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第二章
月下の問答
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夜半過ぎ──
香月流剣術道場は、すでに深い静寂に包まれていた。
人気のない廊下に、夜風がそっと吹き抜ける。
遠く、虫の声が微かに響くのを、誰も聞く者はいない。
ただひとつ──夜に逆らうように、灯のともる一室だけが、静かに息づいていた。
香月悠臣の私室。
文机に向かう彼は、筆を執り、黙々と文字を綴っていた。
滲む墨の香がほのかに漂い、行灯の淡い光が、疲労を帯びた横顔に静かに影を落としている。
筆先が細かく震え、書き留められた思索の痕が半紙に静かに重ねられていく。
そのとき。風もないのに、行灯の灯がふわりと揺れた。
と、同時に。
部屋の奥──壁際に、いつの間にか“それ”はあった。
白木の木刀を抱え、腕を組んで壁にもたれる男。
道場の門弟、桐原篤哉である。
「……っ!」
悠臣は即座に筆を置き、身を翻す。
足音も衣擦れもなく、桐原はただ“そこにいた”。
気配すら感じさせず、空気のように自然に。
「……寝られへんのか?」
いつもの調子で、桐原は軽く問いかけた。
声音に敵意はない。だが、その奥にある静かな真意に、悠臣の目は細まる。
「……いつから、そこにいた」
「そない大層なもんでもあらへんて。ちょっと前からや。
筆先、ちょっと震えとったな。そんなに悩ましげなこと、書いとったんか?」
悠臣は答えない。
無言で視線をぶつけるが、桐原は気にも留めず、壁を離れて木刀を片手に持ち上げる。
「──眠られへんのやったら、ちょっと付き合ってくれや」
その言葉に、悠臣の表情がわずかに動く。
気晴らしにしては妙な響きだった。
そこには、沈殿するような、何か濃い“想い”が含まれていた。
そして──ふたりは夜の庭へと出た。
白の寝間着姿のまま、月光のもとで向かい合う。
冴え渡る月が、地に長く影を落とす。
風のない静寂の中、ふたりの気配だけが庭を満たしていた。
桐原が、ふいに口を開く。
「……なあ、ちょっと聞きたいことがあるんや」
低く、風のように穏やかな声だった。
「──あんたの“志”や。教えてくれへんか。この道場を守るために、何を背負ってるんか」
悠臣は構えを取ったまま、その問いを静かに受け止めていた。
だが、桐原はさらに続ける。
「それと──もうひとつ」
「……何を」
「“あんた”自身をや。本気のあんたを、見せてほしい。手加減なしでな。そうしてくれたら、俺も全部さらけ出せる」
言葉の端々に混じるのは、ふだんの冗談めかしさではない。
剥き出しの意志──それを示すように、桐原が構えを取った。
それは、型にはまらぬ実戦の構え。
無駄を削ぎ、斬ることだけに特化した“戦いの姿勢”だった。
「……本気で来てくれたら、助かるわ」
その言葉と同時に、彼の顔から笑みが消えた。
空気が変わる。
澄んだ夜気が、冷たく、ずしりと重たく沈み込んでいく。
悠臣の背に、ぞくりと寒気が走った。
目の前にいるのは桐原篤哉。
だがその気配は、別人だった。
軽やかさは跡形もなく消え失せ、そこにあるのはただ、殺意すれすれの緊張感を纏う“刃”。
(……これが、桐原篤哉の本気──)
悠臣の体が、反射的に動く。
重心を低く落とし、目を逸らさぬまま構えを整える。
一瞬の油断が命取り。
理屈ではなく、肌がそう告げていた。
そして──
悠臣が、踏み込む。
低く、速く、鋭く。
木刀が風を裂き、夜の空気を切り裂く。
同時に、桐原も動いた。
剣戟が交差する。
乾いた音が、静寂の庭に鋭く響いた。
一合──それだけ。
だが、その一閃に込められた本気と志は、言葉を超えていた。
何も語らずとも、すべてが伝わるような、ただ一撃。
月光の下、ふたりの影が交錯する。
その一瞬。
剣の意味と魂が、音もなくぶつかり合い、鋭く火花を散らした。
夜の庭に、木刀が激しくぶつかり合う音が、乾いた一撃音となって鋭く響き渡る。
その一閃を皮切りに──香月悠臣と桐原篤哉の激闘が、ついに幕を開けた。
「──っ!」
悠臣の木刀が、円を描くように振り下ろされる。
それを桐原は紙一重で避け、横へと滑るように身を捌く。
間髪入れず、腰をひねって鋭い一太刀を返した。
その反撃は、重く、速い。
木刀が激突するたび、空気が震え、打撃が骨にまで響いた。
(……速い……重い……!)
