【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第一章

鬼神、静かに選る

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 朝陽が差し始めたばかりの中庭。
 空気にはまだ夜の冷たさが残りながらも、選別の場には張りつめた静けさが満ちていた。

 香月家屋敷、その控えの間に面した縁先。
 無言で柱にもたれ、腕を組むひとりの男の姿があった。

 ──近藤勇。

 まるで古くからこの屋敷に住まう主の一人であるかのような、堂々たる佇まい。
 柔らかな微笑を湛えながらも、身に纏う空気には、天然理心流・試衛館道場主としての揺るがぬ“核”があった。

 気配を消そうとしても、否応なく滲み出る威厳。
 その背中には、剣の道を生き抜いてきた者だけが持つ、ゆるぎなさがあった。

 近藤の姿を見つけた土方は、控えの間から中庭を一望できる縁側に身を乗り出し、思わず眉をひそめる。

「……目の錯覚かと思ったぜ。あれじゃ、まるで香月家の当主気取りだな」

 門前の石垣から様子を見守っていた土方・沖田・伊庭の三人は、選別が本格化するのに合わせて屋敷内へと移り、今は縁側に並んで悠臣の姿を見下ろしていた。

 その隣で伊庭が、くすりと笑みを漏らす。

「特等席で見たいって、昨夜から楽しみにしてましたから。
 香月さんの選別を正面で見られる機会なんて──たしかに滅多にない」

「特等すぎんだろ……まったく」

 土方は小さく息を吐きながらも、親しみ混じりの苦笑を浮かべた。

 そんな様子を見ていた沖田が、肩越しに近藤の姿を眺め、茶目っ気たっぷりに声をかける。

「近藤さん、ズルいなぁ。俺もあの席がよかったのに」

 言葉の調子とは裏腹に、どこか楽しげな響きを含んだ声。
 選別の場に張りつめていた空気に、ひとすじ和やかな風が通りかけた──

 ──そのときだった。

 不意に空気を塗り替える、粗野な笑い声と乱れた足音。

「へっ……これが“選別”か? 見た目ばっか整えて、腑抜けの集まりじゃねぇか……」

 場内をずかずかと踏み荒らすように歩きながら、肩で他の志願者たちを押しのけ、中央へと割り込んだのは見知らぬ男。

 羽織は着崩れ、差料には乾いた泥がこびりついている。
 その目には、慢心と苛立ちを混ぜたような濁った光が宿っていた。

「この場に“本物”の剣士はいねぇのかよ! 俺を納得させられる奴を呼びやがれ!」

 がなり立てるその態度に、志願者たちは一様にざわめき、足元の安定を失う。
 静かに続いていた選別の空気が、一瞬で掻き乱された。

 控えていた悠臣は、何も言わず、しばし男を見据えると──
 やがて、無言のまま立ち上がった。

 その動作ひとつに、場の空気がまた変わる。

「……あらら」

 沖田の声が、どこか少年のような喜色を含んで漏れる。

「香月さんの“それ”、久々に拝めるとは……」

 その言葉に、伊庭も肩をすくめて微笑む。

「どこに行っても、ああいうのは湧いてきますね……」

 一方、土方は額に手を当て、深く息を吐いた。

「……あいつの抜刀を見た奴は、三日間、震えが止まらねぇってな」

 沖田が続けて囁くように口を開く。

「“穏やかさを脱いだ鬼神”──
 一度その剣が振るわれれば、血を見ずして済む者などいない。
 香月悠臣の抜刀を見た者は、三日間、夜も眠れぬほど震える……って、噂になってますよ」

 言葉とともに、場の緊張はさらに高まる──
 しかしその背後、彼らの会話を追い越すように、ひとつの声がぽつりと降ってきた。

「へぇ……三日も震えてたら、風邪ひいてまうんちゃう?」

 思わず三人が振り返ると、そこには──
 いつの間にか座布団に腰を下ろしていた、桐原篤哉の姿。

 頬杖をつき、どこか間の抜けた風情を装いながらも、目元だけが冴えている。
 その在り方は、どこか“日常の皮”をかぶった異質の存在だった。

「……いつからそこにいた」

 土方が反射的に半歩、間合いを取るように肩を引く。
 伊庭と沖田も、無意識に同じ動きを見せていた。

 だが桐原はどこ吹く風。

「なんや、えらい警戒やなあ。怖い顔して……まだ申し込んでへんだけで、俺も“客”やで。兄ちゃんたちは志願せぇへんの?」

 その言葉に、沖田が小さく吹き出す。

「ふふっ……志願せぇへんの? って聞かれること、なかなかないですね」

「いや、だって……そんだけよう喋って見てるってことは──志、あるんちゃうの」

 無邪気に見えるその問いかけに、三人は同時に言葉を失う。
 何気ない雑談のようでいて、その奥には、針のように鋭い“何か”があった。

(──この男、何者だ)

