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第三章
年の瀬、ひとつ屋根の下で
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冬晴れの空の下、吐く息がかすかに白く揺れる。
朝の冷気に包まれた香月道場では、まだ陽も高くない時間だというのに、早くも活気に満ちた気配が広がっていた。
年末恒例の大掃除――とはいえ、開門してからまだ一月足らずの新しい道場だ。柱も床も磨かれており、目立った汚れなど見当たらない。
それでも“年の瀬”という節目を大切にするように、門弟たちは思い思いに掃除道具を手に取り、床を拭き、柱を磨き、庭の落ち葉を拾いながら、にぎやかに動き回っていた。
やわらかな声が、堂内に心地よく響く。
「……皆さん、おはようございます。怪我のないよう、ゆるりといきましょう」
穏やかでありながら芯の通った声。発したのは、天城朔也だった。
この日、師範である香月悠臣は所用のため、早朝より門を出ていた。代わって、掃除の取りまとめを任されていた朔也が、静かに場をまとめていた。
几帳面というよりは、丁寧で柔らかな口調。けれどその立ち姿にはどこか頼もしさがあり、門弟たちも自然と耳を傾け、手を動かし続けている。
「掃き掃除、雑巾掛け、それから庭の落ち葉拾い。分担して、終わったら教えてください」
「「はーい!」」
若い門弟たちの明るい返事に、朔也は目を細め、静かに頷いた。
――その直後だった。
「そーれっ!」
不意に背中に、やわらかな衝撃が走る。ぱふん、と布の当たる音。
「うおっ……誰だ?!って、桐原!」
振り向けば、にやにやと笑う桐原篤哉の姿。手には、天井から下ろしたばかりのハタキが握られていた。
「へっへっへ、気ぃ抜いてたな。これが“掃除の奇襲”や!」
まるで悪戯好きな少年のような顔で、桐原は誇らしげに笑っている。
「やめろ、俺の背中は埃取りじゃない」
「いやいや、これは天井の埃が朔也に吸い寄せられただけや。むしろ誇ってええんちゃうか?」
「……じゃあ、お前の顔にも埃を分けてあげようか」
「おっ、やる気やな! ほな勝負や!」
そのまま二人は、畳の上で軽快な“ハタキ合戦”を繰り広げる。
ぱふっ、ぱふっと布が舞い、時に本気とも思える応酬が続く。
最初は呆気に取られていた門弟たちも、やがて笑い出した。「あれが香月道場の掃除……?」と呟く声にすら、どこか親しみがこもっていた。
和やかな笑いが、堂内の空気をやさしく包んでいく。
そんな中――
「……何をしているんだか」
縁側に腰を下ろしていた御影直熙が、深いため息と共に小さくつぶやく。
膝の上には、きっちりと角を揃えた雑巾。
その隣では、朝倉洸太と真木智久が無言で柱の拭き掃除に集中していた。
直熙もやがて立ち上がり、木目を指先で確かめるように柱に触れながら、丁寧に雑巾を滑らせていく。
「……どうせ数日後にはまた泥を持ち込むんだ。年末という言葉に踊らされるとは、実に愚かしい」
皮肉交じりに言い放ちながらも、その手つきは誠実そのものだった。
真木が、ふっと小さく笑う。
「でも、だからこそ、ですよね」
静かに続いた洸太の声もまた、穏やかだった。
「俺、今年この道場に来られて、本当によかったと思ってます」
「……だな。新年も、ここで迎えたい」
その言葉に、直熙はふと手を止めた。
何かを噛みしめるように小さく目を伏せ――そして、低く鼻を鳴らしてから、再び無言で柱を磨きはじめた。
廊下の向こうでは、朔也が得意げな勝利ポーズを決め、桐原が「やられた~っ」と大げさに倒れ込む。
若い門弟たちが笑いながら雑巾掛けを続ける様は、まるで――“家族”のようだった。
そのときだった。
木戸の向こうからふわりと届いたのは、柔らかな声と、湯気を含んだ香り。