悠臣は直感する。
この男は、これまで“本気”を隠していた。
飄々とした仮面の裏に潜む真実──
桐原篤哉の剣は、すでに戦場の死線を幾度も越えてきた者のそれだった。
目の前に立つのは、無害な愉快者などではない。
研ぎ澄まされた“殺意”を、その身に宿す本物の剣士だった。
「どうした? それが“道場を守る者”の構えか」
挑発めいた口ぶり。
だがその言葉に、悠臣の瞳が鋭く光る。
「──ならば問うな。俺の志は、剣で示す!」
地を蹴る。
瞬間、悠臣の連撃が桐原へと襲いかかる。
流れるような斬筋。型に忠実でありながら、そこには確かな意志が宿っていた。
己が信じる理念──それこそが、香月流の剣。
だが──
「“型”にすがるうちは、俺には届かんで」
桐原の低い声が、静かに空気を裂く。
木刀が蛇のように蠢き、異様な間合いから突如として迫る。
掠めた一撃が、悠臣の頬に熱を走らせた。
「ッ──!」
「悪いな。怪我させたいわけやない」
淡々とした声音に、澱のような真意がにじむ。
「せやけど……あんたの“志”が本物かどうか、それをこの目で確かめたいんや。
この国で剣を持って立ち続けることが、どれだけ危ういか──ほんまに、分かっとるんか?」
斬り結びながら交わされる言葉。
木刀と木刀が火花のように交錯し、夜の空気すら張り詰めていく。
悠臣の呼吸が乱れる。
体力だけではない──信念そのものを抉られている。
「分かってる……!
それでも、俺は“捨てたくない”!」
「理想か!」
「そうだ!」
悠臣が渾身の踏み込みで突きを繰り出す。
桐原はそれを受け──わずかに口元を緩めた。
「……なら、見せてもらおか」
木刀が跳ね上がる。
突きを受け流しながら、桐原はすかさず悠臣の脇へと打ち込んだ。
咄嗟に受け止めた木刀が、軋んだ。
(──見切られている!)
香月流の型が通じない。
積み重ねてきた“信じた剣”が、今試されている。
「俺は見たいんや……“志”を貫いた先で、あんたが何を斬るつもりなんかを」
一打──さらに一打。
夜の庭に、魂のこもった剣戟が交差する。
それはもはや鍛錬ではなかった。
剣士と剣士の“存在”がぶつかり合う、真の“斬り合い”だった。
悠臣の額を汗が伝う。
それでも──その瞳は曇らない。
「“守る”と決めた。ならば、その覚悟を剣に込める!」
悠臣が再び踏み込む。
木刀が唸り、空を裂いた。
その気迫に──桐原の構えが風に揺れる。
(……芯が、揺るがない)
桐原の瞳が細まる。
まっすぐに向かってくる悠臣の眼差しを見据えながら、低く息を吐いた。
「……ほぉ。ようやく、芯が見えてきたやんか」
浮かんだのは、もはや飄々とした笑みではない。
剣士としての、静かな敬意と共鳴を湛えた微笑だった。
──そして、次の一撃。
木刀と木刀が正面から激突し、爆ぜるような破裂音が夜空を裂いた。
だが、ふたりは一歩も引かない。
刃を押し合いながら、互いの存在をぶつけ合うように立ち尽くす。
「……まだや。終わりやないで」
桐原が静かに告げた。
「志を守るってのは、口先や一撃じゃ済まん。
この国の“歪み”に、どこまで斬り込めるか──見せてみい」
言い終えるや否や、桐原は刀を力強く押し返す。
悠臣の体がわずかに揺れる。
その隙を逃さず──風のように桐原が踏み込んでいた。
(しま──!)
悠臣は身を捻って躱す。
だが、桐原の連撃は止まらない。
肩口、脇腹、膝──狙い澄ました打突が次々と襲いかかる。
(防ぐだけで……精一杯……!)
