【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第三章

年の瀬、ひとつ屋根の下で

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 冬晴れの空の下、吐く息がかすかに白く揺れる。

 朝の冷気に包まれた香月道場では、まだ陽も高くない時間だというのに、早くも活気に満ちた気配が広がっていた。

 年末恒例の大掃除――とはいえ、開門してからまだ一月足らずの新しい道場だ。柱も床も磨かれており、目立った汚れなど見当たらない。
 それでも“年の瀬”という節目を大切にするように、門弟たちは思い思いに掃除道具を手に取り、床を拭き、柱を磨き、庭の落ち葉を拾いながら、にぎやかに動き回っていた。

 やわらかな声が、堂内に心地よく響く。

「……皆さん、おはようございます。怪我のないよう、ゆるりといきましょう」

 穏やかでありながら芯の通った声。発したのは、天城朔也だった。

 この日、師範である香月悠臣は所用のため、早朝より門を出ていた。代わって、掃除の取りまとめを任されていた朔也が、静かに場をまとめていた。

 几帳面というよりは、丁寧で柔らかな口調。けれどその立ち姿にはどこか頼もしさがあり、門弟たちも自然と耳を傾け、手を動かし続けている。

「掃き掃除、雑巾掛け、それから庭の落ち葉拾い。分担して、終わったら教えてください」

「「はーい!」」

 若い門弟たちの明るい返事に、朔也は目を細め、静かに頷いた。

 ――その直後だった。

「そーれっ!」

 不意に背中に、やわらかな衝撃が走る。ぱふん、と布の当たる音。

「うおっ……誰だ?!って、桐原!」

 振り向けば、にやにやと笑う桐原篤哉の姿。手には、天井から下ろしたばかりのハタキが握られていた。

「へっへっへ、気ぃ抜いてたな。これが“掃除の奇襲”や!」

 まるで悪戯好きな少年のような顔で、桐原は誇らしげに笑っている。

「やめろ、俺の背中は埃取りじゃない」

「いやいや、これは天井の埃が朔也に吸い寄せられただけや。むしろ誇ってええんちゃうか?」

「……じゃあ、お前の顔にも埃を分けてあげようか」

「おっ、やる気やな! ほな勝負や!」

 そのまま二人は、畳の上で軽快な“ハタキ合戦”を繰り広げる。
 ぱふっ、ぱふっと布が舞い、時に本気とも思える応酬が続く。

 最初は呆気に取られていた門弟たちも、やがて笑い出した。「あれが香月道場の掃除……?」と呟く声にすら、どこか親しみがこもっていた。

 和やかな笑いが、堂内の空気をやさしく包んでいく。

 そんな中――

「……何をしているんだか」

 縁側に腰を下ろしていた御影直熙が、深いため息と共に小さくつぶやく。

 膝の上には、きっちりと角を揃えた雑巾。
 その隣では、朝倉洸太と真木智久が無言で柱の拭き掃除に集中していた。

 直熙もやがて立ち上がり、木目を指先で確かめるように柱に触れながら、丁寧に雑巾を滑らせていく。

「……どうせ数日後にはまた泥を持ち込むんだ。年末という言葉に踊らされるとは、実に愚かしい」

 皮肉交じりに言い放ちながらも、その手つきは誠実そのものだった。

 真木が、ふっと小さく笑う。

「でも、だからこそ、ですよね」

 静かに続いた洸太の声もまた、穏やかだった。

「俺、今年この道場に来られて、本当によかったと思ってます」

「……だな。新年も、ここで迎えたい」

 その言葉に、直熙はふと手を止めた。
 何かを噛みしめるように小さく目を伏せ――そして、低く鼻を鳴らしてから、再び無言で柱を磨きはじめた。

 廊下の向こうでは、朔也が得意げな勝利ポーズを決め、桐原が「やられた~っ」と大げさに倒れ込む。

 若い門弟たちが笑いながら雑巾掛けを続ける様は、まるで――“家族”のようだった。

