【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第三章

その名を背負う者として

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 冬枯れの町並みを静かに縫うようにして、香月悠臣を乗せた駕籠が、香月本家の門前へと滑り込んだ。
 乾いた風が通りを吹き抜け、曇天の空が灰色の影を町屋の瓦に落とす、どこか沈んだ午後だった。

 門はすでに開かれていた。

 それはすなわち──悠臣が「待たれていた」ことの、何より雄弁な証だった。

 門前に控えていた中間が、音もなく一礼し、静かに道を空ける。
 言葉ひとつ発せられずとも、その沈黙が、この場に漂う緊張を明確に物語っていた。

 普段であれば、実家の門をくぐることに、これほどの重みを感じることはない。
 だが、今日ばかりは違っていた。

 ──数日前に起きた“誤斬事件”。
 十五歳の門弟・弘太が市中で浪士を斬り殺したという衝撃の一件は、発生からほどなくして香月家本家へと伝えられていた。

 町奉行所も動いた騒動である。
 当然のように、香月家当主・忠臣、そして長兄・鷹臣の耳にも即座に届いた。

 本来であれば、悠臣は即刻呼び出されてしかるべき立場だった。

 だが、道場内の混乱収拾に加え、奉行所や遺族との応対が続いたことで、本家への報告が後回しとなっていたのである。

 ──そして、数日。

 ようやく後始末に目処が立ち、今日、こうして本家の敷居をまたぐこととなった。

 玄関から続く廊下を歩む足音が、やけに硬く冷えた板張りに反響する。
 一歩進むごとに、背にかかる重圧がじわりと増していく。

 広間の前で立ち止まったその刹那、奥から低く、簡潔な声が響いた。

「入れ」

 悠臣は障子を静かに開け、正座して深く頭を垂れる。

「ただいま戻りました。お呼びいただきながら、遅れて申し訳ありません」

 静寂が支配する広間には、ふたりの男が待っていた。

 一人は、香月家当主──父・香月忠臣。
 研ぎ澄まされた眼差しと揺るがぬ姿勢を持つ、老練の武士。
 言葉なくとも、ただ座すだけで場の空気が張り詰める。

 もう一人は長兄・香月鷹臣。
 悠臣とは対照的に、堂々たる風格と存在感を湛え、次代を担う者として家中の信望を集めている。

 忠臣は、頭を垂れたままの悠臣に鋭い視線を注ぎ、やがて重く口を開いた。

「……お前の道場の門弟が、人を斬ったと聞いた」

「はい。事実に相違ございません」

 端的な返答に、忠臣の眼差しがさらに鋭さを帯びる。

「では問う。その斬られた浪人は──刀を抜いていたのか?」

 一瞬の沈黙。
 悠臣はゆるやかに息を吐き、静かに顔を上げた。その目には、一点の偽りもなかった。

「……抜いてはおりませんでした。目撃証言および現場の状況から見て、誤認による過失の可能性が濃厚です」

 その言葉が落ちた瞬間、隣に座していた鷹臣が短く息を吐いた。

「ならば──香月の名を背負った者が、人を誤って斬ったということになる。
 しかも、まだ十五の未熟な少年の手で、だ」

 語調は抑えられていたが、そこに宿る怒りと失望は隠しきれなかった。

 それでも悠臣は、一度も視線を逸らすことなく、真正面から受け止めていた。

 香月忠臣の低く沈んだ声が、凍てつくような静けさを割って広間に響いた。

「……道場を預かるということが、どれほどの責任を伴うか。お前は、まだそれを解っていなかったようだな」

 その声音には、父としての怒りだけでなく、一門の長としての失望と警告が色濃くにじんでいた。

 悠臣は、ひと言も返さず、膝の上に置いた手をゆっくりと握り込む。爪が皮膚に食い込むのも気にせず、ただ黙して耐える。

「一介の指導者では済まぬ。
 “香月”の名を掲げている以上、その名のもとに集う者の行動すべてが、“お前の指導の結果”として問われるのだ」

「……はい」

 静かに、しかし力のこもった返答。

 忠臣はわずかに眉をひそめたあと、さらに言葉を重ねた。

「まして、斬られた浪人は刀すら抜いておらず、争いに加わっていた形跡もないと聞く。
 お前の道場の者は、“恐れ”に呑まれ、命を奪ったのだ。……その意味がどれほど重いか、理解しているのか」

