【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第二章

志を問う剣、答える魂

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 夜気を裂くような、乾いた衝撃音が、再び庭に鳴り響いた。

 二振りの木刀が火花を散らすように激しく交差する。
 斬撃のたびに空気は震え、足元の砂が細かく舞い上がった。

 その場に漂うのは、鍛錬とは明らかに異なる張りつめた死線。
 互いの呼吸はすでに荒く、額を伝う汗が夜風に冷やされて蒸気となって消えていく。

 だが――誰ひとり、止めようとはしなかった。

 悠臣は、ただ喰らいついていた。
 桐原の放つ一太刀が、単なる技ではないことを、体の芯で感じていた。

(……この一撃ひとつひとつに、“何か”が込められてる……)

 打ち込まれるたび、魂が揺さぶられる。
 剣は斬るためだけではない──その奥にあるもの、志や信念、そして命そのものの覚悟を問うような剣だった。

(この男は……本気で、俺を試している)

 そう思った、その刹那。

 ──風が、止んだ。

 否、風のように舞っていた桐原の動きが、ふいに凪いだのだ。
 空気が止まり、音が遠のく。まるで世界から時間だけが剥がれ落ちたような静止。

(……え?)

 悠臣の目が捉えるよりも早く──
 気づけば、すでにその姿は目前にあった。

 視界いっぱいに映るのは、己の心臓めがけて寸分違わず突きつけられた木刀の切っ先。

 音もなかった。気配も、殺気すらも、ない。
 そこにあったのは──ただ“結果”だけ。

(……いま、俺は……斬られたのか……?)

 身体が動かなかった。
 声を出すことも、息を吸うことすらもできず、悠臣はただ凍りついたまま、その場に立ち尽くす。

 そして──

 その静寂は、縁側にいた三人にも同じように訪れていた。

 朔也は、喉がひくりと震え、息を呑む音すら飲み込んだ。

(……今の一手……まるで、見えなかった……!)

 剣を学ぶ者としての直感が告げていた。
 あれは速さではない。意志すらも追いつけぬ、“次元の異なる技”だった。

 胸の奥を掴まれたような戦慄と、それに伴う敬意が、じわじわと込み上げてくる。

 直熙は、わずかに眉をひそめながらも目を逸らさない。
 冷静を保つように見えながらも、その右手の指先が、ごく自然に腰の刀の柄へと添えられていた。

(……桐原。お前……今、命を……剥き出しにしてるのか)

 そして、香月美織。

 月明かりの下、その小さな肩が、はっきりと震えていた。

 兄の胸元に、まっすぐに宛てがわれた木刀の切っ先。
 それがたった数寸動けば、命を奪ってしまう。
 美織には、それが直感でわかっていた。

「……兄上……」

 絞り出すような声が、震える唇から零れる。
 思わず伸ばしかけた手は、胸元でぴたりと止まり、それ以上動かなかった。

 押し寄せる恐怖に、足がすくむ。
 それでも彼女の瞳は、逸らされることなく、その光景をまっすぐ見据えていた。

(怖い……でも、兄上は、それでも前を見てる)

 息も詰まるような沈黙の中、誰もが声を奪われたまま、ただその瞬間を見つめていた。

 ──そして。

 悠臣の目が、ようやく動いた。

 ゆっくりと、視線を上げる。
 目の前にいるのは、桐原篤哉──

 ……否、“桐原篤哉”でありながら、それとはまるで異なる何者か。

 あの飄々とした笑みも、くだけた語り口も、そこにはない。
 眼差しは、鋼鉄のように冷たく澄み、曇りひとつない光をたたえていた。

 静かだった。
 凍てつくような静けさではない──底知れぬ深淵のような、無音の静寂。

 悠臣の心の奥深くへ、鋭く、そして静かにその眼差しが突き刺さった。

「……答えろ」

 その一言は、夜気を裂くように低く、凛として響いた。

 桐原の声音には、もはや一切の飾りがなかった。
 普段まとっていた関西訛りすら消え失せ、まるで“何か”を脱ぎ捨てたかのように、ただ真っ直ぐな“刃”として悠臣に向けられる。

「貴様の、“志”を」

 それは誰にでも向けられる問いではなかった。
 言葉の表層ではない。魂の奥にまで届く、存在そのものを問うような呼びかけ。

 もはや人としての桐原ではない。
 それは彼の本性、あるいは生き様の核が発する、無慈悲なまでに純粋な問いかけだった。

(……な、ぜ……)

 悠臣の思考が、一瞬にして凍りつく。
 目の前にいるのは、確かに桐原篤哉だ。だが、その奥底からにじむ“何か”が、正体を持たぬまま認識を阻んでくる。

(俺は……何を、試されている……?)