怒涛の攻めに飲み込まれながらも、悠臣はなお退かない。
剣を握る手に、わずかに力が込められる。
そして──
「……まだ折れんか。なら、俺も遠慮せんで」
桐原の気配がまた一段、研ぎ澄まされた。
それはもう、稽古でも探り合いでもない。
命を懸けた、本物の“斬り合い”だった。
夜気を裂くような鋭い剣戟の音が、静まり返った屋敷に突如として響いた。
「……!」
天城朔也は、その一撃に即座に反応して目を覚ました。
眠気は瞬く間に霧散し、心臓が早鐘のように打ち始める。
耳を澄ますまでもない。木刀がぶつかる、明確な衝突音──それは、ただの鍛錬にはありえない“熱”を孕んでいた。
「……誰かが……立ち合ってる……?」
そう呟いた朔也の声には、微かに緊張が滲んでいた。
けれど、言葉より先に、胸の奥で警鐘が鳴る。
(これは……剣と剣の“命”がぶつかり合ってる)
掛け声も、手加減もない。
魂を賭けた、本気の一撃だ。
朔也はすぐに衣を整え、音のする方角へ駆け出す。
その先──月明かりに浮かび上がったのは、もうひとつの影。
「……直熙……!」
御影直熙が、無言で佇んでいた。
庭の方角をじっと見つめるその横顔には、平静の裏にある張り詰めた気配がにじんでいる。
「……まさか、あれは……」
「……行こう」
朔也の低い声に、直熙が一度だけ頷いた。
ふたりは無言のまま、庭へ面した縁側へと足を運ぶ。
──そして、その目に飛び込んできた光景に、言葉を失った。
夜の静寂を引き裂いて交錯する、ふたつの影。
香月悠臣と、桐原篤哉。
木刀と木刀が激しくぶつかり合い、火花のような音を散らしている。
ただの鍛錬ではない──斬撃のひとつひとつに、痛みと覚悟と“理由”が宿っているのが、見て取れた。
朔也は息を呑む。
「……悠臣さんが……あんなにも……」
それは、ふだん稽古場で見せる穏やかな師の姿ではなかった。
今そこにいるのは、命を背負って剣を振るう──本物の剣士だった。
直熙の目が細くなる。
表情は平静だが、その視線の奥には、鋭い熱が潜んでいる。
「……桐原。あれが──あいつの“底”か」
警戒、驚き、そして敬意。
いくつもの感情がないまぜになった声音だった。
──と、その静寂を破るように、かすれた呼び声が響く。
「天城さん、御影さん……!」
細い足音とともに、美織が夜着のまま駆け寄ってきた。
髪も整えぬまま、息を切らせ、顔には不安が滲んでいる。
「……兄上が……どうして……!」
縁側に立ち、戦うふたりの姿を見た瞬間──
美織の顔から、すうっと血の気が引いた。
月明かりの下、悠臣と桐原が、言葉を交わすことなく激しくぶつかり合っている。
鋭く、速く、重い。その一太刀一太刀が、まさに命を削っていた。
「……兄上……っ」
吐息のように漏れた声は、かすかに震えていた。
怖い。けれど──止めてはいけない。
美織の奥底で、なにかがそう叫んでいた。
彼女は両手で胸元を掴み、唇を噛んだまま、必死に声を押し殺す。
目を逸らすことなど、できなかった。
(……これは、剣でしか交わせない“問い”)
自分には立ち入れない。けれど──
兄がいま、剣でなにを伝えようとしているのか。
美織は知りたかった。怖くても、目を逸らしたくなかった。
「……あれは、信念を試す剣だ」
直熙の低い声が、美織の心を貫くように届く。
「剣でしか伝えられない問いがある。……ふたりは、それを交わしている」
美織は、はっと息をのんだ。
これは技を競うだけのものじゃない。
想いを剣に託し、ぶつけ合っている。
言葉では届かない場所に──今、届こうとしている。
「……怖いのに……」
小さく、かすれた呟き。
けれどその目は、兄を、そして桐原をしっかりと見つめ続けていた。
「こんなにも……美しくて、凛としていて……目が、離せない……」
それは、美織の胸の奥からこぼれた“真実”だった。
誰に届かなくてもいい。けれど確かに、そこにあった想い。
目の前ではなおも、木刀と木刀が激しく交差している。
鋭い音が、夜気の中に鋭く響く。
それは勝ち負けを決する戦いではない。
正しさを押しつけ合う闘いでもない。
ふたりの信じる“志”を、ただ剣に託し、ぶつけ合っている。
語ることのできなかった言葉が、剣によって伝えられていた。
