【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第二章

月下の問答

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 夜半過ぎ──

 香月流剣術道場は、すでに深い静寂に包まれていた。
 人気のない廊下に、夜風がそっと吹き抜ける。
 遠く、虫の声が微かに響くのを、誰も聞く者はいない。

 ただひとつ──夜に逆らうように、灯のともる一室だけが、静かに息づいていた。

 香月悠臣の私室。
 文机に向かう彼は、筆を執り、黙々と文字を綴っていた。

 滲む墨の香がほのかに漂い、行灯の淡い光が、疲労を帯びた横顔に静かに影を落としている。
 筆先が細かく震え、書き留められた思索の痕が半紙に静かに重ねられていく。

 そのとき。風もないのに、行灯の灯がふわりと揺れた。

 と、同時に。

 部屋の奥──壁際に、いつの間にか“それ”はあった。

 白木の木刀を抱え、腕を組んで壁にもたれる男。
 道場の門弟、桐原篤哉である。

「……っ!」

 悠臣は即座に筆を置き、身を翻す。
 足音も衣擦れもなく、桐原はただ“そこにいた”。
 気配すら感じさせず、空気のように自然に。

「……寝られへんのか?」

 いつもの調子で、桐原は軽く問いかけた。
 声音に敵意はない。だが、その奥にある静かな真意に、悠臣の目は細まる。

「……いつから、そこにいた」

「そない大層なもんでもあらへんて。ちょっと前からや。
 筆先、ちょっと震えとったな。そんなに悩ましげなこと、書いとったんか?」

 悠臣は答えない。
 無言で視線をぶつけるが、桐原は気にも留めず、壁を離れて木刀を片手に持ち上げる。

「──眠られへんのやったら、ちょっと付き合ってくれや」

 その言葉に、悠臣の表情がわずかに動く。
 気晴らしにしては妙な響きだった。
 そこには、沈殿するような、何か濃い“想い”が含まれていた。

 そして──ふたりは夜の庭へと出た。

 白の寝間着姿のまま、月光のもとで向かい合う。
 冴え渡る月が、地に長く影を落とす。
 風のない静寂の中、ふたりの気配だけが庭を満たしていた。

 桐原が、ふいに口を開く。

「……なあ、ちょっと聞きたいことがあるんや」

 低く、風のように穏やかな声だった。

「──あんたの“志”や。教えてくれへんか。この道場を守るために、何を背負ってるんか」

 悠臣は構えを取ったまま、その問いを静かに受け止めていた。
 だが、桐原はさらに続ける。

「それと──もうひとつ」

「……何を」

「“あんた”自身をや。本気のあんたを、見せてほしい。手加減なしでな。そうしてくれたら、俺も全部さらけ出せる」

 言葉の端々に混じるのは、ふだんの冗談めかしさではない。
 剥き出しの意志──それを示すように、桐原が構えを取った。

 それは、型にはまらぬ実戦の構え。
 無駄を削ぎ、斬ることだけに特化した“戦いの姿勢”だった。

「……本気で来てくれたら、助かるわ」

 その言葉と同時に、彼の顔から笑みが消えた。

 空気が変わる。
 澄んだ夜気が、冷たく、ずしりと重たく沈み込んでいく。

 悠臣の背に、ぞくりと寒気が走った。

 目の前にいるのは桐原篤哉。
 だがその気配は、別人だった。

 軽やかさは跡形もなく消え失せ、そこにあるのはただ、殺意すれすれの緊張感を纏う“刃”。

(……これが、桐原篤哉の本気──)

 悠臣の体が、反射的に動く。

 重心を低く落とし、目を逸らさぬまま構えを整える。
 一瞬の油断が命取り。
 理屈ではなく、肌がそう告げていた。

 そして──

 悠臣が、踏み込む。

 低く、速く、鋭く。
 木刀が風を裂き、夜の空気を切り裂く。

 同時に、桐原も動いた。

 剣戟が交差する。
 乾いた音が、静寂の庭に鋭く響いた。

 一合──それだけ。

 だが、その一閃に込められた本気と志は、言葉を超えていた。
 何も語らずとも、すべてが伝わるような、ただ一撃。

 月光の下、ふたりの影が交錯する。

 その一瞬。
 剣の意味と魂が、音もなくぶつかり合い、鋭く火花を散らした。

 夜の庭に、木刀が激しくぶつかり合う音が、乾いた一撃音となって鋭く響き渡る。
 その一閃を皮切りに──香月悠臣と桐原篤哉の激闘が、ついに幕を開けた。

「──っ!」

 悠臣の木刀が、円を描くように振り下ろされる。
 それを桐原は紙一重で避け、横へと滑るように身を捌く。
 間髪入れず、腰をひねって鋭い一太刀を返した。

 その反撃は、重く、速い。
 木刀が激突するたび、空気が震え、打撃が骨にまで響いた。

(……速い……重い……!)