 その場の空気が変わったのは明白だった。
 木刀の切っ先は、わずかに胸に触れているだけなのに──そこに宿る気配は、まぎれもなく“死”そのもの。

 音もなく、気配もなく、ただ確実な殺の存在感だけが漂っていた。

 喉が焼けつくように乾き、背筋を一滴の汗が伝う。

「……志、か」

 悠臣はぽつりと呟いた。
 胸の奥、言葉にもならなかった想いを、ゆっくりと引き上げるように。

 やがて、真っ直ぐ桐原を見据え、その瞳に己を映す。

「……俺の志は、“人を護る剣”を、この国に残すことだ」

 声はかすかに震えていた。だが、その揺れの奥には迷いがなかった。
 剣士として。香月悠臣という男として。
 ただ一つの“真実”を、今この場に立つ者として語った。

「斬る方が容易い。従わせる方が早い。
 でも、それだけじゃ……守りたかったものは、きっと壊れる。
 だからこそ──“剣は力で終わるものじゃない”と、俺は証明したい。
 この身が折れてもいい。だが、剣の“意味”だけは、絶対に折らせない」

 それは、魂を燃やすように吐き出された言葉だった。

「……それが、俺の──“志”だ」

 木刀はなお、悠臣の胸にあった。
 けれど、その切っ先に張り詰めていた問いが、音もなく──ふ、と溶けるように消えた。

 敵意ではない。
 それは、答えを得た者だけが持つ静かな納得の気配だった。

 夜風が、ふたたび庭を撫でた。
 冷気が静寂を包み込み、悠臣の胸元──心臓の座標に置かれていた桐原の木刀が、まるで命の輪郭を測るように、正確にそこに在った。

 やがて、桐原が囁く。

「……やっぱり、ええな。その志」

 それは、決して軽い言葉ではなかった。
 音量は小さくとも、その一言には“決断”の色が宿っていた。

 眼差しは深く、静かで、水底のような虚ろさを湛えている。
 けれどそこには、真実を射抜く強さがあった。

「……俺はな、心底──お前に惚れ込んでるみたいや」

 ぞっとするほど無機質な声音。
 それなのに、そこには抗いようのない“執着”と、胸を灼くような“敬意”があった。

「居場所なんて、いらんと思ってた。
 守る意味も、生きる理由も、全部、どうでもええと──
 ずっと、そう思ってた」

 灯籠の火が、静かに揺れる。
 その光が、桐原の影を細く地に滲ませる。

「……でも、今は違う」

 ひと呼吸。
 言葉を選ぶように、そして重ねるように、ゆっくりと続けた。

「俺は……お前の傍にいたい。
 その志を胸に進む、お前の未来を──この目で、見てみたい」

 そして──

 木刀が、すっと下ろされた。

 それは風の流れに逆らわずに葉が落ちるような、自然で、静かな動作だった。

 桐原はそのまま、庭の中心で膝をつく。

 闇に溶け込むような夜気の中、その姿だけがくっきりと浮かび上がっていた。

「たとえ、その志が嘲られようと、否定されようと、
 お前の周りから人が去っても──」

 声音には、今までとは違う熱が宿っていた。

「……俺は、それでも構わん」

 月光が、彼の肩を淡く照らす。
 その影が、まるで“忠義”の証のように地に落ちた。

「この命──お前に預ける。
 お前の志のために、お前の元で、生きる」

 顔を上げた桐原の瞳には、もはや迷いも、虚無もなかった。
 そこにあったのは──“選び取った生”。

「俺は、香月悠臣に忠義を誓う。これが、俺の志や」

 剣ではなく、心で交わされた誓いが、夜の静寂に深く刻まれた。

 悠臣は、言葉を失っていた。
 目の前に跪く男が放つそれは──剣の技を超えた、覚悟そのものだった。

 その瞬間、縁側に立つ三人の胸にも、深く鋭い衝撃が走った。

 天城朔也は、ただじっと庭の光景を見つめていた。
 その眼差しは静かだが、握られた両拳には、かすかな震えが宿っている。

(……こんなものを、見せられたら──)

 それは覚悟だった。
 命を託すという、剣士としてのすべてを懸けた宣言。

 それはもう、言葉や理屈ではない。
 魂そのものが交差し、生き様をぶつけ合う、本物の対峙だった。

 御影直熙は、まなじりをわずかに細め、やがて静かに目を閉じた。
 胸奥で何かを深く噛みしめながら、言葉なくその光景を脳裏に刻み込んでゆく。

(……ああ。これが、“志”というものか)

 誰よりも静かに、そして誰よりも真摯に、彼はそれを受け止めていた。

 ──そして、香月美織。

 崩れ落ちそうになる感情を、彼女は必死に堪えていた。
 泣いてはいけない──そう思うほどに、涙がこぼれそうになる。

「……兄上……」

 震え混じりに洩れたその声は、絞り出すように小さかった。
 けれど、その中には恐れ、安堵、敬意、そして……誇りが、確かに宿っていた。

 兄が守ろうとしているもの。
 その隣で、命を懸けて寄り添おうとする者。

 その姿を目の当たりにして、美織の胸の奥が、静かに軋む。

(……兄上は、こんなにも……)

 そっと胸に当てた手のひらに、指先が自然と力を込めていた。

(──誇らしい人なんだ)

 その目は、もう逸らされていなかった。
 強く、まっすぐに。
 彼女もまた、目の前の光景に、ひとつの“誓い”を刻み込んでいた。
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