【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第二章

志は秩序に抗えるか

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 江戸城下、白壁と黒塀に囲まれた静謐な一角──
 幕府評定所。その中枢に位置する一室には、冬の淡い光が障子越しににじみ、冷たい静けさを落としていた。

 通されたのは、香月悠臣と天城朔也。
 ふたりは正座し、身じろぎひとつせず、内に緊張を孕みながらも姿勢を崩さぬまま、静かに対峙していた。

 その正面、列をなして座する評定所の役人たち。
 そして最奥、中央の席──そこにいたのは、若年寄付属・天城惣一郎である。

「……本日はご足労いただき、感謝申し上げます。香月殿」

 その口調は穏やかでありながら、曖昧さを一切排した剃刀のような厳格さを宿していた。
 そこにあるのは、兄としての情ではなく、幕府官吏としての冷ややかな面差しだった。

 悠臣は静かに一礼し、落ち着いた声で応じる。

「恐れながら、香月道場にて生じた一件──
 事実と責任を明らかにすることは、私どもの責務と心得ております」

「結構」

 惣一郎は書状を手にしたまま、視線を逸らさず、淡々と口を開いた。

「まず伺いたい。香月流が掲げる“人を護る剣”という理念──
 それは、“武士としての在り方”と、いかに両立するものとお考えか」

 静かながら、言葉の芯には冷たい鋼のような圧がある。

「我ら幕府において、剣とは“秩序”を守る道具と定義されております。
 それが“情”に左右されれば、たちまち法を脅かす刃と化す。
 理念に傾きすぎれば、そもそも“武士”の存在意義すら、揺らぎかねません」

 すぐさま、脇に座していた役人の一人が言葉を継いだ。

「町人たちのあいだでは、こう囁かれております──
 “香月流は、武士であっても裁かれる”と。
 それが事実でなくとも、“そう思わせる剣”を振るうこと自体が、不安と混乱の種になるのではありませんか?」

 問われた悠臣は、目を伏せて小さく息を吸い、そして言葉を紡いだ。

「我らの剣は、決して法を越えるものではございません。
 ですが──法の名のもとに人を斬ることが、つねに正義であるとは限らぬと、私は考えます」

 そして、視線を静かに持ち上げる。

「“法”と“情”の狭間に立つ者として、自らの心に問いを重ねること。
 それこそが、剣を握る者が持つべき責任であり、剣の“在り方”を育むと──私は、そう信じております」

 誠実な声音。飾りのない言葉。

 だが──惣一郎の眼差しは、さらに冷たさを帯びた。

「理想としては、美しい。だが現実は違う」

 声の調子は変わらぬまま、言葉の輪郭だけが鋭さを増していく。

「剣が振るわれる、その一瞬に──
 民の命が懸かっているのです。
 判断に迷えば秩序が崩れ、理念に傾けば組織は分裂する」

 惣一郎の視線が、悠臣を貫いた。

「香月殿。あなたのその“志”は、果たして人を導くに足るものか──
 それとも、ただの幻想か」

 ──その刹那だった。

 悠臣の唇がわずかに動いたが、声は出なかった。
 沈黙。空気が張り詰め、時が止まる。

 そして、すっと立ち上がったのは、朔也だった。

 その所作は静かだが、膝の裏にかすかに緊張が走っている。
 声は震えていたが、その眼差しには確かなものが宿っていた。

「……兄上。失礼を承知の上で、申し上げます」

 会議の場で“兄上”と呼ぶことなど、通常ならば礼を失する行為である。
 だが惣一郎は、遮らなかった。黙して、弟の言葉を待った。

「私は、“人を従わせる剣”ではなく、“人を護る剣”を選ぶと決めました」

「それは、兄上の言うような“覚悟なき理想”ではありません」

「私は──責任から逃げません」

 朔也はまっすぐ、兄を見据える。

「傷つけた事実も、剣の意味も、自らの手で見つめ続けます。
 たとえ誰に否定されようと、私自身が信じたものを、貫く覚悟があります」

 その言葉に、場内がわずかにざわついた。
 目を交わす役人たちの間に、さざ波のような動きが広がる。

 惣一郎は何も言わず、しばしの沈黙の末、ふと瞼を伏せた。

 そして、静かに呟いた。

「……ならば、見せてみよ」

「おまえの剣が、“理念”に呑まれずに立ち続けられるかどうか──」

 その声音には、兄としての色は残されていなかった。
 それは、“官吏”としての冷徹な宣告だった。

 数刻後。

 審問は、「継続調査」という名目で一旦幕を閉じた。
 香月道場への断罪や処分は見送られたものの──

「香月流は、幕政にとって潜在的な危険を孕む存在である」
 ──その注視対象として、正式に記録された。

 その場を辞した朔也はふと、兄の最後の視線を思い返す。

 冷たく、理性的なその眼差しの奥──
 ほんの一瞬だけ、揺らぎのようなものがあった。

 あれは兄が見せた最後の「情」だったのか。
 それとも、弟に向けた「問い」だったのか──
 答えはまだ、出ていない。

 評定所の門を出た瞬間、冷たい冬の空気が頬を鋭く撫でた。
 肌に残るのは、先ほどまで身を置いていたあの一室の、張り詰めた静寂。
 その余韻が、まるで薄氷のように朔也の胸に張りついて離れなかった。

 城下の往来は、いつもと変わらぬ喧騒に満ちている。
 行き交う町人たちの声や笑いが遠く響いてくるが、それすらも朔也には、どこか現実味のない、別の世界の音のように感じられた。

「……大丈夫か」

 隣を歩く香月悠臣が、不意に声をかけた。
 その声音は低く抑えられていたが、言葉の底には、弟子を気遣う師の静かな情が確かに滲んでいた。

「はい。……ですが……」

 朔也は短く応じたのち、言葉を選ぶように視線を伏せる。

「……自分があの場で口を挟んだことで、香月流に余計な疑念を招いたのではないかと……」

 歩を止めずに、悠臣はそっと首を振った。

「違う。あの言葉は必要だった」

 朔也が顔を向けると、悠臣は目元に微かな笑みを浮かべた。

「剣を握る者が、自らの信じるものを語れずにいて、どうして人を導けようか。
 剣が“秩序の道具”に成り果てるのを黙って受け入れるようでは、志そのものが死んでしまう。
 ……おまえは今日、それに抗った。それでいい。香月流にとっても、大切な一歩だった」

 その穏やかな断言に、朔也の胸に張り詰めていたものが、ほんの少しだけ解けていく。

 やがて香月道場に戻ると、広間には門弟たちが静かに並び、頭を垂れて出迎えていた。
 誰ひとり声高に問いかけることはなく、ただその瞳に、不安と期待がないまぜになった色が宿っている。

「……評定所は、どうなりましたか」

 若い門弟のひとりが、おずおずと口を開いた。

 悠臣は一歩前へと進み、まっすぐに全員を見据えた。

「結論は、まだ下っていない。──だが、香月流は“幕政に注視される存在”となった」

 その一言に、広間の空気が揺れる。
 小さなざわめきが走り、息を呑む音すら聞こえるほどの沈黙が訪れた。

「それでも──我らのなすべきことは、何一つ変わらない」

 悠臣の声音は、凛としていた。

「剣を抜けば、責任が生まれる。誰かを傷つけたのなら、誠をもって向き合わねばならない。
 それが我らの剣──“護るため”の剣だ」

 その言葉に、若い門弟たちは顔を上げ、ひとつひとつ、力強く頷いた。
 一方で、年配の者たちの中には、複雑な表情を浮かべたまま、静かに視線を伏せる者もいた。

 ──ここからが、香月流の真価が問われる分岐点。

 朔也は、その空気を全身で感じ取っていた。
 理念を信じて進む者、現実に従おうとする者、迷う者、そして去っていく者。
 それぞれの選択が、この流儀の未来を形作っていくのだと。

 空は高く、冬の陽は冷たかった。
 だが、香月道場の広間に立つ者たちの胸には、確かにひとつの炎が灯りはじめていた。

 一方その頃。
 評定所の奥座敷──白障子越しに差す冬の光が、整然とした帳場の空気をさらに静かに凍らせていた。

 天城惣一郎は、ひとり机に向かい、「香月流剣術道場」に関する調書に目を通していた。
 墨の匂いがまだ仄かに残る文書の束。その整った筆跡を追いながらも、彼の思考は別の場所を彷徨っていた。

(……まったく、愚直なやつだ)

 脳裏に浮かんだのは、さきほどの審問の場。
 張り詰めた空気の中で、弟──朔也がふいに前へ出た瞬間だった。

 名を呼び、声を震わせながら、それでも怯まず語ったあの眼差し。
 秩序の論理も、法の厳格さも理解した上で、それでも信じる剣を口にした姿。

 ──「私は、目を逸らしません」。

(覚悟がないわけではない。
 ……だが、それで生き残れるほど、この世は甘くない)

 惣一郎は筆を止め、机に置かれた手を静かに引いた。
 ふう、と小さな溜息が漏れる。安堵でも怒りでもない、ただひどく乾いた吐息だった。

 理想は、人を救う。
 けれど──それは時に、人を殺す。

 現実を知らず、正義だけを振りかざして散った者たちを、彼は山ほど見てきた。
 理想が過ぎれば、秩序は崩れる。情が過ぎれば、国は保てぬ。
 だからこそ惣一郎は、私情を捨て、“官”としての道を選んだ。

(……それでも、あいつの声が消えない)

 まるで昔の自分が、遠い背中から呼びかけてくるような──そんな錯覚すら覚える。

 若さゆえの無鉄砲か。
 それとも、自分がとうに置き去りにしてきた何かか。

 惣一郎は調書を一枚、静かに閉じた。
 紙が擦れる乾いた音が、誰もいない座敷にささやくように響いた。

 そして、机の上に残る香月流の名を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。

「……潰れるなよ、朔也」

 それは、官吏としての冷徹な警告であり──
 同時に、兄としての、かすかな祈りだった。
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