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第二章
夜伽と誓いは混ぜるなキケン
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庭には、まだ静寂が残っていた。
風はぴたりと止み、空気さえ張りつめている。
ただ、冴え冴えとした月明かりだけが、夜の庭を優しく照らしていた。
その静けさの中で、香月悠臣は、ごく小さく息を吸い込んだ。
深く、確かめるように。
そして──
「……俺は、今から……お前に、抱かれるのか……?」
ぽつり。
真顔のまま、あまりに真剣な声音で、呟いた。
……一瞬、空気が凍った。
続けて、
ひゅううぅぅ……と、冬の夜風がひとすじ庭を抜ける。
風が凍てついた空気をかすめた、その刹那。
「ぶはあっ!?」
静かに跪いていた桐原篤哉が、ぐらりと体勢を崩し、
「なんでやねんッッッ!!!!」
“なんでやねん”に三回分の魂を込めた怒声が、夜空に轟いた。
そのまま彼は、地面に崩れ落ちた。
「ちゃうやろォォッ!! 忠義やッ! 忠義ィィィィ!!!
命を預けるって言うたら、まず“背中”やろが!!
なんで一直線に“抱く抱かれる”に飛ぶんや!!?」
両手で地面を叩きながら、叫ぶ。もはや叫びというより、絶叫。
「この空気で!? この月明かりで!?
剣の誓いやぞ!? 命を懸けた真剣勝負の場面やろ!?
そこで“夜伽”て! 飛躍しすぎやろぉぉぉおおッ!!」
顔を上げた桐原の瞳は、どこまでも絶望していた。
「しかも相手、男やぞ!? 俺も!!
ここにおるの、どう見ても“男”と“男”やろが!!
なんでお前、“受け身”で構えてんねん!!」
再び頭を抱えて転げまわりながら、
「その天然、戦場やったら味方を混乱に陥れる爆弾やぞ!?
誓いの場でそれ言われたらな──
相手、心折れるか惚れるかの二択しかないねん!!
俺は今……後者で混乱しとるわッッ!!!!」
地面に這いつくばりながら放たれる全力のツッコミは、
まさしく、魂の絶叫そのものだった。
その姿に、悠臣は──ほんのりと、頬を染めた。
「……す、すまない……その、忠義を誓われるなんて初めてで……正直、何を言われてるのか、わからなくて……」
ぎこちない声音と、まっすぐな困惑。
だが、だからこそ、余計にタチが悪い。
「マジボケかーーーーいッッッ!!!!」
桐原の声が、夜空に響き渡る。
「顔を赤くすんな!! なんで照れとんねん!!
しかもなんや、そのちょっと嬉しそうな空気ッ!!」
呻きながら、転がるようにして距離を取る桐原。
その姿はもう、限界を迎えたツッコミ職人の断末魔だった。
さきほどまで剣と覚悟と忠義が交わされた、
神聖なる夜の庭は──
いつの間にか、
「抱く・抱かれる問題」を中心に回転しはじめていた。
月だけが、変わらぬ光で、それを静かに照らす。
「ったくもぉぉおおおぉおおぉおおおぉおお……ッ!!」
仰向けに倒れたまま、桐原篤哉は両手で顔を覆い、呻くように嘆いた。
その声には、混乱と羞恥と、魂をすり減らした者にしか出せないリアルな痛みがこもっていた。
「この空気やぞ!? この緊張感やぞ!?命のやりとりの末やで!? 真剣勝負の果てに、忠義を誓って、命預ける言うた直後やのに──!!」
がばっ! と上体を跳ね起こし、鬼の形相で悠臣をビシィッと指差す。
「“抱かれるのか”て、なんやねんッ!?どこをどう通ったら、そんな結論に着地すんねん!!?」
悠臣はやや困ったように眉を寄せつつも、あくまで真顔だった。
「いや……だって、“命を預ける”“お前の元で生きる”って……
つまり、そういう意味合いではないのかと……」
「ちがぁあああああああああああああああうッッ!!!!!!」
桐原は、まるで地雷を踏んだかのように絶叫し、頭を抱えて転げ回った。
「なんでや……なんでやねん、悠臣……!
さっきまで、めちゃくちゃかっこよかったやん……?
俺、“お前の未来をこの目で見たい”って、泣きそうになりながら言うたやん……!?
なんでそれが、“抱く抱かれる”の話に変換されとんねん!!」
悠臣は静かに首をかしげた。
「……すまない。忠義というのは、もっと……儀式めいたものかと……
近頃、江戸の町で“剣を交えて主従を結ぶ”などと聞いたので、てっきり……」
「それ、まだ噂の域やろがあああああああああああああッッ!!!」
桐原の絶叫が夜気を突き破る。
「発足もしてへんわ! 誰がそんな色っぽい儀式、正式に決めとんねん!!俺ら、そんなんすん組織ちゃうぞ!? なんや、あやしげな流派みたいに言うなッ!!」
庭に漂っていた静けさは、今や見る影もない。
夜風すら、気まずそうにどこかへ吹き抜けていった。
「ていうかやなぁ!! なんで顔赤くしてんねん、お前ぇぇぇッ!!」
悠臣は視線を逸らしながら、そっと言葉をこぼす。
「いや……その……悪気はなかった。
ただ……桐原の声が近くて……熱を帯びていて……その、つい……」
「やめろやああああああああああああッッ!!!!」
桐原は地面をゴロゴロ転がりながら、地面を割る勢いで叫び続けた。
「もうあかん……! 俺の理性が砕けた……! 常識が死んだ……!