「皆様、お疲れさまです」
台所の帳から、そっと顔を覗かせたのは香月美織だった。
両手に抱えていたのは、品のよい黒塗りの盆。
その上には、湯気の立つ茶の湯呑と、こぶりで愛らしい手作りの串団子が彩りよく並んでいる。
あんこ、きなこ、みたらし――
三種三様の団子は、まるで咲きはじめの春の花のように、素朴な中にも心づくしが宿っていた。
「お茶と、お団子をどうぞ。……あんこも、ちゃんとありますよ」
控えめながらも、どこか嬉しそうに告げるその声。
その瞬間、畳の上から桐原が跳ね起きた。
「出た! 女神の差し入れタイムやっ!」
歓声を上げながら、滑るように廊下を駆けていく桐原の姿はまさに全力投球。道場中に、ぱっと明るい笑いが広がる。
「こら、走るな!」
朔也がすかさず腕を伸ばし、桐原の襟首を絶妙なタイミングでつかまえる。
「うわっ、止めんなや~っ! その団子は、俺の運命の相手やったんやぁ……!」
襟をつままれたまま情熱的に訴える桐原の声に、門弟たちはまた一斉に笑い出す。
くすくす、わははという声が、畳の上にあたたかく降り注いだ。
「相変わらず、にぎやかですね……ふふっ」
美織が盆を抱えたまま笑みを浮かべると、彼女のその微笑みひとつで、道場の空気がさらにやわらかく、ふわりと解けていくようだった。
艶やかに結われた髪、控えめながら季節に寄り添った着物の色合い。
そこに宿る気配は、どこか春の陽差しのようで、自然と人の目を惹きつける。
(……こうして、皆さんに声をかけられるようになったのは、いつからだったかしら)
美織は静かにそう思った。
かつて、自分は「香月家の令嬢」として見られていた。
距離を取るための丁寧さ。敬意の奥に漂う、見えない遠慮の壁。
それは近づこうとすればするほど、どこかで一線を引かれてしまうような、そんなもどかしさだった。
けれど、いま。
朔也に止められながらも団子に突進する桐原。
そのやりとりを笑いながら見守る門弟たち。
自分はそのすぐそばで、団子を配ろうとしている。
(……嬉しいな)
この輪の中に、自分も“居ていい”と、心から思える。
兄――香月悠臣が道場を開いたとき、きっと彼も、こういう風景を願っていたのだろう。
剣を学び、心を重ね、笑い合いながら強くなっていく場所。
誰かの手に守られるのではなく、皆で手を取り、育てていく“居場所”。
(……守りたい)
そんな言葉が、ふと胸に浮かぶ。
誰かを助けられるほどの力は、自分にはないかもしれない。
けれど、この笑顔、この空気、このかけがえのない時間だけは、絶対に守りたい――そう思った。
団子の香ばしい香りと、湯気を立てる茶のあたたかさが、道場の空間に優しく溶けていった。
そのとき、誰かがぽつりと呟いた。
「……香月道場、なんか……あったかいっすね」
「……そうだな」
朔也が短く応じると、その横顔にふと微笑が浮かぶ。
けれど、その胸の奥では、確かな想いが静かに息づいていた。
(……ああ、本当に、そう思う)
ほんの数ヶ月前まで、自分は京で暮らしていた。
没落した天城家に、かつての名誉も誇りも残ってはいなかった。藩の庇護も薄れ、先の道も見えぬまま、ただ日々をやり過ごしていた。
ふと思い立ったように江戸の屋敷へ戻ったあの日、香月悠臣が道場を開門するという話を耳にした。
それは、ただの偶然にすぎなかった。
けれど――開門の日、ふと足を運び、試しの稽古に名乗りを上げたとき。
目の前に立った悠臣の、澄んだ眼差しと、揺るがぬ芯を目にして。
(……この人のもとで、剣を学びたい)
気づけば、心がそう動いていた。
威圧で人を縛らず、信念で人を導く剣士。
その背に並んで歩むことが、自分にとっての“再出発”なのだと、あの瞬間に悟った。
そして今、こうして目の前にあるこの風景――
笑い合う仲間たち。
