【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

文字の大きさ
16 / 33
第二章

志を選びし者

しおりを挟む
 評定所から戻った翌朝──
 開門してまだひと月ほどの香月流剣術道場には、目に見えぬ緊張が静かに張りつめていた。

 稽古場には、いつもと変わらぬ木刀の打ち合う音が響いている。
 だが、その一打一打の中に、わずかな乱れが混じっていた。
 迷いを滲ませる者。必要以上に力み、荒く打ち込む者。
 踏み込みの一歩を、無意識にためらう者。
 それらは、技の拙さではなく、心の揺らぎのあらわれだった。

 ──剣は、心を映す。

 それを誰より理解していた朔也は、門弟たちの微細な変化を見逃さなかった。

 この道場が開かれて、わずか一か月。
 集まってきたのは、香月悠臣の志に共鳴し、“人を護る剣”という理念に惹かれた者たちだった。
 だが、まだ土台は脆く、心も結束も固まりきっていない。
 その矢先に突きつけられた、幕府からの“注視”という現実。

 揺らぎが生まれるのは、当然のことだった。

「……なあ」

 稽古の合間、若い門弟のひとりが、声を潜めて朔也に近づいた。

「評定所での話……本当なんですか。
 香月流が、“目を付けられた”って……」

 その言葉に、稽古の手が止まり、周囲の視線が一斉に集まった。
 皆が気にしていた。けれど、それを口に出す者はいなかった。

 朔也は一拍、呼吸を整え、それからまっすぐに頷いた。

「……ああ。事実だ」

 その一言に、ざわりと場の空気が揺れる。

「じゃあ……俺たちはどうなるんですか?」
「開いて間もないのに、もう潰されちまうのか?」
「……家族に何かあったらと思うと……怖いです」

 次々と漏れ出す声は、弱さではなかった。
 それぞれが抱える生活と責任の重さが、恐れというかたちで現れていた。

 そのとき、年配の門弟が一歩前へと出る。

「……不安になるのは分かる。だが」

 低く、よく通る声だった。
 その声音には、長く剣を握ってきた者の覚悟と信念が込められていた。

「武士が一度掲げた看板を、世の風向きひとつで下ろすというのか。
 それこそ“剣を捨てる”ということではないか」

「だが、その看板のせいで道場が潰れたら、本末転倒だろう!」

 別の門弟が鋭く言い返す。

「奉行所も評定所も、世間の目も……
 俺たちが何のために剣を学んでるのか、わからなくなる。
 武士が町人に頭を下げるなんて──それでいいのかよ?」

「じゃあ──それで人を斬っていいのか!」

 声を張り上げたのは、まだ若く、剣の道を歩みはじめたばかりの門弟だった。

「俺は、謝るべきときに頭を下げるのが恥だとは思いません!
 “人を護る剣”って、そう教わってきたはずです!」

 空気が、張り詰める。
 剣を交える場が、今や思想のぶつかり合う場へと変わっていた。

 朔也は、その中心で静かに立っていた。

(……兄上が言っていた。“組織は情で崩れる”と)

 まさに今、香月流は揺れている。
 道場としての歴史が浅い今だからこそ、理念の温度差がそのまま動揺に繋がる。

 ──だが。

 朔也は一歩、前へと出た。

「……ここに残るも、去るも、誰も責めません」

 その声は落ち着いていたが、はっきりと響いた。

「香月流は、誰かを縛る場所ではない。
 剣の意味を問い続ける場所だと、俺は信じています」

 すると年配の門弟が、険しい眼差しを向けて問うた。

「ならば聞こう。お前は、“秩序”か、“志”か」

 朔也は、ほんのわずかも迷わず、静かに言った。

「……志です」

「“人を護る剣”を、俺は選びます。
 たとえそれが間違いだったとしても──
 その責任から、逃げない覚悟で」

 広間に、深い沈黙が落ちた。

 ──そして、ぽつりとひとりが口を開いた。

「……俺は、残る」
「……俺も。怖いけど、逃げたくない」
「……志を、信じたいです」

 一方で、静かに頭を下げる者もいた。

「……俺は、家族を守りたい。ここを離れる。
 けど、香月流を否定する気はない。ずっと、感謝してます」

 その言葉に、誰も咎める者はいなかった。
 互いに、互いの選択を認めたのだ。

 その光景を、道場の奥から悠臣が静かに見つめていた。

(……始まったな)

 開門からわずか一か月──
 香月流は、すでに“ただの新設道場”ではなくなっていた。

 今、志を問われ、理念を選び、選ばれようとしている。

 だが──

 悠臣は朔也の背中を見つめ、わずかに目元を和らげる。

(それでも、立つ者がいるのなら……剣は、まだ死んではいない)

 冬の朝の光が、静かに道場の床を照らす。

 その光の中、異なる道を選んだ者たちの影が、くっきりと分かれて伸びていた。

 ──香月流は、いま確かに、“分岐の刻”に立っていた。

 ◆

 道場の空気が、ようやく静けさを取り戻しつつあった。
 だがそれは、すべてが落ち着いたという証ではない。
 むしろ──嵐が通り過ぎたあとの、息を潜めるような緊張に近かった。

 正面の出入口から、数人の門弟が黙ったまま背を向け、道場をあとにする。
 草履が板張りの床を擦る微かな音が、しんとした空間に余韻を残しながら遠ざかっていく。
 その背中に滲んでいたのは、迷いと決断が入り混じった、名残惜しさと覚悟の影だった。

 桐原篤哉は、その光景を黙って見送りながら、ふう、と長く息を吐く。

「……なんや。不穏な空気が流れ出したな」

 その声には、いつもの軽妙さはなかった。
 飄々とした仮面の下に潜ませていた感情が、ほんの僅かに滲み出る。

「ここは“道場”や。道を学び、志を鍛える場……
 それを守るために、道そのものを捨てる者が出るとは。皮肉なもんやな」

 言葉に棘はない。ただ、去っていった門弟たちの背中を、どこか切なげに見つめていた。
 怒りではなく、喪失にも似た痛みが、静かに彼の眼差しに宿っていた。

 その隣、腕を組んで佇む御影直熙が、目を伏せたまま静かに言葉を継ぐ。

「……志を掲げたところで、それが現実に抗えるとは限らない。
 それが、今のこの国だ」

 淡々とした声音。だがその奥には、諦観と、それでも消えぬ意志とが交錯していた。
 一拍の沈黙ののち、直熙はゆっくりと顔を上げ、場を見渡すようにして続ける。

「加えて言えば──香月流剣術道場は、幕府公認の道場だ。
 名があるというのは、守られる盾にもなるが、同時に強い縛りにもなる。
 だからこそ、このような不祥事には、いっそう厳しい視線が注がれる。
 今後、さらに外からの圧がかかることも、覚悟せねばならないだろう」

 それでも──と、直熙はごく浅く息を吸い、揺らがぬまま言葉を継いだ。

「……それでも私は、此処を去る理由を見出せない。
 志があるのなら、なおさら今ここで立ち止まり、考えるべきだと思っている」

 その言葉の芯に宿る覚悟が、場の空気をふっと引き締めた。

 少し離れた場所で木刀を握りしめていた真木智久は、うつむいたまま足元を見つめていた。
 まるで心の奥に沈殿した感情を、じっと見据えているかのように。

 やがて、ぽつりと呟くように口を開く。

「……剣に、理念を込めるというのは──そんなにも、罪なのでしょうか」

 その声には微かな震えがあった。
 いまだ整理のつかない想いが、胸の奥で燻り続けているのだろう。

「誰かを、何かを守りたかった……それだけだったはずなのに。
 “間違いかもしれない”と告げられただけで……
 こんなにも、自分が揺らいでしまうなんて」

 言葉の最後は、吐き出すようだった。
 唇を噛み、握る木刀に力を込めたその手は、痛みを押し殺すように震えていた。

 またひとつ、沈黙が落ちる。
 問いに答えを出せないまま、誰もがそれぞれの内側と向き合っていた。

 その沈黙を破ったのは、朝倉洸太だった。

 冬の淡い光が床に射し込むのをじっと見つめながら、彼は静かに口を開いた。

「理想と現実……結局のところ、すべての結論において、両者は相容れないものなのだろうか」

 その声は穏やかだったが、遠くを見つめるような眼差しには、深い問いが宿っていた。

「正しさを貫けば、現実からは孤立する。
 現実に迎合すれば、理想は風化する。
 まるで、交わることのない二本の川を、同時に掬おうとするようなものだ」

 洸太は一度、静かに目を閉じた。
 そして再び目を開き、静かに、だが確信をもって言葉を紡ぐ。

「……それでも、俺は思う。
 理想がなければ、現実はただ“生き延びる”だけの場所になってしまう。
 何のために戦うのか、何を守るのか──それすら見失ってしまう。
 だから俺は──理想を、手放したくない。
 たとえそれが現実に押し潰されるとしても。
 俺は、理想を握る側に立ちたい」

 その言葉が場の空気をゆるやかに揺らした。

 誰一人として、洸太の言葉を否定する者はいなかった。
 むしろその誠実さに、自らの胸の内を照らされるように、皆が静かに目を伏せた。

 それぞれの中にあった「信じたいもの」が、そっと顔をのぞかせていた。

 その時、稽古場の障子が、かすかに揺れる音を立てた。
 冬の風が、一筋の静けさとともに吹き込んでくる。

 道場の床に落ちる影は、去った者と、残った者とで、分かたれていた。
 だが──その剣を選び取った一瞬だけは、彼らの眼差しは同じ未来を見据えていた。

 香月流に集った者たちの「真価」が、いま、試されようとしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

処理中です...