戒めもろとも灰になったわ……!!これはもう……文明崩壊レベルやぁっ!!」
──縁側にいた三人は、完全に言葉を失っていた。
最初に“静止”したのは、天城朔也だった。
片手で顔を覆い、もう片方の手は途中で止まったまま。
まばたきすら忘れ、魂が抜けかけたような顔で固まっている。
(……これは……夢だ……いや、夢であってくれ……
このまま、ここから落ちて頭でも打てば……きっと元の世界に戻れる……)
その目には、悟りすら感じられた。
御影直熙は、腕を組んだまま微動だにしない。
だがその沈黙は、もはや静かなる怒気そのものだった。
眉間には深い皺が刻まれ、こめかみには怒りの脈が走っている。
(……これ以上ふざけたら、斬る)
目が、そう語っていた。完全に。
そして──香月美織。
「……き、聞きたくなかったですぅぅぅ……!!」
耳を塞ぎながら、しゃがみ込むようにして地面に膝をつく。
「兄上の赤面……忠義からの誤解……っ…
どう考えても、聞いちゃいけないやつでした……!!」
小さく震える肩、顔を覆い隠した手指の隙間から覗く目は、完全にキャパオーバーしていた。
桐原は、虚ろな目のまま、ふらりと身を翻し──
「……もうええ……」
ぽつりと呟くと、まるで糸が切れたように、庭の隅にぺたりと腰を下ろした。
背中を丸め、腕を膝にのせてうなだれたまま、動かない。
その姿は、どう見ても全力で拗ねていた。
「せっかく……ええ感じで締めようとしてたのに……。
“命を預ける”とか、“忠義を誓う”とか……渾身の台詞やったんやぞ……。素で言うの、めっちゃ照れたのに……」
ぼそぼそとこぼれる独り言は、まるで恋が砕けた直後の青年のように切なげだ。
顔を両手で覆いながら、自己解剖のように語る。
「なのに……“抱かれるのか”て……なんやねん……全部、持ってかれたわ……。
俺のどこに“抱く側”要素があったって言うねん……声か? 見た目か?……いや、目元か……?」
その嘆きは、もはや自己分析の深淵に入りかけていた。
「や、やめてくれ桐原……!」
悠臣が慌てて駆け寄ってくる。
真剣な顔で、息を詰めるように言った。
「本当に……すまなかった。あれは、誤解だったんだ。俺、忠義を誓うなんてこと、生まれて初めてで……」
言葉を探すように視線を落とし、そして──
「どう受け取ったらいいのか、正直わからなかった……」
小さく頭を下げるその姿には、戸惑いと真摯さが滲んでいた。
桐原は、ちらりと横目で彼を見やるが、すぐにふいと視線を逸らした。
「……まあ、しゃあないわな……。お前、そういうの慣れてへんやろし……」
ぼやくように言いながらも、口調はどこか緩やかだ。
「せやけどな……だからって、“抱かれるのか”はあかんやろ……。
俺、あの瞬間、ほんまに時空がねじれた気ぃしたわ……」
静かに目を伏せていた悠臣が、ぽつりと呟く。
「……でも、あのとき……桐原の目が、本当に真剣で、まっすぐで……そんなふうに誰かに言ってもらったことなんてなかったから……信じられなかったんだ。
嬉しいのに、怖くて……混乱して……だから、どうしても、あんなふうにしか受け止められなかった……」
まっすぐで、どこまでも誠実な声音だった。
桐原は、ふう、とひとつ大きく息をつく。
そして、ゆっくりと肩の力を抜きながら、悠臣の顔を真正面から見た。
「……アホやなぁ、お前は……」
呆れ半分、笑い半分の、どこかあたたかい声音。
「そんなん、“抱く”とかやのうてな──“背中を預けてくれたら”それでええねん。
お前が命かけて守りたいもん、俺も一緒に守る。
それが、俺の言うた“忠義”や……わかったか?」
悠臣ははっとしたように目を見開き、やがて静かに──そして、深く頷いた。
「……ああ、分かった。ちゃんと……受け取ったよ」
その声は、澄んでいて、迷いがなかった。
桐原の口元が、ようやくほぐれる。
「……ま、ええわ。次また誤解したら、その場で正座な。夜明けまでコースや」
「……善処する」
悠臣がこくんと素直に頷く。
どこか嬉しそうなその表情に、桐原もつられてふっと笑った。
──すう、と。
夜風が、そっと庭を撫でていく。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、静かでやわらかい風だった。
月明かりの下で揺れる二人の影は、ほんの少しだけ、近づいていた。
縁側では、三人がそれぞれに小さく反応を見せる。
「……ようやく、落ち着きましたね……」
耳をふさいでいた美織が、そっと手を下ろし、ほっと息を吐いた。
「……俺も、刀を抜かずに済んだ」
直熙は、腕を組み直しながら小さく呟く。
その表情は、ようやく平静を取り戻しつつある。
そして──
「……なぁ……もう寝ていいよな……?」
天城朔也が、魂の底から疲れ切った声で呟いた。
美織はこくこくと、まるで限界の頷きで応える。
夜空の高みで、月が静かに見下ろしていた。
何も言わず、ただすべてを受け止めるように──やさしく、照らしていた。
──と。
あれほど騒がしかった空気が、ようやくひと息ついた、その刹那。
「よっしゃああああっ!!」
唐突に、桐原篤哉が勢いよく跳ね起きた。
まるで溜め込んでいたエネルギーを一気に解放するかのように、しゃきんと背筋を伸ばし、跳ねるように立ち上がる。
そのまま、縁側の三人に向かってびしぃっと人差し指を突きつける。
「お前らっ!! 見世物とちゃうぞっ!!」
声を張り上げた顔には、怒気よりも照れ隠しのような笑みがにじんでいた。
何か吹っ切れたような──どこか子供のような、晴れやかな表情。
「……見届けられるんも、それはそれで、なぁ。恥ずかしいっちゅうねん……」
ぽつりとこぼした一言が、ほんの少し場を和ませる。
そのまま縁側へとずんずん近づいたかと思えば──
「美織ちゃぁあああん……!!」
急に進路を変えて、美織の背後へ回り込む。
そして、不意に肩へ顎をぽすんと乗せ、腕を優しく回して抱きついた。
「きゃっ……!?」
驚いたように肩をすくめた美織は、小さな声をあげて身をすくめる。
だがすぐに、その頬には薄紅が差し、しとやかに、そして困ったように微笑んだ。
「も、もう……桐原さんったら……」
「俺、腹減ったぁ……おたくのアホな兄貴のせいで、心も体もカラッカラや……
癒しがほしい……美織ちゃんの手料理、食べたい……できれば、あったかいやつ……」
ぐったりと体を預け、甘えるような声音でぼやく桐原。
まるで拗ねた大型犬のような様子に、美織は息を呑みつつも──
「そんなことをしても、何も出ませんよ……」
やや呆れた口調を交えつつ、けれど、すぐにふんわりと微笑む。
「……でも、おにぎりくらいなら、すぐに握って差し上げます」
柔らかな声色とともに小首をかしげたその姿は、まるで慈しみに満ちた守り人のようだった。
「うわぁ……好きっ……さすが美織ちゃん! 俺の癒しの守り神やぁ……!
