14 / 33
第二章
その剣、誰のために
しおりを挟む
冬の風が乾いた街路を吹き抜ける午後、香月道場の門前にひとりの若者が駆け戻ってきた。
裾は赤黒く血に染まり、肩で息をしながら立ち尽くすその顔は、血の気を失って蒼白だった。
名を弘太という、十五の若い門弟である。
近ごろは買い出しや使いを任されるようになり、ようやく一人前の稽古生として扱われ始めたばかりだった。
「おい……弘太、どうした!?」
門前の異変に気づき、道場の内から数名の門弟が駆け寄る。
弘太は何かを言おうと口を開いたが、唇が小刻みに震えるばかりで、声がうまく形にならない。
ただ──
鞘に収めたはずの刀の鍔元から、なおも赤黒い血が、ぽたり、ぽたりと畳に落ちていた。
ただならぬ事態であることは、誰の目にも明らかだった。
ほどなくして広間に運び込まれた弘太は、膝を抱えるようにして座り込み、震える手でようやく事の次第を語り始めた。
市中の往来──日本橋にほど近い呉服町。
買い出しの帰途、通りで口論が起き、周囲が騒然となったという。
「……酔って暴れている浪人風の男がいて……人だかりができて……
俺のほうに、向かってきたように……見えたんです……」
声はかすれ、語尾は頼りなく揺れる。
「……斬りかかってきたと、思って……それで……」
斬りかかったのではなく、向かってきた「ように見えた」。
その曖昧さを含んだ言葉に、道場主・香月悠臣の表情が、ほんのわずかに曇る。
弘太の話によれば、現場に居合わせた町奉行所の同心は、騒ぎを鎮めたのち、
「混乱下での正当防衛の可能性あり」
──そう判断していたという。
だが。翌日、奉行所から届いた正式な報せは、その判断を静かに覆していた。
浪人の遺体には、刀傷以外の外傷は認められず。
刀は帯びていたものの、鞘から抜かれた形跡はなかった──と。
「……つまり」
悠臣が低く問いかける。
「相手は、斬りかかってなど……いなかった、ということですか」
伝令に立った門弟は、言葉を返さず、ただ重く頷いた。
さらに目撃者の証言では、浪人は口論に巻き込まれ、道の端を歩いていたところ、
偶然よろけて弘太の進行方向へ体を傾けただけだったという。
香月道場の名は、町でも知られている。
だからこそ、その門弟が“誤って人を斬った”という事実は、噂となって瞬く間に広がっていった。
遺族は、浪人の妹ひとり。
今は町の有志たちに支えられ、奉行所へ再調査を求める嘆願を出す準備を進めているという。
沈黙が落ちる広間で、悠臣が静かに口を開いた。
「……道場主として。私が、遺族のもとへ出向こうと思う」
その一言に、空気がわずかに揺れた。
「お待ちください、先生……!」
声を上げたのは、中老格の門弟・岩永であった。
かつて主家を失い、それでも剣を捨てず、流派の名だけを支えに生きてきた男。
老練な剣客として鳴らし、門下でも影響力を持つ存在である。
「この件は、弘太の誤解による事故に過ぎませぬ。
町方も当初は“混乱下では致し方なし”と申していたとか。
それを、わざわざこちらから謝罪するなど──」
岩永は言葉を切り、低く続ける。
「武士が自らの誤りを過度に認めることは、武門の名に関わります。
“香月流は民草の顔色ばかり伺う”などと囁かれれば、それこそ流儀の威信が揺らぎましょう」
「……人を護る剣を掲げていながら」
悠臣の声に、わずかな硬さが混じる。
「人を誤って斬った事実を前にして、顔を伏せずにいられるのか」
岩永は一瞬、言葉に詰まった。
だが、それでも引き下がらない。
「心得ております……。
されど、“名”というものは、志と同じく脆いのです」
「“名”のために、志を曲げてよいと?」
「志を貫いて、我らの“名”が潰えては……何も残りますまい」
短い沈黙。
広間には、軋むような重さが満ちていく。
その一部始終を、朔也は座敷の端から、ただ黙って見ていた。
