【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第一章

志に問う剣

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 選別は──再び、静かに動き出した。

 しかしそれは、決して剣技を競うだけの場ではなかった。

 香月悠臣が面前に立つ志願者へと向けるのは、型でも構えでも、力の誇示でもない。

 まず、最初に投げかけられるのは──ただ、ひとつの問い。

「──なぜ、剣を学びたい」

 わずか十文字の問い。

 だが、その声音には、澄んだ湖面のような静けさと、心の奥底をえぐるような“圧”が秘められていた。

 問いに応じて、志願者たちはそれぞれの理由を口にする。

「己を強くしたいからです!」

「家の名を、世に知らしめたい──!」

「討たねばならぬ仇がいる!」

 どの声にも、確かに熱はあった。だが──

 その多くには、どこかで“虚栄”の影が揺れていた。

 誇示、野心、焦り……言葉の端に滲む“濁り”を、悠臣は黙って聴いていた。

 目を伏せたまま、言葉の奥底にある真意を静かに探るように。

 そして、しばしの沈黙の後──ひとつ、深く息を吐き。

 悠臣は剣を抜かぬまま、静かに構えを取った。

 その瞬間、空気が変わった。

 何か見えぬものが、ぴんと張り詰めたような──

 “気”が場を支配した。

 悠臣の構えがもたらす無音の圧力に、目の前の志願者は息を呑み、足元が揺らぎ──やがて、膝を折る。

 それは剣を交えぬ敗北。

 志を偽った者は、言葉半ばにして立ち尽くし、そして──崩れるように後ずさった。

「──退きなさい」

 悠臣の声は、決して怒号ではなかった。
 それでも、その静けさは拒絶よりもなお強く、冷ややかに場を貫いた。

 退けられた者たちは、誰も言葉を返せず──
 ただ、“見透かされた”という顔でひとり、またひとりと立ち去っていった。

 技量を問われたわけではない。

 構えを見られたわけでもない。

 選別は、ただ──ひとつの問いと、“心”だけで裁かれていく。

 そして、選ばれぬ者たちが去ったあとの中庭には、より深い静寂が満ちていた。

 香月悠臣が見ているのは、技の冴えでも、家柄の高さでもない。

「どこに、志があるか」

 それだけを、彼は見定めていた。

 縁側からその様子を見守る美織は、そっと胸に手を当てながら、思わず心のなかで呟く。

(兄上は……剣ではなく、“心”を見ている)