……ってか、美織ちゃん、めっちゃいい匂いする……落ち着くわぁ……」
さらに強く抱きつこうとした、まさにその時──
「……桐原、離れろ」
「馴れ馴れしい……っ」
低く、冷ややかな二重奏が縁側に響き渡った。
天城朔也と御影直熙。
二人の視線が静かに吊り上がり、無言の圧力を纏いながら、じりじりと一歩ずつ距離を詰めてくる。
「ちょ、ちょちょちょ!? なんでや!?
これは誤解されんよう、今こうして全力で“女の子大好きですアピール”しとるとこやん!?
俺は女の子にしか抱きつかん! 断固! 誓うっ!!
さっきのは事故やっ! 武士にも事故はあるっちゅうねん! 不可抗力や!!」
じたばたと慌てながら、美織を庇うように背後に隠し、必死の弁明を繰り出す桐原。
だが──
「言い訳が多い男ほど怪しいって、聞いたことないか?」
「……いっそ、縛ってから話を聞こうか」
直熙は静かに鋭く提案し、朔也は既に袖口に手をかけていた。
「やめてぇえええッ!? なんでそっち方向で話が進んどんねん!?
俺、これもう捕縛劇やん!? 江戸町方の取り調べやん!?」
わちゃわちゃと縁側に喧噪が戻ってきた、その時──
美織がするりと桐原の腕から抜け出し、微笑を浮かべて言った。
「……では、桐原さん。おにぎり、握ってきますね」
その声には優しさと、どこか落ち着いた安堵があった。
「ま、待ってぇええ美織ちゃん!? 俺の癒しぃぃぃ!!」
──その光景を。
香月悠臣は、庭の中心に静かに佇みながら見つめていた。
夜空には、凛とした月の光。
それに照らされる彼らは、騒がしくて、賑やかで、どこまでも穏やかだった。
誰かが笑い、誰かが返す──そんな当たり前が、たまらなく眩しい。
(……これが、“守る”ってことなんだな)
そう思った瞬間、胸にひとつ、静かな火が灯った気がした。
(……だから)
(この場所を守ろう。命を懸けてでも)
さっき交わした“忠義”は、もう単なる言葉ではない。
それは、自らの意志で選び取った、本当の誓い。
悠臣は静かに月を仰いだ。
曇りのない瞳に映るのは、ただ澄んだ光と──この温もり。
──月は、変わらずに。
穏やかな光で、彼ら全員を包み込んでいた。
◆
夜が明ける少し手前。
空はまだ薄墨を流したような静けさに包まれ、かすかに残る星の光が、遠慮がちに瞬いていた。
縁側に、二つの影が並んでいる。
片や香月悠臣、片や桐原篤哉。
肩を並べて腰を下ろし、それぞれ湯気の立つ茶と、美織が握ってくれたおにぎりを手にしていた。
「……美織ちゃん、ほんまええ子やなぁ……」
ふっくらした米の温もりを噛みしめながら、桐原がしみじみと漏らす。
「この塩加減、絶妙や……
崩れそうで崩れへん、あの優しい手で丁寧に包んでくれた感じがなぁ……」
まるで宝物でも口にしているかのように、うっとりと語るその顔は、どこか幸せそうですらあった。
ふと、桐原はおにぎりを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「なぁ悠臣……美織ちゃん、嫁にもろてもええか?」
冗談とも本気ともつかぬ声色。
けれどその眼差しは、まっすぐだった。
悠臣は茶をすすると、静かに口元をほころばせる。
「……構わん。ただし、“土方歳三”っていう拷問級の関門を突破できるなら、な」
「……あの兄ちゃんかいな」
桐原の肩がわずかに跳ねた。
「あの目で睨まれたら三日は寝られへんわ……震えすぎて風邪引いて寝込む未来まで見えた……」
ぼやきながらも、彼の口調はどこか楽しげで、くすぐったい空気が二人の間に流れた。
騒がしかった夜がようやく落ち着きを取り戻し、穏やかな静寂が、しんしんと染み入ってくる。
悠臣は、ふと庭に視線を移しながら、湯呑をそっと置いた。
「……桐原」
静かに名を呼ぶ声は、夜の静けさに馴染むほどにやわらかかった。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
桐原はちらと目を向けると、肩をすくめて笑ってみせる。
「……聞かんといてほしいって言うたら、黙るんか?」
冗談めかしたその問いにも、どこかに緊張が滲んでいた。
悠臣は、真っ直ぐなまなざしを崩さず、応じる。
「踏み込むなと言われたなら、それ以上は訊かない。……ただ、お前のことを、ちゃんと知っていたいだけだ」
その誠実な響きに、桐原は一瞬だけ息を止め──
そして、おにぎりをひと口かじった。
「……答えられる範囲で、な」
湯気の立つ茶の香りが、静かに風に溶けていく。
悠臣は間を置かずに問いかける。
「どうして、うちの道場を選んだんだ?」
桐原は咀嚼を続けながら、しばらく黙していた。
その沈黙の奥には、言葉を選ぶための慎重さがあった。
そしてようやく、ぽつりと漏らす。
「……はっきり言うたらええ。“正反対の型持っとるくせに、なんでうちなんか選んだんや”って」
「そんなふうに言ったつもりはない」
悠臣は、やや呆れたように肩をすくめる。
桐原は、ふっと笑う。
「けどまあ……わかってる。
悠臣みたいな由緒ある家の人間には、俺みたいなんは──なかなか理解しにくいやろな、って」
庭に目を落とし、言葉を少しずつ絞り出すように続ける。
「……それでも、聞きたいんか?」
その問いには、戸惑いと、自分でも気づかぬ期待が滲んでいた。
悠臣は、はっきりと頷いた。
「お前が話してくれるなら、俺は──聞きたい」
その言葉に、桐原は一度目を閉じる。
それから、遠くを見ながらゆっくりと口を開いた。
「……俺の型はな、誰かに教えたくて覚えたもんやない。“生きるため”に仕方なく──いや、“叩き込まれた”もんや。
武芸指南家でもなければ、名門でもない。俺の一族は……光とは程遠い、生き方しかしてこんかった。
光があるから、影ができる。俺の剣は、その影側のもんや」
声は静かだったが、そこに宿る痛みは重く深い。
「粛清、殲滅、実行……護るんやのうて、“消す”ための剣。それが俺の技の本質や。
ほんまはな……俺みたいな人間が、“居場所”を作るなんて、したらあかんことなんやと思ってる。
背中には、ずっと死が張り付いとった。誰かと笑い合うことも、“生きていい”って思うことも──ずっと、許されへんもんやと思ってた」
言いながら、桐原は手にしたおにぎりを見つめる。
「……忠義なんて言葉、口にするにはおこがましいかもしれん。でも、今ここにこうして座って、茶を飲んで──お前と並んでる自分が、信じられへんくらい、あったかいんや。
ほんまは怖い。俺がおったら、いつか迷惑かけてまうんやないかって、ずっと考えてる。
……それでも、お前が“いていい”って言ってくれるなら──
俺はこの場所で、守るための剣を、学び直したい」
ぽつ、と告げて、もうひと口おにぎりを頬張る。
「……あかん、喋りすぎたわ」
誤魔化すように笑ったその横顔に、悠臣は言葉を返す。
「……ここにいろ、桐原。
お前が自分の意志で選んだ場所なら──俺はそれを、歓迎する。
お前が“守りたい”と思うなら、その意思ごと信じるさ」
その言葉は、まっすぐだった。
桐原の手が、そっと止まる。微かに震えるように、茶碗の湯気が夜明けの風に揺れた。
そして──夜明けは、思いのほか静かに訪れた。
空の端が、ゆっくりと、まるで誰かが滲ませた絵の具のように、淡く色を変えていく。
夜の深い墨色はほどけ、薄藍が滲み、やがて白みを帯びた光が空の輪郭をやさしく染め上げていく。
その移ろいを静かに受け止めるように、縁側にはふたつの影。
肩が触れるほど近くもなく、かといって、距離を測るようなぎこちなさもない。
互いに“そこにいる”ことを、当たり前のように受け入れた静かな間合い。
ふたりの膝には、まだ湯気の残る茶と、美織が夜のうちに握ってくれたおにぎりが置かれている。
桐原は、おにぎりの最後のひと口をゆっくりと噛み締める。
米のやさしい甘みが口いっぱいに広がり、それを確かめるように喉へと流し込むと──何も言わず、空を仰いだ。
「……朝やな」
ぽつりとこぼれたその言葉は、まるで夜という長い夢から目覚める合図のようだった。
「ああ……」
悠臣もまた、同じ空を見上げていた。
その瞳が見つめるのは、薄明の空よりも、自らの内に芽生えつつある“何か”の輪郭。
──夜のあいだに交わした言葉。
剣を向け合い、ぶつかり合い、そして語り合った時間。
「ここにいろ」と、初めて自分の意志で告げた言葉。
(……俺は)
視線を庭へと落とす。
夜露に濡れた土は、静かに湿り気を湛え、昨夜の騒ぎがまるで幻だったかのように、道場は静まり返っている。
けれどその静けさは、終わりの余韻ではなく──始まりを待つ、静寂の胎動。
(この場所を、ただの“剣を学ぶ場”にはしない)
守る剣を遺す。
その理想が、今や胸の中に現実として根を下ろし始めている。
ここには、笑う者がいる。
迷いながらも、自分の居場所を探そうとする者がいる。
ならば、自分がなすべきことは、もう迷うまでもなかった。
一方で桐原もまた、膝に置いた両手にそっと力を込めると、静かに背筋を伸ばした。
(……ほんまに、ここにいてええんやろか)
胸の奥にこびりついた恐れは、そう簡単には消えない。
過去も、背後の影も、まだ確かに自分について回っている。
それでも──
(……それでも)
隣に座る悠臣の横顔を、そっと盗み見る。
真っ直ぐで、不器用で、けれど決して逃げることのない眼差し。
(……ここで、やり直してみたい)
剣を振るう意味を。
生き延びるためだけではなく、守るために剣を握るという在り方を──。
桐原はひとつ息をついて、立ち上がった。
「……そろそろ、朝稽古の時間ちゃうか?」
何気ない軽口。
だが、その声には確かに、誤魔化しのない“前へ進む意思”が宿っていた。
悠臣もまた、湯呑をそっと縁側に置き、静かに腰を上げる。
「ああ。……始めよう」
それは短く簡潔な言葉だった。
だが、昨夜のどんな約束よりも確かな重みを持っていた。
ふたりが庭へと降り立つ。
その足元を、朝の光がゆるやかに包み込む。
夜とは異なる“始まりの光”。
まだ名前も輪郭も持たない未来。
それでも──
この道場で。
この空の下で。
彼らはそれぞれの“剣”を胸に抱き、歩み出していく。
静かな夜明けは、何も語らず、ただすべてをやわらかく見守っていた。
新しい一日が、今、確かに動き出していた。
風はぴたりと止み、空気さえ張りつめている。
ただ、冴え冴えとした月明かりだけが、夜の庭を優しく照らしていた。
その静けさの中で、香月悠臣は、ごく小さく息を吸い込んだ。
深く、確かめるように。
そして──
「……俺は、今から……お前に、抱かれるのか……?」
ぽつり。
真顔のまま、あまりに真剣な声音で、呟いた。
……一瞬、空気が凍った。
続けて、
ひゅううぅぅ……と、冬の夜風がひとすじ庭を抜ける。
風が凍てついた空気をかすめた、その刹那。
「ぶはあっ!?」
静かに跪いていた桐原篤哉が、ぐらりと体勢を崩し、
「なんでやねんッッッ!!!!」
“なんでやねん”に三回分の魂を込めた怒声が、夜空に轟いた。
そのまま彼は、地面に崩れ落ちた。
「ちゃうやろォォッ!! 忠義やッ! 忠義ィィィィ!!!