団子を手にして微笑む美織。
ほのかに立ちのぼる湯気と、満ちていく温もり。
この道場が、ただ剣を学ぶだけの場所ではなく、人と人とが心を通わせ、つながっていく場所として、確かに育ちつつあることを、朔也は誰よりも感じ取っていた。
ふと、盆の団子を並べる美織の手元に目をやる。
頬をわずかに染め、湯気に包まれながら、ふんわりと笑うその姿に。
朔也の胸の奥に、またひとつ静かな火が灯るのを感じた。
「……美織さん、いつもありがとうございます」
そっと声をかけると、美織は一瞬きょとんとしたように目を丸くし――それから、柔らかな笑みを浮かべた。
「いえ……こちらこそ。皆さんのお顔を見ていると、私まで元気をいただけますから」
その言葉に、朔也も自然と微笑み、少し目を伏せるようにして湯呑を手に取る。
交わす言葉は短く、どこか控えめで、照れくささすら含んでいる。
けれどそのやり取りの中には、言葉では語りきれない穏やかな思いが、ゆっくりと満ちていた。
朔也は一つ、団子をそっと摘み上げると、湯気の向こうにいる美織の方へ、やわらかな笑みを向けた。
「……今日も、美味しそうですね」
その声は、どこか照れを滲ませながらも、真っ直ぐだった。
無理に飾らず、茶化すこともなく。ただ、伝えたい想いを一つずつ丁寧に選ぶような、そんな眼差し。
美織はふわりと微笑んだ。
「ふふ……よかったです。今日は、あんこを多めに炊いたんですよ」
そう言って見せた笑顔には、柔らかさとほんのわずかな自信がのぞいていた。
「天城さん、甘いものがちょっと苦手って……こっそり聞いたことがあって。だから、皮は薄く、あんこはやわらかめにしてみたんです。……口どけがよくなるように」
その言葉に、朔也はわずかに眉を上げ、苦笑を浮かべた。
「……なんだか“気を遣わせてしまっている感”が強いんですが……」
「そ、そんなことないですっ」
美織は小さく首を振り、頬を染めながらも、しっかりとした声で続けた。
「……天城さんが、美味しそうに食べてくださるから、つい……工夫したくなるんです」
そう言って、指先でそっと湯呑の縁をなぞくようにしながら目を伏せる。
「“うまい”って言ってくださる時、ちょっとだけ間がありますよね? あれが……なんだか、とても嬉しくて」
その小さな告白に、朔也は一瞬だけ目を見開き、それからふっと息を抜くように笑った。
「……たぶんそれ、“内心で喜びがあふれてるのを隠してる時間”ですね」
目を逸らすように言った朔也の横顔に、美織の頬がいっそうやわらかく染まっていく。
まるで、寒空に咲く梅の花のように。
「じゃあ……今日のも、“うまい”って、言ってくれますか?」
美織がそっと問いかけたその瞳は、まっすぐで、どこか期待を込めた光を湛えていた。
「もちろん」
朔也は短く頷くと、団子を静かに口へ運んだ。
やわらかなあんこの甘さが舌に広がり、香ばしい皮がほろりとほどけてゆく。そのひと口で、心までもゆるむようだった。
一拍置いて、朔也はぽつりと口にする。
「……うまい」
その短くも確かな一言に、美織は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、湯気越しの朝陽に透けるように淡く揺れ、誰よりも優しく、やさしく場を照らしていた。
朔也は湯呑をそっと持ち上げ、一口啜る。
その手元に、美織が自然な動きで湯を注ぎ足す。
「寒くないですか?」
ふと差し出されたその問いに、朔也はゆるやかに目を向けた。
「……いや。今は、ちょうどいい」
その返事が、お茶の温もりを指していたのか。
それとも、そっと隣に佇む彼女のぬくもりを指していたのか。
美織は問い返さず、ただ静かに目を伏せて、微笑んだだけだった。
そのやり取りを、少し離れた廊下の陰からそっと見守っていたのは、真木智久と朝倉洸太だった。
湯気の向こうで微笑み合う朔也と美織の姿を見つめながら、真木がそっと肘で洸太をつつく。
「……ねえ、洸太。あの二人、ちょっといい感じじゃない?」
声は低く、ひそめられていたが、どこか愉快そうだった。
洸太は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく頷いた。
「……うん。なんていうか……空気が、やわらかいっていうか」
視線の先には、肩を並べて湯呑を手にする二人の姿。
洸太の言葉は短く、不器用だったが、そこに込められた感情は、真木にははっきりと伝わっていた。
真木はくすっと笑い、問いかけるように目を細める。
「美織さん、今日……いつもより、笑ってる気がするな」
「……そう、かも」
洸太は控えめに応じながらも、目元に淡い笑みを浮かべていた。
その眼差しには、どこか安心したような――敬愛にも似たやわらかさが宿っている。
ふと、真木がぽつりと呟いた。
「……俺、ここに来れて、本当によかったなって思うよ」
まるで自分に言い聞かせるようなその言葉に、洸太もこくりと頷いた。
「……うん。わかる。俺も……たぶん、そう」
それ以上は多くを語らずとも、その想いは十分に通い合っていた。
縁側に差し込む朝の陽射しが、湯気を立てる湯呑を静かに照らしている。
日々の忙しさのなかで、忘れそうになるもの。
誰かの笑顔や、あたたかな言葉で、心がふっとほどけてゆくこと。
それは、決して派手ではない。
けれど――だからこそ、かけがえがない。
今日も、香月道場にはいつもと変わらぬ日常が流れている。
けれど、そのささやかなやり取りのひとつひとつが、小さな絆となって、静かに根を張っていく。
いつか、誰かが願った「守りたいもの」。
その想いは、いま――この場所で、確かに息づいていた。
朝の冷気に包まれた香月道場では、まだ陽も高くない時間だというのに、早くも活気に満ちた気配が広がっていた。
年末恒例の大掃除――とはいえ、開門してからまだ一月足らずの新しい道場だ。柱も床も磨かれており、目立った汚れなど見当たらない。
それでも“年の瀬”という節目を大切にするように、門弟たちは思い思いに掃除道具を手に取り、床を拭き、柱を磨き、庭の落ち葉を拾いながら、にぎやかに動き回っていた。
やわらかな声が、堂内に心地よく響く。
「……皆さん、おはようございます。怪我のないよう、ゆるりといきましょう」
穏やかでありながら芯の通った声。発したのは、天城朔也だった。
この日、師範である香月悠臣は所用のため、早朝より門を出ていた。代わって、掃除の取りまとめを任されていた朔也が、静かに場をまとめていた。
几帳面というよりは、丁寧で柔らかな口調。けれどその立ち姿にはどこか頼もしさがあり、門弟たちも自然と耳を傾け、手を動かし続けている。
「掃き掃除、雑巾掛け、それから庭の落ち葉拾い。分担して、終わったら教えてください」
「「はーい!」」
若い門弟たちの明るい返事に、朔也は目を細め、静かに頷いた。
――その直後だった。
「そーれっ!」
不意に背中に、やわらかな衝撃が走る。ぱふん、と布の当たる音。
「うおっ……誰だ?!って、桐原!」
振り向けば、にやにやと笑う桐原篤哉の姿。手には、天井から下ろしたばかりのハタキが握られていた。
「へっへっへ、気ぃ抜いてたな。これが“掃除の奇襲”や!」
まるで悪戯好きな少年のような顔で、桐原は誇らしげに笑っている。
「やめろ、俺の背中は埃取りじゃない」
「いやいや、これは天井の埃が朔也に吸い寄せられただけや。むしろ誇ってええんちゃうか?」
「……じゃあ、お前の顔にも埃を分けてあげようか」
「おっ、やる気やな! ほな勝負や!」
そのまま二人は、畳の上で軽快な“ハタキ合戦”を繰り広げる。
ぱふっ、ぱふっと布が舞い、時に本気とも思える応酬が続く。