──そしてそれを見守る者たちの心もまた、
静かに、けれど確かに揺れていた。
香月流剣術道場は、すでに深い静寂に包まれていた。
人気のない廊下に、夜風がそっと吹き抜ける。
遠く、虫の声が微かに響くのを、誰も聞く者はいない。
ただひとつ──夜に逆らうように、灯のともる一室だけが、静かに息づいていた。
香月悠臣の私室。
文机に向かう彼は、筆を執り、黙々と文字を綴っていた。
滲む墨の香がほのかに漂い、行灯の淡い光が、疲労を帯びた横顔に静かに影を落としている。
筆先が細かく震え、書き留められた思索の痕が半紙に静かに重ねられていく。
そのとき。風もないのに、行灯の灯がふわりと揺れた。
と、同時に。
部屋の奥──壁際に、いつの間にか“それ”はあった。
白木の木刀を抱え、腕を組んで壁にもたれる男。
道場の門弟、桐原篤哉である。
「……っ!」
悠臣は即座に筆を置き、身を翻す。
足音も衣擦れもなく、桐原はただ“そこにいた”。
気配すら感じさせず、空気のように自然に。
「……寝られへんのか?」
いつもの調子で、桐原は軽く問いかけた。
声音に敵意はない。だが、その奥にある静かな真意に、悠臣の目は細まる。
「……いつから、そこにいた」
「そない大層なもんでもあらへんて。ちょっと前からや。
筆先、ちょっと震えとったな。そんなに悩ましげなこと、書いとったんか?」
悠臣は答えない。
無言で視線をぶつけるが、桐原は気にも留めず、壁を離れて木刀を片手に持ち上げる。
「──眠られへんのやったら、ちょっと付き合ってくれや」
その言葉に、悠臣の表情がわずかに動く。
気晴らしにしては妙な響きだった。
そこには、沈殿するような、何か濃い“想い”が含まれていた。
そして──ふたりは夜の庭へと出た。
白の寝間着姿のまま、月光のもとで向かい合う。
冴え渡る月が、地に長く影を落とす。
風のない静寂の中、ふたりの気配だけが庭を満たしていた。
桐原が、ふいに口を開く。
「……なあ、ちょっと聞きたいことがあるんや」
低く、風のように穏やかな声だった。
「──あんたの“志”や。教えてくれへんか。この道場を守るために、何を背負ってるんか」
悠臣は構えを取ったまま、その問いを静かに受け止めていた。
だが、桐原はさらに続ける。
「それと──もうひとつ」
「……何を」
「“あんた”自身をや。本気のあんたを、見せてほしい。手加減なしでな。そうしてくれたら、俺も全部さらけ出せる」
言葉の端々に混じるのは、ふだんの冗談めかしさではない。
剥き出しの意志──それを示すように、桐原が構えを取った。
それは、型にはまらぬ実戦の構え。
無駄を削ぎ、斬ることだけに特化した“戦いの姿勢”だった。
「……本気で来てくれたら、助かるわ」
その言葉と同時に、彼の顔から笑みが消えた。
空気が変わる。
澄んだ夜気が、冷たく、ずしりと重たく沈み込んでいく。
悠臣の背に、ぞくりと寒気が走った。
目の前にいるのは桐原篤哉。
だがその気配は、別人だった。
軽やかさは跡形もなく消え失せ、そこにあるのはただ、殺意すれすれの緊張感を纏う“刃”。
(……これが、桐原篤哉の本気──)
悠臣の体が、反射的に動く。
重心を低く落とし、目を逸らさぬまま構えを整える。
一瞬の油断が命取り。
理屈ではなく、肌がそう告げていた。
そして──
悠臣が、踏み込む。
低く、速く、鋭く。
木刀が風を裂き、夜の空気を切り裂く。
同時に、桐原も動いた。
剣戟が交差する。
乾いた音が、静寂の庭に鋭く響いた。
一合──それだけ。
だが、その一閃に込められた本気と志は、言葉を超えていた。
何も語らずとも、すべてが伝わるような、ただ一撃。
月光の下、ふたりの影が交錯する。
その一瞬。
剣の意味と魂が、音もなくぶつかり合い、鋭く火花を散らした。
夜の庭に、木刀が激しくぶつかり合う音が、乾いた一撃音となって鋭く響き渡る。
その一閃を皮切りに──香月悠臣と桐原篤哉の激闘が、ついに幕を開けた。
「──っ!」
悠臣の木刀が、円を描くように振り下ろされる。
それを桐原は紙一重で避け、横へと滑るように身を捌く。
間髪入れず、腰をひねって鋭い一太刀を返した。
その反撃は、重く、速い。
木刀が激突するたび、空気が震え、打撃が骨にまで響いた。
(……速い……重い……!)
