【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第二章

志か、秩序か

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 冬の光が斜めに差し込む午後、香月流剣術道場に一人の来客があった。

 通された座敷に姿を現した男は、無駄のない動作で膝をつき、丁寧に一礼をする。
 年の頃は三十手前あたりだろうか。整えられた衣服、節度ある所作、そして表情を動かさぬ面持ちには、武人というよりも、官に身を置く者特有の静謐が漂っていた。

 天城惣一郎──
 朔也の実兄にして、現在は若年寄付属に就く。

「このたびは、突然の訪問をお許しください」

 低く、淀みない声で、惣一郎は香月家の主へ頭を下げる。
 言葉選びは端正で、礼節に一切の乱れがない。だがその均整の取れた振る舞いは、どこか“公的な面会”を思わせる他人行儀さを含んでいた。

「香月流のご高名は、かねてより耳にしております。
 “剣をもって人を導く”というその理念──まこと、理想に満ちたものと拝察いたします」

 称賛を含んだはずのその言葉には、わずかながら含みがあった。
 距離を取るような口調。理念を肯定しながらも、それが現実に通じるかは別問題だと言外に匂わせていた。

 座の端に控えていた朔也は、その兄の物言いに微かに眉を寄せた。
 横顔は、幼き日とほとんど変わらない。
 喜怒を表に出さず、つねに静かなまなざしで人と場を見定める──そんな兄の姿は、かつてから変わらなかった。

「……久しいな、朔也」

 ふいに向けられた呼びかけも、どこか“確認”のような響きだった。

「兄上……」

 朔也は、反射的に頭を下げる。
 懐かしさとも、緊張ともつかない重たいものが、胸の奥に静かに広がっていた。

「香月流に身を寄せていると聞いた。
 ……剣に生きる日々も、悪くはあるまい」

 惣一郎の目が、ゆっくりと道場の内部を一巡する。
 整えられた畳、稽古用の木刀、鍛錬の痕が刻まれた柱。
 その視線に敵意はない。だが、どこか価値を測る者の眼差しがあった。

「──とはいえ、少々、気になることもある」

 その一言に、座敷の空気がすっと張り詰める。

「香月流が掲げる“人を護る剣”。その志は立派だ。だが……」

 言葉を切り、惣一郎は淡々と続けた。

「剣とは、本来“秩序”を保つためのものだ。
 救うべきは“人の感情”ではなく、“法と体制”──
 どれほど美名を掲げても、理想は現実の前にひれ伏す」

 静かな口調であったにもかかわらず、その言葉には明確な否定の鋭さがあった。

「志では人を救えない。
 剣は“使い手の信念”ではなく、“使われる場所と構造”によって意味が変わるものだ」

 それは、香月流の根幹を──穏やかな表現のもとに、明確に否定する意志だった。

 朔也の胸に、ぎゅっと冷たいものが走る。
 目の前の兄は、間違ったことは言っていない。
 けれど、今の自分が寄る辺とする“剣の在り方”とは、決定的に相容れなかった。

(……兄上の言葉は正論だ。だが、それだけで本当に人は救えるのか)

 何かを言おうとして、言葉が喉でつかえる。

「……兄上は」

 数瞬の沈黙ののち、朔也はようやく言葉を絞り出す。

「兄上は……それでも、剣を持つ理由を、“人のため”だとは思われないのですか」

 一瞬、惣一郎のまなざしが揺れた気がした。
 だが、それもほんの刹那のこと。次の瞬間には、もとの冷静な声で言い放つ。

「思わない。
 剣は“人を従わせるため”にこそ、存在する」

 そこに、迷いも感傷もなかった。

「情に引きずられる剣は、いずれ己を滅ぼす。
 ──朔也、お前はその危うさの上に立っている。
 理想に酔うな。剣を執る者に求められるのは、“正しさ”ではなく、“秩序”だ」

