17 / 33
第二章
それぞれの夜に
しおりを挟む
夜の庭は、凛とした静けさに包まれていた。
白砂を敷き詰めた香月邸の小庭──
その一角に、薄衣をまとった小柄な少女が、そっと佇んでいる。
風も止み、木々はしんと眠るように影を落とし、冴え冴えとした冬の月が空に浮かぶ。
美織は裾を整え、慎ましく両手を膝に重ねたまま、淡い月光に包まれて天を仰いでいた。
月はまるで、冷えた水面のように澄みわたり、
その光は石灯籠や枝葉にしっとりと降り注ぎ、静寂の庭に仄かな陰影を添えている。
「……綺麗ね。なのに……なんだか、少し遠いわ」
ぽつりと零した声は、誰に向けたものでもなく、ただ夜気に溶けていく。
柔らかく透き通る声音は、まるで空の月に語りかけるかのようだった。
(兄上は、いつも……変わらない)
評定所から戻った日の兄──香月悠臣の背中は、どこか遠く、そして崇高に見えた。
静かに剣を構え、誰よりも冷静に、まっすぐに前を見据えていたあの姿。
それは、美織にとって誇りであり……そして、どこか恐ろしくもあった。
(どれほど冷たい視線を浴びても、
どれほど重い責任を背負っても……兄上は、ひとりで立ち続けている)
「私は……何もできないのに」
その呟きは、小さな溜息のように夜へと消える。
肩をすくめるようにして俯いた美織の姿には、
己の無力さを噛みしめる痛みが、淡く滲んでいた。
兄が命を懸けて貫こうとする“志”。
揺らぐ門弟たちの想い、香月流という名が背負う重圧──
それらを間近に見ながらも、
美織には、それを支える剣も、言葉も、手立ても、何ひとつ持ち得なかった。
「剣も振るえないし、誰かを導く強さもない……ただ、見ているだけ……」
月光に照らされた睫毛が揺れ、伏せた瞳に影を落とす。
愛らしい横顔に浮かんだその陰りが、少女の心の翳りを静かに物語っていた。
それでも──
(兄上は、笑ってくれる)
『美織がいてくれるだけでいい』
あの穏やかな声は、今も胸の奥に温かく残っている。
けれど……
(本当に、それだけで……いいの?)
兄の隣に在るだけで満たされていたはずの自分。
香月の家に生まれ、香月の名を持つ者として……それでいいのか。
答えは、まだ見つからなかった。
けれど──ただ寄り添うだけでは、もういけない気がしていた。
もう一度、顔を上げる。
澄みきった冬の月が、静かに空に浮かび続けている。
その光は、冷たいはずなのに、なぜか美織の胸の奥に、そっと火を灯していた。
(私も、強くなりたい)
剣を握ることはできなくても──
誰かの心を支える言葉を。痛みにそっと寄り添える優しさを。
自分だけの“護る力”を、見つけていきたい──そう、願った。
月明かりが、美織の黒髪にそっと触れる。
凛とした夜気に包まれながらも、柔らかく微笑むその横顔には、
かすかに、少女としての芯の強さが芽生えつつある。
ひとすじの風が、さらりと袖を揺らす。
その布が月の光をはらみ、夜空の下に静かな彩を添えた。
──それぞれの夜。
誰もが誰かを想い、まだ見ぬ未来に想いを馳せている。
そして、美織もまた。
自分にしか歩めない、小さな道を──そっと、踏み出そうとしていた。
◆
夜の稽古場には、ただ一人分の気配だけが満ちていた。
燈心の炎が、静かに揺れながら板張りの床に淡い光の輪を描く。
その中心に立つのは、朔也。黙々と木刀を振り続けていた。
呼吸を整え、構え、踏み込み、振り下ろす──
それだけの動作を、何十回、何百回と繰り返す。まるで、祈りのように。
木刀が空を裂く音だけが、静寂の空間を震わせる。
だがその音には、昼間の稽古場で響いたような鋭さはなかった。
どこか重く、沈んだ音が混ざっていた。
(……まだ、足りない)
理由は、自分でわかっている。
技が未熟なわけでも、集中力が欠けているわけでもない。
胸の奥に、消えずに残っていた言葉があった。
──理想を語るなら、それに見合う覚悟を持て。
──さもなくば、剣に呑まれる。
あの評定所の一室で、兄・惣一郎が冷静に、逃げ場のない声で突きつけた言葉。
型を繰り返すたび、思考は否応なく、あの場面へと引き戻される。
(……兄上の言うことは、正しい)
秩序を守るために剣を振るう。
情を排し、感情に流されず、法の内側で生き抜く。
それは、この国における“剣”のもっとも現実的な在り方だ。
それでも──
踏み込みが、わずかに遅れる。
振り下ろした木刀の軌道が微かに逸れ、床板を打つ鈍い音が響いた。
朔也は動きを止め、肩を落として、深く息を吐いた。
(……それでも、俺は)
思い返す。あのとき、自らの意志で前に出たことを。
官吏たちの冷ややかな視線。
惣一郎の、感情を一切交えぬまなざし。
それでも、自分は言葉を口にした。
誰かに求められたのではない。ただ、自分の意志で。
「……人を護る剣を選ぶ」
声には出さず、胸の中で静かに呟く。
それは“誓い”であり、同時に“問い”でもあった。
(本当に、それを貫けるのか)
理想を掲げるということは──誰かを傷つけることでもある。
その言葉が分かたれを生み、争いの種にもなるかもしれない。
組織を揺るがし、孤立を招くこともあるだろう。
それでも、立ち続けられるのか。
朔也はもう一度、木刀を構えた。
今度は、焦らず、ゆっくりと。
一つひとつの所作を確かめるように、丁寧に。
剣先はぶれず、足捌きも安定している。
床に吸い付くように運ぶその動きに、迷いはなかった。
(……逃げない)
たとえ理想が現実に呑まれるとしても──
それでもなお、剣を握って立ち続ける。
それが“覚悟”なのだと。
朔也はようやく、その重さと意味を、剣の感触を通して理解しはじめていた。
最後の型を終え、木刀を静かに下ろす。
燈心の火が、ひときわ強く揺れた。
その光に照らされた朔也の影が、背後へと長く伸びる。
その影はまだ細く、頼りない。
けれど確かに、地に足をつけて、真っ直ぐに立っていた。
「……見ていてください、兄上」
誰もいない稽古場に、小さな声が落ちる。
理想に呑まれぬ剣を。
現実から目を逸らさぬ剣を。
自分自身の手で、その“かたち”を示してみせる。
夜は、まだ深い。
だがその空間には、一人分の熱が、確かに灯っていた。
それは、迷いと覚悟が交わる場所で生まれた──
朔也ただ一人の、“志の剣”だった。
◆
香月道場の主屋、その一室。
灯りを落とした座敷には、夜の帳とともに静謐が降りていた。
悠臣は、仄暗い明かりに包まれた畳の上で、ひとり膝をついている。
瞼を伏せ、肩の力をそっと抜いたその姿は一見穏やかに見えるが──
その奥底には、形を成さぬ葛藤が静かに渦巻いていた。
屏風の向こうから、木刀の風を切る音が微かに届く。
それに重なるように、足運びの気配が淡く響く。朔也の稽古だ。
その音は、まるで悠臣自身の鼓動と呼応するように、規則正しく空気を震わせていた。
(……皆、よく立った)
今日、弟子たちはそれぞれの意志で、「残る」か「去る」かを選んだ。
その一つひとつの選択が、道場主としての自分の覚悟を試す問いのように響いていた。
(志を語るには、代償が要る。
剣の意味を問うなら、それに耐えられるだけの心が要る)
それを説いてきたのは、この自分だ。
だが──果たして、自分はその言葉に、いまなお相応しく在れているだろうか。
悠臣はゆっくりと目を閉じた。
思い起こすのは、若かりし頃のことだ。
ただ「強くなりたい」という一念で剣を振り、鍛錬に明け暮れた日々。
その頃の剣に迷いはなく、意味を問う必要もなかった。
けれど、ある日を境に、剣は変わった。
誰かを護るために。
誰かの無念を晴らすために。
誰かが信じた「正しさ」のために──
剣はいつしか、己のためではなく、「他者」のために振るうものへと変わっていた。
その変化は、誇るべきことだったはずだ。
だが、ふと胸の奥に芽生えるのは──
その“変質”が、自分の中に曖昧さを生んでしまったのではないかという疑念だった。
(……俺は、今でも剣を信じていると、胸を張って言えるのか)
理念を込め、志に従おうとする者たち。
現実に怯え、去っていった者たち。
そのどちらの選択も、自分は否定しなかった。
けれど──ただ「主」として言葉をかけるだけで、
自分自身の「答え」に踏み込むことからは、どこかで目を逸らしていたのではないか。
「……甘いな、俺は」
独り言のように漏らした声が、闇の中に静かに溶けてゆく。
“秩序の剣”として在ること。
“志の剣”として立つこと。
その狭間に生きる矛盾と現実。
誰よりも、それを理解していたつもりだった。
──それでも。
(理想を語る者が、責められる世であってはならない)
悠臣は静かに立ち上がる。
障子の隙間から流れ込む夜気が、冷たく肌を撫でた。
ふと、庭の隅に目をやると──
小さな人影が月を見上げているのが目に入る。
美織だった。
誰にも気づかれぬように、ただ静かに佇んでいる。
声はかけなかった。
彼女もまた、自分の心と向き合っている最中なのだろう。
(皆、同じだ)
朔也も、智久も、洸太も、直熙も、篤哉も他の門弟達も──
それぞれが、自らの「剣の意味」と対峙している。
ならば、自分もまた。
悠臣は、そっと木刀を手に取る。
振るうためではない。ただ、あの場所──稽古場に立つために。
弟子たちと、同じ目線で。
同じ夜を、共に越えるために。
そしてもう一度、自分自身の“原点”と向き合うために──
◆
稽古場の灯が、静かに揺れていた。
重い問いかけと、それに応じた静かな答え──
それらが交わされたあと、場を満たしたのは、言葉を飲み込むような沈黙だった。
誰もが声を発さぬまま、思いを胸に沈めていた。
剣を手にする意味を、自分自身のなかに改めて問い直すように──
ただ、静かに。
ゆっくりと、時だけが流れていった。
やがて、ふっと場の空気がやわらいだ。
ぽつりと落ちた軽妙な声が、張りつめていた静寂をほぐすように響いた。
「……まあ、せやけど。
あんまりしんみりしとったら、出ていった連中のほうが正しかったみたいやんか」
声の主は、桐原篤哉。
木刀を肩に引っかけ、いつも通り飄々とした調子で、冗談を口にする。
「ていうか、俺まだ香月流で“モテる武士”って噂、作れてへんのやけど。
ここで潰れたら、俺の将来どないしてくれるんや」
「……真顔で言うことか、それを」
隣から返したのは、御影直熙だった。
呆れたような口ぶりではあるが、そこには棘がない。
むしろどこか、安堵すら滲んでいた。
篤哉の軽口が、沈みがちな空気に一匙の温度を注いでいた。
「……だが」
直熙はふと、声音を改めた。
「お前の冗談も、あながち的外れじゃないのかもしれないな」
「ん? まさか……ようやく俺の“モテ期”が来るとか?」
「そうじゃない。……“場所”の話だ」
まっすぐ前を見据えたまま、直熙は静かに言葉を紡ぐ。
「私たちは、まだ“何者”でもない。
だがこの道場は、“何者かになろう”とする者たちのために在る。
だからこそ──迷い、揺れ、ぶつかり合っているんだ」
「……せやな。青春っぽいな。ちゃんと皆、燃えてるわ」
ふざけたような口調の篤哉だったが、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
その眼差しの奥に宿っているのは、まぎれもなく真っ直ぐな“熱”だった。
「この先、どうなるかなんて分からん。
……外からの圧力も、もっと強うなっていくかもしれんしな」
「それでも──」
直熙ははっきりと、力強く言い切った。
「私は、ここが“信じられる場所”だと思っている。
剣に理念を込めることを恐れない場所。
それを笑わず、否定せず、共に問い続けられる場所だ」
その言葉に、篤哉は木刀をくるりと回し、ふっと笑った。
「おおきに。……真面目な話しといてアレやけど、
そない言われたら──ちょっと、泣きそうやわ」
「……泣けばいい。私は止めない」
「なんでやねん!」
冗談交じりのやりとりに、稽古場の空気がさらにやわらいでいく。
ふたりの声が、夜の静けさの中で小さく混じり合い、心地よく溶けていく。
剣を通じて集った者たち。
この場所は──ただ技を鍛えるための場ではない。
心と心を交わし合い、“何か”を学び続ける「道場」なのだと。
その夜、香月流剣術道場には、ようやく穏やかな呼吸が戻っていた。
それは、迷いも葛藤も抱えたうえで得た、束の間の安らぎ。
そして同時に──
「信じたい」と願う者たちが、自らの手で灯した、
小さくとも確かな“希望の灯”でもあった。
白砂を敷き詰めた香月邸の小庭──
その一角に、薄衣をまとった小柄な少女が、そっと佇んでいる。
風も止み、木々はしんと眠るように影を落とし、冴え冴えとした冬の月が空に浮かぶ。
美織は裾を整え、慎ましく両手を膝に重ねたまま、淡い月光に包まれて天を仰いでいた。
月はまるで、冷えた水面のように澄みわたり、
その光は石灯籠や枝葉にしっとりと降り注ぎ、静寂の庭に仄かな陰影を添えている。
「……綺麗ね。なのに……なんだか、少し遠いわ」
ぽつりと零した声は、誰に向けたものでもなく、ただ夜気に溶けていく。
柔らかく透き通る声音は、まるで空の月に語りかけるかのようだった。
(兄上は、いつも……変わらない)
評定所から戻った日の兄──香月悠臣の背中は、どこか遠く、そして崇高に見えた。
静かに剣を構え、誰よりも冷静に、まっすぐに前を見据えていたあの姿。
それは、美織にとって誇りであり……そして、どこか恐ろしくもあった。
(どれほど冷たい視線を浴びても、
どれほど重い責任を背負っても……兄上は、ひとりで立ち続けている)
「私は……何もできないのに」
その呟きは、小さな溜息のように夜へと消える。
肩をすくめるようにして俯いた美織の姿には、
己の無力さを噛みしめる痛みが、淡く滲んでいた。
兄が命を懸けて貫こうとする“志”。
揺らぐ門弟たちの想い、香月流という名が背負う重圧──
それらを間近に見ながらも、
美織には、それを支える剣も、言葉も、手立ても、何ひとつ持ち得なかった。
「剣も振るえないし、誰かを導く強さもない……ただ、見ているだけ……」
月光に照らされた睫毛が揺れ、伏せた瞳に影を落とす。
愛らしい横顔に浮かんだその陰りが、少女の心の翳りを静かに物語っていた。
それでも──
(兄上は、笑ってくれる)
『美織がいてくれるだけでいい』
あの穏やかな声は、今も胸の奥に温かく残っている。
けれど……
(本当に、それだけで……いいの?)
兄の隣に在るだけで満たされていたはずの自分。
香月の家に生まれ、香月の名を持つ者として……それでいいのか。
答えは、まだ見つからなかった。
けれど──ただ寄り添うだけでは、もういけない気がしていた。
もう一度、顔を上げる。
澄みきった冬の月が、静かに空に浮かび続けている。
その光は、冷たいはずなのに、なぜか美織の胸の奥に、そっと火を灯していた。
(私も、強くなりたい)
剣を握ることはできなくても──
誰かの心を支える言葉を。痛みにそっと寄り添える優しさを。
自分だけの“護る力”を、見つけていきたい──そう、願った。
月明かりが、美織の黒髪にそっと触れる。
凛とした夜気に包まれながらも、柔らかく微笑むその横顔には、
かすかに、少女としての芯の強さが芽生えつつある。
ひとすじの風が、さらりと袖を揺らす。
その布が月の光をはらみ、夜空の下に静かな彩を添えた。
──それぞれの夜。
誰もが誰かを想い、まだ見ぬ未来に想いを馳せている。
そして、美織もまた。
自分にしか歩めない、小さな道を──そっと、踏み出そうとしていた。
◆
夜の稽古場には、ただ一人分の気配だけが満ちていた。
燈心の炎が、静かに揺れながら板張りの床に淡い光の輪を描く。
その中心に立つのは、朔也。黙々と木刀を振り続けていた。
呼吸を整え、構え、踏み込み、振り下ろす──
それだけの動作を、何十回、何百回と繰り返す。まるで、祈りのように。
木刀が空を裂く音だけが、静寂の空間を震わせる。
だがその音には、昼間の稽古場で響いたような鋭さはなかった。
どこか重く、沈んだ音が混ざっていた。
(……まだ、足りない)
理由は、自分でわかっている。
技が未熟なわけでも、集中力が欠けているわけでもない。
胸の奥に、消えずに残っていた言葉があった。
──理想を語るなら、それに見合う覚悟を持て。
──さもなくば、剣に呑まれる。
あの評定所の一室で、兄・惣一郎が冷静に、逃げ場のない声で突きつけた言葉。
型を繰り返すたび、思考は否応なく、あの場面へと引き戻される。
(……兄上の言うことは、正しい)
秩序を守るために剣を振るう。
情を排し、感情に流されず、法の内側で生き抜く。
それは、この国における“剣”のもっとも現実的な在り方だ。
それでも──
踏み込みが、わずかに遅れる。
振り下ろした木刀の軌道が微かに逸れ、床板を打つ鈍い音が響いた。
朔也は動きを止め、肩を落として、深く息を吐いた。
(……それでも、俺は)
思い返す。あのとき、自らの意志で前に出たことを。
官吏たちの冷ややかな視線。
惣一郎の、感情を一切交えぬまなざし。
それでも、自分は言葉を口にした。
誰かに求められたのではない。ただ、自分の意志で。
「……人を護る剣を選ぶ」
声には出さず、胸の中で静かに呟く。
それは“誓い”であり、同時に“問い”でもあった。
(本当に、それを貫けるのか)
理想を掲げるということは──誰かを傷つけることでもある。
その言葉が分かたれを生み、争いの種にもなるかもしれない。
組織を揺るがし、孤立を招くこともあるだろう。
それでも、立ち続けられるのか。
朔也はもう一度、木刀を構えた。
今度は、焦らず、ゆっくりと。
一つひとつの所作を確かめるように、丁寧に。
剣先はぶれず、足捌きも安定している。
床に吸い付くように運ぶその動きに、迷いはなかった。
(……逃げない)
たとえ理想が現実に呑まれるとしても──
それでもなお、剣を握って立ち続ける。
それが“覚悟”なのだと。
朔也はようやく、その重さと意味を、剣の感触を通して理解しはじめていた。
最後の型を終え、木刀を静かに下ろす。
燈心の火が、ひときわ強く揺れた。
その光に照らされた朔也の影が、背後へと長く伸びる。
その影はまだ細く、頼りない。
けれど確かに、地に足をつけて、真っ直ぐに立っていた。
「……見ていてください、兄上」
誰もいない稽古場に、小さな声が落ちる。
理想に呑まれぬ剣を。
現実から目を逸らさぬ剣を。
自分自身の手で、その“かたち”を示してみせる。
夜は、まだ深い。
だがその空間には、一人分の熱が、確かに灯っていた。
それは、迷いと覚悟が交わる場所で生まれた──
朔也ただ一人の、“志の剣”だった。
◆
香月道場の主屋、その一室。
灯りを落とした座敷には、夜の帳とともに静謐が降りていた。
悠臣は、仄暗い明かりに包まれた畳の上で、ひとり膝をついている。
瞼を伏せ、肩の力をそっと抜いたその姿は一見穏やかに見えるが──
その奥底には、形を成さぬ葛藤が静かに渦巻いていた。
屏風の向こうから、木刀の風を切る音が微かに届く。
それに重なるように、足運びの気配が淡く響く。朔也の稽古だ。
その音は、まるで悠臣自身の鼓動と呼応するように、規則正しく空気を震わせていた。
(……皆、よく立った)
今日、弟子たちはそれぞれの意志で、「残る」か「去る」かを選んだ。
その一つひとつの選択が、道場主としての自分の覚悟を試す問いのように響いていた。
(志を語るには、代償が要る。
剣の意味を問うなら、それに耐えられるだけの心が要る)
それを説いてきたのは、この自分だ。
だが──果たして、自分はその言葉に、いまなお相応しく在れているだろうか。
悠臣はゆっくりと目を閉じた。
思い起こすのは、若かりし頃のことだ。
ただ「強くなりたい」という一念で剣を振り、鍛錬に明け暮れた日々。
その頃の剣に迷いはなく、意味を問う必要もなかった。
けれど、ある日を境に、剣は変わった。
誰かを護るために。
誰かの無念を晴らすために。
誰かが信じた「正しさ」のために──
剣はいつしか、己のためではなく、「他者」のために振るうものへと変わっていた。
その変化は、誇るべきことだったはずだ。
だが、ふと胸の奥に芽生えるのは──
その“変質”が、自分の中に曖昧さを生んでしまったのではないかという疑念だった。
(……俺は、今でも剣を信じていると、胸を張って言えるのか)
理念を込め、志に従おうとする者たち。
現実に怯え、去っていった者たち。
そのどちらの選択も、自分は否定しなかった。
けれど──ただ「主」として言葉をかけるだけで、
自分自身の「答え」に踏み込むことからは、どこかで目を逸らしていたのではないか。
「……甘いな、俺は」
独り言のように漏らした声が、闇の中に静かに溶けてゆく。
“秩序の剣”として在ること。
“志の剣”として立つこと。
その狭間に生きる矛盾と現実。
誰よりも、それを理解していたつもりだった。
──それでも。
(理想を語る者が、責められる世であってはならない)
悠臣は静かに立ち上がる。
障子の隙間から流れ込む夜気が、冷たく肌を撫でた。
ふと、庭の隅に目をやると──
小さな人影が月を見上げているのが目に入る。
美織だった。
誰にも気づかれぬように、ただ静かに佇んでいる。
声はかけなかった。
彼女もまた、自分の心と向き合っている最中なのだろう。
(皆、同じだ)
朔也も、智久も、洸太も、直熙も、篤哉も他の門弟達も──
それぞれが、自らの「剣の意味」と対峙している。
ならば、自分もまた。
悠臣は、そっと木刀を手に取る。
振るうためではない。ただ、あの場所──稽古場に立つために。
弟子たちと、同じ目線で。
同じ夜を、共に越えるために。
そしてもう一度、自分自身の“原点”と向き合うために──
◆
稽古場の灯が、静かに揺れていた。
重い問いかけと、それに応じた静かな答え──
それらが交わされたあと、場を満たしたのは、言葉を飲み込むような沈黙だった。
誰もが声を発さぬまま、思いを胸に沈めていた。
剣を手にする意味を、自分自身のなかに改めて問い直すように──
ただ、静かに。
ゆっくりと、時だけが流れていった。
やがて、ふっと場の空気がやわらいだ。
ぽつりと落ちた軽妙な声が、張りつめていた静寂をほぐすように響いた。
「……まあ、せやけど。
あんまりしんみりしとったら、出ていった連中のほうが正しかったみたいやんか」
声の主は、桐原篤哉。
木刀を肩に引っかけ、いつも通り飄々とした調子で、冗談を口にする。
「ていうか、俺まだ香月流で“モテる武士”って噂、作れてへんのやけど。
ここで潰れたら、俺の将来どないしてくれるんや」
「……真顔で言うことか、それを」
隣から返したのは、御影直熙だった。
呆れたような口ぶりではあるが、そこには棘がない。
むしろどこか、安堵すら滲んでいた。
篤哉の軽口が、沈みがちな空気に一匙の温度を注いでいた。
「……だが」
直熙はふと、声音を改めた。
「お前の冗談も、あながち的外れじゃないのかもしれないな」
「ん? まさか……ようやく俺の“モテ期”が来るとか?」
「そうじゃない。……“場所”の話だ」
まっすぐ前を見据えたまま、直熙は静かに言葉を紡ぐ。
「私たちは、まだ“何者”でもない。
だがこの道場は、“何者かになろう”とする者たちのために在る。
だからこそ──迷い、揺れ、ぶつかり合っているんだ」
「……せやな。青春っぽいな。ちゃんと皆、燃えてるわ」
ふざけたような口調の篤哉だったが、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
その眼差しの奥に宿っているのは、まぎれもなく真っ直ぐな“熱”だった。
「この先、どうなるかなんて分からん。
……外からの圧力も、もっと強うなっていくかもしれんしな」
「それでも──」
直熙ははっきりと、力強く言い切った。
「私は、ここが“信じられる場所”だと思っている。
剣に理念を込めることを恐れない場所。
それを笑わず、否定せず、共に問い続けられる場所だ」
その言葉に、篤哉は木刀をくるりと回し、ふっと笑った。
「おおきに。……真面目な話しといてアレやけど、
そない言われたら──ちょっと、泣きそうやわ」
「……泣けばいい。私は止めない」
「なんでやねん!」
冗談交じりのやりとりに、稽古場の空気がさらにやわらいでいく。
ふたりの声が、夜の静けさの中で小さく混じり合い、心地よく溶けていく。
剣を通じて集った者たち。
この場所は──ただ技を鍛えるための場ではない。
心と心を交わし合い、“何か”を学び続ける「道場」なのだと。
その夜、香月流剣術道場には、ようやく穏やかな呼吸が戻っていた。
それは、迷いも葛藤も抱えたうえで得た、束の間の安らぎ。
そして同時に──
「信じたい」と願う者たちが、自らの手で灯した、
小さくとも確かな“希望の灯”でもあった。
3
あなたにおすすめの小説
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる