【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第三章

覚悟の微笑み

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 障子が閉まってからというもの、悠臣の気配が広間に戻ることはなかった。
 残された静寂が、置き去りにされた空気に重くのしかかり、場を支配している。

 朔也は、ふと視線を落とした。

 ──香月美織。

 彼女はまだ、深く頭を垂れたままだった。
 まるで誰の声も届かぬところに、自らを閉じ込めているかのように。

 朔也は、手にしていた箸を静かに置いた。
 それは、喉の奥に詰まった言葉にならぬ違和感を、噛み殺すような動作だった。

(……「戻らせていただく運びとなりました」)

 耳に残っているのは、美織が先ほど告げた言葉。
 式次第の一文のように整いすぎていて、感情の揺らぎを一切許さないような声音だった。

 けれど、だからこそ。

 その過剰な整然さが、かえって彼の胸をざわつかせてやまなかった。

(あれは……“決意”の声じゃない)

 美織は微笑んでいた。
 声も所作も、いつものように穏やかだった。

 けれど、その奥に潜んでいたものは──
 誰にも触れさせまいとする、凍てついた氷のような孤独だった。

 ほんの刹那、伏し目がちになったまなざし。
 言葉の端に微かに滲んだ震え。
 それらすべてが、無意識のうちに朔也の胸を突いていた。

 美織は、誰よりも強くあろうとする人だ。
 無理をしていると気づかれても、きっと「大丈夫です」と微笑んでしまう。
 その芯の強さを、朔也は誰よりも知っていたつもりだった。

 ──けれど、あの言葉に宿っていたのは、強さではなかった。
 それは、“諦め”の匂いだった。

 気づきながら、何も言えなかった。
 自分が何者で、彼女が誰で、二人の間にどれほどの隔たりがあるのか。
 その現実が、朔也の口を封じていた。

(……俺には、何もできないのか)

 喉の奥がひどく苦しくなる。
 守りたいと思った。──生まれて初めて、そう思った人だった。

 剣でもなく、理屈でもなく。
 ただ隣にいて、笑っていてくれたらそれでいいと、そう願った相手。

 だがその人は、今──
 「香月美織」としての道を、誰にも縋らず、自ら歩こうとしている。

 いや、それが「意思」ではなく「諦念」であることを、朔也は分かっていた。
 それでも、自らそう選んだのなら──
 自分がそれを引き留める資格などあるのか、と。

 ふいに、美織が顔を上げた。

 笑っていた。
 それは誰にでも向けられる、礼儀と感謝の形をなぞった、美しい微笑だった。

「……お片付け、わたくしがいたしますね」

 その声に、直熙と桐原がわずかに肩を動かす。
 張りつめていた空気に、ほんの少しだけ日常の温度が戻る。

 けれど、朔也は応じなかった。

 ただ黙ったまま、美織の背を見つめていた。

 この背中に、もし触れてしまったら──
 きっと、何かが崩れてしまう。
 それほどに、いまの彼女は脆く、危うげだった。

 それでも、美織は振り返らない。

 どれほどの痛みを抱えていても、
 彼女は「香月の娘」としての務めを、最後まで果たそうとしている。

 朔也は、歯を食いしばる。

 心の奥で、きしむような音がした。
 それでも、自分には何もできない。ただ、見送ることしかできない。

 ──それが、彼にできる、唯一の誠実だった。

 微笑をたたえたまま、美織が静かに広間を去ると──
 その場には、言葉を失ったような沈黙が舞い降りた。

 誰ひとり、箸を持とうとせず。
 湯呑みに手を伸ばす者もいない。

 囲炉裏で揺れる炎のぬくもりすら、
 今はただ虚ろにそこに在るだけのようだった。

 重く垂れ込めた空気を、最初に破ったのは桐原篤哉だった。

「……本邸に戻るっちゅうことは、つまりやなぁ……」

 気の抜けたような声を漏らしながら、
 冷めた煮しめを箸先でいじる。

 一見ぼやきめいた調子ながら、
 その奥には、核心を突こうとする意志がほの見えた。

「香月の娘として、家の役目を果たす……っちゅうことやろ? ってことはやな──」

 その続きを、御影直熙が穏やかに遮った。

「……縁談、だな」

 声音は静かだったが、張り詰めた緊張がこもっていた。
 まるで、口にしたくなかった真実を吐き出すような。

「香月家の令嬢ともなれば、縁談は引く手あまた。
 中級・上級武士の嫡男、地方藩の江戸詰め家臣の家──
 あるいは、家格を求める富裕な商家までもが接触を図ってくる。
 ……既にいくつか、水面下では動いていると聞く」