 誰ひとり口には出さないが、その疑念だけが三人の胸の内で共鳴する。

 ──その瞬間。

 道場破りが、悠臣の目前に詰め寄り、腰の刀に手をかけようとした──

 “それ”は、あまりに一瞬だった。

 張りつめた空気が凍りつく。

 その中で、悠臣の右手がわずかに動いた──ただそれだけ。
 だが次の瞬間、男の動きがぴたりと止まり、空間に光の弧が走る。

 男の肩口に、わずかな切れ目が開いたのを最後に──
 彼の膝が崩れ、地を這うように倒れ込む。

 音はなかった。返り血もない。
 悠臣の剣は、風のように走り、風のように戻っていた。

 刀を静かに鞘へ納め、悠臣は何事もなかったかのように言う。

「……次の者」

 誰もが呼吸を忘れたまま、その声に立ち返る。
 そして初めて、現実が再び場に戻ってくる。

 それはまるで──
 古き剣豪譚の一節が、現実に降り立った瞬間だった。

 悠臣による道場破りの制圧に、場内がふたたび静寂に包まれた――その直後だった。

 張りつめた空気を裂くように、甲高く荒れた声が響き渡る。

「おい、てめぇら……兄貴に、なにしてくれてんだ……!」

 場の隅にいた、一人の男。
 先の道場破りと同じ羽織をまとい、血走った眼で周囲を睨みつけながら、怒りと混乱に任せて抜刀する。

「てめぇら……“志”だの“選別”だの、気取った口ききやがって……!」

 肩で荒々しく息を吐きながら、男は地を這うようにじりじりと前へ進む。
 しかし、怒りに突き動かされた視線の先にいたのは、悠臣ではなかった。

 彼の目が据えられていたのは――

 中庭の隅、美織だった。

 選別の補助に出ていた美織は、湯桶を片付けていたその背に、理不尽な刃を向けられたのだ。

「てめぇみてぇな、上っ面だけの連中がァァァ!!」

 怒号とともに、抜き身の刀を高く振りかざし、美織めがけて突進してくる男。

 咄嗟に身体を引こうとした美織だったが、眼前に迫る殺気に、反射が一瞬遅れた。
 胸を突く恐怖に足がすくみ、次の動きが取れない。

 ──だが、まさにその刹那。

 風が鳴った。

 それが幻聴ではなかったと知ったのは、影のように滑り込んだ一人の男が、美織と男の間に割って立ったからだ。

「させません──!」

 静謐を裂いた声とともに、抜刀。

 一閃。

 鋼のように張り詰めた気配のなかで、見た者すべてが目を奪われた。

 動いたのは、天城朔也。

 つい先ほどまで、志願者の列に静かに立っていた青年が、寸分の迷いもなくその場に踏み込み、刃を受け止めた。

 キィン──と、甲高い音が空気を震わせる。

 朔也の手にあった白木の木刀が、男の刀を真正面から弾き返す。

「っぐ……!」

 体勢を崩し、膝をついた男。

 その動きすら見越していたかのように、朔也は一歩踏み込み、鋭く男の襟元を打ちすえる。

 そのまま意識を刈り取るように、男は崩れ落ちた。

 動きに一片の無駄もなかった。
 ただそこには、「守るためだけの剣」があった。

「……ご無事ですか」

 振り返った朔也の声には、怒りも焦りもなかった。
 ただ静かに、強く。

 その瞳は、つい先ほどまでの柔らかさを消し、まるで氷刃のような鋭さを帯びていた。

 声をかけられた美織は、一瞬だけ肩を震わせ──それでも微笑を返す。

「……はい。ありがとう、ございます」

 かすかに揺れる声の奥に、確かな安堵と、深い信頼がにじんでいた。

 ──そして、空気が変わった。

 中庭に並ぶ者たちが、皆、息を詰めたままその光景を見守っていた。

 近藤勇の目は細まり、無言のまま頷く。

「……あいつ、やるな」

 土方が、低くぽつりと漏らす。

「ええ。あの柔和な顔の奥に、あんな鋼があったとは」

 沖田は笑みを浮かべながらも、その眼差しには冗談の色はない。

 そして、美織に刃が向けられたその瞬間――
 無意識に一歩踏み出しかけていた直熙は、朔也の一連の動きを見届け、静かに握っていた拳を解いた。

(……早い)

(迷いがなかった。誰よりも早く、“守る”という意志で動いていた)

 その隣で見ていた鷹臣は、目を見張りながらも、感嘆まじりに呟く。

「……あれが、“信念の剣”ってやつか」

 そして、悠臣。

 彼は、すっと目を伏せる。

(──あのとき、道場の隅で名もなく掃除をしていた少年が)

(今は、誰かを守る剣を、迷いなく振るえるようになっている)

(ならば──俺の選択は、きっと間違っていなかった)

 悠臣はそっと目を開けると、美織と朔也の姿を見やった。

 声はかけなかった。だがその瞳には、確かな温もりと、変わらぬ信頼の光が宿っていた。

 悠臣は、何事もなかったかのように静かに背を向けると、そのまま元の座へと戻って腰を下ろした。
 一連の所作には、微塵の揺らぎも、余計な動作もなかった。まるでその一歩一歩が、剣の“型”として練り上げられているかのように。

 張りつめた場には、再び沈黙が戻る。
 誰もが呼吸を潜め、先ほどまでの出来事の余韻に呑み込まれていた。

 ──そんな静けさを破るように、控えの間の片隅から、緩やかな声がふわりと落ちた。

「……はぁ。あかんわ。あんなもん見せられたら、ますます出づらなってまうで」

 頬杖をついたまま、桐原が気だるげに呟いた。
 だが、その声音には、どこか皮肉のきいた愉悦と本音が滲んでいた。

「志願するかどうか、ちょっと迷ってたんやけどなあ。あれは……反則やろ。
 ほんま、“剣そのもの”やん。あの人」

 調子はあくまでのらりくらりとしている。だが、その言葉には妙な重みがあった。

 沖田が吹き出した。

「ふふっ……“剣そのもの”とは、言い得て妙ですねぇ」

 伊庭も口元を緩め、真剣なまなざしで頷いた。

「言葉は軽いのに、目の付け所は的確だ。……ただの軽口じゃないな」

 一方、土方は無言のまま腕を組み、悠臣をじっと見据えていた。
 その眼差しの奥には、静かな熱が灯っている。

(……やっぱり、“本物”だ。まざまざと見せつけやがって)

 そのとき、桐原がふたたび飄々とした口調で続けた。

「けど、ええもん見せてもろた。……ごちそうさまやな」

 笑みを浮かべたままのその目には、どこか冷静な観察者の色が宿っていた。
 言葉の端々に漂う、相手を測るような“間”──ただの放浪者にはない“勘”が見え隠れする。

 沖田が、探るような柔らかな声音で問いかける。

「ところで……君は、どちらの道場から?」

 桐原は、少しだけ首を傾げて笑った。

「うーん、どこと言うほどのもんやないんよ。
 いろんなとこ、ふらふらしとっただけや。……ちょっと試してみたいなって思っただけ」

 その曖昧な返答に、伊庭と土方がちらりと視線を交わす。
 だが、桐原はそれにも気づいているかのように、軽やかに立ち上がり、背を伸ばした。

「……でも分かったわ。あの人は、本気で“選ぶ”つもりやな。
 剣の技だけやない。志を、目を、心を──ちゃんと見てる。
 せやからこっちも、ちゃんとせな。失礼やろ?」

 そう言って、口笛でも吹くような調子で、ふっと笑う。

「さ、俺も並ぼか。“志願者のひとり”として──な」

 その背を見送った沖田が、目を細めて呟いた。

「……あの人、やっぱり“何か”持ってますね。剣か、それ以外かは分かりませんけど」

 伊庭が穏やかに応じる。

「確かに。素人でも玄人でもない。けど、“只者”じゃないことは、間違いない」

 土方は小さく鼻を鳴らし、腕を組み直す。

「……ああ。むしろ、ああいう奴が一番、場を掻き回す」

 だが、それが“悪い意味”だとは──誰も言葉にしなかった。

 列の端。桐原篤哉が、ふらりとした足取りで志願者の列に加わる。

 その直後、悠臣の瞳がふとそちらを捉えた。
 ただの一瞥。だが、その眼差しに、一瞬だけ“揺らぎ”が走る。

 まるで、その背中にただならぬ“何か”を感じ取ったかのように──

 そして、選別は再び静かに進み出した。
 新たな風が、まだ知られぬ“真の始まり”を、そっと告げるように。
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