 たとえどれほど言葉を巧みに飾っても、動作を磨き上げても──
 心なき者の“剣”は、悠臣には届かない。

 やがて、退いた者たちの足音さえも消えた中庭に、凛とした空気が流れていく。

 そして、残された者たちの前には──ただ、静かに「道」が開かれていく。

 それは、通された道ではない。

 選び、選ばれ、
 “志”を通した者にだけ許される歩みの先。

 列の中に立つ者たちの面差しも、少しずつ変わっていた。

 もはや誰も、軽々しい言葉で己を飾ろうとはしない。

 次は、自分が問われるのだと──
 その重みに、ひとりひとりが気づき始めていた。

 そして──

「──天城朔也」

 その名が、中庭に沈むように響いた。
 声は大きくない。だが、空気がわずかに震えるような気配が、静かに広がる。

 名を呼ばれたその瞬間、場に漂っていた張りつめた緊張が、わずかにかたちを変えた。

 列の中から一歩、青年が踏み出す。

 ──天城朔也。

 その背筋は寸分の揺らぎもなく、視線には迷いの影ひとつなかった。
 先ほど、美織の前に立ったときの剣の熱が、まだ掌の奥にかすかに残っている。

 悠臣は、その姿を静かに見据え──
 そして、何度目かとなる問いを、変わらぬ静けさで投げかけた。

「なぜ、剣を学びたい」

 繰り返された言葉。だが、朔也にとってそれは、
まるでこの瞬間だけのために用意された問いのように、胸の深くへ真っすぐ届いた。

 朔也は一拍置いて、悠臣をまっすぐに見返す。
 そして、ゆっくりと息を整えながら答えた。

「……“護りたいもの”があるからです」

 飾り気のない、ただ真実だけの言葉。
 だが、その一言に宿る重みが、場の空気に深く沁み渡っていく。

「俺は……かつて、剣を憎んでいた時期がありました。
 剣を持つ者が、奪い、踏みにじる姿しか見てこなかったからです」

 幼き日──
 誇りを喪った父の背中。
 声を張ることも許されず、息を潜めるように過ごした日々。
 剣を持たぬことが、まるで罪のように扱われていた過去。

「けれど──そんな俺に“誇りを持て”と教えてくれたのが、香月さん。あなたでした」

 まだ名もなく、道場の隅で竹箒を握っていた少年にかけられた、ただひとつの問い。

「“名前は?”──そう聞かれたとき、初めて思ったんです。
 “自分は、ここにいていいんだ”って」

 言葉に震えはない。
 心の奥底から、ゆっくりと掬い上げるように──
 朔也はその想いを、ひとつひとつ丁寧に紡いでいく。

「それから俺は、誓いました。
 剣を振るうのは、誰かを傷つけるためじゃない。誰かを護るために振るうのだと。
 その“志”だけは、今も変わっていません」

 中庭に、しん──とした静寂が満ちる。

 風がそっと流れ、竹の葉がかすかに鳴る。
 その音が、まるで朔也の言葉の余韻を包み込んでいた。

 そして──

 悠臣がわずかに目を細めた。

 そのまなざしに宿っていたのは、懐かしさでも誇りでもない。
 ただひとり、“志”を貫こうとする者に向けられる、剣士としてのまっすぐな敬意だった。

「……いい目だ」

 静かに、それだけを口にする。

 その一言に、朔也の瞳がかすかに揺れる。
 驚きではない。
 長く乾いていた胸の奥に、静かに沁み込む温かな一滴のような──そんな感触だった。

 悠臣は剣に触れることなく、そのまままっすぐに言葉を継ぐ。

「お前の剣は、まだ未完成だ。だが、“心”には揺らぎがない」

「だからこそ──それは“道”となる」

 その声が、まるで静かに門を開くように、朔也の胸に広がっていく。

 悠臣は、ひとつ頷く。

「その志、確かに受け取った。列の端へ──」

「……はいっ!」

 深く頭を垂れた朔也の姿に、憧れも虚飾も、もはや残っていなかった。

 ただ、“自らの意志で立つ剣士”としての覚悟だけが、確かにそこにあった。

 彼が列へ戻る足取りは、さきほどよりもずっと静かで、
 そして、より力強く地を踏みしめていた。

 ──その背を。

 縁側から見送っていた美織は、ふと胸の奥で何かが打ち寄せてくるのを感じていた。

(……やっぱり、あなたは──)

 その続きを言葉にすることは、まだできなかった。
 だが確かに、名前も形もない想いが、そっと芽吹いていた。

 そして悠臣は、何も言わず、次の志願者に向き直る。

 選別は、続いていく。

 だが──

 今この場にいた者たちは皆、確かに感じていた。

 剣の腕ではなく、
 “志の熱”こそが、この場所に立つ資格なのだと。

 中庭に、再び静寂が戻る。
 その刹那、ひときわ凛とした気配が、場の空気を一段深く引き締めた。

「──御影直熙」

 香月悠臣の声が、柔らかくも揺るぎない響きで放たれた瞬間、
 志願者たちの列に、見えない緊張が走る。

 名門・御影家の嫡男。
 その名が持つ威光と重みを、この場にいる者たちは皆、知っていた。

 だが──静かに歩み出た直熙の姿には、威圧も誇示もない。
 むしろ、透き通った静謐な空気だけをまとい、彼は悠然と前へ進む。

 直熙は一礼し、悠臣の正面に立つ。
 その所作は無駄がなく、流れるように整っていた。だがそれは、“家”の格式が生んだ型ではない。

 ──“御影の名”ではなく、“御影直熙”というひとりの人間が、
 自らの足で選び取った覚悟のかたちだった。

 悠臣は、その眼差しを真正面から受け止める。

 そして、他の志願者たちとまったく同じ問いを投げかけた。

「……なぜ、剣を学びたい」

 幾度も繰り返されてきたこの問いは、
 名も地位も、すべてを脱ぎ捨てた者にのみ届く、選別の本質だった。

 ほんの短い間を置いて、直熙は静かに口を開いた。

「──義務だったから、です」

 場の空気が、ごくわずかに揺れる。
 声は淡々としていたが、その芯には、深く静かな重みがあった。

「御影家の三男として生まれ、武を任じられたとき──
 “お前の剣は、家を守る盾であり、威信の証であれ”と教えられました」

 感情の起伏は乏しいその語り口。だが、聴く者は自然と耳を傾ける。
 その言葉は、あまりにも深いところから引き上げられていた。

「私はそれを疑いもせず、“剣とは家を支えるための道具”だと信じてきました。
 けれど──あるとき、そうではない剣の在り方を目にしたのです」

 まっすぐに、悠臣へと視線を向ける。

「剣で“人を斬る”のではなく、“人を生かす”者がいると知った。
 “名のために振るう剣”ではなく、“志のために在る剣”を見た──
 それが、香月殿。あなたでした」

