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第一章
鬼神、静かに選る
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朝陽が差し始めたばかりの中庭。
空気にはまだ夜の冷たさが残りながらも、選別の場には張りつめた静けさが満ちていた。
香月家屋敷、その控えの間に面した縁先。
無言で柱にもたれ、腕を組むひとりの男の姿があった。
──近藤勇。
まるで古くからこの屋敷に住まう主の一人であるかのような、堂々たる佇まい。
柔らかな微笑を湛えながらも、身に纏う空気には、天然理心流・試衛館道場主としての揺るがぬ“核”があった。
気配を消そうとしても、否応なく滲み出る威厳。
その背中には、剣の道を生き抜いてきた者だけが持つ、ゆるぎなさがあった。
近藤の姿を見つけた土方は、控えの間から中庭を一望できる縁側に身を乗り出し、思わず眉をひそめる。
「……目の錯覚かと思ったぜ。あれじゃ、まるで香月家の当主気取りだな」
門前の石垣から様子を見守っていた土方・沖田・伊庭の三人は、選別が本格化するのに合わせて屋敷内へと移り、今は縁側に並んで悠臣の姿を見下ろしていた。
その隣で伊庭が、くすりと笑みを漏らす。
「特等席で見たいって、昨夜から楽しみにしてましたから。
香月さんの選別を正面で見られる機会なんて──たしかに滅多にない」
「特等すぎんだろ……まったく」
土方は小さく息を吐きながらも、親しみ混じりの苦笑を浮かべた。
そんな様子を見ていた沖田が、肩越しに近藤の姿を眺め、茶目っ気たっぷりに声をかける。
「近藤さん、ズルいなぁ。俺もあの席がよかったのに」
言葉の調子とは裏腹に、どこか楽しげな響きを含んだ声。
選別の場に張りつめていた空気に、ひとすじ和やかな風が通りかけた──
──そのときだった。
不意に空気を塗り替える、粗野な笑い声と乱れた足音。
「へっ……これが“選別”か? 見た目ばっか整えて、腑抜けの集まりじゃねぇか……」
場内をずかずかと踏み荒らすように歩きながら、肩で他の志願者たちを押しのけ、中央へと割り込んだのは見知らぬ男。
羽織は着崩れ、差料には乾いた泥がこびりついている。
その目には、慢心と苛立ちを混ぜたような濁った光が宿っていた。
「この場に“本物”の剣士はいねぇのかよ! 俺を納得させられる奴を呼びやがれ!」
がなり立てるその態度に、志願者たちは一様にざわめき、足元の安定を失う。
静かに続いていた選別の空気が、一瞬で掻き乱された。
控えていた悠臣は、何も言わず、しばし男を見据えると──
やがて、無言のまま立ち上がった。
その動作ひとつに、場の空気がまた変わる。
「……あらら」
沖田の声が、どこか少年のような喜色を含んで漏れる。
「香月さんの“それ”、久々に拝めるとは……」
その言葉に、伊庭も肩をすくめて微笑む。
「どこに行っても、ああいうのは湧いてきますね……」
一方、土方は額に手を当て、深く息を吐いた。
「……あいつの抜刀を見た奴は、三日間、震えが止まらねぇってな」
沖田が続けて囁くように口を開く。
「“穏やかさを脱いだ鬼神”──
一度その剣が振るわれれば、血を見ずして済む者などいない。
香月悠臣の抜刀を見た者は、三日間、夜も眠れぬほど震える……って、噂になってますよ」
言葉とともに、場の緊張はさらに高まる──
しかしその背後、彼らの会話を追い越すように、ひとつの声がぽつりと降ってきた。
「へぇ……三日も震えてたら、風邪ひいてまうんちゃう?」
思わず三人が振り返ると、そこには──
いつの間にか座布団に腰を下ろしていた、桐原篤哉の姿。
頬杖をつき、どこか間の抜けた風情を装いながらも、目元だけが冴えている。
その在り方は、どこか“日常の皮”をかぶった異質の存在だった。
「……いつからそこにいた」
土方が反射的に半歩、間合いを取るように肩を引く。
伊庭と沖田も、無意識に同じ動きを見せていた。
だが桐原はどこ吹く風。
