【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第三章

この手で誰かを守れるなら

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 朝の空気は、昨夜の雪をすっかり洗い流したかのように澄みきっていた。
 雲ひとつない冬空が高く広がり、陽は淡く、それでも確かに大地を照らしている。冷え込んだ空気は凛として、吐く息は白く長く尾を引いた。

 香月邸の庭には、ところどころに雪の名残があった。
 石灯籠の足元、松の根元、軒の陰。薄く残った白が、朝日に溶けることなく静かに留まっている。踏めばきしりと鳴りそうな、淡い氷の気配。

 美織は石畳へ一歩、足を運んだ。
 足袋の底に伝わる冷たさを確かめるように、わずかに歩を止める。羽織の襟元を整え、手にした小さな風呂敷包みを胸元へ抱え直した。

 その仕草は慎ましく、静かだった。
 だが、ただ穏やかなだけではない。迷いを押し留め、決意を胸に納めた者の、凛とした静けさがそこにあった。

「それでは、行ってまいります」

 声は柔らかい。
 けれどその奥には、昨夜の庭に降り積もった沈黙と、かすかなぬくもりを抱えたままの震えが、ほんの少しだけ混じっていた。

「……お気をつけて」

 縁側の柱の影から応じたのは、天城朔也だった。

 背筋はいつもと変わらず伸びている。
 だが、その視線だけが、わずかに揺れていた。

 無意識のうちに帯刀へ指先が伸びるのに気づき、そっと引く。

 ――町へ、ひとりで。

 年の瀬の江戸は、華やぎと喧騒に満ちている。
 正月支度に追われる商人、帰郷する武士、浮き立つ町人たち。だがその賑わいの裏で、別の熱が静かに燻っていることを、朔也は知っていた。