最初は呆気に取られていた門弟たちも、やがて笑い出した。「あれが香月道場の掃除……?」と呟く声にすら、どこか親しみがこもっていた。
和やかな笑いが、堂内の空気をやさしく包んでいく。
そんな中――
「……何をしているんだか」
縁側に腰を下ろしていた御影直熙が、深いため息と共に小さくつぶやく。
膝の上には、きっちりと角を揃えた雑巾。
その隣では、朝倉洸太と真木智久が無言で柱の拭き掃除に集中していた。
直熙もやがて立ち上がり、木目を指先で確かめるように柱に触れながら、丁寧に雑巾を滑らせていく。
「……どうせ数日後にはまた泥を持ち込むんだ。年末という言葉に踊らされるとは、実に愚かしい」
皮肉交じりに言い放ちながらも、その手つきは誠実そのものだった。
真木が、ふっと小さく笑う。
「でも、だからこそ、ですよね」
静かに続いた洸太の声もまた、穏やかだった。
「俺、今年この道場に来られて、本当によかったと思ってます」
「……だな。新年も、ここで迎えたい」
その言葉に、直熙はふと手を止めた。
何かを噛みしめるように小さく目を伏せ――そして、低く鼻を鳴らしてから、再び無言で柱を磨きはじめた。
廊下の向こうでは、朔也が得意げな勝利ポーズを決め、桐原が「やられた~っ」と大げさに倒れ込む。
若い門弟たちが笑いながら雑巾掛けを続ける様は、まるで――“家族”のようだった。
そのときだった。
木戸の向こうからふわりと届いたのは、柔らかな声と、湯気を含んだ香り。
「皆様、お疲れさまです」
台所の帳から、そっと顔を覗かせたのは香月美織だった。
両手に抱えていたのは、品のよい黒塗りの盆。
その上には、湯気の立つ茶の湯呑と、こぶりで愛らしい手作りの串団子が彩りよく並んでいる。
あんこ、きなこ、みたらし――
三種三様の団子は、まるで咲きはじめの春の花のように、素朴な中にも心づくしが宿っていた。
「お茶と、お団子をどうぞ。……あんこも、ちゃんとありますよ」
控えめながらも、どこか嬉しそうに告げるその声。
その瞬間、畳の上から桐原が跳ね起きた。
「出た! 女神の差し入れタイムやっ!」
歓声を上げながら、滑るように廊下を駆けていく桐原の姿はまさに全力投球。道場中に、ぱっと明るい笑いが広がる。
「こら、走るな!」
朔也がすかさず腕を伸ばし、桐原の襟首を絶妙なタイミングでつかまえる。
「うわっ、止めんなや~っ! その団子は、俺の運命の相手やったんやぁ……!」
襟をつままれたまま情熱的に訴える桐原の声に、門弟たちはまた一斉に笑い出す。
くすくす、わははという声が、畳の上にあたたかく降り注いだ。
「相変わらず、にぎやかですね……ふふっ」
美織が盆を抱えたまま笑みを浮かべると、彼女のその微笑みひとつで、道場の空気がさらにやわらかく、ふわりと解けていくようだった。
艶やかに結われた髪、控えめながら季節に寄り添った着物の色合い。
そこに宿る気配は、どこか春の陽差しのようで、自然と人の目を惹きつける。
(……こうして、皆さんに声をかけられるようになったのは、いつからだったかしら)
美織は静かにそう思った。
かつて、自分は「香月家の令嬢」として見られていた。
距離を取るための丁寧さ。敬意の奥に漂う、見えない遠慮の壁。
それは近づこうとすればするほど、どこかで一線を引かれてしまうような、そんなもどかしさだった。
けれど、いま。
朔也に止められながらも団子に突進する桐原。
そのやりとりを笑いながら見守る門弟たち。
自分はそのすぐそばで、団子を配ろうとしている。
(……嬉しいな)
この輪の中に、自分も“居ていい”と、心から思える。
兄――香月悠臣が道場を開いたとき、きっと彼も、こういう風景を願っていたのだろう。
剣を学び、心を重ね、笑い合いながら強くなっていく場所。
誰かの手に守られるのではなく、皆で手を取り、育てていく“居場所”。