 場の息が、静かに止まる。

 直熙は、ことばを選ぶように、丁寧に、しかし迷うことなく続けた。

「名家に生まれ、誇りを抱きながらも、“名”に縛られることなく志を貫かれる姿に──
 私は……救われたのです」

「己の剣で、人を守りたい。
 そして、“名の外で、己のまなざしを選び取る者”でありたいと──
 そう願うようになりました。初めて、“義務”ではない“願い”を抱いたのです」

 その声音は穏やかで、決して強く語らない。
 けれど、そこには濁りのない決意と、確かな熱が宿っていた。

 それは、名門の令息として語られる言葉ではない。
 ──ひとりの青年が、自らの内に見出した“真の意志”だった。

 沈黙が訪れる。
 悠臣はふと視線を落とし、そしてゆるやかに直熙を見上げる。

「……義務ではなく、願い。
 そして、その“願い”を“剣”に変えようとしているのなら──」

 その声は、あくまで静かに。だが確かな深みをもって、空気を打った。

「お前はもはや、“名”のために在る者ではない。
 “志”によってこの場に立つ者のひとりだ」

 直熙は、静かに目を伏せ──深く、頭を垂れた。

「──ありがたく、拝命いたします」

 その所作に、もはや“名の重さ”はなかった。
 そこにあったのは、己の意志で歩み始めた剣士の、透き通るような決意だった。

 彼が列へと戻る足取りは、わずかに軽やかに。
 その背には、迷いの影すらなかった。

 縁側から見つめていた美織は、そっと息を吐く。

 胸の奥に、波紋のような感情が、ゆっくりと広がっていく。

(……誇りを捨てたのではなく、“誇りの在り方”を選び取った人)

 その横顔に、彼女は自然と、言葉にならぬ敬意を抱いていた。

 ──そして。

 悠臣は再び、まなざしを前へと向ける。

 今、ひとつの“重き名”が、“志”へと還元されたことで──
 この場の空気は、確かにひとつ、深みと静けさを増していた。

 御影直熙が静かに一礼し、列へと戻る。
 その背を見送るように、一瞬だけ空気が揺らぎ──

 やがて、選別は再び、粛々と動き始めた。

 香月悠臣のまなざしは、誰にも等しく注がれる。
 名も、家柄も問わない。
 ただ一つだけが、静かに問いかけられる。

 ――その胸の奥に、「志」はあるか。

 剣にすがる者。名を上げたい者。
 誰かを見返したい者。
 ただ己の力を証明したい者。

 さまざまな言葉が口から放たれていく。
 だが、悠臣はただ静かに首を横に振るか、「……結構です」とひと言告げるのみ。

 剣を抜くことは、ほとんどなかった。
 構えと、“気”。
 その一瞬の所作に宿る圧だけで、目の前の者の内奥を見透かし、
 志のない者を──ただ、それだけで退けていく。

 列に並ぶ者たちの表情には、次第に沈黙の色が濃くなる。
 悠臣の剣が斬るのは、決して“肉体”ではない。
 彼が断ち切るのは、飾られた虚飾、見栄、嘘──

 そして。

「……真木智久」

 悠臣の声が、深く中庭に落ちる。

 静まり返る空気の中、その名を知る者は多くはなかった。
 だが、次の瞬間に歩み出た青年の背からは、
 ひときわ澄んだ、どこか清らかな気配が立ちのぼった。

 柔らかな陽射しのなか、真木智久は静かに一歩を踏み出す。
 細身の体に、穏やかな面差し。
 町人の出とは思えぬほど身なりは整い、
 その立ち居振る舞いには一片の卑屈さもない。

