家の者であるとは名乗らなかった。

 その青年が、今──志願者の列にいる。

「……傷が、よくなっていてよかった」

 声は控えめに、けれど微笑みはあのときと変わらない優しさを宿していた。

 朔也は思わず目を見開き、そして、すぐに戸惑うように視線を逸らした。

(……香月家の、令嬢……?)

 表には出さぬつもりでも、その顔に浮かぶ僅かな動揺は隠せない。
 あのとき、唯ならぬ身分だと思ってはいたが──
 よりにもよって、香月悠臣の実の妹だったとは。

(……そんなに、遠い人だったなんて……)

 胸の奥で、ひとつ、小さな何かがひっそりと音を立てて崩れた。
 それでも、美織のまなざしは変わらなかった。
 あのときと同じ──まっすぐで、優しく、揺るがない。

「……よかった。お怪我、大事に至らずにすんで」

「……はい。あなたのおかげで」

 声音は努めて平静を装っていたが、
 言葉の端々には、誤魔化しきれない素直さと、ほんの僅かな照れが混じっていた。

 そんなふたりの様子を、少し離れた石垣の上から眺めていた沖田総司が、口元を緩めた。

「……あらら。土方さん、いいんですか? こんな光景、見逃しちゃって」

 隣の土方歳三は、しかめっ面のまま、わずかに舌打ちする。

「うるせぇ……香月家の令嬢に、気安く手ぇ出せるかっての」

「ふふ。“出せるわけがない”じゃなくて、“出せない”んですもんね?」

「言葉遊びすんな。面倒な立場にいるのは、どっちも同じだろうが」

 ぶつくさとぼやきながらも、その視線にはどこか呆れと、わずかな温かみがにじんでいた。

 ──そして、列の先。

 天城朔也が悠臣の前に進み出たとき、
 悠臣の目がふと細められる。

「……まさか、お前が来るとはな」

 朔也はわずかに口元を引き、静かに応じた。

「あのとき、香月さんに名前を呼ばれたのが……人生で初めての“承認”でした」

「……ああ」

 まだ幼かったあの日。
 道場の片隅で、掃除用の竹箒を手に、誰にも名を呼ばれることのなかった少年。
 その彼に、悠臣はただ一言、「名前は?」と尋ねた。

 それだけのやり取りが──
 朔也という少年の胸に、どれほど深く刻まれていたのかを、悠臣は今、初めて知る。

「……こちらこそ、驚きました。香月さんが、道場の主になっていたなんて」

「“継いだ”んじゃない。“背負った”わけでもない。ただ──“始めただけ”だ」

 悠臣の言葉に、朔也はふと目を伏せ、小さな笑みを浮かべた。

「……それでも、俺はここで学びたいと思いました」

 幼き日に交わした、ただ一度の言葉。

 それは今──
 “志”という名の炎となって、再び交差し、新たな道を照らし始めていた。

 ──過去の邂逅は、この瞬間、“偶然”から“必然”へと変わった。
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