 そのときだった。

 木戸の向こうからふわりと届いたのは、柔らかな声と、湯気を含んだ香り。

「皆様、お疲れさまです」

 台所の帳から、そっと顔を覗かせたのは香月美織だった。

 両手に抱えていたのは、品のよい黒塗りの盆。
 その上には、湯気の立つ茶の湯呑と、こぶりで愛らしい手作りの串団子が彩りよく並んでいる。

 あんこ、きなこ、みたらし――
 三種三様の団子は、まるで咲きはじめの春の花のように、素朴な中にも心づくしが宿っていた。

「お茶と、お団子をどうぞ。……あんこも、ちゃんとありますよ」

 控えめながらも、どこか嬉しそうに告げるその声。

 その瞬間、畳の上から桐原が跳ね起きた。

「出た! 女神の差し入れタイムやっ!」

 歓声を上げながら、滑るように廊下を駆けていく桐原の姿はまさに全力投球。道場中に、ぱっと明るい笑いが広がる。

「こら、走るな!」

 朔也がすかさず腕を伸ばし、桐原の襟首を絶妙なタイミングでつかまえる。

「うわっ、止めんなや~っ! その団子は、俺の運命の相手やったんやぁ……!」

 襟をつままれたまま情熱的に訴える桐原の声に、門弟たちはまた一斉に笑い出す。
 くすくす、わははという声が、畳の上にあたたかく降り注いだ。

「相変わらず、にぎやかですね……ふふっ」

 美織が盆を抱えたまま笑みを浮かべると、彼女のその微笑みひとつで、道場の空気がさらにやわらかく、ふわりと解けていくようだった。

 艶やかに結われた髪、控えめながら季節に寄り添った着物の色合い。
 そこに宿る気配は、どこか春の陽差しのようで、自然と人の目を惹きつける。

(……こうして、皆さんに声をかけられるようになったのは、いつからだったかしら)

 美織は静かにそう思った。

 かつて、自分は「香月家の令嬢」として見られていた。

 距離を取るための丁寧さ。敬意の奥に漂う、見えない遠慮の壁。
 それは近づこうとすればするほど、どこかで一線を引かれてしまうような、そんなもどかしさだった。

 けれど、いま。

 朔也に止められながらも団子に突進する桐原。
 そのやりとりを笑いながら見守る門弟たち。
 自分はそのすぐそばで、団子を配ろうとしている。

(……嬉しいな)

 この輪の中に、自分も“居ていい”と、心から思える。

 兄――香月悠臣が道場を開いたとき、きっと彼も、こういう風景を願っていたのだろう。

 剣を学び、心を重ね、笑い合いながら強くなっていく場所。
 誰かの手に守られるのではなく、皆で手を取り、育てていく“居場所”。

(……守りたい)

 そんな言葉が、ふと胸に浮かぶ。

 誰かを助けられるほどの力は、自分にはないかもしれない。
 けれど、この笑顔、この空気、このかけがえのない時間だけは、絶対に守りたい――そう思った。

 団子の香ばしい香りと、湯気を立てる茶のあたたかさが、道場の空間に優しく溶けていった。

 そのとき、誰かがぽつりと呟いた。

「……香月道場、なんか……あったかいっすね」

「……そうだな」

 朔也が短く応じると、その横顔にふと微笑が浮かぶ。

 けれど、その胸の奥では、確かな想いが静かに息づいていた。

(……ああ、本当に、そう思う)

 ほんの数ヶ月前まで、自分は京で暮らしていた。
 没落した天城家に、かつての名誉も誇りも残ってはいなかった。藩の庇護も薄れ、先の道も見えぬまま、ただ日々をやり過ごしていた。

 ふと思い立ったように江戸の屋敷へ戻ったあの日、香月悠臣が道場を開門するという話を耳にした。

 それは、ただの偶然にすぎなかった。
 けれど――開門の日、ふと足を運び、試しの稽古に名乗りを上げたとき。

 目の前に立った悠臣の、澄んだ眼差しと、揺るがぬ芯を目にして。

(……この人のもとで、剣を学びたい)