 裏町では浪士の集会が絶えない。
 尊皇攘夷を掲げる若者たちが、怒りの矛先を持て余し、些細な諍いが刃へと変わる。思想が剣へと姿を変える、その危うさ。

 朔也は、幾度もそれを目にしてきた。

 ――護衛を付けましょうか。

 喉の奥までせり上がった言葉が、そこで凍りつく。

 言えばいい。それだけのことだ。

 だが、美織は香月家の令嬢。
 自分はその傘下に籍を置く者に過ぎない。

 立場も、身分も、越えてはならぬ境界がある。ましてや、縁談を控えた身の彼女の隣に立ち、町中を並び歩くなど――許されるはずがない。

 昨夜、雪の舞う庭で。
 凍えるような空気の中、触れかけた指先。
 言葉にはしなかったが、確かにそこにあった距離。

 その距離が、いま再び彼を躊躇わせる。

「……」

 沈黙が、冷気の中で白く膨らむ。
 そのとき、美織がふと足を止め、振り返った。

「天城さん?」

 肩越しに向けられた声は、冬の空気の中で不思議と温かかった。
 淡雪の下から芽吹く若草のような、柔らかな響き。

「……いえ。何でもありません」

 朔也は、いつものように笑みを浮かべる。
 穏やかで、整った、従者としての表情。

 だが、その笑みが仮初めであることを、誰よりも彼自身が知っている。

「道中、お気をつけて。……町は、人が多いですから」

 言えるのは、それが精一杯だった。

 美織は一瞬、何かを言いかけたように唇を開く。
 けれど、言葉はそのまま飲み込まれた。

 代わりに、静かな微笑み。

「はい。ありがとうございます」

 それだけを残し、彼女は門をくぐる。

 冬の陽光が石畳を照らし、その背を淡く縁取った。
 白い息をひとつ吐き、ゆるやかに歩き出すと――やがて、その姿は人波の向こうへと溶けていった。

 朔也は、ただ立ち尽くす。

 ――俺は、何を恐れている。

 身分か。
 立場か。
 それとも……彼女の世界へ踏み込んでしまうことそのものか。

「……“守る剣”でありたい、だなんて」

 小さく零れた言葉は、冬空へと溶けていく。

 剣を振れば、人は守れる。
 だが、たったひと言すら伝えられぬこの手で――何を守れるというのか。

 門前の石畳に、年の瀬の陽光が穏やかに降り注ぐ。
 それはあまりにも平和で、まるで何事もない朝のように世界を照らしていた。

 だが、その光の下で――

 江戸の町は、静かに、確実に、何かを孕み始めている。

 朔也は、無意識のうちに拳を握りしめた。

 名もなき不安。
 名を与えることさえ出来ぬ無力感。

 胸の奥にそれを抱えたまま。

 この日が、やがて大きな波を呼ぶことを――まだ、誰も知らなかった。

 ◆

 江戸の町は、年の瀬の活気に満ちていた。

 軒先には青々とした松をあしらった注連飾りが揺れ、商家の暖簾は新しく掛け替えられている。店先では正月支度に追われる人々の声が飛び交い、白餅を並べる音、干支の人形を包む紙の擦れる音、紅白の水引を結ぶ手の動き――それらが重なり合い、町全体がひとつの大きな息づかいをしているかのようだった。