「……はい。重々、承知しております」

 悠臣の声には迷いがなかった。けれどその眼差しの奥に、深い悔恨の影があった。

 忠臣はそれ以上言葉を重ねず、静かに目を伏せた。
 その重みは、悠臣の沈黙の中に、深く染み込んでいく。

 やがて、その張り詰めた空気を破ったのは長兄・香月鷹臣だった。

「……父上。お怒りはごもっともです。しかし、事はすでに起きてしまった」

 声音は静かだったが、内に抱える緊張と責任を滲ませている。

 鷹臣は弟の方へゆっくりと視線を移す。

「悠臣。お前に問う。弘太──あの門弟を、このまま道場に留めておくつもりか?」

 その問いに、悠臣は即座に応じられなかった。
 問いかけられるまでもなく、それはここ数日、頭から離れなかった問題だったからだ。

「……弘太本人は、まだ精神の均衡を保てておりません。
 自分が“人を斬った”という事実を、受け止めきれていない様子です。
 稽古に戻すことは現時点では不可能であり、まずは心身の安定を最優先と考えております」

 鷹臣の目が細くなる。

「つまり……“見極め中”というわけか。
 であれば、いずれ何らかの処遇を下す覚悟はあると?」

「……はい。彼の過失を庇い立てする意図はありません。
 ただ、彼が過ちと正面から向き合い、成長し、再び剣を握れるようになるのなら──
 その未来に、賭けてみたいのです」

「……甘いな」

 忠臣の声が、鋭い刃のように落ちた。

「情は剣の道には不要だ。
 一度過ちを犯した者を留め置くことは、他の者の心にも影を落とす。
 “許し”とは、本人でもお前でもなく、被害者と世が与えるもの。
 お前の独り善がりな情など、何の意味も持たん」

 悠臣は、その厳しい声を受け止めながら、静かに頭を垂れる。

「……重ねて申し上げます。
 私は、道場主として、この件のすべての責を負います。
 弘太の進退も含め、最終的な決断は、私の名において下す覚悟です」

 広間に、再び静寂が訪れる。
 けれど先ほどまでの緊張とは少し違い、どこか、試すような静けさだった。

 やがて──忠臣が、重々しく息を吐いた。

「……好きにせよ。
 だが忘れるな。その判断が誤っていたとき、“香月”の名は再び立てぬほどの傷を負う。
 お前が負うのは、その覚悟だ」

「心得ております」

 悠臣の返答は、短くも揺らがなかった。

 そのとき、鷹臣がふと声を落とした。

「……遺族への対応は、どうするつもりだ?」

「すでに書状をしたためました。明日、私が自らお詫びに伺います。
 言い訳はいたしません。ただ、真心と誠意をもって向き合います」

 鷹臣はその言葉を聞いてしばし目を伏せ──やがて、静かに頷いた。

「……それが“道場主”の姿ならば、見せてみせろ。
 剣術を教えるだけが道場ではない。人を導くことを、決して忘れるな」

 忠臣がゆるやかに立ち上がり、悠臣に背を向けて短く言い放つ。

「……下がれ」

「はっ」

 忠臣と鷹臣の叱責を終え、悠臣は静かに深く頭を垂れた。
 その背に──まるで空気を裂くように、もう一つの声が降る。

「……それと、もう一つだけ言い忘れていましたよ」

 涼やかに張った女の声に、悠臣の肩がわずかに震えた。

 声の主は、香月家の母──佐江である。

 焚きしめた香のように静かな衣の香りと共に、佐江はすっと広間に現れた。
 その姿ひとつで、場の空気が張り詰めていく。

「美織を、すぐに本邸へ戻しなさい」

 ただ、それだけの一言だった。
 けれど、その重みに悠臣は反射的に顔を上げる。

「……母上……?」

 佐江の表情に揺らぎはない。
 その眼差しは冷たくも、決して情を欠いているわけではなかった。むしろ、母としての断固たる意志が、はっきりとそこに宿っていた。

「聞こえなかったとは言わせませんよ、悠臣。
 あの子はもうすぐ十六。もはや幼子ではありません。
 すでに幾つもの家から、正式な縁談の打診も受けております」

 静かな口調だったが、その言葉には一切の容赦がなかった。

「それにもかかわらず、あなたの道場で朝から晩まで働き、男所帯の中に平然と出入りするなど──
 娘として、どれほど“見苦しい”姿か。
 この香月の名を背負う者としての品位を、あなたはどうお考えなのです?」