 それを聞いた桐原は、あからさまに顔をしかめた。

「……十五そこらの娘に、こぞってオッサン共が群がるんやろ? ……おっそろしい世界やなぁ……」

 肩をすくめ、身震いして見せる仕草に冗談めいた色を添えながらも、
 その目は、どこか切なげだった。
 それは年若い少女の運命を、どこか受け止めきれずにいる、素直な憂いの色。

「もう、いっそのこと──朔也が娶ったらええんちゃうんか。
 ……そうなったら、丸く収まるやろ?」

 軽く放たれたその言葉は、どこまでも冗談のように響いた。
 けれど、その場に落ちた瞬間、空気がぴたりと止まった。

 ……息を呑むような静寂。

 それまで黙していた天城朔也が、音もなく立ち上がったのだ。

 その動きに、荒々しさはなかった。
 けれど──たしかな熱が宿っていた。
 それは怒りとも哀しみともつかぬ、名づけようのない衝動。

 視線を上げた朔也の表情には、
 普段の柔らかさは一切なく──
 鋭く引き結ばれた目元が、真っ直ぐに一点を見据えていた。

「……あっ」

 篤哉が何か言いかけたが、
 それより早く、朔也は一言も発さぬまま踵を返し、広間を後にした。

 すぅ……と静かに閉まった障子の音が、妙に重く耳に残った。

 しばらく、誰も動かなかった。

 やがて、戸口をじっと見つめていた篤哉が、気まずげに頬をかきながらぽつりと漏らした。

「……あかん、なんか……気に障ること、言うたんやろか……」

 その横で、御影直熙が静かに茶をすする。
 その仕草すら、どこか鋭利なものに見える。

「鋭利な刃物で八つ裂きだな、桐原」

「……ひぃっ。さらっと怖いこと言わんといてや……」

 桐原は肩を竦め、冗談交じりに笑おうとしたが、どこか空回り気味だった。

 広間に再び訪れた沈黙のなか、
 ただ囲炉裏の火だけが、ぱち……と小さく音を立てていた。
 その火の音だけが、わずかに残された温もりのように、静かに揺れていた。

 朔也の背が障子の向こうに消えてもなお、桐原篤哉はぽかんとした顔のまま、しばしその戸口を見つめ続けていた。
 やがて、ふぅ、と息を吐き、肩の力を抜くように大きく呼吸を整えると、囲炉裏の前で胡坐をかき直す。