香月流は、“人を護る剣”を掲げている。
それは志であり、理念だ。
自分もまた、その在り方に共鳴して、この道を選んだはずだった。
けれど──
(……兄上なら、どうする)
脳裏に浮かんだのは、先日の天城惣一郎の言葉。
──情に引きずられる剣は、いずれ己を滅ぼす。
──理想に酔うな。選ぶべきは“秩序”だ。
志を貫こうとする香月悠臣。
秩序を優先しようとする岩永。
そのはざまで、朔也は言葉を持たぬまま、静かに息を吐いた。
それから数日後──それは、静かな寒気が町を包むある日のことだった。
香月道場に、ひとつの知らせが届けられた。
差出人は、町奉行所の同心──荒木。
手にした報せには、浪人の遺族、妹の「お妙」が奉行所を通じて提出した嘆願書が、さらに上役筋へと回送された旨が記されていた。
「嘆願の趣旨は、“再調べと処置の見直しを願う”とのことです」
静かに告げた荒木は、悠臣とは古くからの縁があり、顔なじみである。
「市中でも、さまざまな声が上がっております。
“斬られた浪人は、元は腕利きの職人で、妹思いの真面目な男だった”とか──
“香月流の門弟は若さゆえ、威圧的な目つきで誤解を招いたのだ”とか……まぁ、尾ひれのついた噂話が飛び交っておりますな」
悠臣はゆるやかに目を伏せ、やがて静かに口を開く。
「……噂であろうと、民の声を侮ってはならない。
たとえ裁きの場へと引かれることがあろうとも、我らは誠をもって臨む覚悟です」
その穏やかな語調に、荒木は小さく息をつき、わずかに頷いた。
けれど、ふと眉を寄せると、やや声を潜めて言葉を継ぐ。
「……それでいて、もうひとつ──申し上げねばならぬことがございます」
「……なんでしょう」
悠臣が促すと、荒木は懐から一枚の文書をそっと取り出す。
「この嘆願書、町方の手を離れ、評定所へと上申されたとのこと。
しかも、その審議の窓口のひとつに……天城惣一郎殿が任ぜられている、との知らせを受けております」
その名が広間に響いた瞬間。
座敷の一隅に控えていた朔也が、音もなくわずかに肩を揺らした。
一方その頃──
江戸城下、評定所の一角に設けられた書見の間。
冬陽の差す障子越しの光の下、天城惣一郎は机上に並んだ文書のひとつを、無言で手に取っていた。
整った筆致で綴られたのは、浪人の死をめぐる詳細な嘆願。
提出人は妹・お妙と、その支援者数名。
末尾には、町役人たちの連名が添えられていた。
「……香月流、か」
呟いた声は低く、乾いていた。
感情を見せぬように思えたその声音には、かすかな澱みが宿る。
“人を護る剣”を掲げながら、誤って民を斬った──
そう記された一文の前で、惣一郎の指がぴたりと止まる。
視線の先に浮かぶのは、かつての弟・朔也の姿。
理想を口にし、誰よりも剣に誠を尽くしていた少年。
その弟が、いま──“理念”と“現実”という重き二柱のあいだに、立たされている。
(……見極めるときが来たか)
惣一郎はわずかに瞼を伏せ、ひとつ静かに息を吐く。
胸の裡には、兄としての情と、幕臣としての職責。
交わらぬはずのふたつが、鈍く響き合っていた。
「香月流という器が、“秩序を担う剣”たり得るのか──」
誰にも聞かれることのない呟きは、白き障子の向こうへと、ひとしずくの吐息とともに消えていった。
◆
冬空の光が、淡く差し込む朝だった。
乾いた風が庭を渡り、松の葉をわずかに揺らすなか、香月道場の表門に、一通の書状が届けられる。
「幕府評定所より、香月悠臣殿へ通達。
本件に関わる一連の事実確認のため、至急ご出頭願いたく──」
書状はあくまで形式に則った文面で綴られていたが、厳格な筆致と黒々とした公印が、それ以上の威圧を滲ませていた。
そして──差出人に記された名。
「若年寄付属・天城惣一郎」
その一行が、すべてを物語っていた。
知らせが伝えられると、道場内には、張り詰めたような緊張が走る。