 白い餅の甘い匂い。
 炭火の焦げる匂い。
 人々の笑い声。

 浮き立つ気配は、表通りだけでなく、路地の奥深くにまで静かに染み渡っている。

 その華やぎの中を、美織はひとり、静かに歩いていた。

 裾をさりげなくたぐり、足運びを整えながら。
 人波に押されることなく、しかし目立つこともなく、視線はまっすぐ前へと据えられている。

 両腕に抱えた小さな風呂敷包みの中には、餅、乾物、干し柿、祝い箸――屋敷に残る者たちのための、ささやかな新年の支度が収められていた。

 華やかな買い物ではない。
 贅を尽くした品でもない。

 けれど、そのひとつひとつに、彼女なりの願いが込められている。

 ――せめて、皆が穏やかに年を越せますように。

 その想いだけを胸に、美織は歩を進めていた。

 町の喧騒に包まれながらも、その心は不思議と澄み渡っている。
 浮き足立つ空気の中で、彼女だけが静かな水面のようだった。

 ……そのとき。

「……おい、やめろよ!」

 鋭い怒声が、通りの空気を裂いた。

 続いて、何かが倒れる鈍い音。

 賑わっていた一角が、にわかにざわめき立つ。

「誰か呼んでこい!」
「血が……血が出てる!」

 ざわざわと人垣が揺れる。
 美織ははっと顔を上げた。

 風呂敷を抱え直しながら、人波の隙間を縫うようにして近づく。視線の先、人垣の中心で――ひとりの老人が地面にうずくまっていた。

 背を丸め、頭を庇うように両腕をかざしている。
 その上から、数人の男たちが容赦なく足を振り上げていた。

「──っ」

 考えるより早く、身体が動いていた。

 風呂敷包みが腕から滑り落ち、布が地面に触れる音さえ、耳に入らない。

 美織は人垣を押し分け、その場へと駆け込んだ。

 振り下ろされる拳。
 荒々しい息遣い。

 次の瞬間――その前に、彼女はすっと立ちはだかっていた。

「やめてください──!」

 凛とした声が、冬空へ真っ直ぐに響いた。

 男たちの動きが止まる。

「……あ?」

 浪士風の男たちが、目の前に現れた少女をまじまじと見る。

 年の瀬の喧騒には似つかわしくない、整えられた髪と品のある着物。
 だが、何より目を引いたのは――その瞳だった。

 澄んでいる。
 そして、燃えている。

「この方に、それ以上、手を上げないでください」

 声は震えていなかった。
 怯えも、迷いも、そこにはない。

「……なんだ、女かよ」

「……待て。こいつ、香月家の令嬢じゃねぇか?」

 ざわめきが広がる。

「え、“香月道場”の……?」
「なんでこんなところに……」

 浪士のひとりが、嘲るように肩を揺らした。

「へぇ……噂の“殺人道場”のお嬢様か。こりゃ傑作だな。年の瀬の町角でご奉仕とは、ずいぶん気高く育ったもんだ」

 笑いに滲むのは、侮蔑と悪意。

 だが、美織は一歩も退かなかった。

「何を言われようと構いません。ですが――この方には、指一本、触れさせません」

 背筋をすっと伸ばし、両腕を広げて老人の前に立ち塞がる。

 裾に泥が跳ねても。
 風に髪が乱れても。

 その足は、微動だにしなかった。

 その姿に、一瞬、男たちの手が止まる。

 ――しかし。

「……チッ。なめやがって」

 苛立ちを露わにした浪士が、腕を振り上げる。

 次の瞬間、美織の身体が横へと弾かれた。

「──っ!」

 乾いた衝撃音。

 背中に痛烈な衝撃が走る。
 石壁に叩きつけられ、視界が揺れ、白く弾ける。

 息が抜け、空気が肺から一瞬で奪われた。

 崩れ落ちるように膝をつく。

「おい、やめろ!」
「死んじまうぞ!」
「馬鹿な真似はよせ! あれは香月家の娘だ!」

 悲鳴と怒声が入り混じる。

 だが、男たちの目には、躊躇いよりも焦燥が浮かんでいた。

 美織は、ゆっくりと顔を上げる。
 唇の端から、赤い血が一筋、伝っていた。

 視界は揺れている。
 耳鳴りが響く。

 それでも――その瞳は、まだ死んでいなかった。

「……お下がりください。……どうか……早く逃げてください」

 震える腕で、なおも老人を庇う。

 身体はふらつき、それでも立とうとする。

「……っ、調子に乗るなよ、小娘が」

 冷えきった声。

 次の瞬間、無遠慮に振り抜かれた足が、美織の脇腹を容赦なく打ち据えた。

「──っ……!」

 息が完全に詰まる。

 細い身体が宙に浮き、再び壁へ叩きつけられた。

 鈍い衝撃が、狭い路地に響く。

 石壁に背を強かに打ちつけ、美織はそのまま膝から崩れ落ちた。

 視界が白く弾け、耳の奥で遠く波のような音がする。

「やめろ!」「誰か止めろ!」「女だぞ!」

 町人たちの悲鳴が、四方から巻き起こる。

 だが――

 地に伏しながらも、美織の指はなお、老人の袖を掴んでいた。

 離さない。

 その細い指に宿る力だけが、彼女の意志を物語っていた。
 だが、浪士は怯まなかった。

 地に伏した美織を見下ろし、なおも歩を進める。
 靴底が石畳を踏み鳴らす音が、やけに大きく響いた。

「まだ立つ気か? なら──」

 振り上げられた拳。
 その影が、美織の顔へと落ちる。

 刹那――

「……やめておけ。これ以上、無様を晒すな」

 背後から放たれた声は、凍てついた刃のように鋭かった。

 空気が、一瞬で凍る。

 拳が振り下ろされる寸前。
 音もなく伸びた腕が、男の手首をがしりと掴み取る。

「なっ……!」

 骨ばった指が、逃げ場を与えぬよう絡みつく。
 次の瞬間、関節が鋭くねじ上げられ――

 バキリ、と鈍い音が冬の空気を裂いた。

 悲鳴を上げてうずくまる男を、土方歳三は冷然と見下ろす。

「女に手を上げて、武士気取りか。……笑わせるな」

 その一喝で、騒然としていた場が、ぴたりと静まり返った。

 浅黒い羽織の裾が、わずかに風をはらむ。
 その立ち姿には、言葉以上の圧があった。

 だが――

「うるせぇんだよ……!」

 別の浪士が、怒りに任せて刀を抜く。

 冬陽を鈍く反射する刃。
 同時に、土方の腰からも鋭い金属音が鳴った。
 ──抜刀。

 閃いた刃が、風を裂く。
 火花が弾け、鋼と鋼がぶつかる衝撃が真冬の空気を震わせた。

 土方は美織の前に立ち塞がったまま、一歩も退かない。
 無駄のない動き、淀みなき踏み込み。
 その全てが、幾多の修羅場を越えてきた者の技を語っていた。

「下がってろ。誰にも、指一本、触れさせはしねぇ」

 背中越しに落とされたその言葉。美織は、かすかに目を見開く。

 ――どうして、この人が……?