 悠臣は、言葉を返さず、ただ黙して視線を落とした。

 佐江は一歩、音もなく踏み出す。

「今回の騒動──門弟が人を斬ったという事実は、やがて世間に広まるでしょう。
 そうなれば、責めを受けるのは道場だけでは済みません。
 “香月家”全体が、その目に晒されるのです」

 語調は穏やかなままだが、その鋭さは研ぎ澄まされた刃のようだった。

「そのうえで、美織が“事件のあった場に出入りしていた”などと知れ渡ったら──
 ご縁談はすべて白紙。娘の将来を、あなたが台無しにするのですよ」

 それはただの叱責ではなかった。
 母として、家の主婦として、一門を守る者としての覚悟の言葉だった。

「……それでも“香月流道場”という看板を掲げ続けたいというのなら──」

 一拍の間を置き、佐江の眼差しが悠臣を貫いた。

「その覚悟を、しかとお持ちなさい。
 我が家の名誉を賭けて申し上げます。
 もし、この一件が原因で美織の将来に少しでも傷がついたなら──あなたは、自ら道場の看板を下ろしなさい」

 その宣言は、氷のような静けさをもって広間に沈んだ。
 言葉の余韻が、誰の胸にも重く残る。

 悠臣は膝の上でゆっくりと拳を握りしめ、深く頭を垂れる。

「……承りました」

 押し殺したような低い声。
 だが、そこに逃げや否定の色はなかった。
 その背には、背負うべき重さをしっかりと受け止める意志が宿っていた。

 佐江はそれ以上言葉を重ねることなく、静かに身を翻す。
 凛と伸びた背筋は、最後まで揺るがなかった。

 そして彼女が広間を去ったあとも──その威厳と沈黙の余韻だけが、なおそこに残り続けていた。

 母の姿が襖の向こうに消えた後も、悠臣はその場から動けなかった。
 深く頭を垂れたまま、静寂だけが重く降りてくる。

 背には、冷えた柱の感触。
 膝の上に置いた掌には、深く食い込んだ爪の痕が生々しく残っていた。

 それほどに強く握りしめていたことさえ、今はもう意識になかった。
 ただ、心の奥でひと筋、ぴしりと音を立ててひびが走る──

(……道場の看板を下ろす覚悟)

 その一言は、あまりに重かった。
 口にするだけなら簡単だ。だが、背負ってきた年月すべてを否定するに等しい。

 香月の名を掲げる者として。
 迷う者の背に手を添え、折れかけた剣を支えてきた者として──

 香月悠臣にとって道場とは、ただ剣を教える場所ではなかった。
 技だけではなく、「生き方」そのものを形にし、誰かの“居場所”を作るという意志の証明だった。

 そのすべてが今──
 妹の将来という、あまりに現実的で具体的な重みのもとに、突きつけられている。

(……否応なく、浮かんでしまう)

 美織の姿が脳裏に揺れる。
 朝早くから湯を沸かし、門弟の衣を気にかけ、冗談に頬を染めながらも、ふと何かを堪えるように視線を逸らす、あの横顔。

 美織は、道場を「家」のように思い始めていた。

 だがその笑顔の裏に、社会が娘に求める「理想像」が冷たく影を差していることを──
 悠臣も、分かっていた。

(……俺は、美織の未来にとって、足枷なのか)

 その問いは、剣の刃よりも深く、容赦なく心を斬り裂く。

 道場を守るために、美織を切り離すのか。
 それとも、美織の未来のために、この場所を手放すのか。

 どちらを選んでも、確かに何かを失う。

 けれど──

 ふと、弘太の顔が思い浮かぶ。
 血の気を失った頬、言葉も震える声。
 その傍らで肩を貸す門弟たちの姿。誰もが怯え、迷いながらも、あの場所に立ち続けていた。

 誰かが過ちを犯したとき、それを咎めるだけでなく、共に向き合える場所がなければ。
 人は、ただ独りで崩れていく。

 だからこそ、自分は道場を築いたのではなかったか。

 剣における勝ち負けのためではない。
 迷い、傷つき、それでも前へ進むための“場所”をつくるために──

 悠臣は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に、まだわずかな揺らぎが残る。
 けれどその奥で、決して消えない火が、確かに燃えていた。

(……俺が、選ぶ。俺が、背負う)

 兄として。
 香月流道場の主として。

 美織の未来も、門弟たちの行く末も。
 誰かに託すのではなく、自分の手で守り抜く。

 その覚悟が、今、悠臣の胸の奥に──
 静かに、しかし力強く、根を下ろしていった。
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