静まり返った広間に、門弟たちが集まり始める。畳に膝をつく音さえ、耳に残るほどの静寂。
やがて、誰からともなく声があがった。
「……出頭? それって……“査問”ってことじゃないのか?」
「奉行所の裁きはもう済んだはずだ。なぜ今さら、評定所が……」
「応じるべきではありません。軽々しく出れば、“香月流が非を認めた”と取られかねませんぞ」
年配の門弟たちや後援者たちは、口々に憤りや戸惑いを訴えた。
中には顔を紅潮させ、拳を握りしめる者もいた。
「悠臣殿、ここはご静観を。
今は騒がず、時が過ぎるのを待つべきです。下手に動けば、幕政に逆らう意志があると見なされ……道場そのものが危うくなります」
強まる声。畳の上に響く緊張の気配。
だが──香月悠臣は、その全てを正面から受け止めていた。
やわらかく背を伸ばしたまま、穏やかな声で、しかし一切の揺らぎなく告げた。
「……それでも、私は参る所存です」
その瞬間、空気が一拍止まった。
「誤りがあったなら、正さねばならない。
それが、道場主としての務め。
そして、この剣に“志”を託す以上──我らの真意を、言葉でもって伝えねばなりません」
静かながらも真っ直ぐなその声に、広間の空気が僅かに動いた。
眉をひそめていた門弟たちの視線が、次第に悠臣へと集まっていく。
「誠をもって応じること。
それこそが、香月流の理念に背かぬ道と、私は信じております」
しばしの沈黙ののち──
若い門弟のひとりが、意を決したように膝を進めた。
「……俺、悠臣様のお考えに賛成です」
言葉に、他の若者たちがそっと顔を上げる。
「町で怒っていたのは、浪人の家族だけじゃなかった。
あの時……町の人たちも、俺たちを見てたんです。“なんで斬ったんだ”って」
「謝るべきことがあるなら、俺たちは逃げちゃいけない。剣を学んでる者として……それは、違うと思うんです」
決して雄弁ではない。
だが、その言葉には、戸惑いながらも真正面から向き合おうとする誠実さがあった。
──そして。
座敷の端に控えていた朔也が、ゆっくりと顔を上げる。
その双眸には、揺るぎと決意が、静かに同居していた。
「……私も、同行させてください」
その声に、場の視線が一斉に朔也へ向いた。
「兄上の言葉が、今も胸にあります」
「──“理想を語るなら、それに見合う覚悟を持て”」
ぽつりとそう言いながら、朔也は膝の上に置かれた自らの手を、そっと見つめた。
(……この手は、誰かを護るためにあるのか。
それとも、ただ剣を振るうためだけのものなのか──)
未だ、答えは出ない。
だが、それでも考え続け、進もうとする意志だけは、確かにそこにあった。
「香月流に身を置く者として、私自身も、“何を信じて剣を握るのか”を見極めたいのです」
悠臣は、朔也を見つめ、目を細めて頷いた。
「……ありがとう、朔也」
その穏やかな一言が、張り詰めていた空気にわずかな和らぎをもたらした。
だが、門弟たちの中にはなお、影を残す者もいた。
「……評定所は、“志”だけで動く場ではありません。
官僚たちが見るのは、理念ではなく、数と秩序です」
そう呟いたのは、道場に出入りする一人の文士だった。
その言葉には、冷静な現実が滲んでいた。
だが、悠臣はきっぱりと返す。
「──それでも構わぬ」
その声音に、迷いはなかった。
「“理念”を、ただの綺麗事で終わらせぬためにこそ。
我らは、剣を握るのです」
その言葉に、朔也はそっと拳を握り締めた。
胸の奥に──
あの日、兄が遺した言葉が再び浮かび上がる。
──理想は、現実に呑まれる。
──志を掲げるには、覚悟が要る。
ならば──その覚悟を、持って立つ。
兄とは異なる道を選んだとしても、己が信じる剣を貫くために。
そのとき、障子の隙間から冷たい冬風がひとひら吹き込んだ。
けれどその朝、香月道場の広間には──確かに、凛とした熱が立ち上っていた。