 悠臣は直感する。
 この男は、これまで“本気”を隠していた。

 飄々とした仮面の裏に潜む真実──
 桐原篤哉の剣は、すでに戦場の死線を幾度も越えてきた者のそれだった。

 目の前に立つのは、無害な愉快者などではない。
 研ぎ澄まされた“殺意”を、その身に宿す本物の剣士だった。

「どうした? それが“道場を守る者”の構えか」

 挑発めいた口ぶり。
 だがその言葉に、悠臣の瞳が鋭く光る。

「──ならば問うな。俺の志は、剣で示す!」

 地を蹴る。
 瞬間、悠臣の連撃が桐原へと襲いかかる。

 流れるような斬筋。型に忠実でありながら、そこには確かな意志が宿っていた。
 己が信じる理念──それこそが、香月流の剣。

 だが──

「“型”にすがるうちは、俺には届かんで」

 桐原の低い声が、静かに空気を裂く。

 木刀が蛇のように蠢き、異様な間合いから突如として迫る。
 掠めた一撃が、悠臣の頬に熱を走らせた。

「ッ──!」

「悪いな。怪我させたいわけやない」

 淡々とした声音に、澱のような真意がにじむ。

「せやけど……あんたの“志”が本物かどうか、それをこの目で確かめたいんや。
 この国で剣を持って立ち続けることが、どれだけ危ういか──ほんまに、分かっとるんか?」

 斬り結びながら交わされる言葉。
 木刀と木刀が火花のように交錯し、夜の空気すら張り詰めていく。

 悠臣の呼吸が乱れる。
 体力だけではない──信念そのものを抉られている。

「分かってる……!
 それでも、俺は“捨てたくない”!」

「理想か!」

「そうだ!」

 悠臣が渾身の踏み込みで突きを繰り出す。
 桐原はそれを受け──わずかに口元を緩めた。

「……なら、見せてもらおか」

 木刀が跳ね上がる。
 突きを受け流しながら、桐原はすかさず悠臣の脇へと打ち込んだ。

 咄嗟に受け止めた木刀が、軋んだ。

(──見切られている!)

 香月流の型が通じない。
 積み重ねてきた“信じた剣”が、今試されている。

「俺は見たいんや……“志”を貫いた先で、あんたが何を斬るつもりなんかを」

 一打──さらに一打。
 夜の庭に、魂のこもった剣戟が交差する。

 それはもはや鍛錬ではなかった。
 剣士と剣士の“存在”がぶつかり合う、真の“斬り合い”だった。

 悠臣の額を汗が伝う。
 それでも──その瞳は曇らない。

「“守る”と決めた。ならば、その覚悟を剣に込める!」

 悠臣が再び踏み込む。
 木刀が唸り、空を裂いた。

 その気迫に──桐原の構えが風に揺れる。

(……芯が、揺るがない)

 桐原の瞳が細まる。
 まっすぐに向かってくる悠臣の眼差しを見据えながら、低く息を吐いた。

「……ほぉ。ようやく、芯が見えてきたやんか」

 浮かんだのは、もはや飄々とした笑みではない。
 剣士としての、静かな敬意と共鳴を湛えた微笑だった。

 ──そして、次の一撃。

 木刀と木刀が正面から激突し、爆ぜるような破裂音が夜空を裂いた。

 だが、ふたりは一歩も引かない。
 刃を押し合いながら、互いの存在をぶつけ合うように立ち尽くす。

「……まだや。終わりやないで」

 桐原が静かに告げた。

「志を守るってのは、口先や一撃じゃ済まん。
 この国の“歪み”に、どこまで斬り込めるか──見せてみい」

 言い終えるや否や、桐原は刀を力強く押し返す。

 悠臣の体がわずかに揺れる。
 その隙を逃さず──風のように桐原が踏み込んでいた。

(しま──!)

 悠臣は身を捻って躱す。
 だが、桐原の連撃は止まらない。

 肩口、脇腹、膝──狙い澄ました打突が次々と襲いかかる。

(防ぐだけで……精一杯……!)

 怒涛の攻めに飲み込まれながらも、悠臣はなお退かない。
 剣を握る手に、わずかに力が込められる。

 そして──

「……まだ折れんか。なら、俺も遠慮せんで」

 桐原の気配がまた一段、研ぎ澄まされた。
 それはもう、稽古でも探り合いでもない。

 命を懸けた、本物の“斬り合い”だった。

 夜気を裂くような鋭い剣戟の音が、静まり返った屋敷に突如として響いた。

「……!」

 天城朔也は、その一撃に即座に反応して目を覚ました。
 眠気は瞬く間に霧散し、心臓が早鐘のように打ち始める。
 耳を澄ますまでもない。木刀がぶつかる、明確な衝突音──それは、ただの鍛錬にはありえない“熱”を孕んでいた。

「……誰かが……立ち合ってる……?」

 そう呟いた朔也の声には、微かに緊張が滲んでいた。
 けれど、言葉より先に、胸の奥で警鐘が鳴る。

(これは……剣と剣の“命”がぶつかり合ってる)

 掛け声も、手加減もない。
 魂を賭けた、本気の一撃だ。

 朔也はすぐに衣を整え、音のする方角へ駆け出す。
 その先──月明かりに浮かび上がったのは、もうひとつの影。

「……直熙……!」

 御影直熙が、無言で佇んでいた。
 庭の方角をじっと見つめるその横顔には、平静の裏にある張り詰めた気配がにじんでいる。

「……まさか、あれは……」

「……行こう」

 朔也の低い声に、直熙が一度だけ頷いた。
 ふたりは無言のまま、庭へ面した縁側へと足を運ぶ。

 ──そして、その目に飛び込んできた光景に、言葉を失った。

 夜の静寂を引き裂いて交錯する、ふたつの影。
 香月悠臣と、桐原篤哉。

 木刀と木刀が激しくぶつかり合い、火花のような音を散らしている。
 ただの鍛錬ではない──斬撃のひとつひとつに、痛みと覚悟と“理由”が宿っているのが、見て取れた。

 朔也は息を呑む。

「……悠臣さんが……あんなにも……」

 それは、ふだん稽古場で見せる穏やかな師の姿ではなかった。
 今そこにいるのは、命を背負って剣を振るう──本物の剣士だった。

 直熙の目が細くなる。
 表情は平静だが、その視線の奥には、鋭い熱が潜んでいる。

「……桐原。あれが──あいつの“底”か」

 警戒、驚き、そして敬意。
 いくつもの感情がないまぜになった声音だった。

 ──と、その静寂を破るように、かすれた呼び声が響く。

「天城さん、御影さん……!」

 細い足音とともに、美織が夜着のまま駆け寄ってきた。
 髪も整えぬまま、息を切らせ、顔には不安が滲んでいる。

「……兄上が……どうして……!」

 縁側に立ち、戦うふたりの姿を見た瞬間──
 美織の顔から、すうっと血の気が引いた。

 月明かりの下、悠臣と桐原が、言葉を交わすことなく激しくぶつかり合っている。
 鋭く、速く、重い。その一太刀一太刀が、まさに命を削っていた。

「……兄上……っ」

 吐息のように漏れた声は、かすかに震えていた。
 怖い。けれど──止めてはいけない。
 美織の奥底で、なにかがそう叫んでいた。

 彼女は両手で胸元を掴み、唇を噛んだまま、必死に声を押し殺す。
 目を逸らすことなど、できなかった。

(……これは、剣でしか交わせない“問い”)

 自分には立ち入れない。けれど──
 兄がいま、剣でなにを伝えようとしているのか。
 美織は知りたかった。怖くても、目を逸らしたくなかった。

「……あれは、信念を試す剣だ」

 直熙の低い声が、美織の心を貫くように届く。

「剣でしか伝えられない問いがある。……ふたりは、それを交わしている」

 美織は、はっと息をのんだ。
 これは技を競うだけのものじゃない。
 想いを剣に託し、ぶつけ合っている。
 言葉では届かない場所に──今、届こうとしている。

「……怖いのに……」

 小さく、かすれた呟き。
 けれどその目は、兄を、そして桐原をしっかりと見つめ続けていた。

「こんなにも……美しくて、凛としていて……目が、離せない……」

 それは、美織の胸の奥からこぼれた“真実”だった。
 誰に届かなくてもいい。けれど確かに、そこにあった想い。

 目の前ではなおも、木刀と木刀が激しく交差している。
 鋭い音が、夜気の中に鋭く響く。

 それは勝ち負けを決する戦いではない。
 正しさを押しつけ合う闘いでもない。

 ふたりの信じる“志”を、ただ剣に託し、ぶつけ合っている。
 語ることのできなかった言葉が、剣によって伝えられていた。

 ──そしてそれを見守る者たちの心もまた、
 静かに、けれど確かに揺れていた。
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