命を預けるって言うたら、まず“背中”やろが!!
なんで一直線に“抱く抱かれる”に飛ぶんや!!?」
両手で地面を叩きながら、叫ぶ。もはや叫びというより、絶叫。
「この空気で!? この月明かりで!?
剣の誓いやぞ!? 命を懸けた真剣勝負の場面やろ!?
そこで“夜伽”て! 飛躍しすぎやろぉぉぉおおッ!!」
顔を上げた桐原の瞳は、どこまでも絶望していた。
「しかも相手、男やぞ!? 俺も!!
ここにおるの、どう見ても“男”と“男”やろが!!
なんでお前、“受け身”で構えてんねん!!」
再び頭を抱えて転げまわりながら、
「その天然、戦場やったら味方を混乱に陥れる爆弾やぞ!?
誓いの場でそれ言われたらな──
相手、心折れるか惚れるかの二択しかないねん!!
俺は今……後者で混乱しとるわッッ!!!!」
地面に這いつくばりながら放たれる全力のツッコミは、
まさしく、魂の絶叫そのものだった。
その姿に、悠臣は──ほんのりと、頬を染めた。
「……す、すまない……その、忠義を誓われるなんて初めてで……正直、何を言われてるのか、わからなくて……」
ぎこちない声音と、まっすぐな困惑。
だが、だからこそ、余計にタチが悪い。
「マジボケかーーーーいッッッ!!!!」
桐原の声が、夜空に響き渡る。
「顔を赤くすんな!! なんで照れとんねん!!
しかもなんや、そのちょっと嬉しそうな空気ッ!!」
呻きながら、転がるようにして距離を取る桐原。
その姿はもう、限界を迎えたツッコミ職人の断末魔だった。
さきほどまで剣と覚悟と忠義が交わされた、
神聖なる夜の庭は──
いつの間にか、
「抱く・抱かれる問題」を中心に回転しはじめていた。
月だけが、変わらぬ光で、それを静かに照らす。
「ったくもぉぉおおおぉおおぉおおおぉおお……ッ!!」
仰向けに倒れたまま、桐原篤哉は両手で顔を覆い、呻くように嘆いた。
その声には、混乱と羞恥と、魂をすり減らした者にしか出せないリアルな痛みがこもっていた。
「この空気やぞ!? この緊張感やぞ!?命のやりとりの末やで!? 真剣勝負の果てに、忠義を誓って、命預ける言うた直後やのに──!!」
がばっ! と上体を跳ね起こし、鬼の形相で悠臣をビシィッと指差す。
「“抱かれるのか”て、なんやねんッ!?どこをどう通ったら、そんな結論に着地すんねん!!?」
悠臣はやや困ったように眉を寄せつつも、あくまで真顔だった。
「いや……だって、“命を預ける”“お前の元で生きる”って……
つまり、そういう意味合いではないのかと……」
「ちがぁあああああああああああああああうッッ!!!!!!」
桐原は、まるで地雷を踏んだかのように絶叫し、頭を抱えて転げ回った。
「なんでや……なんでやねん、悠臣……!
さっきまで、めちゃくちゃかっこよかったやん……?
俺、“お前の未来をこの目で見たい”って、泣きそうになりながら言うたやん……!?
なんでそれが、“抱く抱かれる”の話に変換されとんねん!!」
悠臣は静かに首をかしげた。
「……すまない。忠義というのは、もっと……儀式めいたものかと……
近頃、江戸の町で“剣を交えて主従を結ぶ”などと聞いたので、てっきり……」
「それ、まだ噂の域やろがあああああああああああああッッ!!!」
桐原の絶叫が夜気を突き破る。
「発足もしてへんわ! 誰がそんな色っぽい儀式、正式に決めとんねん!!俺ら、そんなんすん組織ちゃうぞ!? なんや、あやしげな流派みたいに言うなッ!!」
庭に漂っていた静けさは、今や見る影もない。
夜風すら、気まずそうにどこかへ吹き抜けていった。
「ていうかやなぁ!! なんで顔赤くしてんねん、お前ぇぇぇッ!!」
悠臣は視線を逸らしながら、そっと言葉をこぼす。
「いや……その……悪気はなかった。
ただ……桐原の声が近くて……熱を帯びていて……その、つい……」
「やめろやああああああああああああッッ!!!!」
桐原は地面をゴロゴロ転がりながら、地面を割る勢いで叫び続けた。
「もうあかん……! 俺の理性が砕けた……! 常識が死んだ……!