悠臣は直感する。
この男は、これまで“本気”を隠していた。
飄々とした仮面の裏に潜む真実──
桐原篤哉の剣は、すでに戦場の死線を幾度も越えてきた者のそれだった。
目の前に立つのは、無害な愉快者などではない。
研ぎ澄まされた“殺意”を、その身に宿す本物の剣士だった。
「どうした? それが“道場を守る者”の構えか」
挑発めいた口ぶり。
だがその言葉に、悠臣の瞳が鋭く光る。
「──ならば問うな。俺の志は、剣で示す!」
地を蹴る。
瞬間、悠臣の連撃が桐原へと襲いかかる。
流れるような斬筋。型に忠実でありながら、そこには確かな意志が宿っていた。
己が信じる理念──それこそが、香月流の剣。
だが──
「“型”にすがるうちは、俺には届かんで」
桐原の低い声が、静かに空気を裂く。
木刀が蛇のように蠢き、異様な間合いから突如として迫る。
掠めた一撃が、悠臣の頬に熱を走らせた。
「ッ──!」
「悪いな。怪我させたいわけやない」
淡々とした声音に、澱のような真意がにじむ。
「せやけど……あんたの“志”が本物かどうか、それをこの目で確かめたいんや。
この国で剣を持って立ち続けることが、どれだけ危ういか──ほんまに、分かっとるんか?」
斬り結びながら交わされる言葉。
木刀と木刀が火花のように交錯し、夜の空気すら張り詰めていく。
悠臣の呼吸が乱れる。
体力だけではない──信念そのものを抉られている。
「分かってる……!
それでも、俺は“捨てたくない”!」
「理想か!」
「そうだ!」
悠臣が渾身の踏み込みで突きを繰り出す。
桐原はそれを受け──わずかに口元を緩めた。
「……なら、見せてもらおか」
木刀が跳ね上がる。
突きを受け流しながら、桐原はすかさず悠臣の脇へと打ち込んだ。
咄嗟に受け止めた木刀が、軋んだ。
(──見切られている!)
香月流の型が通じない。
積み重ねてきた“信じた剣”が、今試されている。
「俺は見たいんや……“志”を貫いた先で、あんたが何を斬るつもりなんかを」
一打──さらに一打。
夜の庭に、魂のこもった剣戟が交差する。
それはもはや鍛錬ではなかった。
剣士と剣士の“存在”がぶつかり合う、真の“斬り合い”だった。
悠臣の額を汗が伝う。
それでも──その瞳は曇らない。
「“守る”と決めた。ならば、その覚悟を剣に込める!」
悠臣が再び踏み込む。
木刀が唸り、空を裂いた。
その気迫に──桐原の構えが風に揺れる。
(……芯が、揺るがない)
桐原の瞳が細まる。
まっすぐに向かってくる悠臣の眼差しを見据えながら、低く息を吐いた。
「……ほぉ。ようやく、芯が見えてきたやんか」
浮かんだのは、もはや飄々とした笑みではない。
剣士としての、静かな敬意と共鳴を湛えた微笑だった。
──そして、次の一撃。
木刀と木刀が正面から激突し、爆ぜるような破裂音が夜空を裂いた。
だが、ふたりは一歩も引かない。
刃を押し合いながら、互いの存在をぶつけ合うように立ち尽くす。
「……まだや。終わりやないで」
桐原が静かに告げた。
「志を守るってのは、口先や一撃じゃ済まん。
この国の“歪み”に、どこまで斬り込めるか──見せてみい」
言い終えるや否や、桐原は刀を力強く押し返す。
悠臣の体がわずかに揺れる。
その隙を逃さず──風のように桐原が踏み込んでいた。
(しま──!)
悠臣は身を捻って躱す。
だが、桐原の連撃は止まらない。
肩口、脇腹、膝──狙い澄ました打突が次々と襲いかかる。
(防ぐだけで……精一杯……!)