「なんや、えらい警戒やなあ。怖い顔して……まだ申し込んでへんだけで、俺も“客”やで。兄ちゃんたちは志願せぇへんの?」
その言葉に、沖田が小さく吹き出す。
「ふふっ……志願せぇへんの? って聞かれること、なかなかないですね」
「いや、だって……そんだけよう喋って見てるってことは──志、あるんちゃうの」
無邪気に見えるその問いかけに、三人は同時に言葉を失う。
何気ない雑談のようでいて、その奥には、針のように鋭い“何か”があった。
(──この男、何者だ)
誰ひとり口には出さないが、その疑念だけが三人の胸の内で共鳴する。
──その瞬間。
道場破りが、悠臣の目前に詰め寄り、腰の刀に手をかけようとした──
“それ”は、あまりに一瞬だった。
張りつめた空気が凍りつく。
その中で、悠臣の右手がわずかに動いた──ただそれだけ。
だが次の瞬間、男の動きがぴたりと止まり、空間に光の弧が走る。
男の肩口に、わずかな切れ目が開いたのを最後に──
彼の膝が崩れ、地を這うように倒れ込む。
音はなかった。返り血もない。
悠臣の剣は、風のように走り、風のように戻っていた。
刀を静かに鞘へ納め、悠臣は何事もなかったかのように言う。
「……次の者」
誰もが呼吸を忘れたまま、その声に立ち返る。
そして初めて、現実が再び場に戻ってくる。
それはまるで──
古き剣豪譚の一節が、現実に降り立った瞬間だった。
悠臣による道場破りの制圧に、場内がふたたび静寂に包まれた――その直後だった。
張りつめた空気を裂くように、甲高く荒れた声が響き渡る。
「おい、てめぇら……兄貴に、なにしてくれてんだ……!」
場の隅にいた、一人の男。
先の道場破りと同じ羽織をまとい、血走った眼で周囲を睨みつけながら、怒りと混乱に任せて抜刀する。
「てめぇら……“志”だの“選別”だの、気取った口ききやがって……!」
肩で荒々しく息を吐きながら、男は地を這うようにじりじりと前へ進む。
しかし、怒りに突き動かされた視線の先にいたのは、悠臣ではなかった。
彼の目が据えられていたのは――
中庭の隅、美織だった。
選別の補助に出ていた美織は、湯桶を片付けていたその背に、理不尽な刃を向けられたのだ。
「てめぇみてぇな、上っ面だけの連中がァァァ!!」
怒号とともに、抜き身の刀を高く振りかざし、美織めがけて突進してくる男。
咄嗟に身体を引こうとした美織だったが、眼前に迫る殺気に、反射が一瞬遅れた。
胸を突く恐怖に足がすくみ、次の動きが取れない。
──だが、まさにその刹那。
風が鳴った。
それが幻聴ではなかったと知ったのは、影のように滑り込んだ一人の男が、美織と男の間に割って立ったからだ。
「させません──!」
静謐を裂いた声とともに、抜刀。
一閃。
鋼のように張り詰めた気配のなかで、見た者すべてが目を奪われた。
動いたのは、天城朔也。
つい先ほどまで、志願者の列に静かに立っていた青年が、寸分の迷いもなくその場に踏み込み、刃を受け止めた。
キィン──と、甲高い音が空気を震わせる。
朔也の手にあった白木の木刀が、男の刀を真正面から弾き返す。
「っぐ……!」
体勢を崩し、膝をついた男。
その動きすら見越していたかのように、朔也は一歩踏み込み、鋭く男の襟元を打ちすえる。
そのまま意識を刈り取るように、男は崩れ落ちた。
動きに一片の無駄もなかった。
ただそこには、「守るためだけの剣」があった。
「……ご無事ですか」
振り返った朔也の声には、怒りも焦りもなかった。
ただ静かに、強く。
その瞳は、つい先ほどまでの柔らかさを消し、まるで氷刃のような鋭さを帯びていた。
声をかけられた美織は、一瞬だけ肩を震わせ──それでも微笑を返す。
「……はい。ありがとう、ございます」
かすかに揺れる声の奥に、確かな安堵と、深い信頼がにじんでいた。
──そして、空気が変わった。
中庭に並ぶ者たちが、皆、息を詰めたままその光景を見守っていた。
近藤勇の目は細まり、無言のまま頷く。
「……あいつ、やるな」
土方が、低くぽつりと漏らす。
「ええ。あの柔和な顔の奥に、あんな鋼があったとは」
沖田は笑みを浮かべながらも、その眼差しには冗談の色はない。
そして、美織に刃が向けられたその瞬間――
無意識に一歩踏み出しかけていた直熙は、朔也の一連の動きを見届け、静かに握っていた拳を解いた。
(……早い)
(迷いがなかった。誰よりも早く、“守る”という意志で動いていた)
その隣で見ていた鷹臣は、目を見張りながらも、感嘆まじりに呟く。
「……あれが、“信念の剣”ってやつか」
そして、悠臣。
彼は、すっと目を伏せる。
(──あのとき、道場の隅で名もなく掃除をしていた少年が)
(今は、誰かを守る剣を、迷いなく振るえるようになっている)
(ならば──俺の選択は、きっと間違っていなかった)
悠臣はそっと目を開けると、美織と朔也の姿を見やった。
声はかけなかった。だがその瞳には、確かな温もりと、変わらぬ信頼の光が宿っていた。
悠臣は、何事もなかったかのように静かに背を向けると、そのまま元の座へと戻って腰を下ろした。
一連の所作には、微塵の揺らぎも、余計な動作もなかった。まるでその一歩一歩が、剣の“型”として練り上げられているかのように。
張りつめた場には、再び沈黙が戻る。
誰もが呼吸を潜め、先ほどまでの出来事の余韻に呑み込まれていた。
──そんな静けさを破るように、控えの間の片隅から、緩やかな声がふわりと落ちた。
「……はぁ。あかんわ。あんなもん見せられたら、ますます出づらなってまうで」
頬杖をついたまま、桐原が気だるげに呟いた。
だが、その声音には、どこか皮肉のきいた愉悦と本音が滲んでいた。
「志願するかどうか、ちょっと迷ってたんやけどなあ。あれは……反則やろ。
ほんま、“剣そのもの”やん。あの人」
調子はあくまでのらりくらりとしている。だが、その言葉には妙な重みがあった。
沖田が吹き出した。
「ふふっ……“剣そのもの”とは、言い得て妙ですねぇ」
伊庭も口元を緩め、真剣なまなざしで頷いた。
「言葉は軽いのに、目の付け所は的確だ。……ただの軽口じゃないな」
一方、土方は無言のまま腕を組み、悠臣をじっと見据えていた。
その眼差しの奥には、静かな熱が灯っている。
(……やっぱり、“本物”だ。まざまざと見せつけやがって)
そのとき、桐原がふたたび飄々とした口調で続けた。
「けど、ええもん見せてもろた。……ごちそうさまやな」
笑みを浮かべたままのその目には、どこか冷静な観察者の色が宿っていた。
言葉の端々に漂う、相手を測るような“間”──ただの放浪者にはない“勘”が見え隠れする。
沖田が、探るような柔らかな声音で問いかける。
「ところで……君は、どちらの道場から?」
桐原は、少しだけ首を傾げて笑った。
「うーん、どこと言うほどのもんやないんよ。
いろんなとこ、ふらふらしとっただけや。……ちょっと試してみたいなって思っただけ」
その曖昧な返答に、伊庭と土方がちらりと視線を交わす。
だが、桐原はそれにも気づいているかのように、軽やかに立ち上がり、背を伸ばした。
「……でも分かったわ。あの人は、本気で“選ぶ”つもりやな。
剣の技だけやない。志を、目を、心を──ちゃんと見てる。
せやからこっちも、ちゃんとせな。失礼やろ?」
そう言って、口笛でも吹くような調子で、ふっと笑う。
「さ、俺も並ぼか。“志願者のひとり”として──な」
その背を見送った沖田が、目を細めて呟いた。
「……あの人、やっぱり“何か”持ってますね。剣か、それ以外かは分かりませんけど」
伊庭が穏やかに応じる。
「確かに。素人でも玄人でもない。けど、“只者”じゃないことは、間違いない」
土方は小さく鼻を鳴らし、腕を組み直す。
「……ああ。むしろ、ああいう奴が一番、場を掻き回す」
だが、それが“悪い意味”だとは──誰も言葉にしなかった。
列の端。桐原篤哉が、ふらりとした足取りで志願者の列に加わる。
その直後、悠臣の瞳がふとそちらを捉えた。
ただの一瞥。だが、その眼差しに、一瞬だけ“揺らぎ”が走る。
まるで、その背中にただならぬ“何か”を感じ取ったかのように──
そして、選別は再び静かに進み出した。
新たな風が、まだ知られぬ“真の始まり”を、そっと告げるように。