裾は赤黒く血に染まり、肩で息をしながら立ち尽くすその顔は、血の気を失って蒼白だった。
名を弘太という、十五の若い門弟である。
近ごろは買い出しや使いを任されるようになり、ようやく一人前の稽古生として扱われ始めたばかりだった。
「おい……弘太、どうした!?」
門前の異変に気づき、道場の内から数名の門弟が駆け寄る。
弘太は何かを言おうと口を開いたが、唇が小刻みに震えるばかりで、声がうまく形にならない。
ただ──
鞘に収めたはずの刀の鍔元から、なおも赤黒い血が、ぽたり、ぽたりと畳に落ちていた。
ただならぬ事態であることは、誰の目にも明らかだった。
ほどなくして広間に運び込まれた弘太は、膝を抱えるようにして座り込み、震える手でようやく事の次第を語り始めた。
市中の往来──日本橋にほど近い呉服町。
買い出しの帰途、通りで口論が起き、周囲が騒然となったという。
「……酔って暴れている浪人風の男がいて……人だかりができて……
俺のほうに、向かってきたように……見えたんです……」
声はかすれ、語尾は頼りなく揺れる。
「……斬りかかってきたと、思って……それで……」
斬りかかったのではなく、向かってきた「ように見えた」。
その曖昧さを含んだ言葉に、道場主・香月悠臣の表情が、ほんのわずかに曇る。
弘太の話によれば、現場に居合わせた町奉行所の同心は、騒ぎを鎮めたのち、
「混乱下での正当防衛の可能性あり」
──そう判断していたという。
だが。翌日、奉行所から届いた正式な報せは、その判断を静かに覆していた。
浪人の遺体には、刀傷以外の外傷は認められず。
刀は帯びていたものの、鞘から抜かれた形跡はなかった──と。
「……つまり」
悠臣が低く問いかける。
「相手は、斬りかかってなど……いなかった、ということですか」
伝令に立った門弟は、言葉を返さず、ただ重く頷いた。
さらに目撃者の証言では、浪人は口論に巻き込まれ、道の端を歩いていたところ、
偶然よろけて弘太の進行方向へ体を傾けただけだったという。
香月道場の名は、町でも知られている。
だからこそ、その門弟が“誤って人を斬った”という事実は、噂となって瞬く間に広がっていった。
遺族は、浪人の妹ひとり。
今は町の有志たちに支えられ、奉行所へ再調査を求める嘆願を出す準備を進めているという。
沈黙が落ちる広間で、悠臣が静かに口を開いた。
「……道場主として。私が、遺族のもとへ出向こうと思う」
その一言に、空気がわずかに揺れた。
「お待ちください、先生……!」
声を上げたのは、中老格の門弟・岩永であった。
かつて主家を失い、それでも剣を捨てず、流派の名だけを支えに生きてきた男。
老練な剣客として鳴らし、門下でも影響力を持つ存在である。
「この件は、弘太の誤解による事故に過ぎませぬ。
町方も当初は“混乱下では致し方なし”と申していたとか。
それを、わざわざこちらから謝罪するなど──」
岩永は言葉を切り、低く続ける。
「武士が自らの誤りを過度に認めることは、武門の名に関わります。
“香月流は民草の顔色ばかり伺う”などと囁かれれば、それこそ流儀の威信が揺らぎましょう」
「……人を護る剣を掲げていながら」
悠臣の声に、わずかな硬さが混じる。
「人を誤って斬った事実を前にして、顔を伏せずにいられるのか」
岩永は一瞬、言葉に詰まった。
だが、それでも引き下がらない。
「心得ております……。
されど、“名”というものは、志と同じく脆いのです」
「“名”のために、志を曲げてよいと?」
「志を貫いて、我らの“名”が潰えては……何も残りますまい」
短い沈黙。
広間には、軋むような重さが満ちていく。
その一部始終を、朔也は座敷の端から、ただ黙って見ていた。
香月流は、“人を護る剣”を掲げている。
それは志であり、理念だ。
自分もまた、その在り方に共鳴して、この道を選んだはずだった。
けれど──