怒涛の攻めに飲み込まれながらも、悠臣はなお退かない。
剣を握る手に、わずかに力が込められる。
そして──
「……まだ折れんか。なら、俺も遠慮せんで」
桐原の気配がまた一段、研ぎ澄まされた。
それはもう、稽古でも探り合いでもない。
命を懸けた、本物の“斬り合い”だった。
夜気を裂くような鋭い剣戟の音が、静まり返った屋敷に突如として響いた。
「……!」
天城朔也は、その一撃に即座に反応して目を覚ました。
眠気は瞬く間に霧散し、心臓が早鐘のように打ち始める。
耳を澄ますまでもない。木刀がぶつかる、明確な衝突音──それは、ただの鍛錬にはありえない“熱”を孕んでいた。
「……誰かが……立ち合ってる……?」
そう呟いた朔也の声には、微かに緊張が滲んでいた。
けれど、言葉より先に、胸の奥で警鐘が鳴る。
(これは……剣と剣の“命”がぶつかり合ってる)
掛け声も、手加減もない。
魂を賭けた、本気の一撃だ。
朔也はすぐに衣を整え、音のする方角へ駆け出す。
その先──月明かりに浮かび上がったのは、もうひとつの影。
「……直熙……!」
御影直熙が、無言で佇んでいた。
庭の方角をじっと見つめるその横顔には、平静の裏にある張り詰めた気配がにじんでいる。
「……まさか、あれは……」
「……行こう」
朔也の低い声に、直熙が一度だけ頷いた。
ふたりは無言のまま、庭へ面した縁側へと足を運ぶ。
──そして、その目に飛び込んできた光景に、言葉を失った。
夜の静寂を引き裂いて交錯する、ふたつの影。
香月悠臣と、桐原篤哉。
木刀と木刀が激しくぶつかり合い、火花のような音を散らしている。
ただの鍛錬ではない──斬撃のひとつひとつに、痛みと覚悟と“理由”が宿っているのが、見て取れた。
朔也は息を呑む。
「……悠臣さんが……あんなにも……」
それは、ふだん稽古場で見せる穏やかな師の姿ではなかった。
今そこにいるのは、命を背負って剣を振るう──本物の剣士だった。
直熙の目が細くなる。
表情は平静だが、その視線の奥には、鋭い熱が潜んでいる。
「……桐原。あれが──あいつの“底”か」
警戒、驚き、そして敬意。
いくつもの感情がないまぜになった声音だった。
──と、その静寂を破るように、かすれた呼び声が響く。
「天城さん、御影さん……!」
細い足音とともに、美織が夜着のまま駆け寄ってきた。
髪も整えぬまま、息を切らせ、顔には不安が滲んでいる。
「……兄上が……どうして……!」
縁側に立ち、戦うふたりの姿を見た瞬間──
美織の顔から、すうっと血の気が引いた。
月明かりの下、悠臣と桐原が、言葉を交わすことなく激しくぶつかり合っている。
鋭く、速く、重い。その一太刀一太刀が、まさに命を削っていた。
「……兄上……っ」
吐息のように漏れた声は、かすかに震えていた。
怖い。けれど──止めてはいけない。
美織の奥底で、なにかがそう叫んでいた。
彼女は両手で胸元を掴み、唇を噛んだまま、必死に声を押し殺す。
目を逸らすことなど、できなかった。
(……これは、剣でしか交わせない“問い”)
自分には立ち入れない。けれど──
兄がいま、剣でなにを伝えようとしているのか。
美織は知りたかった。怖くても、目を逸らしたくなかった。
「……あれは、信念を試す剣だ」
直熙の低い声が、美織の心を貫くように届く。
「剣でしか伝えられない問いがある。……ふたりは、それを交わしている」
美織は、はっと息をのんだ。
これは技を競うだけのものじゃない。
想いを剣に託し、ぶつけ合っている。
言葉では届かない場所に──今、届こうとしている。
「……怖いのに……」
小さく、かすれた呟き。
けれどその目は、兄を、そして桐原をしっかりと見つめ続けていた。
「こんなにも……美しくて、凛としていて……目が、離せない……」
それは、美織の胸の奥からこぼれた“真実”だった。
誰に届かなくてもいい。けれど確かに、そこにあった想い。
目の前ではなおも、木刀と木刀が激しく交差している。
鋭い音が、夜気の中に鋭く響く。
それは勝ち負けを決する戦いではない。
正しさを押しつけ合う闘いでもない。
ふたりの信じる“志”を、ただ剣に託し、ぶつけ合っている。
語ることのできなかった言葉が、剣によって伝えられていた。
──そしてそれを見守る者たちの心もまた、
静かに、けれど確かに揺れていた。
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「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
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