空気にはまだ夜の冷たさが残りながらも、選別の場には張りつめた静けさが満ちていた。
香月家屋敷、その控えの間に面した縁先。
無言で柱にもたれ、腕を組むひとりの男の姿があった。
──近藤勇。
まるで古くからこの屋敷に住まう主の一人であるかのような、堂々たる佇まい。
柔らかな微笑を湛えながらも、身に纏う空気には、天然理心流・試衛館道場主としての揺るがぬ“核”があった。
気配を消そうとしても、否応なく滲み出る威厳。
その背中には、剣の道を生き抜いてきた者だけが持つ、ゆるぎなさがあった。
近藤の姿を見つけた土方は、控えの間から中庭を一望できる縁側に身を乗り出し、思わず眉をひそめる。
「……目の錯覚かと思ったぜ。あれじゃ、まるで香月家の当主気取りだな」
門前の石垣から様子を見守っていた土方・沖田・伊庭の三人は、選別が本格化するのに合わせて屋敷内へと移り、今は縁側に並んで悠臣の姿を見下ろしていた。
その隣で伊庭が、くすりと笑みを漏らす。
「特等席で見たいって、昨夜から楽しみにしてましたから。
香月さんの選別を正面で見られる機会なんて──たしかに滅多にない」
「特等すぎんだろ……まったく」
土方は小さく息を吐きながらも、親しみ混じりの苦笑を浮かべた。
そんな様子を見ていた沖田が、肩越しに近藤の姿を眺め、茶目っ気たっぷりに声をかける。
「近藤さん、ズルいなぁ。俺もあの席がよかったのに」
言葉の調子とは裏腹に、どこか楽しげな響きを含んだ声。
選別の場に張りつめていた空気に、ひとすじ和やかな風が通りかけた──
──そのときだった。
不意に空気を塗り替える、粗野な笑い声と乱れた足音。
「へっ……これが“選別”か? 見た目ばっか整えて、腑抜けの集まりじゃねぇか……」
場内をずかずかと踏み荒らすように歩きながら、肩で他の志願者たちを押しのけ、中央へと割り込んだのは見知らぬ男。
羽織は着崩れ、差料には乾いた泥がこびりついている。
その目には、慢心と苛立ちを混ぜたような濁った光が宿っていた。
「この場に“本物”の剣士はいねぇのかよ! 俺を納得させられる奴を呼びやがれ!」
がなり立てるその態度に、志願者たちは一様にざわめき、足元の安定を失う。
静かに続いていた選別の空気が、一瞬で掻き乱された。
控えていた悠臣は、何も言わず、しばし男を見据えると──
やがて、無言のまま立ち上がった。
その動作ひとつに、場の空気がまた変わる。
「……あらら」
沖田の声が、どこか少年のような喜色を含んで漏れる。
「香月さんの“それ”、久々に拝めるとは……」
その言葉に、伊庭も肩をすくめて微笑む。
「どこに行っても、ああいうのは湧いてきますね……」
一方、土方は額に手を当て、深く息を吐いた。
「……あいつの抜刀を見た奴は、三日間、震えが止まらねぇってな」
沖田が続けて囁くように口を開く。
「“穏やかさを脱いだ鬼神”──
一度その剣が振るわれれば、血を見ずして済む者などいない。
香月悠臣の抜刀を見た者は、三日間、夜も眠れぬほど震える……って、噂になってますよ」
言葉とともに、場の緊張はさらに高まる──
しかしその背後、彼らの会話を追い越すように、ひとつの声がぽつりと降ってきた。
「へぇ……三日も震えてたら、風邪ひいてまうんちゃう?」
思わず三人が振り返ると、そこには──
いつの間にか座布団に腰を下ろしていた、桐原篤哉の姿。
頬杖をつき、どこか間の抜けた風情を装いながらも、目元だけが冴えている。
その在り方は、どこか“日常の皮”をかぶった異質の存在だった。
「……いつからそこにいた」
土方が反射的に半歩、間合いを取るように肩を引く。
伊庭と沖田も、無意識に同じ動きを見せていた。
だが桐原はどこ吹く風。
「なんや、えらい警戒やなあ。怖い顔して……まだ申し込んでへんだけで、俺も“客”やで。兄ちゃんたちは志願せぇへんの?」
その言葉に、沖田が小さく吹き出す。
「ふふっ……志願せぇへんの? って聞かれること、なかなかないですね」
「いや、だって……そんだけよう喋って見てるってことは──志、あるんちゃうの」
無邪気に見えるその問いかけに、三人は同時に言葉を失う。
何気ない雑談のようでいて、その奥には、針のように鋭い“何か”があった。
(──この男、何者だ)
誰ひとり口には出さないが、その疑念だけが三人の胸の内で共鳴する。
──その瞬間。
道場破りが、悠臣の目前に詰め寄り、腰の刀に手をかけようとした──
“それ”は、あまりに一瞬だった。
張りつめた空気が凍りつく。
その中で、悠臣の右手がわずかに動いた──ただそれだけ。
だが次の瞬間、男の動きがぴたりと止まり、空間に光の弧が走る。
男の肩口に、わずかな切れ目が開いたのを最後に──
彼の膝が崩れ、地を這うように倒れ込む。
音はなかった。返り血もない。
悠臣の剣は、風のように走り、風のように戻っていた。
刀を静かに鞘へ納め、悠臣は何事もなかったかのように言う。
「……次の者」
誰もが呼吸を忘れたまま、その声に立ち返る。
そして初めて、現実が再び場に戻ってくる。
それはまるで──
古き剣豪譚の一節が、現実に降り立った瞬間だった。
悠臣による道場破りの制圧に、場内がふたたび静寂に包まれた――その直後だった。
張りつめた空気を裂くように、甲高く荒れた声が響き渡る。
「おい、てめぇら……兄貴に、なにしてくれてんだ……!」
場の隅にいた、一人の男。
先の道場破りと同じ羽織をまとい、血走った眼で周囲を睨みつけながら、怒りと混乱に任せて抜刀する。
「てめぇら……“志”だの“選別”だの、気取った口ききやがって……!」
肩で荒々しく息を吐きながら、男は地を這うようにじりじりと前へ進む。
しかし、怒りに突き動かされた視線の先にいたのは、悠臣ではなかった。
彼の目が据えられていたのは――
中庭の隅、美織だった。
選別の補助に出ていた美織は、湯桶を片付けていたその背に、理不尽な刃を向けられたのだ。
「てめぇみてぇな、上っ面だけの連中がァァァ!!」
怒号とともに、抜き身の刀を高く振りかざし、美織めがけて突進してくる男。
咄嗟に身体を引こうとした美織だったが、眼前に迫る殺気に、反射が一瞬遅れた。
胸を突く恐怖に足がすくみ、次の動きが取れない。
──だが、まさにその刹那。
風が鳴った。
それが幻聴ではなかったと知ったのは、影のように滑り込んだ一人の男が、美織と男の間に割って立ったからだ。
「させません──!」
静謐を裂いた声とともに、抜刀。
一閃。
鋼のように張り詰めた気配のなかで、見た者すべてが目を奪われた。
動いたのは、天城朔也。
つい先ほどまで、志願者の列に静かに立っていた青年が、寸分の迷いもなくその場に踏み込み、刃を受け止めた。
キィン──と、甲高い音が空気を震わせる。
朔也の手にあった白木の木刀が、男の刀を真正面から弾き返す。
「っぐ……!」
体勢を崩し、膝をついた男。
その動きすら見越していたかのように、朔也は一歩踏み込み、鋭く男の襟元を打ちすえる。
そのまま意識を刈り取るように、男は崩れ落ちた。
動きに一片の無駄もなかった。
ただそこには、「守るためだけの剣」があった。
「……ご無事ですか」
振り返った朔也の声には、怒りも焦りもなかった。
ただ静かに、強く。
その瞳は、つい先ほどまでの柔らかさを消し、まるで氷刃のような鋭さを帯びていた。
声をかけられた美織は、一瞬だけ肩を震わせ──それでも微笑を返す。
「……はい。ありがとう、ございます」
かすかに揺れる声の奥に、確かな安堵と、深い信頼がにじんでいた。
──そして、空気が変わった。
中庭に並ぶ者たちが、皆、息を詰めたままその光景を見守っていた。
近藤勇の目は細まり、無言のまま頷く。
「……あいつ、やるな」
土方が、低くぽつりと漏らす。
「ええ。あの柔和な顔の奥に、あんな鋼があったとは」
沖田は笑みを浮かべながらも、その眼差しには冗談の色はない。
そして、美織に刃が向けられたその瞬間――
無意識に一歩踏み出しかけていた直熙は、朔也の一連の動きを見届け、静かに握っていた拳を解いた。
(……早い)
(迷いがなかった。誰よりも早く、“守る”という意志で動いていた)
その隣で見ていた鷹臣は、目を見張りながらも、感嘆まじりに呟く。
「……あれが、“信念の剣”ってやつか」
そして、悠臣。
彼は、すっと目を伏せる。
(──あのとき、道場の隅で名もなく掃除をしていた少年が)
(今は、誰かを守る剣を、迷いなく振るえるようになっている)
(ならば──俺の選択は、きっと間違っていなかった)
悠臣はそっと目を開けると、美織と朔也の姿を見やった。
声はかけなかった。だがその瞳には、確かな温もりと、変わらぬ信頼の光が宿っていた。
悠臣は、何事もなかったかのように静かに背を向けると、そのまま元の座へと戻って腰を下ろした。
一連の所作には、微塵の揺らぎも、余計な動作もなかった。まるでその一歩一歩が、剣の“型”として練り上げられているかのように。
張りつめた場には、再び沈黙が戻る。
誰もが呼吸を潜め、先ほどまでの出来事の余韻に呑み込まれていた。
──そんな静けさを破るように、控えの間の片隅から、緩やかな声がふわりと落ちた。
「……はぁ。あかんわ。あんなもん見せられたら、ますます出づらなってまうで」
頬杖をついたまま、桐原が気だるげに呟いた。
だが、その声音には、どこか皮肉のきいた愉悦と本音が滲んでいた。
「志願するかどうか、ちょっと迷ってたんやけどなあ。あれは……反則やろ。
ほんま、“剣そのもの”やん。あの人」
調子はあくまでのらりくらりとしている。だが、その言葉には妙な重みがあった。
沖田が吹き出した。
「ふふっ……“剣そのもの”とは、言い得て妙ですねぇ」
伊庭も口元を緩め、真剣なまなざしで頷いた。
「言葉は軽いのに、目の付け所は的確だ。……ただの軽口じゃないな」
一方、土方は無言のまま腕を組み、悠臣をじっと見据えていた。
その眼差しの奥には、静かな熱が灯っている。
(……やっぱり、“本物”だ。まざまざと見せつけやがって)
そのとき、桐原がふたたび飄々とした口調で続けた。
「けど、ええもん見せてもろた。……ごちそうさまやな」
笑みを浮かべたままのその目には、どこか冷静な観察者の色が宿っていた。
言葉の端々に漂う、相手を測るような“間”──ただの放浪者にはない“勘”が見え隠れする。
沖田が、探るような柔らかな声音で問いかける。
「ところで……君は、どちらの道場から?」
桐原は、少しだけ首を傾げて笑った。
「うーん、どこと言うほどのもんやないんよ。
いろんなとこ、ふらふらしとっただけや。……ちょっと試してみたいなって思っただけ」
その曖昧な返答に、伊庭と土方がちらりと視線を交わす。
だが、桐原はそれにも気づいているかのように、軽やかに立ち上がり、背を伸ばした。
「……でも分かったわ。あの人は、本気で“選ぶ”つもりやな。
剣の技だけやない。志を、目を、心を──ちゃんと見てる。
せやからこっちも、ちゃんとせな。失礼やろ?」
そう言って、口笛でも吹くような調子で、ふっと笑う。
「さ、俺も並ぼか。“志願者のひとり”として──な」
その背を見送った沖田が、目を細めて呟いた。
「……あの人、やっぱり“何か”持ってますね。剣か、それ以外かは分かりませんけど」
伊庭が穏やかに応じる。
「確かに。素人でも玄人でもない。けど、“只者”じゃないことは、間違いない」
土方は小さく鼻を鳴らし、腕を組み直す。
「……ああ。むしろ、ああいう奴が一番、場を掻き回す」
だが、それが“悪い意味”だとは──誰も言葉にしなかった。
列の端。桐原篤哉が、ふらりとした足取りで志願者の列に加わる。
その直後、悠臣の瞳がふとそちらを捉えた。
ただの一瞥。だが、その眼差しに、一瞬だけ“揺らぎ”が走る。
まるで、その背中にただならぬ“何か”を感じ取ったかのように──
そして、選別は再び静かに進み出した。
新たな風が、まだ知られぬ“真の始まり”を、そっと告げるように。
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*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
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