「真木智久、二十歳。香月道場へ、剣を学びたく参りました」

 頭を下げる所作に、武士特有の威圧も、誇りのようなものもない。
 けれど、その言葉には、確かな芯と、揺るぎない静けさが宿っていた。

 悠臣は、他の志願者と変わらず問いかける。

「……なぜ、剣を学びたい」

 真木は一拍の間、目を伏せた。
 ゆっくりと息を整え、やがてまっすぐに悠臣を見据える。

「……僕は、武士ではありません。
 ですが、声を上げられず、踏みにじられる人たちを、何度も見てきました」

 その語り口は淡々としている。
 けれど、言葉の内に秘められた熱は、確かなものだった。

「江戸の市中では、力ある者が、そうでない者を押さえつける場面があふれている。
 ……それが“当たり前”であっていいとは、どうしても思えないのです」

 そのまなざしが、悠臣の眼をまっすぐに射抜く。

「だから、強くなりたい。
 誰かを打ち倒すためじゃない。
 誰かの傍に立ち、守る力を手にするために」

「……人を救う手段として、僕は“剣”を選びたい。それが、僕の“志”です」

 声に力みはなかった。
 けれどその言葉には、誰かのために歩みを進めようとする覚悟が、はっきりと刻まれていた。

 しばし、悠臣は黙して彼を見つめていた。
 やがて、その瞳に、わずかな柔らかさが浮かぶ。

「……いい目をしている。迷いがないな」

 そして、その声に重みを含ませて続けた。

「だが、忘れるな。
 力を持つ者こそ、自らの志に酔い、見失う危うさを孕む。
 志が清らかなほど、守ろうとした者に知らぬうちに“重さ”を背負わせることもある」

 静かな言葉の奥にあったのは、警鐘ではなく“責任”だった。
 それでも、真木の返答は、揺るがなかった。

「……はい。それでも僕は、剣を選びます。
 他の手段がなかったとしても、それが“誰かを守るため”であるならば」

 悠臣の口元が、ほんのわずかに綻ぶ。

「──ならば、来るがいい。
 お前の“志”に、剣を預ける覚悟があるのなら」

 そのとき、不思議なほどやわらかな風が庭を吹き抜け、竹の葉を揺らした。

「真木智久、合格。列へ戻れ」

「……はいっ…」

 智久は深く一礼し、静かに列へと戻っていく。
 その足取りはまっすぐで、ただの歩みにも、確かな決意の重みが宿っていた。

 縁側から彼の背を見守っていた美織は、そっと胸の内で息を吐く。

(……“力”を誇るのではなく、“意味”を選び取る人)

 その背には、戦うためではなく、“生きるため”の剣が宿っていた。

 ──そして選別は、次なる名を待つ。

「……朝倉洸太」

 その響きに、中庭の空気がふっと引き締まった。

 列の中ほどから、小さな声で「はい」と返し、一人の青年が前へと進み出る。

 背は高くはない。だが、まっすぐに伸びた背筋と、迷いのない歩みに、静かな意思がにじむ。

 淡い茶を含んだ癖毛に伏し目がちな目元。
 物言わぬ表情は、どこか控えめで無口な印象を与える──
 それが、朝倉洸太という青年だった。

 悠臣は、その佇まいを一瞥すると、変わらぬ調子で問いを投げる。

「……なぜ、剣を学びたい」

 洸太は、すぐには答えなかった。

 それは迷いではなく、軽はずみに語るべきでないものを、
 胸の奥からゆっくりと掬い上げている時間だった。

 やがて、顔を上げる。

 伏し目がちだった目が静かに開かれ、まっすぐに悠臣を捉える。

 そして──
 低く、澄んだ声が落ちた。

「……誇りを、取り戻したいんです」

 その一言に、空気が揺れた。

「松代の士の家に生まれました。ですが、御家騒動に巻き込まれ……家は潰れました。
 父は、失意のままに病に伏して──俺は、何もできずにただ、見ているだけでした」

 そう語る拳が、かすかに震えていた。

 だがその声には、一片の濁りもなかった。

「それでも、剣だけは、捨てようと思いませんでした。
 きっと心のどこかで、信じていたんです。
 剣があれば、いつか──自分の手で、何かを守れる日が来ると」

「武士である前に、人として。
 誰かを守れる、そんな強さを……俺は、手に入れたい」

 その言葉は、大声でも激情でもない。
 けれど、深く澄んだ泉のように、静かに──そして確かに、場の心を打った。

 控えの間では、自然と視線が洸太へと集まっていた。

 天城朔也はまなざしを細め、伊庭八郎がゆっくりと頷き、
 土方歳三は目を伏せたまま、その背に何かを重ねるように黙していた。
 沖田総司はただ、口元に薄く笑みを浮かべていた。

 香月悠臣は、その言葉の奥にある“誓い”を見極めるように目を細め──
 やがて、静かに告げた。

「……その想いを、剣に宿すことができるなら──
 それは、きっと誰かを護る“楯”となる」

 そう言うと、悠臣は一歩前に出る。
 剣に手をかけることなく、構えだけを取った。

 洸太もまた、無言で一礼し、正対して構える。

 ただそれだけで、空気がわずかに張り詰めた。

 ふたつの“気”が交差する一瞬。
 打ち合いはない。刃もない。だが、場を満たすのは確かな緊張。

 やがて──
 悠臣の構えがふっと解かれた。

「……朝倉洸太、合格」

 その声に、積もっていた緊張が静かに溶けていく。

 洸太は、深く頭を下げると、無言のまま列へと戻っていった。

 歩みは控えめで目立つものではなかったが、
 その背中には、先ほどまでとは異なる輪郭が、確かに浮かんでいた。

 縁側で見守っていた美織の目が、ふとその背を追って止まる。

 まだ名前も知らぬ青年だった。
 だが、その歩き方、そのまなざしに、どこか懐かしさにも似た感覚が、静かに胸を打った。

(……あの人は、何かを抱えてる。
 それでも、決して負けてない)

 名前にはならない感情。
 けれど、美織の胸の奥に、確かな“記憶のような印象”だけが残されていった。

 悠臣のまなざしが、次なる“志”を求め、前へと向けられる。

「──桐原篤哉」

 悠臣の静かな声が、中庭に落ちた。

 その名が呼ばれた瞬間、それまで縁側にふらりともたれていた男が、まるで「待ってました」とでも言いたげに、にやりと口元を吊り上げて立ち上がる。

「おっと、ついに出番やな」

 ひとつ大きく伸びをして、肩を軽く回しながら、襟を直す。

 その仕草に、緊張感の欠片もない。
 だが悠臣の目には、明確に映っていた。

(──弛緩に見えて、一分の隙もない)

 桐原篤哉。
 その身に纏う空気は、軽薄さではなかった。
 緩やかな所作の中に、確かな“間”と“間合い”が見え隠れしている。

 悠臣の前へと進み出ると、桐原はふと空を仰ぎ、
 陽の温もりを受けながらのんびりと呟く。

「……ええ庭やなぁ。風も通るし、日も差して、空も高い」

 そして、どこか楽しげに口角を上げる。

「この屋敷、住めたりします? 三度の飯と、熱っつい風呂があれば……
 もう、他に文句言いませんわ」

 控えの間から、くすりと笑いが漏れる。

 けれど悠臣は、変わらぬ静けさで問うた。

「……なぜ、剣を学びたい」

 その声に、桐原の動きがぴたりと止まる。

 まるで“それが本番だ”と言わんばかりに、小さく肩をすくめ、答えた。

「──ついでやし、答えさせてもらいますわ。」

 とん、と草履の鼻緒を親指で押し直し、
 微笑をそのままに、飄々と語り始める。

「俺、剣のことよう知りません。
 道場破りでもないし、名乗る家も、生い立ちも語るほどのもんやない」

「──けど、ひとつだけ。譲られへんことがあるんです」

 その声がふと低くなり、笑みがわずかに翳る。

「生きるって、いつ終わってもおかしないやろ?
 でも、終わるその前に──
 たった一度でも、“自分の意思で何かを選ぶ”ことができたら……
 人って、少しは報われる気がするんですわ」

 悠臣の目が、わずかに細められる。

「……その“何か”が、剣なのか?」

 問うた悠臣に、桐原は真っ直ぐに応えた。
 その声音は、先ほどとは違う。薄皮一枚だけ内側の、本気の声だった。

「そう。剣って、“何を守るか”を自分で選べるやろ。
 俺は……守る相手も、名乗る名も、自分で選びたいんです」

 その瞬間、風がふわりと吹き抜けた。

 男の纏う気配が、羽のように広がっていく。
 軽やかな言葉遣いの奥で、澄み切った“芯”が揺るぎなく光っていた。

 悠臣は、視線を逸らすことなく静かに一歩、前へ出る。
 剣に手をかけることはない。ただ、“構え”だけが、空気に走った。

 桐原もまた──構えることはせず、さらりと身を流すように動く。

 ほんの刹那、ふたりの“気”が触れ合った瞬間、
 場の空気が、ふっと凪いだ。

 張りつめるでもなく、爆ぜるでもなく。
 ただ一瞬、“気配そのもの”が場から掻き消えたようだった。

 控えの間。

 土方歳三が、小さく息を呑む。

(……見えなかった。いや、“見せなかった”)