「……ほんま、あいつにしちゃ珍しい顔しとったな」

 ぽつりとこぼれたその呟きに、御影直熙は湯呑を傾けながら、ちらりと視線だけを向けた。

「穏やかで通ってる天城が、あそこまで露骨に感情を見せるなんてね」

「せやろ。……なんやろな、あの顔。怒ってたんか、悲しんでたんか、それとも──」

「両方だろうな。それに加えて……自分への無力感もあったはずだ」

 直熙の声音は低く抑えられていたが、言葉には迷いがなかった。

「想いがあっても、口にできない。口にしたところで、届かない。……そんな状況に置かれるのは、案外、剣の稽古より堪えるものさ」

 篤哉は手元の湯呑を指先でくるくると回しながら、しばし考えるように間を置き、ぽつりと漏らす。

「……なぁ、直熙。朔也って──美織ちゃんのこと、好きなんやろか」

 その問いに、直熙は眉をわずかにひそめるが、すぐに目を伏せて静かに返した。

「……本人が口にしたわけじゃないが、見れば分かるだろ」

「せやんなぁ。じゃなきゃ、あそこまで顔に出すかいな。あいつが、やで?」

「ああ。きっと、好きなんだろう。だからこそ、言わずに去ったんだ」

 直熙の声の端には、淡く切なげな余韻が滲んでいた。

 篤哉はぽりぽりと頭をかき、どこか気恥ずかしそうに笑った。

「でもやなぁ……言うたらええんちゃうんか。“好きや”“手放したない”って。立場とか家とか関係あらへん、想いだけで押し切ったら──」

「……それが通らない立場だと、彼が一番わかってる。だから、言えない」

 理屈では片づけられない重みが、直熙の静かな言葉に宿る。

「くぅ~……まっすぐな想いほど、報われへんって、ほんま切ないな」

 篤哉は苦笑しながら囲炉裏の火を見つめ、肩をすくめた。

「美織ちゃんもな、無理して笑うてるの見ると、胸が詰まるわ。あの子、ぎりぎりまで我慢するやろ。人に心配かけんように、あえて笑うてる」

「……ああ。あの微笑は、“覚悟”を纏った顔だった」

「朔也がそれ見て、何も言わずに出てった気持ちも、ちょっとわかる気ぃするわ」

 ぱち、と囲炉裏の火がはぜた音が、ふたりの間の沈黙をやわらげる。

「なぁ、直熙」

「……なんだ」

「“香月”の名って……そんなにも、人の気持ちを縛るもんなんか?」

 珍しく、篤哉の声は低く、真っ直ぐに響いていた。

 直熙は一瞬だけ目を伏せ、慎重に言葉を紡ぐ。

「縛るのは、“名前”そのものじゃない。……その名のもとに背負わされる“役割”と“誇り”だよ」

「……誇り、か」

「ああ。そして──その誇りは、ときに呪いにもなる」

 その言葉に、篤哉は小さく肩をすくめ、どこか寂しげに笑った。

「なんや……そないな話聞いてたら、ますます“普通”ってもんが恋しなるわ」

「“普通”、か?」

「せや。家格も縁談も関係あらへん。“おまえがええ”って、それだけで手ぇ繋げる世界や」

 直熙はその言葉に、ふっと目を細めて笑った。

「……願うだけなら、自由だ。篤哉」

「願うだけでええなら、毎晩でも願うとるわ。せやけど──」

 ふと、篤哉は湯呑を見つめるようにして、少しだけ声を落とした。

「願ったぶんだけ、叶わへん現実もようけあるっちゅうのを……もう知ってもうたからな」

 囲炉裏の火が、ふたりの顔に柔らかな陰を落とす。

 直熙は何も言わず、黙って湯呑を口に運んだ。

 しばし沈黙のあと。

「──で?」

 不意に篤哉が、いたずらっぽく目を細め、口角を上げる。

「……?」

「直熙、お前は?」

 湯呑を持った手が、ぴたりと止まった。
 直熙が静かに眉を寄せる。

「……何が、だ」

「とぼけんなって。おまえは、美織ちゃんのこと、どう思うとるんや?」

 ニヤニヤと笑いながら、篤哉がずいと身を乗り出す。

「剣の腕もある。家柄も申し分なし。頭も切れる、冷静沈着、顔も悪うない。──おまえなら、香月の婿にだって、名乗り上げられるやろ?」

「……その話を、今ここでする意味があるとは思えない」

 低く抑えた声で応じる直熙に、篤哉は肩をすくめながら笑った。

「あるに決まっとるやろ。なんやったら──もう朔也と正々堂々、勝負してみたらええ」

 直熙は一度、長く息を吐き、ゆっくりと湯呑を口に運ぶ。

「……軽口のようでいて、意外と鋭いところを突くな。おまえは」

「へっへ。たまにはな。おまえの感情も、たまには表に出してくれてええんちゃうかと思ってな」

 直熙はその言葉に、ほんの一瞬だけ目を細めたが──
 結局、何も言わず、静かに湯呑を卓に戻した。

 囲炉裏の火が、ぱち、とまたひとつ、小さく音を立てる。
 その揺らめきが、ふたりの間に落ちた影を、静かに揺らしていた。

 湯呑を卓に戻した指先に、ごく僅かだが確かな力が込もっていた。
 その緊張を、御影直熙は自らの内に静かに認めていた。

 桐原の軽口に腹を立てたわけではない。
 むしろ──あの男にしては珍しく、的を射す問いを突きつけられたという、その一点が、胸の奥を静かに揺らした。

(……問われるまでもない)

 誰よりも早く、気づいていた。
 そして誰よりも早く──あの微笑の奥に潜む「綻び」に、目を留めてしまったのは、自分だ。

 他者には決して気づかれぬ、ほんのわずかな影。
 穏やかに整えられた美織の微笑みの、その奥底でひっそりと軋む、か細い痛みを。
 その一瞬に触れたときから、意識せずとも彼女の姿を目で追うようになっていた。