戒めもろとも灰になったわ……!!これはもう……文明崩壊レベルやぁっ!!」
──縁側にいた三人は、完全に言葉を失っていた。
最初に“静止”したのは、天城朔也だった。
片手で顔を覆い、もう片方の手は途中で止まったまま。
まばたきすら忘れ、魂が抜けかけたような顔で固まっている。
(……これは……夢だ……いや、夢であってくれ……
このまま、ここから落ちて頭でも打てば……きっと元の世界に戻れる……)
その目には、悟りすら感じられた。
御影直熙は、腕を組んだまま微動だにしない。
だがその沈黙は、もはや静かなる怒気そのものだった。
眉間には深い皺が刻まれ、こめかみには怒りの脈が走っている。
(……これ以上ふざけたら、斬る)
目が、そう語っていた。完全に。
そして──香月美織。
「……き、聞きたくなかったですぅぅぅ……!!」
耳を塞ぎながら、しゃがみ込むようにして地面に膝をつく。
「兄上の赤面……忠義からの誤解……っ…
どう考えても、聞いちゃいけないやつでした……!!」
小さく震える肩、顔を覆い隠した手指の隙間から覗く目は、完全にキャパオーバーしていた。
桐原は、虚ろな目のまま、ふらりと身を翻し──
「……もうええ……」
ぽつりと呟くと、まるで糸が切れたように、庭の隅にぺたりと腰を下ろした。
背中を丸め、腕を膝にのせてうなだれたまま、動かない。
その姿は、どう見ても全力で拗ねていた。
「せっかく……ええ感じで締めようとしてたのに……。
“命を預ける”とか、“忠義を誓う”とか……渾身の台詞やったんやぞ……。素で言うの、めっちゃ照れたのに……」
ぼそぼそとこぼれる独り言は、まるで恋が砕けた直後の青年のように切なげだ。
顔を両手で覆いながら、自己解剖のように語る。
「なのに……“抱かれるのか”て……なんやねん……全部、持ってかれたわ……。
俺のどこに“抱く側”要素があったって言うねん……声か? 見た目か?……いや、目元か……?」
その嘆きは、もはや自己分析の深淵に入りかけていた。
「や、やめてくれ桐原……!」
悠臣が慌てて駆け寄ってくる。
真剣な顔で、息を詰めるように言った。
「本当に……すまなかった。あれは、誤解だったんだ。俺、忠義を誓うなんてこと、生まれて初めてで……」
言葉を探すように視線を落とし、そして──
「どう受け取ったらいいのか、正直わからなかった……」
小さく頭を下げるその姿には、戸惑いと真摯さが滲んでいた。
桐原は、ちらりと横目で彼を見やるが、すぐにふいと視線を逸らした。
「……まあ、しゃあないわな……。お前、そういうの慣れてへんやろし……」
ぼやくように言いながらも、口調はどこか緩やかだ。
「せやけどな……だからって、“抱かれるのか”はあかんやろ……。
俺、あの瞬間、ほんまに時空がねじれた気ぃしたわ……」
静かに目を伏せていた悠臣が、ぽつりと呟く。
「……でも、あのとき……桐原の目が、本当に真剣で、まっすぐで……そんなふうに誰かに言ってもらったことなんてなかったから……信じられなかったんだ。
嬉しいのに、怖くて……混乱して……だから、どうしても、あんなふうにしか受け止められなかった……」
まっすぐで、どこまでも誠実な声音だった。
桐原は、ふう、とひとつ大きく息をつく。
そして、ゆっくりと肩の力を抜きながら、悠臣の顔を真正面から見た。
「……アホやなぁ、お前は……」
呆れ半分、笑い半分の、どこかあたたかい声音。
「そんなん、“抱く”とかやのうてな──“背中を預けてくれたら”それでええねん。
お前が命かけて守りたいもん、俺も一緒に守る。
それが、俺の言うた“忠義”や……わかったか?」
悠臣ははっとしたように目を見開き、やがて静かに──そして、深く頷いた。
「……ああ、分かった。ちゃんと……受け取ったよ」
その声は、澄んでいて、迷いがなかった。
桐原の口元が、ようやくほぐれる。
「……ま、ええわ。次また誤解したら、その場で正座な。夜明けまでコースや」
「……善処する」
悠臣がこくんと素直に頷く。
どこか嬉しそうなその表情に、桐原もつられてふっと笑った。
──すう、と。
夜風が、そっと庭を撫でていく。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、静かでやわらかい風だった。
月明かりの下で揺れる二人の影は、ほんの少しだけ、近づいていた。
縁側では、三人がそれぞれに小さく反応を見せる。
「……ようやく、落ち着きましたね……」
耳をふさいでいた美織が、そっと手を下ろし、ほっと息を吐いた。
「……俺も、刀を抜かずに済んだ」
直熙は、腕を組み直しながら小さく呟く。
その表情は、ようやく平静を取り戻しつつある。
そして──
「……なぁ……もう寝ていいよな……?」
天城朔也が、魂の底から疲れ切った声で呟いた。
美織はこくこくと、まるで限界の頷きで応える。
夜空の高みで、月が静かに見下ろしていた。
何も言わず、ただすべてを受け止めるように──やさしく、照らしていた。
──と。
あれほど騒がしかった空気が、ようやくひと息ついた、その刹那。
「よっしゃああああっ!!」
唐突に、桐原篤哉が勢いよく跳ね起きた。
まるで溜め込んでいたエネルギーを一気に解放するかのように、しゃきんと背筋を伸ばし、跳ねるように立ち上がる。
そのまま、縁側の三人に向かってびしぃっと人差し指を突きつける。
「お前らっ!! 見世物とちゃうぞっ!!」
声を張り上げた顔には、怒気よりも照れ隠しのような笑みがにじんでいた。
何か吹っ切れたような──どこか子供のような、晴れやかな表情。
「……見届けられるんも、それはそれで、なぁ。恥ずかしいっちゅうねん……」
ぽつりとこぼした一言が、ほんの少し場を和ませる。
そのまま縁側へとずんずん近づいたかと思えば──
「美織ちゃぁあああん……!!」
急に進路を変えて、美織の背後へ回り込む。
そして、不意に肩へ顎をぽすんと乗せ、腕を優しく回して抱きついた。
「きゃっ……!?」
驚いたように肩をすくめた美織は、小さな声をあげて身をすくめる。
だがすぐに、その頬には薄紅が差し、しとやかに、そして困ったように微笑んだ。
「も、もう……桐原さんったら……」
「俺、腹減ったぁ……おたくのアホな兄貴のせいで、心も体もカラッカラや……
癒しがほしい……美織ちゃんの手料理、食べたい……できれば、あったかいやつ……」
ぐったりと体を預け、甘えるような声音でぼやく桐原。
まるで拗ねた大型犬のような様子に、美織は息を呑みつつも──
「そんなことをしても、何も出ませんよ……」
やや呆れた口調を交えつつ、けれど、すぐにふんわりと微笑む。
「……でも、おにぎりくらいなら、すぐに握って差し上げます」
柔らかな声色とともに小首をかしげたその姿は、まるで慈しみに満ちた守り人のようだった。
「うわぁ……好きっ……さすが美織ちゃん! 俺の癒しの守り神やぁ……!
……ってか、美織ちゃん、めっちゃいい匂いする……落ち着くわぁ……」
さらに強く抱きつこうとした、まさにその時──
「……桐原、離れろ」
「馴れ馴れしい……っ」
低く、冷ややかな二重奏が縁側に響き渡った。
天城朔也と御影直熙。
二人の視線が静かに吊り上がり、無言の圧力を纏いながら、じりじりと一歩ずつ距離を詰めてくる。
「ちょ、ちょちょちょ!? なんでや!?
これは誤解されんよう、今こうして全力で“女の子大好きですアピール”しとるとこやん!?
俺は女の子にしか抱きつかん! 断固! 誓うっ!!
さっきのは事故やっ! 武士にも事故はあるっちゅうねん! 不可抗力や!!」
じたばたと慌てながら、美織を庇うように背後に隠し、必死の弁明を繰り出す桐原。
だが──
「言い訳が多い男ほど怪しいって、聞いたことないか?」
「……いっそ、縛ってから話を聞こうか」
直熙は静かに鋭く提案し、朔也は既に袖口に手をかけていた。
「やめてぇえええッ!? なんでそっち方向で話が進んどんねん!?
俺、これもう捕縛劇やん!? 江戸町方の取り調べやん!?」
わちゃわちゃと縁側に喧噪が戻ってきた、その時──
美織がするりと桐原の腕から抜け出し、微笑を浮かべて言った。
「……では、桐原さん。おにぎり、握ってきますね」
その声には優しさと、どこか落ち着いた安堵があった。
「ま、待ってぇええ美織ちゃん!? 俺の癒しぃぃぃ!!」
──その光景を。
香月悠臣は、庭の中心に静かに佇みながら見つめていた。
夜空には、凛とした月の光。
それに照らされる彼らは、騒がしくて、賑やかで、どこまでも穏やかだった。
誰かが笑い、誰かが返す──そんな当たり前が、たまらなく眩しい。
(……これが、“守る”ってことなんだな)
そう思った瞬間、胸にひとつ、静かな火が灯った気がした。
(……だから)
(この場所を守ろう。命を懸けてでも)
さっき交わした“忠義”は、もう単なる言葉ではない。
それは、自らの意志で選び取った、本当の誓い。
悠臣は静かに月を仰いだ。
曇りのない瞳に映るのは、ただ澄んだ光と──この温もり。
──月は、変わらずに。
穏やかな光で、彼ら全員を包み込んでいた。
◆
夜が明ける少し手前。
空はまだ薄墨を流したような静けさに包まれ、かすかに残る星の光が、遠慮がちに瞬いていた。
縁側に、二つの影が並んでいる。
片や香月悠臣、片や桐原篤哉。
肩を並べて腰を下ろし、それぞれ湯気の立つ茶と、美織が握ってくれたおにぎりを手にしていた。
「……美織ちゃん、ほんまええ子やなぁ……」
ふっくらした米の温もりを噛みしめながら、桐原がしみじみと漏らす。
「この塩加減、絶妙や……
崩れそうで崩れへん、あの優しい手で丁寧に包んでくれた感じがなぁ……」
まるで宝物でも口にしているかのように、うっとりと語るその顔は、どこか幸せそうですらあった。
ふと、桐原はおにぎりを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「なぁ悠臣……美織ちゃん、嫁にもろてもええか?」
冗談とも本気ともつかぬ声色。
けれどその眼差しは、まっすぐだった。
悠臣は茶をすすると、静かに口元をほころばせる。
「……構わん。ただし、“土方歳三”っていう拷問級の関門を突破できるなら、な」
「……あの兄ちゃんかいな」
桐原の肩がわずかに跳ねた。
「あの目で睨まれたら三日は寝られへんわ……震えすぎて風邪引いて寝込む未来まで見えた……」
ぼやきながらも、彼の口調はどこか楽しげで、くすぐったい空気が二人の間に流れた。
騒がしかった夜がようやく落ち着きを取り戻し、穏やかな静寂が、しんしんと染み入ってくる。
悠臣は、ふと庭に視線を移しながら、湯呑をそっと置いた。
「……桐原」
静かに名を呼ぶ声は、夜の静けさに馴染むほどにやわらかかった。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
桐原はちらと目を向けると、肩をすくめて笑ってみせる。
「……聞かんといてほしいって言うたら、黙るんか?」
冗談めかしたその問いにも、どこかに緊張が滲んでいた。
悠臣は、真っ直ぐなまなざしを崩さず、応じる。
「踏み込むなと言われたなら、それ以上は訊かない。……ただ、お前のことを、ちゃんと知っていたいだけだ」
その誠実な響きに、桐原は一瞬だけ息を止め──
そして、おにぎりをひと口かじった。
「……答えられる範囲で、な」
湯気の立つ茶の香りが、静かに風に溶けていく。
悠臣は間を置かずに問いかける。
「どうして、うちの道場を選んだんだ?」
桐原は咀嚼を続けながら、しばらく黙していた。
その沈黙の奥には、言葉を選ぶための慎重さがあった。
そしてようやく、ぽつりと漏らす。
「……はっきり言うたらええ。“正反対の型持っとるくせに、なんでうちなんか選んだんや”って」
「そんなふうに言ったつもりはない」
悠臣は、やや呆れたように肩をすくめる。
桐原は、ふっと笑う。
「けどまあ……わかってる。
悠臣みたいな由緒ある家の人間には、俺みたいなんは──なかなか理解しにくいやろな、って」
庭に目を落とし、言葉を少しずつ絞り出すように続ける。
「……それでも、聞きたいんか?」
その問いには、戸惑いと、自分でも気づかぬ期待が滲んでいた。
悠臣は、はっきりと頷いた。
「お前が話してくれるなら、俺は──聞きたい」
その言葉に、桐原は一度目を閉じる。
それから、遠くを見ながらゆっくりと口を開いた。
「……俺の型はな、誰かに教えたくて覚えたもんやない。“生きるため”に仕方なく──いや、“叩き込まれた”もんや。
武芸指南家でもなければ、名門でもない。俺の一族は……光とは程遠い、生き方しかしてこんかった。
光があるから、影ができる。俺の剣は、その影側のもんや」
声は静かだったが、そこに宿る痛みは重く深い。
「粛清、殲滅、実行……護るんやのうて、“消す”ための剣。それが俺の技の本質や。
ほんまはな……俺みたいな人間が、“居場所”を作るなんて、したらあかんことなんやと思ってる。
背中には、ずっと死が張り付いとった。誰かと笑い合うことも、“生きていい”って思うことも──ずっと、許されへんもんやと思ってた」
言いながら、桐原は手にしたおにぎりを見つめる。
「……忠義なんて言葉、口にするにはおこがましいかもしれん。でも、今ここにこうして座って、茶を飲んで──お前と並んでる自分が、信じられへんくらい、あったかいんや。
ほんまは怖い。俺がおったら、いつか迷惑かけてまうんやないかって、ずっと考えてる。
……それでも、お前が“いていい”って言ってくれるなら──
俺はこの場所で、守るための剣を、学び直したい」
ぽつ、と告げて、もうひと口おにぎりを頬張る。
「……あかん、喋りすぎたわ」
誤魔化すように笑ったその横顔に、悠臣は言葉を返す。
「……ここにいろ、桐原。
お前が自分の意志で選んだ場所なら──俺はそれを、歓迎する。
お前が“守りたい”と思うなら、その意思ごと信じるさ」
その言葉は、まっすぐだった。
桐原の手が、そっと止まる。微かに震えるように、茶碗の湯気が夜明けの風に揺れた。
そして──夜明けは、思いのほか静かに訪れた。
空の端が、ゆっくりと、まるで誰かが滲ませた絵の具のように、淡く色を変えていく。
夜の深い墨色はほどけ、薄藍が滲み、やがて白みを帯びた光が空の輪郭をやさしく染め上げていく。
その移ろいを静かに受け止めるように、縁側にはふたつの影。
肩が触れるほど近くもなく、かといって、距離を測るようなぎこちなさもない。
互いに“そこにいる”ことを、当たり前のように受け入れた静かな間合い。
ふたりの膝には、まだ湯気の残る茶と、美織が夜のうちに握ってくれたおにぎりが置かれている。
桐原は、おにぎりの最後のひと口をゆっくりと噛み締める。
米のやさしい甘みが口いっぱいに広がり、それを確かめるように喉へと流し込むと──何も言わず、空を仰いだ。
「……朝やな」
ぽつりとこぼれたその言葉は、まるで夜という長い夢から目覚める合図のようだった。
「ああ……」
悠臣もまた、同じ空を見上げていた。
その瞳が見つめるのは、薄明の空よりも、自らの内に芽生えつつある“何か”の輪郭。
──夜のあいだに交わした言葉。
剣を向け合い、ぶつかり合い、そして語り合った時間。
「ここにいろ」と、初めて自分の意志で告げた言葉。
(……俺は)
視線を庭へと落とす。
夜露に濡れた土は、静かに湿り気を湛え、昨夜の騒ぎがまるで幻だったかのように、道場は静まり返っている。
けれどその静けさは、終わりの余韻ではなく──始まりを待つ、静寂の胎動。
(この場所を、ただの“剣を学ぶ場”にはしない)
守る剣を遺す。
その理想が、今や胸の中に現実として根を下ろし始めている。
ここには、笑う者がいる。
迷いながらも、自分の居場所を探そうとする者がいる。
ならば、自分がなすべきことは、もう迷うまでもなかった。
一方で桐原もまた、膝に置いた両手にそっと力を込めると、静かに背筋を伸ばした。
(……ほんまに、ここにいてええんやろか)
胸の奥にこびりついた恐れは、そう簡単には消えない。
過去も、背後の影も、まだ確かに自分について回っている。
それでも──
(……それでも)
隣に座る悠臣の横顔を、そっと盗み見る。
真っ直ぐで、不器用で、けれど決して逃げることのない眼差し。
(……ここで、やり直してみたい)
剣を振るう意味を。
生き延びるためだけではなく、守るために剣を握るという在り方を──。
桐原はひとつ息をついて、立ち上がった。
「……そろそろ、朝稽古の時間ちゃうか?」
何気ない軽口。
だが、その声には確かに、誤魔化しのない“前へ進む意思”が宿っていた。
悠臣もまた、湯呑をそっと縁側に置き、静かに腰を上げる。
「ああ。……始めよう」
それは短く簡潔な言葉だった。
だが、昨夜のどんな約束よりも確かな重みを持っていた。
ふたりが庭へと降り立つ。
その足元を、朝の光がゆるやかに包み込む。
夜とは異なる“始まりの光”。
まだ名前も輪郭も持たない未来。
それでも──
この道場で。
この空の下で。
彼らはそれぞれの“剣”を胸に抱き、歩み出していく。
静かな夜明けは、何も語らず、ただすべてをやわらかく見守っていた。
新しい一日が、今、確かに動き出していた。
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