 伊庭が眉を寄せ、天城のまなざしが細くなる。
 まるで、空気そのものが一枚めくれたような錯覚。

 そして──悠臣が、わずかに微笑む。

「……桐原篤哉、合格」

 その言葉に、桐原は目を細めて一礼し、飄々とした調子で返す。

「おおきに。“志願者のひとり”として──これから、よろしゅう頼みますわ」

 列へと戻るその背には、変わらぬ軽やかさがある。
 けれど、その軽さの底に潜む“刃”を、悠臣だけは見逃さなかった。

(──やはり、お前は、“名乗らぬ刃”)

 だが、それを咎めることも、問うこともない。

 それが、香月悠臣という男の“選別”だった。

 桐原が列へと戻っていくその背を、控えの間から三人男たちが静かに見送っていた。

 最初に口を開いたのは、伊庭だった。

「……飄々として見えるが、抜け目がないな。
 あれは、“肚が据わってる”男だ」

 皮肉ではない。むしろ、率直な評価のにじむ声だった。

 土方歳三は腕を組み、中庭に視線を注いだまま、低く応じる。

「……ああ。
 自分が“何者か”と、“どこまで踏み込めるか”を分かって動いてる
 だからこそ厄介だ。
 ああいう手合いは、縛ろうとした瞬間に、もう手の内にはいない」

 その言葉に、伊庭はふと息を吐き、軽く頷いた。

「香月殿が、素性を問わなかった理由も……分かる気がします」

 と、そのとき。

 沖田が、思い出したようにふと声を上げた。

「でも、あの人……
 本気でこの屋敷に住むつもりなんですかね?」

 唐突な言葉に、土方と伊庭が揃ってちらりと沖田を見る。

 沖田は肩をすくめ、目元を細めて続けた。

「三度の飯と、熱い風呂があればいい、って言ってましたし。
 ……あの調子なら、本当に住み着く気かもしれませんよ」

 そして、からかうように笑みを含ませて一言。

「土方さんも、どうです? この屋敷。
 なかなか居心地良さそうですよ? 香月さんの妹さんも、いらっしゃいますし」

 その言葉に、伊庭が小さく笑う。

「……沖田さん、それは冗談がすぎる」

 土方は鼻で笑い、肩をすくめて吐き捨てるように言った。

「馬鹿言え。俺がそんなとこでのんびり湯に浸かる姿が想像できるか」

「……まあ、風呂場で刀を研ぐような絵面しか浮かばんですね」

「おい伊庭、お前もか」

 三人の間に、ふっと笑いが漏れる。

 そう言いながらも、その視線は再び中庭の奥、桐原篤哉の背へと戻っていた。

「……だが、あの男が“居場所”を選ぶとしたら──
 ここは悪くねぇ、かもしれんな」

 誰も言葉を継がなかった。
 三人の会話はそこで自然と途切れ、静けさがまた場を包む。

 そのやり取りを縁側から耳にしていた美織は、黙って篤哉の背を見つめていた。

 彼女が見ていたのは、軽い足取りでも、飄々とした佇まいでもない。

 ──ただ、一瞬だけ垣間見えた、あの言葉。

『守る相手も、名乗る名も、自分で選びたいんです』

 なぜかその一言が、胸の奥に静かに残っていた。

 ふと、幼き日の記憶が浮かぶ。

 名を背負い、家に縛られ、選ぶということさえ赦されなかった自分。

 「選びたい」と、あれほど軽やかに言えることが、どれほど強いことか。
 「選ぶ」という痛みを知りながらも、なおその場に立とうとすることが──
 どれほど眩しく映るか。

(……あの人は、“何者にもなろうとせず”、それでも確かに在る)

 それは、ただの羨望ではなかった。

 己にはない在り方を、まっすぐに突きつけられたような衝撃。
 そして、不思議と嫌悪ではなく、静かな尊敬を覚えた。

 美織は、胸の奥でそっと息を吸う。

 その背は、誰よりも軽やかに見えて、
 誰よりも多くを背負っているように思えた。

(……兄上が、あの人を選んだ理由。
 少しだけ、わかった気がする)

 その思考の終わりを告げるように、香月悠臣の声が、再び中庭に落ちた。

 乾いた風が、木々の葉を揺らす音を連れて通り過ぎていく。
 選別の時が、終わりを迎えようとしていた。

 けれど──この場に流れる空気は、
 先ほどまでとは確かに異なる。

 一段と深く、静かに、
 重みを増して沈んでいた。
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