 控えめで、礼を忘れず、誰よりも周囲に気を配る娘──香月美織。
 けれどその慎ましさの内には、己の立場と名を誰より深く理解し、声に出すことなくすべてを呑み込む強靱な覚悟があった。

(……だからこそ、惹かれたのだ)

 感情に呑まれず、理を失わず、静かに己を律して在る強さ。
 誰かに守られるのではなく、己の意志で立とうとする気高さ。
 それは、直熙が目指してきた「武士としての在り方」と、確かに重なるものだった。

 だが──

(……同時に、“越えてはならない”という戒めでもある)

 想いを言葉にすれば、彼女が背負った覚悟に亀裂が走る。
 それがどれほど残酷な結果をもたらすか、直熙は痛いほど理解していた。

 香月美織は、名門・香月家の令嬢。
 対する自分は、御影家の三男──たしかに幕府高家筋の出自ではあるが、跡継ぎではない。
 家格は並び得るが、政や縁談といった表の場においては、問われるのは名ではなく「役割」だ。

 そして、自分はその立場を“選ばれている”者ではない。

(……最初から、“対等”を許されていない)

 それは、あまりにも明確な現実だった。
 誰よりもそのことを理解しているのは──他でもない、自分自身だ。

(仮に、想いを明かしたところで)

 それは彼女に、重荷を背負わせるだけのもの。
 “支え”ではなく、彼女の足を縛る“鎖”になってしまう。
 その未来があまりにも明瞭に見えてしまうからこそ──言葉にしてはならなかった。

 想いは、心に留めておけばいい。
 感情は、理の奥に沈めておけばいい。
 そう教えられてきた。そう在ることが、御影家の者としての本分であり、己の誇りでもあった。

 ──だからこそ。

 いつも感情を封じてきた。
 冷静さという盾の内に、情を閉じ込めて。
 誰かのために動く“補佐”の立場に徹し、決して己を主に据えなかった。

 朔也のように、衝動を隠さず動くこともできず。
 桐原のように、戯けて真実に迫ることもできない。
 ただ、理と名に殉じて在ることが──御影直熙という男の選んだ在り方だった。

(……それが私だ)

 彼女の決意も、誇りも、痛いほどに理解している。

 だからこそ、守らねばならない。
 想いがあるからこそ、言えない。
 手を伸ばしたいからこそ──距離を保つ。

 ──それこそが、自分にできる唯一の「誠意」なのだと。

 囲炉裏の火が、ぱちり、と乾いた音を立てた。
 ゆらゆらと揺れる赤い火が、無言で座す直熙の瞳を、静かに照らし出す。

 ふと、掌に残っていた湯呑のぬくもりが、ふっと消えた気がした。

(……これでいい)

 誰にも知られることなく、ただ想いを抱え続ける。
 誰かの選択を支えるためだけに在る、名も残らぬ影の役割。
 それを、寂しいとは思わない──

 ……そう、思おうとしていた。

 けれど、ほんのわずかに。
 その胸の内を見抜いた者がいるとすれば──きっと桐原篤哉なのだろう。

 あの問いは、無邪気を装いながら、実に鋭かった。

 直熙は、口にのぼりかけた言葉をそっと呑み込み、目を閉じる。
 己の感情を語ることは、己の理を崩すこと。
 そう言い聞かせながら、静かに湯呑を口元へと運んだ。

 彼女の横顔を思い出すたび、言葉にならぬ熱が胸にこみ上げることもある。  
 だが──それを燃やすわけにはいかない。  
 その火が誰かの行く先を曇らせるのなら、己の中で静かにくすぶらせる方がいい。