(……守りたい)
そんな言葉が、ふと胸に浮かぶ。
誰かを助けられるほどの力は、自分にはないかもしれない。
けれど、この笑顔、この空気、このかけがえのない時間だけは、絶対に守りたい――そう思った。
団子の香ばしい香りと、湯気を立てる茶のあたたかさが、道場の空間に優しく溶けていった。
そのとき、誰かがぽつりと呟いた。
「……香月道場、なんか……あったかいっすね」
「……そうだな」
朔也が短く応じると、その横顔にふと微笑が浮かぶ。
けれど、その胸の奥では、確かな想いが静かに息づいていた。
(……ああ、本当に、そう思う)
ほんの数ヶ月前まで、自分は京で暮らしていた。
没落した天城家に、かつての名誉も誇りも残ってはいなかった。藩の庇護も薄れ、先の道も見えぬまま、ただ日々をやり過ごしていた。
ふと思い立ったように江戸の屋敷へ戻ったあの日、香月悠臣が道場を開門するという話を耳にした。
それは、ただの偶然にすぎなかった。
けれど――開門の日、ふと足を運び、試しの稽古に名乗りを上げたとき。
目の前に立った悠臣の、澄んだ眼差しと、揺るがぬ芯を目にして。
(……この人のもとで、剣を学びたい)
気づけば、心がそう動いていた。
威圧で人を縛らず、信念で人を導く剣士。
その背に並んで歩むことが、自分にとっての“再出発”なのだと、あの瞬間に悟った。
そして今、こうして目の前にあるこの風景――
笑い合う仲間たち。
団子を手にして微笑む美織。
ほのかに立ちのぼる湯気と、満ちていく温もり。
この道場が、ただ剣を学ぶだけの場所ではなく、人と人とが心を通わせ、つながっていく場所として、確かに育ちつつあることを、朔也は誰よりも感じ取っていた。
ふと、盆の団子を並べる美織の手元に目をやる。
頬をわずかに染め、湯気に包まれながら、ふんわりと笑うその姿に。
朔也の胸の奥に、またひとつ静かな火が灯るのを感じた。
「……美織さん、いつもありがとうございます」
そっと声をかけると、美織は一瞬きょとんとしたように目を丸くし――それから、柔らかな笑みを浮かべた。
「いえ……こちらこそ。皆さんのお顔を見ていると、私まで元気をいただけますから」
その言葉に、朔也も自然と微笑み、少し目を伏せるようにして湯呑を手に取る。
交わす言葉は短く、どこか控えめで、照れくささすら含んでいる。
けれどそのやり取りの中には、言葉では語りきれない穏やかな思いが、ゆっくりと満ちていた。
朔也は一つ、団子をそっと摘み上げると、湯気の向こうにいる美織の方へ、やわらかな笑みを向けた。
「……今日も、美味しそうですね」
その声は、どこか照れを滲ませながらも、真っ直ぐだった。
無理に飾らず、茶化すこともなく。ただ、伝えたい想いを一つずつ丁寧に選ぶような、そんな眼差し。
美織はふわりと微笑んだ。
「ふふ……よかったです。今日は、あんこを多めに炊いたんですよ」
そう言って見せた笑顔には、柔らかさとほんのわずかな自信がのぞいていた。
「天城さん、甘いものがちょっと苦手って……こっそり聞いたことがあって。だから、皮は薄く、あんこはやわらかめにしてみたんです。……口どけがよくなるように」
その言葉に、朔也はわずかに眉を上げ、苦笑を浮かべた。
「……なんだか“気を遣わせてしまっている感”が強いんですが……」
「そ、そんなことないですっ」
美織は小さく首を振り、頬を染めながらも、しっかりとした声で続けた。
「……天城さんが、美味しそうに食べてくださるから、つい……工夫したくなるんです」
そう言って、指先でそっと湯呑の縁をなぞくようにしながら目を伏せる。
「“うまい”って言ってくださる時、ちょっとだけ間がありますよね? あれが……なんだか、とても嬉しくて」
その小さな告白に、朔也は一瞬だけ目を見開き、それからふっと息を抜くように笑った。