 気づけば、心がそう動いていた。

 威圧で人を縛らず、信念で人を導く剣士。
 その背に並んで歩むことが、自分にとっての“再出発”なのだと、あの瞬間に悟った。

 そして今、こうして目の前にあるこの風景――

 笑い合う仲間たち。
 団子を手にして微笑む美織。
 ほのかに立ちのぼる湯気と、満ちていく温もり。

 この道場が、ただ剣を学ぶだけの場所ではなく、人と人とが心を通わせ、つながっていく場所として、確かに育ちつつあることを、朔也は誰よりも感じ取っていた。

 ふと、盆の団子を並べる美織の手元に目をやる。

 頬をわずかに染め、湯気に包まれながら、ふんわりと笑うその姿に。
 朔也の胸の奥に、またひとつ静かな火が灯るのを感じた。

「……美織さん、いつもありがとうございます」

 そっと声をかけると、美織は一瞬きょとんとしたように目を丸くし――それから、柔らかな笑みを浮かべた。

「いえ……こちらこそ。皆さんのお顔を見ていると、私まで元気をいただけますから」

 その言葉に、朔也も自然と微笑み、少し目を伏せるようにして湯呑を手に取る。

 交わす言葉は短く、どこか控えめで、照れくささすら含んでいる。
 けれどそのやり取りの中には、言葉では語りきれない穏やかな思いが、ゆっくりと満ちていた。

 朔也は一つ、団子をそっと摘み上げると、湯気の向こうにいる美織の方へ、やわらかな笑みを向けた。

「……今日も、美味しそうですね」

 その声は、どこか照れを滲ませながらも、真っ直ぐだった。
 無理に飾らず、茶化すこともなく。ただ、伝えたい想いを一つずつ丁寧に選ぶような、そんな眼差し。

 美織はふわりと微笑んだ。

「ふふ……よかったです。今日は、あんこを多めに炊いたんですよ」

 そう言って見せた笑顔には、柔らかさとほんのわずかな自信がのぞいていた。

「天城さん、甘いものがちょっと苦手って……こっそり聞いたことがあって。だから、皮は薄く、あんこはやわらかめにしてみたんです。……口どけがよくなるように」

 その言葉に、朔也はわずかに眉を上げ、苦笑を浮かべた。

「……なんだか“気を遣わせてしまっている感”が強いんですが……」

「そ、そんなことないですっ」

 美織は小さく首を振り、頬を染めながらも、しっかりとした声で続けた。

「……天城さんが、美味しそうに食べてくださるから、つい……工夫したくなるんです」

 そう言って、指先でそっと湯呑の縁をなぞくようにしながら目を伏せる。

「“うまい”って言ってくださる時、ちょっとだけ間がありますよね? あれが……なんだか、とても嬉しくて」

 その小さな告白に、朔也は一瞬だけ目を見開き、それからふっと息を抜くように笑った。

「……たぶんそれ、“内心で喜びがあふれてるのを隠してる時間”ですね」

 目を逸らすように言った朔也の横顔に、美織の頬がいっそうやわらかく染まっていく。
 まるで、寒空に咲く梅の花のように。

「じゃあ……今日のも、“うまい”って、言ってくれますか?」

 美織がそっと問いかけたその瞳は、まっすぐで、どこか期待を込めた光を湛えていた。

「もちろん」

 朔也は短く頷くと、団子を静かに口へ運んだ。

 やわらかなあんこの甘さが舌に広がり、香ばしい皮がほろりとほどけてゆく。そのひと口で、心までもゆるむようだった。

 一拍置いて、朔也はぽつりと口にする。

「……うまい」

 その短くも確かな一言に、美織は嬉しそうに笑った。

 その笑顔は、湯気越しの朝陽に透けるように淡く揺れ、誰よりも優しく、やさしく場を照らしていた。

 朔也は湯呑をそっと持ち上げ、一口啜る。
 その手元に、美織が自然な動きで湯を注ぎ足す。

「寒くないですか?」

 ふと差し出されたその問いに、朔也はゆるやかに目を向けた。

「……いや。今は、ちょうどいい」

 その返事が、お茶の温もりを指していたのか。
 それとも、そっと隣に佇む彼女のぬくもりを指していたのか。

 美織は問い返さず、ただ静かに目を伏せて、微笑んだだけだった。

 そのやり取りを、少し離れた廊下の陰からそっと見守っていたのは、真木智久と朝倉洸太だった。

 湯気の向こうで微笑み合う朔也と美織の姿を見つめながら、真木がそっと肘で洸太をつつく。

「……ねえ、洸太。あの二人、ちょっといい感じじゃない?」

 声は低く、ひそめられていたが、どこか愉快そうだった。

 洸太は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく頷いた。

「……うん。なんていうか……空気が、やわらかいっていうか」

 視線の先には、肩を並べて湯呑を手にする二人の姿。
 洸太の言葉は短く、不器用だったが、そこに込められた感情は、真木にははっきりと伝わっていた。

 真木はくすっと笑い、問いかけるように目を細める。

「美織さん、今日……いつもより、笑ってる気がするな」

「……そう、かも」

 洸太は控えめに応じながらも、目元に淡い笑みを浮かべていた。
 その眼差しには、どこか安心したような――敬愛にも似たやわらかさが宿っている。

 ふと、真木がぽつりと呟いた。

「……俺、ここに来れて、本当によかったなって思うよ」

 まるで自分に言い聞かせるようなその言葉に、洸太もこくりと頷いた。

「……うん。わかる。俺も……たぶん、そう」

 それ以上は多くを語らずとも、その想いは十分に通い合っていた。

 縁側に差し込む朝の陽射しが、湯気を立てる湯呑を静かに照らしている。

 日々の忙しさのなかで、忘れそうになるもの。
 誰かの笑顔や、あたたかな言葉で、心がふっとほどけてゆくこと。

 それは、決して派手ではない。
 けれど――だからこそ、かけがえがない。

 今日も、香月道場にはいつもと変わらぬ日常が流れている。

 けれど、そのささやかなやり取りのひとつひとつが、小さな絆となって、静かに根を張っていく。

 いつか、誰かが願った「守りたいもの」。
 その想いは、いま――この場所で、確かに息づいていた。
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