 すでに熱を失いつつある茶の温度が、まるで今の自分の心の温度と重なるようで、不思議としっくりきた。

 ◆

 広間を後にした天城朔也は、ふと、縁側の先で屋敷を出ようとする後ろ姿を見留めた。

「……悠臣さんっ!」

 咄嗟に呼びかけた声に、香月悠臣が足を止める。
 肩越しに振り返った眼差しが、静かに朔也を捉えた。

「……どうした、朔也」

 小走りに駆け寄った朔也は、軽く息を整えながら問いかける。

「今から……どちらへ?」

 その問いに、悠臣は顔を戻し、視線を落としたまま静かに応じた。

「特にあてもない。ただ、少し──外の空気が吸いたくなっただけだ」

 その一言に、朔也はわずかに驚いたように瞬き、すぐに笑みを含んだ声で申し出た。

「でしたら、俺もご一緒していいですか?」

 悠臣はふっと口元を緩め、屋敷の奥を顎で軽く示す。

「……なら、ちゃんと羽織って来い。外は冷える」

「はいっ!」

 弾むような返事を残し、朔也はぱたぱたと足音を響かせて屋敷の奥へと駆け戻っていった。

 ◆

 夜風は鋭く冷たく、冴えた空気に吐息が白くほどける。
 灯籠の灯が石畳を淡く照らし、ふたりの足元に揺れる影を落としていた。

 街道を逸れた裏道を、悠臣と朔也は肩を並べて歩いていた。
 言葉はなく、ただ足音だけがふたりの間をつないでいた。

 無言は気まずさでも、心地よさでもない。
 けれど、不思議と歩幅は自然に揃い、呼吸の波もどこか同調していた。

 朔也は時折、そっと横目で悠臣の横顔を窺う。
 けれどその表情には、感情の影は見えなかった。
 静けさだけが、まるで仮面のように張りついていた。

 ──何を考えているのだろう。

 言葉にしたい思いは胸にあふれているのに、どれを選べばいいのかが分からない。

 そんな朔也の内心を見透かすように、悠臣がふいに小さく笑った。

「……落ち着かないな、朔也。聞きたいことがあるなら聞け。……もっとも、答えるつもりはないが」

 皮肉交じりの言葉に、朔也は肩をすくめて口を尖らせる。

「そんな言い方されたら……聞けるものも聞けなくなりますよ」

「そうか」

 ただそれだけ。だがその返しには、どこか愉快げな響きが含まれていた。

 朔也はわずかにむくれて前を向き、黙って歩みを続ける。

 静かな足音が、ふたりの間にだけ流れていく。

 やがて悠臣が空を仰ぐようにして、ぽつりと呟いた。

「……こういう時、酒でも煽れたら多少は気が紛れるんだろうな」

 唐突な言葉に、朔也は小首を傾げる。

「そういえば……悠臣さんがお酒を飲んでるところ、見たことないですね」

「ああ。飲めないからな」

 あっさり返されたその言葉に、朔也は目を瞬かせた。

 悠臣は苦笑を浮かべながら、静かに語り出す。

「初めて酒を口にしたのは、兄に無理やり付き合わされた時だった。……一口だけ飲んで、気づいたら翌日の昼でな」

「……えっ?」

「何が起こったか分からないまま目を覚ましたら、父上が部屋にいて──開口一番、こう言った。“お前は二十年間も眠っていた”“私は鷹臣だ”と」

「……はあぁぁ!?」

 朔也の声が裏返り、目を見開く。

 しかし悠臣は表情ひとつ崩さず、続けた。

「“気がついたらこんなに老けてしまった”と、真顔でな。……あの時ばかりは本気で信じかけた。兄上が、二十年分、老いたのだと」

「ま、待ってください……それ、信じたんですか……?」

 朔也の顔が困惑と驚きに染まり、苦笑いが浮かぶ。

 悠臣は淡々と、最後の一撃を与える。

「……それが、俺の“最初で最後”の酒だった。以後、一滴も飲んでいない。怖くてな」

「いやいやいや……香月家の当主がそんなお茶目なことを……っていうか、それを信じた悠臣さんって……」

 朔也は頭を抱えながら、笑いをこらえるように呟いた。

「……ちょっと信じられないです。どっちも」

「俺もだ」

 そう言って、悠臣が珍しく肩を竦めた。

 冷たい夜風のなか、ふたりの間に柔らかな笑いが灯る。

 やがて、悠臣が歩を緩め、朔也へと視線を向けた。

「……朔也。もう少し、歩けるか」

 その声音は静かで優しく、けれど芯を孕んでいた。

 朔也は目を見開き、すぐに柔らかな微笑みで応じた。

「もちろん。どこまでもお供しますよ、香月殿」

 夜の路地に、ふたつの足音が重なって伸びていく。

 どこへ向かうのかはまだ分からない。
 けれどその歩みは、確かに同じ未来を見据えていた。
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