「……たぶんそれ、“内心で喜びがあふれてるのを隠してる時間”ですね」
目を逸らすように言った朔也の横顔に、美織の頬がいっそうやわらかく染まっていく。
まるで、寒空に咲く梅の花のように。
「じゃあ……今日のも、“うまい”って、言ってくれますか?」
美織がそっと問いかけたその瞳は、まっすぐで、どこか期待を込めた光を湛えていた。
「もちろん」
朔也は短く頷くと、団子を静かに口へ運んだ。
やわらかなあんこの甘さが舌に広がり、香ばしい皮がほろりとほどけてゆく。そのひと口で、心までもゆるむようだった。
一拍置いて、朔也はぽつりと口にする。
「……うまい」
その短くも確かな一言に、美織は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、湯気越しの朝陽に透けるように淡く揺れ、誰よりも優しく、やさしく場を照らしていた。
朔也は湯呑をそっと持ち上げ、一口啜る。
その手元に、美織が自然な動きで湯を注ぎ足す。
「寒くないですか?」
ふと差し出されたその問いに、朔也はゆるやかに目を向けた。
「……いや。今は、ちょうどいい」
その返事が、お茶の温もりを指していたのか。
それとも、そっと隣に佇む彼女のぬくもりを指していたのか。
美織は問い返さず、ただ静かに目を伏せて、微笑んだだけだった。
そのやり取りを、少し離れた廊下の陰からそっと見守っていたのは、真木智久と朝倉洸太だった。
湯気の向こうで微笑み合う朔也と美織の姿を見つめながら、真木がそっと肘で洸太をつつく。
「……ねえ、洸太。あの二人、ちょっといい感じじゃない?」
声は低く、ひそめられていたが、どこか愉快そうだった。
洸太は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく頷いた。
「……うん。なんていうか……空気が、やわらかいっていうか」
視線の先には、肩を並べて湯呑を手にする二人の姿。
洸太の言葉は短く、不器用だったが、そこに込められた感情は、真木にははっきりと伝わっていた。
真木はくすっと笑い、問いかけるように目を細める。
「美織さん、今日……いつもより、笑ってる気がするな」
「……そう、かも」
洸太は控えめに応じながらも、目元に淡い笑みを浮かべていた。
その眼差しには、どこか安心したような――敬愛にも似たやわらかさが宿っている。
ふと、真木がぽつりと呟いた。
「……俺、ここに来れて、本当によかったなって思うよ」
まるで自分に言い聞かせるようなその言葉に、洸太もこくりと頷いた。
「……うん。わかる。俺も……たぶん、そう」
それ以上は多くを語らずとも、その想いは十分に通い合っていた。
縁側に差し込む朝の陽射しが、湯気を立てる湯呑を静かに照らしている。
日々の忙しさのなかで、忘れそうになるもの。
誰かの笑顔や、あたたかな言葉で、心がふっとほどけてゆくこと。
それは、決して派手ではない。
けれど――だからこそ、かけがえがない。
今日も、香月道場にはいつもと変わらぬ日常が流れている。
けれど、そのささやかなやり取りのひとつひとつが、小さな絆となって、静かに根を張っていく。
いつか、誰かが願った「守りたいもの」。
その想いは、いま――この場所で、確かに息づいていた。
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優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
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田沢みん
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