 疑問は浮かんだが、言葉になる前にかき消された。

 状況は、さらに悪化していた。

「ちっ、こうなりゃ道連れだ! 目障りな町人どもも片しちまえ!」

 浪士たちが、周囲へと刃を向けると悲鳴が上がった。

「逃げろ!」
「子供がいるぞ!」
「誰か止めろ!」

 混乱の中、幼い娘を庇った老母が倒れ込む。
 その上に、無情な刃が振り下ろされようとした瞬間――

 す、と一陣の風が通り抜けた。

 銀の柄巻が、冬陽を鋭く弾く。

「そこまで、です」

 静かで、澄み切った声。
 振り下ろされるはずの刃は、寸前で逸らされていた。

 浪士の刀が空を斬る。それを受け止めたのは、細身の太刀。

 その主は――

「……御影、直熙……?」

 土方が視線を向ける。

 紋付きの羽織をはためかせ、若き武士が立っていた。
 双眸は澄み、だがその奥には静かな怒気が宿っている。

「無辜の民を斬るなど、貴殿らの志が泣く」

 低く抑えた声音。

「うるせぇ貴族坊やが──っ!」

 怒声とともに斬りかかる刃。
 直熙は一歩も引かず、真正面から受け止めた。

 刃がぶつかり、火花が散る。
 重心を崩さぬまま、滑らかに流す。

 ――そして、反撃。

 一閃。

 浪士の刀を弾き飛ばし、逆袈裟に振り返す。

 だが刃は止められていた。
 肩口を強かに打ち据えただけで、命までは奪わない。

 呻き声を上げ、浪士が地に膝をつく。

「……御影か。助かった」

 土方が短く言う。

「こちらこそ。頼もしい“背”を得ました」

 直熙も簡潔に応じる。

 二人は、背を預け合うように並び立った。

 土方の剣は、迷いなく斬るために。
 直熙の剣は、斬らずに守るために。

 だが、その意志は同じだった。

 ――香月美織を、守る。

 数刻のうちに、浪士たちは鎮圧された。
 何人かは逃げ去り、残る者は倒れ伏す。

 通りには、血の匂いと、まだ消えぬ緊張だけが漂っていた。

 土方はすぐに美織のもとへ膝をつく。

「……美織」

 そっと肩に触れる。
 長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。

 視界に映った土方の顔。
 凍てついていた表情に、かすかな光が差した。

「……土方さま……?」

 かすれた声。

 だが、その唇には安堵が滲んでいた。

「……よかった……来て……くださって……」

 言葉が途切れると、そのまま力を失った身体が傾く。

「……!」

 土方は即座に抱きとめた。
 細い肩が、かすかに震えている。

「……ったく。無茶しやがって」

 口調は呆れたようでいて、腕は驚くほど丁寧だった。
 壊れ物を扱うように、そっと抱きかかえる。

「……美織さん……っ!」

 駆け寄った直熙の美織を呼ぶ声が震える。拳を握りしめる指先が白くなっている。

「……どうして……おひとりで……」

 誰に向けたわけでもない、痛切な呟き。土方がちらと視線を向ける。

「御影。……道場まで案内してくれねぇか」

 静かな声音。
 そこには、確かな信頼があった。熙は即座に頷く。

「……承知しました」

 前へ出て道を切り開き、土方は美織を抱いたまま、その後に続く。

 町人たちは、自然と道を開けた。

 ざわめきが広がる。

 ――あれが、香月家の娘……
 ――あんな目に遭っても、人を庇って……
 ――殺人道場、なんて……

 言葉は最後まで続かなかった。

 人々の瞳に焼きついたのは、ひとりの娘の気高さと、それを守る者たちの覚悟。

 年の瀬の陽光が、石畳に静かに降り注ぐ。

 その下で――

 香月道場を巡る風向きが、確かに変わり始めていた。
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