 その言葉は、剣と志に生きる者にとって、酷とも言えるほど厳しい断言だった。

 朔也は、唇をかすかに噛みしめた。

 香月流で歩み始めた日々。
 「人を護る剣」を掲げ、信じてきた道。
 美織の涙、悠臣の言葉、道場で交わしてきた仲間たちとの想い。

 ──兄の一言一言が、それらとぶつかり合い、胸の中をかき乱していく。

(……俺は、何を信じて剣を握るのか)

 血のつながった兄の言葉と、自分の心の声。
 秩序か、志か。現実か、理想か。

 すぐには答えを出せない問いが、胸の奥深くに根を下ろしていくのを、朔也はただ静かに感じていた。

 一通りの挨拶を終えた後、広間の空気はひときわ静まり返っていた。
 茶を口に運ぶのは、天城惣一郎。凛として背を伸ばし、隙のない所作で湯呑を置くその姿は、まるで静謐の化身のようだった。

 向かいに座る香月悠臣もまた、湯を注ぎながら静かに目を向けていた。
 表情はあくまで穏やか。けれどその奥底では──言葉なき“知略の応酬”が、既に始まっていた。

「……香月殿。僭越ながら、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」

 穏やかな声音のままに、惣一郎が口を開く。
 その問いは柔らかくも、まるで切先を隠した剣。
 鋭さを含みつつ、相手の理念を正面から伺う一手であった。

「貴家が掲げる“人を護る剣”という理念──
 高潔であり、美しくもありますが……果たして、その“護る対象”が、秩序を乱すことはないのでしょうか?」

 その言葉に、悠臣はほんのわずかに微笑を浮かべる。

「ご指摘の通りです。
 “護る”という言葉が、常に正義と同義であるとは限らない。
 ゆえに我々は、“誰のために剣を抜くのか”──その一点を、常に自問しております」

 言葉を置き、悠臣は静かに続けた。

「秩序の名のもとに人を斬ることは、決して“正しさ”とは限らぬ。
 剣を執る者は、その境を常に意識していなければなりません」

 惣一郎の瞳が細められ、室内の空気が静かに冷たさを帯びる。

「……しかし、“情”に傾いた剣ほど、危ういものはない。
 私情が理を上回れば、組織は瓦解し、秩序は地に堕ちるでしょう」

「同意します。私情のための剣は、己を滅ぼす」

 悠臣は頷き、杯を置いた。

「されど、“情”や“志”のない剣は、ただ人を支配する暴力に変わる。
 香月流が目指すのは、“従わせる剣”ではなく、“支える剣”です」

 静かな言葉に、惣一郎の眼差しがわずかに鋭さを増す。

「理想、ですな。だが混乱の世においては、理想だけでは何も動かせない。
 剣とは国家の基盤を護る“力”──感傷を挟めば、むしろ害となる」

 その声はあくまで理路整然としていた。
 だがその響きは、明確に理念を切り捨てていた。

「──世が混乱するのは、“志”なき者が、剣を振るうからではありませんか?」

 悠臣の言葉もまた、静かに温度を失っていた。

「たしかに幕府はいまだ中央を保っております。
 しかし、足元では民の不安が渦巻き、理の通らぬ声も高まりつつある」

 湯呑に視線を落とし、悠臣は続ける。

「そんな時代にこそ、我々武士がすべきは“示す”こと。
 力に頼るのではなく、剣がどうあるべきか──その姿勢を、民に示すことです。
 斬るためではなく、“守るため”に剣を抜くという在り方を」

 惣一郎の口元が、わずかに歪む。

「……甘い。
 そのような夢想では、この国は保てません。
 剣に求められるのは理念ではない。“国家を支える実行力”──それだけです」

 明確な断言だった。
 一切の妥協も、共感も、そこには含まれていなかった。

 悠臣は、ゆっくりと湯呑を置く。

「……それでは、我々の道は交わりませんな」

 その声音は柔らかくも、芯の通った拒絶だった。

「我ら香月流は、これからも人を繋ぎ、人を支える剣を目指して参ります。
 御高説、ありがたく拝聴しました。ですが──
 理念を捨てるつもりは、毛頭ございません」

 ──刀の一閃はなかった。
 けれど、その場に漂う余韻はまさに“無言の斬撃”のごとく鋭く、冷たく、そして深く残った。


 会話が途切れると同時に、広間には澄んだ静寂が満ちた。
 茶器の音ひとつすら響かぬ張り詰めた空気の中、天城惣一郎は静かに膝を正し、悠然と立ち上がる。

「……本日は無礼をいたしました、香月殿」

 深々と頭を垂れたその所作は、隙のない鍛錬の賜物であり、一分の狂いもない刃のような鋭さを湛えていた。
 香月悠臣もまた、品のある所作で礼を返す。

「こちらこそ、ご足労を感謝いたします。──天城殿のご見識、しかと胸に刻みましょう」

 その言葉に、惣一郎は静かに頷くと、踵を返して廊下へ向かう。

 ──が、途中でふと立ち止まり、背を向けたままの姿勢で、廊下の隅に控えていた朔也へと声を向けた。

「……朔也」

 呼びかけに応じて、朔也は姿勢を正す。

「おまえが、いかなる剣を志そうとも、それを否定するつもりはない。だが──」

 ゆっくりと振り返った惣一郎の瞳には、冷静な理と、わずかに揺れる兄としての情が宿っていた。

「“志”とは、己ひとりで貫けるものではない。
 理想を掲げるというのなら、それに見合う覚悟を持て。
 さもなくば──剣に呑まれる」

 その声には、責める響きではなく、静かな戒めが込められていた。
 朔也は、黙って兄の目を正面から見つめ返す。
 言葉を返すことはしなかった。ただ、その視線の奥に、確かな意志を灯したまま。

 短い沈黙ののち、惣一郎はそっと目を伏せ、踵を返す。

「……寒さが厳しくなる。身体を労われ」

 それだけを最後に残し、惣一郎は足音すら立てずに香月家を後にした。

 廊下にただ一人残された朔也は、しばしその場から動けなかった。
 兄の背が遠ざかっていった方向を見つめたまま、胸の奥で言葉を反芻する。

 ──志は、己ひとりで貫けるものではない。
 ──理想を掲げるなら、それに見合う覚悟を持て。

 それは、誰よりも近くで自身を見てきた兄だからこそ、突きつけられた言葉だった。

 朔也の胸に、ひとすじの冷たい痛みが走る。
 冷たい釘が一本、胸の奥に深く打ち込まれたような──静かで確かな痛み。

(……分かってる、兄上。そんなことは……)

 理想だけでは人は護れない。
 志を掲げたところで、現実の壁は高く、厚い。
 それでも──それでも、自分は。

 ふと、指先が微かに震えているのに気づく。
 恐れか、悔しさか。いや──それは、きっと。

 ──あの夜、美織が見せた涙。

 胸に触れたあの温もりを、忘れたくなかった。
 あの想いを、ただ綺麗事だったと片付けてしまうには、あまりにも惜しかった。

(……俺は、“人を護る剣でありたい”と、誓ったはずだ)

 たとえそれが、夢だと笑われても。
 名も、出自も、誇りさえも──誰かを護る力になるのなら、全て剣に託してもいい。

 理想を語ることを嘲る者たちに、黙って頭を垂れるつもりはない。
 届かないかもしれなくても、なお手を伸ばし続けたい。

 それが、今の自分が見出した“答え”だった。

 夕暮れの陽が廊下の縁に差し込み、畳を淡く静かに照らす。
 その光のなかで、朔也はひとつ息を整え、静かに歩を進めた。

 背筋を伸ばし、顔を上げて。

 冷たい冬の気配に包まれながらも──その胸の奥には、まだ消えぬ火が確かに灯っていた。
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