(……兄上なら、どうする)
脳裏に浮かんだのは、先日の天城惣一郎の言葉。
──情に引きずられる剣は、いずれ己を滅ぼす。
──理想に酔うな。選ぶべきは“秩序”だ。
志を貫こうとする香月悠臣。
秩序を優先しようとする岩永。
そのはざまで、朔也は言葉を持たぬまま、静かに息を吐いた。
それから数日後──それは、静かな寒気が町を包むある日のことだった。
香月道場に、ひとつの知らせが届けられた。
差出人は、町奉行所の同心──荒木。
手にした報せには、浪人の遺族、妹の「お妙」が奉行所を通じて提出した嘆願書が、さらに上役筋へと回送された旨が記されていた。
「嘆願の趣旨は、“再調べと処置の見直しを願う”とのことです」
静かに告げた荒木は、悠臣とは古くからの縁があり、顔なじみである。
「市中でも、さまざまな声が上がっております。
“斬られた浪人は、元は腕利きの職人で、妹思いの真面目な男だった”とか──
“香月流の門弟は若さゆえ、威圧的な目つきで誤解を招いたのだ”とか……まぁ、尾ひれのついた噂話が飛び交っておりますな」
悠臣はゆるやかに目を伏せ、やがて静かに口を開く。
「……噂であろうと、民の声を侮ってはならない。
たとえ裁きの場へと引かれることがあろうとも、我らは誠をもって臨む覚悟です」
その穏やかな語調に、荒木は小さく息をつき、わずかに頷いた。
けれど、ふと眉を寄せると、やや声を潜めて言葉を継ぐ。
「……それでいて、もうひとつ──申し上げねばならぬことがございます」
「……なんでしょう」
悠臣が促すと、荒木は懐から一枚の文書をそっと取り出す。
「この嘆願書、町方の手を離れ、評定所へと上申されたとのこと。
しかも、その審議の窓口のひとつに……天城惣一郎殿が任ぜられている、との知らせを受けております」
その名が広間に響いた瞬間。
座敷の一隅に控えていた朔也が、音もなくわずかに肩を揺らした。
一方その頃──
江戸城下、評定所の一角に設けられた書見の間。
冬陽の差す障子越しの光の下、天城惣一郎は机上に並んだ文書のひとつを、無言で手に取っていた。
整った筆致で綴られたのは、浪人の死をめぐる詳細な嘆願。
提出人は妹・お妙と、その支援者数名。
末尾には、町役人たちの連名が添えられていた。
「……香月流、か」
呟いた声は低く、乾いていた。
感情を見せぬように思えたその声音には、かすかな澱みが宿る。
“人を護る剣”を掲げながら、誤って民を斬った──
そう記された一文の前で、惣一郎の指がぴたりと止まる。
視線の先に浮かぶのは、かつての弟・朔也の姿。
理想を口にし、誰よりも剣に誠を尽くしていた少年。
その弟が、いま──“理念”と“現実”という重き二柱のあいだに、立たされている。
(……見極めるときが来たか)
惣一郎はわずかに瞼を伏せ、ひとつ静かに息を吐く。
胸の裡には、兄としての情と、幕臣としての職責。
交わらぬはずのふたつが、鈍く響き合っていた。
「香月流という器が、“秩序を担う剣”たり得るのか──」
誰にも聞かれることのない呟きは、白き障子の向こうへと、ひとしずくの吐息とともに消えていった。
◆
冬空の光が、淡く差し込む朝だった。
乾いた風が庭を渡り、松の葉をわずかに揺らすなか、香月道場の表門に、一通の書状が届けられる。
「幕府評定所より、香月悠臣殿へ通達。
本件に関わる一連の事実確認のため、至急ご出頭願いたく──」
書状はあくまで形式に則った文面で綴られていたが、厳格な筆致と黒々とした公印が、それ以上の威圧を滲ませていた。
そして──差出人に記された名。
「若年寄付属・天城惣一郎」
その一行が、すべてを物語っていた。
知らせが伝えられると、道場内には、張り詰めたような緊張が走る。
静まり返った広間に、門弟たちが集まり始める。畳に膝をつく音さえ、耳に残るほどの静寂。
やがて、誰からともなく声があがった。
「……出頭? それって……“査問”ってことじゃないのか?」
「奉行所の裁きはもう済んだはずだ。なぜ今さら、評定所が……」
「応じるべきではありません。軽々しく出れば、“香月流が非を認めた”と取られかねませんぞ」
年配の門弟たちや後援者たちは、口々に憤りや戸惑いを訴えた。
中には顔を紅潮させ、拳を握りしめる者もいた。
「悠臣殿、ここはご静観を。
今は騒がず、時が過ぎるのを待つべきです。下手に動けば、幕政に逆らう意志があると見なされ……道場そのものが危うくなります」
強まる声。畳の上に響く緊張の気配。
だが──香月悠臣は、その全てを正面から受け止めていた。
やわらかく背を伸ばしたまま、穏やかな声で、しかし一切の揺らぎなく告げた。
「……それでも、私は参る所存です」
その瞬間、空気が一拍止まった。
「誤りがあったなら、正さねばならない。
それが、道場主としての務め。
そして、この剣に“志”を託す以上──我らの真意を、言葉でもって伝えねばなりません」
静かながらも真っ直ぐなその声に、広間の空気が僅かに動いた。
眉をひそめていた門弟たちの視線が、次第に悠臣へと集まっていく。
「誠をもって応じること。
それこそが、香月流の理念に背かぬ道と、私は信じております」
しばしの沈黙ののち──
若い門弟のひとりが、意を決したように膝を進めた。
「……俺、悠臣様のお考えに賛成です」
言葉に、他の若者たちがそっと顔を上げる。
「町で怒っていたのは、浪人の家族だけじゃなかった。
あの時……町の人たちも、俺たちを見てたんです。“なんで斬ったんだ”って」
「謝るべきことがあるなら、俺たちは逃げちゃいけない。剣を学んでる者として……それは、違うと思うんです」
決して雄弁ではない。
だが、その言葉には、戸惑いながらも真正面から向き合おうとする誠実さがあった。
──そして。
座敷の端に控えていた朔也が、ゆっくりと顔を上げる。
その双眸には、揺るぎと決意が、静かに同居していた。
「……私も、同行させてください」
その声に、場の視線が一斉に朔也へ向いた。
「兄上の言葉が、今も胸にあります」
「──“理想を語るなら、それに見合う覚悟を持て”」
ぽつりとそう言いながら、朔也は膝の上に置かれた自らの手を、そっと見つめた。
(……この手は、誰かを護るためにあるのか。
それとも、ただ剣を振るうためだけのものなのか──)
未だ、答えは出ない。
だが、それでも考え続け、進もうとする意志だけは、確かにそこにあった。
「香月流に身を置く者として、私自身も、“何を信じて剣を握るのか”を見極めたいのです」
悠臣は、朔也を見つめ、目を細めて頷いた。
「……ありがとう、朔也」
その穏やかな一言が、張り詰めていた空気にわずかな和らぎをもたらした。
だが、門弟たちの中にはなお、影を残す者もいた。
「……評定所は、“志”だけで動く場ではありません。
官僚たちが見るのは、理念ではなく、数と秩序です」
そう呟いたのは、道場に出入りする一人の文士だった。
その言葉には、冷静な現実が滲んでいた。
だが、悠臣はきっぱりと返す。
「──それでも構わぬ」
その声音に、迷いはなかった。
「“理念”を、ただの綺麗事で終わらせぬためにこそ。
我らは、剣を握るのです」
その言葉に、朔也はそっと拳を握り締めた。
胸の奥に──
あの日、兄が遺した言葉が再び浮かび上がる。
──理想は、現実に呑まれる。
──志を掲げるには、覚悟が要る。
ならば──その覚悟を、持って立つ。
兄とは異なる道を選んだとしても、己が信じる剣を貫くために。
そのとき、障子の隙間から冷たい冬風がひとひら吹き込んだ。
けれどその朝、香月道場の広間には──確かに、凛とした熱が立ち上っていた。
3
あなたにおすすめの小説
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる