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第三章
この手で誰かを守れるなら
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朝の空気は、昨夜の雪をすっかり洗い流したかのように澄みきっていた。
雲ひとつない冬空が高く広がり、陽は淡く、それでも確かに大地を照らしている。冷え込んだ空気は凛として、吐く息は白く長く尾を引いた。
香月邸の庭には、ところどころに雪の名残があった。
石灯籠の足元、松の根元、軒の陰。薄く残った白が、朝日に溶けることなく静かに留まっている。踏めばきしりと鳴りそうな、淡い氷の気配。
美織は石畳へ一歩、足を運んだ。
足袋の底に伝わる冷たさを確かめるように、わずかに歩を止める。羽織の襟元を整え、手にした小さな風呂敷包みを胸元へ抱え直した。
その仕草は慎ましく、静かだった。
だが、ただ穏やかなだけではない。迷いを押し留め、決意を胸に納めた者の、凛とした静けさがそこにあった。
「それでは、行ってまいります」
声は柔らかい。
けれどその奥には、昨夜の庭に降り積もった沈黙と、かすかなぬくもりを抱えたままの震えが、ほんの少しだけ混じっていた。
「……お気をつけて」
縁側の柱の影から応じたのは、天城朔也だった。
背筋はいつもと変わらず伸びている。
だが、その視線だけが、わずかに揺れていた。
無意識のうちに帯刀へ指先が伸びるのに気づき、そっと引く。
――町へ、ひとりで。
年の瀬の江戸は、華やぎと喧騒に満ちている。
正月支度に追われる商人、帰郷する武士、浮き立つ町人たち。だがその賑わいの裏で、別の熱が静かに燻っていることを、朔也は知っていた。
裏町では浪士の集会が絶えない。
尊皇攘夷を掲げる若者たちが、怒りの矛先を持て余し、些細な諍いが刃へと変わる。思想が剣へと姿を変える、その危うさ。
朔也は、幾度もそれを目にしてきた。
――護衛を付けましょうか。
喉の奥までせり上がった言葉が、そこで凍りつく。
言えばいい。それだけのことだ。
だが、美織は香月家の令嬢。
自分はその傘下に籍を置く者に過ぎない。
立場も、身分も、越えてはならぬ境界がある。ましてや、縁談を控えた身の彼女の隣に立ち、町中を並び歩くなど――許されるはずがない。
昨夜、雪の舞う庭で。
凍えるような空気の中、触れかけた指先。
言葉にはしなかったが、確かにそこにあった距離。
その距離が、いま再び彼を躊躇わせる。
「……」
沈黙が、冷気の中で白く膨らむ。
そのとき、美織がふと足を止め、振り返った。
「天城さん?」
肩越しに向けられた声は、冬の空気の中で不思議と温かかった。
淡雪の下から芽吹く若草のような、柔らかな響き。
「……いえ。何でもありません」
朔也は、いつものように笑みを浮かべる。
穏やかで、整った、従者としての表情。
だが、その笑みが仮初めであることを、誰よりも彼自身が知っている。
「道中、お気をつけて。……町は、人が多いですから」
言えるのは、それが精一杯だった。
美織は一瞬、何かを言いかけたように唇を開く。
けれど、言葉はそのまま飲み込まれた。
代わりに、静かな微笑み。
「はい。ありがとうございます」
それだけを残し、彼女は門をくぐる。
冬の陽光が石畳を照らし、その背を淡く縁取った。
白い息をひとつ吐き、ゆるやかに歩き出すと――やがて、その姿は人波の向こうへと溶けていった。
朔也は、ただ立ち尽くす。
――俺は、何を恐れている。
身分か。
立場か。
それとも……彼女の世界へ踏み込んでしまうことそのものか。
「……“守る剣”でありたい、だなんて」
小さく零れた言葉は、冬空へと溶けていく。
剣を振れば、人は守れる。
だが、たったひと言すら伝えられぬこの手で――何を守れるというのか。
門前の石畳に、年の瀬の陽光が穏やかに降り注ぐ。
それはあまりにも平和で、まるで何事もない朝のように世界を照らしていた。
だが、その光の下で――
江戸の町は、静かに、確実に、何かを孕み始めている。
朔也は、無意識のうちに拳を握りしめた。
名もなき不安。
名を与えることさえ出来ぬ無力感。
胸の奥にそれを抱えたまま。
この日が、やがて大きな波を呼ぶことを――まだ、誰も知らなかった。
◆
江戸の町は、年の瀬の活気に満ちていた。
軒先には青々とした松をあしらった注連飾りが揺れ、商家の暖簾は新しく掛け替えられている。店先では正月支度に追われる人々の声が飛び交い、白餅を並べる音、干支の人形を包む紙の擦れる音、紅白の水引を結ぶ手の動き――それらが重なり合い、町全体がひとつの大きな息づかいをしているかのようだった。
白い餅の甘い匂い。
炭火の焦げる匂い。
人々の笑い声。
浮き立つ気配は、表通りだけでなく、路地の奥深くにまで静かに染み渡っている。
その華やぎの中を、美織はひとり、静かに歩いていた。
裾をさりげなくたぐり、足運びを整えながら。
人波に押されることなく、しかし目立つこともなく、視線はまっすぐ前へと据えられている。
両腕に抱えた小さな風呂敷包みの中には、餅、乾物、干し柿、祝い箸――屋敷に残る者たちのための、ささやかな新年の支度が収められていた。
華やかな買い物ではない。
贅を尽くした品でもない。
けれど、そのひとつひとつに、彼女なりの願いが込められている。
――せめて、皆が穏やかに年を越せますように。
その想いだけを胸に、美織は歩を進めていた。
町の喧騒に包まれながらも、その心は不思議と澄み渡っている。
浮き足立つ空気の中で、彼女だけが静かな水面のようだった。
……そのとき。
「……おい、やめろよ!」
鋭い怒声が、通りの空気を裂いた。
続いて、何かが倒れる鈍い音。
賑わっていた一角が、にわかにざわめき立つ。
「誰か呼んでこい!」
「血が……血が出てる!」
ざわざわと人垣が揺れる。
美織ははっと顔を上げた。
風呂敷を抱え直しながら、人波の隙間を縫うようにして近づく。視線の先、人垣の中心で――ひとりの老人が地面にうずくまっていた。
背を丸め、頭を庇うように両腕をかざしている。
その上から、数人の男たちが容赦なく足を振り上げていた。
「──っ」
考えるより早く、身体が動いていた。
風呂敷包みが腕から滑り落ち、布が地面に触れる音さえ、耳に入らない。
美織は人垣を押し分け、その場へと駆け込んだ。
振り下ろされる拳。
荒々しい息遣い。
次の瞬間――その前に、彼女はすっと立ちはだかっていた。
「やめてください──!」
凛とした声が、冬空へ真っ直ぐに響いた。
男たちの動きが止まる。
「……あ?」
浪士風の男たちが、目の前に現れた少女をまじまじと見る。
年の瀬の喧騒には似つかわしくない、整えられた髪と品のある着物。
だが、何より目を引いたのは――その瞳だった。
澄んでいる。
そして、燃えている。
「この方に、それ以上、手を上げないでください」
声は震えていなかった。
怯えも、迷いも、そこにはない。
「……なんだ、女かよ」
「……待て。こいつ、香月家の令嬢じゃねぇか?」
ざわめきが広がる。
「え、“香月道場”の……?」
「なんでこんなところに……」
浪士のひとりが、嘲るように肩を揺らした。
「へぇ……噂の“殺人道場”のお嬢様か。こりゃ傑作だな。年の瀬の町角でご奉仕とは、ずいぶん気高く育ったもんだ」
笑いに滲むのは、侮蔑と悪意。
だが、美織は一歩も退かなかった。
「何を言われようと構いません。ですが――この方には、指一本、触れさせません」
背筋をすっと伸ばし、両腕を広げて老人の前に立ち塞がる。
裾に泥が跳ねても。
風に髪が乱れても。
その足は、微動だにしなかった。
その姿に、一瞬、男たちの手が止まる。
――しかし。
「……チッ。なめやがって」
苛立ちを露わにした浪士が、腕を振り上げる。
次の瞬間、美織の身体が横へと弾かれた。
「──っ!」
乾いた衝撃音。
背中に痛烈な衝撃が走る。
石壁に叩きつけられ、視界が揺れ、白く弾ける。
息が抜け、空気が肺から一瞬で奪われた。
崩れ落ちるように膝をつく。
「おい、やめろ!」
「死んじまうぞ!」
「馬鹿な真似はよせ! あれは香月家の娘だ!」
悲鳴と怒声が入り混じる。
だが、男たちの目には、躊躇いよりも焦燥が浮かんでいた。
美織は、ゆっくりと顔を上げる。
唇の端から、赤い血が一筋、伝っていた。
視界は揺れている。
耳鳴りが響く。
それでも――その瞳は、まだ死んでいなかった。
「……お下がりください。……どうか……早く逃げてください」
震える腕で、なおも老人を庇う。
身体はふらつき、それでも立とうとする。
「……っ、調子に乗るなよ、小娘が」
冷えきった声。
次の瞬間、無遠慮に振り抜かれた足が、美織の脇腹を容赦なく打ち据えた。
「──っ……!」
息が完全に詰まる。
細い身体が宙に浮き、再び壁へ叩きつけられた。
鈍い衝撃が、狭い路地に響く。
石壁に背を強かに打ちつけ、美織はそのまま膝から崩れ落ちた。
視界が白く弾け、耳の奥で遠く波のような音がする。
「やめろ!」「誰か止めろ!」「女だぞ!」
町人たちの悲鳴が、四方から巻き起こる。
だが――
地に伏しながらも、美織の指はなお、老人の袖を掴んでいた。
離さない。
その細い指に宿る力だけが、彼女の意志を物語っていた。
だが、浪士は怯まなかった。
地に伏した美織を見下ろし、なおも歩を進める。
靴底が石畳を踏み鳴らす音が、やけに大きく響いた。
「まだ立つ気か? なら──」
振り上げられた拳。
その影が、美織の顔へと落ちる。
刹那――
「……やめておけ。これ以上、無様を晒すな」
背後から放たれた声は、凍てついた刃のように鋭かった。
空気が、一瞬で凍る。
拳が振り下ろされる寸前。
音もなく伸びた腕が、男の手首をがしりと掴み取る。
「なっ……!」
骨ばった指が、逃げ場を与えぬよう絡みつく。
次の瞬間、関節が鋭くねじ上げられ――
バキリ、と鈍い音が冬の空気を裂いた。
悲鳴を上げてうずくまる男を、土方歳三は冷然と見下ろす。
「女に手を上げて、武士気取りか。……笑わせるな」
その一喝で、騒然としていた場が、ぴたりと静まり返った。
浅黒い羽織の裾が、わずかに風をはらむ。
その立ち姿には、言葉以上の圧があった。
だが――
「うるせぇんだよ……!」
別の浪士が、怒りに任せて刀を抜く。
冬陽を鈍く反射する刃。
同時に、土方の腰からも鋭い金属音が鳴った。
──抜刀。
閃いた刃が、風を裂く。
火花が弾け、鋼と鋼がぶつかる衝撃が真冬の空気を震わせた。
土方は美織の前に立ち塞がったまま、一歩も退かない。
無駄のない動き、淀みなき踏み込み。
その全てが、幾多の修羅場を越えてきた者の技を語っていた。
「下がってろ。誰にも、指一本、触れさせはしねぇ」
背中越しに落とされたその言葉。美織は、かすかに目を見開く。
――どうして、この人が……?
疑問は浮かんだが、言葉になる前にかき消された。
状況は、さらに悪化していた。
「ちっ、こうなりゃ道連れだ! 目障りな町人どもも片しちまえ!」
浪士たちが、周囲へと刃を向けると悲鳴が上がった。
「逃げろ!」
「子供がいるぞ!」
「誰か止めろ!」
混乱の中、幼い娘を庇った老母が倒れ込む。
その上に、無情な刃が振り下ろされようとした瞬間――
す、と一陣の風が通り抜けた。
銀の柄巻が、冬陽を鋭く弾く。
「そこまで、です」
静かで、澄み切った声。
振り下ろされるはずの刃は、寸前で逸らされていた。
浪士の刀が空を斬る。それを受け止めたのは、細身の太刀。
その主は――
「……御影、直熙……?」
土方が視線を向ける。
紋付きの羽織をはためかせ、若き武士が立っていた。
双眸は澄み、だがその奥には静かな怒気が宿っている。
「無辜の民を斬るなど、貴殿らの志が泣く」
低く抑えた声音。
「うるせぇ貴族坊やが──っ!」
怒声とともに斬りかかる刃。
直熙は一歩も引かず、真正面から受け止めた。
刃がぶつかり、火花が散る。
重心を崩さぬまま、滑らかに流す。
――そして、反撃。
一閃。
浪士の刀を弾き飛ばし、逆袈裟に振り返す。
だが刃は止められていた。
肩口を強かに打ち据えただけで、命までは奪わない。
呻き声を上げ、浪士が地に膝をつく。
「……御影か。助かった」
土方が短く言う。
「こちらこそ。頼もしい“背”を得ました」
直熙も簡潔に応じる。
二人は、背を預け合うように並び立った。
土方の剣は、迷いなく斬るために。
直熙の剣は、斬らずに守るために。
だが、その意志は同じだった。
――香月美織を、守る。
数刻のうちに、浪士たちは鎮圧された。
何人かは逃げ去り、残る者は倒れ伏す。
通りには、血の匂いと、まだ消えぬ緊張だけが漂っていた。
土方はすぐに美織のもとへ膝をつく。
「……美織」
そっと肩に触れる。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
視界に映った土方の顔。
凍てついていた表情に、かすかな光が差した。
「……土方さま……?」
かすれた声。
だが、その唇には安堵が滲んでいた。
「……よかった……来て……くださって……」
言葉が途切れると、そのまま力を失った身体が傾く。
「……!」
土方は即座に抱きとめた。
細い肩が、かすかに震えている。
「……ったく。無茶しやがって」
口調は呆れたようでいて、腕は驚くほど丁寧だった。
壊れ物を扱うように、そっと抱きかかえる。
「……美織さん……っ!」
駆け寄った直熙の美織を呼ぶ声が震える。拳を握りしめる指先が白くなっている。
「……どうして……おひとりで……」
誰に向けたわけでもない、痛切な呟き。土方がちらと視線を向ける。
「御影。……道場まで案内してくれねぇか」
静かな声音。
そこには、確かな信頼があった。熙は即座に頷く。
「……承知しました」
前へ出て道を切り開き、土方は美織を抱いたまま、その後に続く。
町人たちは、自然と道を開けた。
ざわめきが広がる。
――あれが、香月家の娘……
――あんな目に遭っても、人を庇って……
――殺人道場、なんて……
言葉は最後まで続かなかった。
人々の瞳に焼きついたのは、ひとりの娘の気高さと、それを守る者たちの覚悟。
年の瀬の陽光が、石畳に静かに降り注ぐ。
その下で――
香月道場を巡る風向きが、確かに変わり始めていた。
雲ひとつない冬空が高く広がり、陽は淡く、それでも確かに大地を照らしている。冷え込んだ空気は凛として、吐く息は白く長く尾を引いた。
香月邸の庭には、ところどころに雪の名残があった。
石灯籠の足元、松の根元、軒の陰。薄く残った白が、朝日に溶けることなく静かに留まっている。踏めばきしりと鳴りそうな、淡い氷の気配。
美織は石畳へ一歩、足を運んだ。
足袋の底に伝わる冷たさを確かめるように、わずかに歩を止める。羽織の襟元を整え、手にした小さな風呂敷包みを胸元へ抱え直した。
その仕草は慎ましく、静かだった。
だが、ただ穏やかなだけではない。迷いを押し留め、決意を胸に納めた者の、凛とした静けさがそこにあった。
「それでは、行ってまいります」
声は柔らかい。
けれどその奥には、昨夜の庭に降り積もった沈黙と、かすかなぬくもりを抱えたままの震えが、ほんの少しだけ混じっていた。
「……お気をつけて」
縁側の柱の影から応じたのは、天城朔也だった。
背筋はいつもと変わらず伸びている。
だが、その視線だけが、わずかに揺れていた。
無意識のうちに帯刀へ指先が伸びるのに気づき、そっと引く。
――町へ、ひとりで。
年の瀬の江戸は、華やぎと喧騒に満ちている。
正月支度に追われる商人、帰郷する武士、浮き立つ町人たち。だがその賑わいの裏で、別の熱が静かに燻っていることを、朔也は知っていた。
裏町では浪士の集会が絶えない。
尊皇攘夷を掲げる若者たちが、怒りの矛先を持て余し、些細な諍いが刃へと変わる。思想が剣へと姿を変える、その危うさ。
朔也は、幾度もそれを目にしてきた。
――護衛を付けましょうか。
喉の奥までせり上がった言葉が、そこで凍りつく。
言えばいい。それだけのことだ。
だが、美織は香月家の令嬢。
自分はその傘下に籍を置く者に過ぎない。
立場も、身分も、越えてはならぬ境界がある。ましてや、縁談を控えた身の彼女の隣に立ち、町中を並び歩くなど――許されるはずがない。
昨夜、雪の舞う庭で。
凍えるような空気の中、触れかけた指先。
言葉にはしなかったが、確かにそこにあった距離。
その距離が、いま再び彼を躊躇わせる。
「……」
沈黙が、冷気の中で白く膨らむ。
そのとき、美織がふと足を止め、振り返った。
「天城さん?」
肩越しに向けられた声は、冬の空気の中で不思議と温かかった。
淡雪の下から芽吹く若草のような、柔らかな響き。
「……いえ。何でもありません」
朔也は、いつものように笑みを浮かべる。
穏やかで、整った、従者としての表情。
だが、その笑みが仮初めであることを、誰よりも彼自身が知っている。
「道中、お気をつけて。……町は、人が多いですから」
言えるのは、それが精一杯だった。
美織は一瞬、何かを言いかけたように唇を開く。
けれど、言葉はそのまま飲み込まれた。
代わりに、静かな微笑み。
「はい。ありがとうございます」
それだけを残し、彼女は門をくぐる。
冬の陽光が石畳を照らし、その背を淡く縁取った。
白い息をひとつ吐き、ゆるやかに歩き出すと――やがて、その姿は人波の向こうへと溶けていった。
朔也は、ただ立ち尽くす。
――俺は、何を恐れている。
身分か。
立場か。
それとも……彼女の世界へ踏み込んでしまうことそのものか。
「……“守る剣”でありたい、だなんて」
小さく零れた言葉は、冬空へと溶けていく。
剣を振れば、人は守れる。
だが、たったひと言すら伝えられぬこの手で――何を守れるというのか。
門前の石畳に、年の瀬の陽光が穏やかに降り注ぐ。
それはあまりにも平和で、まるで何事もない朝のように世界を照らしていた。
だが、その光の下で――
江戸の町は、静かに、確実に、何かを孕み始めている。
朔也は、無意識のうちに拳を握りしめた。
名もなき不安。
名を与えることさえ出来ぬ無力感。
胸の奥にそれを抱えたまま。
この日が、やがて大きな波を呼ぶことを――まだ、誰も知らなかった。
◆
江戸の町は、年の瀬の活気に満ちていた。
軒先には青々とした松をあしらった注連飾りが揺れ、商家の暖簾は新しく掛け替えられている。店先では正月支度に追われる人々の声が飛び交い、白餅を並べる音、干支の人形を包む紙の擦れる音、紅白の水引を結ぶ手の動き――それらが重なり合い、町全体がひとつの大きな息づかいをしているかのようだった。
白い餅の甘い匂い。
炭火の焦げる匂い。
人々の笑い声。
浮き立つ気配は、表通りだけでなく、路地の奥深くにまで静かに染み渡っている。
その華やぎの中を、美織はひとり、静かに歩いていた。
裾をさりげなくたぐり、足運びを整えながら。
人波に押されることなく、しかし目立つこともなく、視線はまっすぐ前へと据えられている。
両腕に抱えた小さな風呂敷包みの中には、餅、乾物、干し柿、祝い箸――屋敷に残る者たちのための、ささやかな新年の支度が収められていた。
華やかな買い物ではない。
贅を尽くした品でもない。
けれど、そのひとつひとつに、彼女なりの願いが込められている。
――せめて、皆が穏やかに年を越せますように。
その想いだけを胸に、美織は歩を進めていた。
町の喧騒に包まれながらも、その心は不思議と澄み渡っている。
浮き足立つ空気の中で、彼女だけが静かな水面のようだった。
……そのとき。
「……おい、やめろよ!」
鋭い怒声が、通りの空気を裂いた。
続いて、何かが倒れる鈍い音。
賑わっていた一角が、にわかにざわめき立つ。
「誰か呼んでこい!」
「血が……血が出てる!」
ざわざわと人垣が揺れる。
美織ははっと顔を上げた。
風呂敷を抱え直しながら、人波の隙間を縫うようにして近づく。視線の先、人垣の中心で――ひとりの老人が地面にうずくまっていた。
背を丸め、頭を庇うように両腕をかざしている。
その上から、数人の男たちが容赦なく足を振り上げていた。
「──っ」
考えるより早く、身体が動いていた。
風呂敷包みが腕から滑り落ち、布が地面に触れる音さえ、耳に入らない。
美織は人垣を押し分け、その場へと駆け込んだ。
振り下ろされる拳。
荒々しい息遣い。
次の瞬間――その前に、彼女はすっと立ちはだかっていた。
「やめてください──!」
凛とした声が、冬空へ真っ直ぐに響いた。
男たちの動きが止まる。
「……あ?」
浪士風の男たちが、目の前に現れた少女をまじまじと見る。
年の瀬の喧騒には似つかわしくない、整えられた髪と品のある着物。
だが、何より目を引いたのは――その瞳だった。
澄んでいる。
そして、燃えている。
「この方に、それ以上、手を上げないでください」
声は震えていなかった。
怯えも、迷いも、そこにはない。
「……なんだ、女かよ」
「……待て。こいつ、香月家の令嬢じゃねぇか?」
ざわめきが広がる。
「え、“香月道場”の……?」
「なんでこんなところに……」
浪士のひとりが、嘲るように肩を揺らした。
「へぇ……噂の“殺人道場”のお嬢様か。こりゃ傑作だな。年の瀬の町角でご奉仕とは、ずいぶん気高く育ったもんだ」
笑いに滲むのは、侮蔑と悪意。
だが、美織は一歩も退かなかった。
「何を言われようと構いません。ですが――この方には、指一本、触れさせません」
背筋をすっと伸ばし、両腕を広げて老人の前に立ち塞がる。
裾に泥が跳ねても。
風に髪が乱れても。
その足は、微動だにしなかった。
その姿に、一瞬、男たちの手が止まる。
――しかし。
「……チッ。なめやがって」
苛立ちを露わにした浪士が、腕を振り上げる。
次の瞬間、美織の身体が横へと弾かれた。
「──っ!」
乾いた衝撃音。
背中に痛烈な衝撃が走る。
石壁に叩きつけられ、視界が揺れ、白く弾ける。
息が抜け、空気が肺から一瞬で奪われた。
崩れ落ちるように膝をつく。
「おい、やめろ!」
「死んじまうぞ!」
「馬鹿な真似はよせ! あれは香月家の娘だ!」
悲鳴と怒声が入り混じる。
だが、男たちの目には、躊躇いよりも焦燥が浮かんでいた。
美織は、ゆっくりと顔を上げる。
唇の端から、赤い血が一筋、伝っていた。
視界は揺れている。
耳鳴りが響く。
それでも――その瞳は、まだ死んでいなかった。
「……お下がりください。……どうか……早く逃げてください」
震える腕で、なおも老人を庇う。
身体はふらつき、それでも立とうとする。
「……っ、調子に乗るなよ、小娘が」
冷えきった声。
次の瞬間、無遠慮に振り抜かれた足が、美織の脇腹を容赦なく打ち据えた。
「──っ……!」
息が完全に詰まる。
細い身体が宙に浮き、再び壁へ叩きつけられた。
鈍い衝撃が、狭い路地に響く。
石壁に背を強かに打ちつけ、美織はそのまま膝から崩れ落ちた。
視界が白く弾け、耳の奥で遠く波のような音がする。
「やめろ!」「誰か止めろ!」「女だぞ!」
町人たちの悲鳴が、四方から巻き起こる。
だが――
地に伏しながらも、美織の指はなお、老人の袖を掴んでいた。
離さない。
その細い指に宿る力だけが、彼女の意志を物語っていた。
だが、浪士は怯まなかった。
地に伏した美織を見下ろし、なおも歩を進める。
靴底が石畳を踏み鳴らす音が、やけに大きく響いた。
「まだ立つ気か? なら──」
振り上げられた拳。
その影が、美織の顔へと落ちる。
刹那――
「……やめておけ。これ以上、無様を晒すな」
背後から放たれた声は、凍てついた刃のように鋭かった。
空気が、一瞬で凍る。
拳が振り下ろされる寸前。
音もなく伸びた腕が、男の手首をがしりと掴み取る。
「なっ……!」
骨ばった指が、逃げ場を与えぬよう絡みつく。
次の瞬間、関節が鋭くねじ上げられ――
バキリ、と鈍い音が冬の空気を裂いた。
悲鳴を上げてうずくまる男を、土方歳三は冷然と見下ろす。
「女に手を上げて、武士気取りか。……笑わせるな」
その一喝で、騒然としていた場が、ぴたりと静まり返った。
浅黒い羽織の裾が、わずかに風をはらむ。
その立ち姿には、言葉以上の圧があった。
だが――
「うるせぇんだよ……!」
別の浪士が、怒りに任せて刀を抜く。
冬陽を鈍く反射する刃。
同時に、土方の腰からも鋭い金属音が鳴った。
──抜刀。
閃いた刃が、風を裂く。
火花が弾け、鋼と鋼がぶつかる衝撃が真冬の空気を震わせた。
土方は美織の前に立ち塞がったまま、一歩も退かない。
無駄のない動き、淀みなき踏み込み。
その全てが、幾多の修羅場を越えてきた者の技を語っていた。
「下がってろ。誰にも、指一本、触れさせはしねぇ」
背中越しに落とされたその言葉。美織は、かすかに目を見開く。
――どうして、この人が……?
疑問は浮かんだが、言葉になる前にかき消された。
状況は、さらに悪化していた。
「ちっ、こうなりゃ道連れだ! 目障りな町人どもも片しちまえ!」
浪士たちが、周囲へと刃を向けると悲鳴が上がった。
「逃げろ!」
「子供がいるぞ!」
「誰か止めろ!」
混乱の中、幼い娘を庇った老母が倒れ込む。
その上に、無情な刃が振り下ろされようとした瞬間――
す、と一陣の風が通り抜けた。
銀の柄巻が、冬陽を鋭く弾く。
「そこまで、です」
静かで、澄み切った声。
振り下ろされるはずの刃は、寸前で逸らされていた。
浪士の刀が空を斬る。それを受け止めたのは、細身の太刀。
その主は――
「……御影、直熙……?」
土方が視線を向ける。
紋付きの羽織をはためかせ、若き武士が立っていた。
双眸は澄み、だがその奥には静かな怒気が宿っている。
「無辜の民を斬るなど、貴殿らの志が泣く」
低く抑えた声音。
「うるせぇ貴族坊やが──っ!」
怒声とともに斬りかかる刃。
直熙は一歩も引かず、真正面から受け止めた。
刃がぶつかり、火花が散る。
重心を崩さぬまま、滑らかに流す。
――そして、反撃。
一閃。
浪士の刀を弾き飛ばし、逆袈裟に振り返す。
だが刃は止められていた。
肩口を強かに打ち据えただけで、命までは奪わない。
呻き声を上げ、浪士が地に膝をつく。
「……御影か。助かった」
土方が短く言う。
「こちらこそ。頼もしい“背”を得ました」
直熙も簡潔に応じる。
二人は、背を預け合うように並び立った。
土方の剣は、迷いなく斬るために。
直熙の剣は、斬らずに守るために。
だが、その意志は同じだった。
――香月美織を、守る。
数刻のうちに、浪士たちは鎮圧された。
何人かは逃げ去り、残る者は倒れ伏す。
通りには、血の匂いと、まだ消えぬ緊張だけが漂っていた。
土方はすぐに美織のもとへ膝をつく。
「……美織」
そっと肩に触れる。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
視界に映った土方の顔。
凍てついていた表情に、かすかな光が差した。
「……土方さま……?」
かすれた声。
だが、その唇には安堵が滲んでいた。
「……よかった……来て……くださって……」
言葉が途切れると、そのまま力を失った身体が傾く。
「……!」
土方は即座に抱きとめた。
細い肩が、かすかに震えている。
「……ったく。無茶しやがって」
口調は呆れたようでいて、腕は驚くほど丁寧だった。
壊れ物を扱うように、そっと抱きかかえる。
「……美織さん……っ!」
駆け寄った直熙の美織を呼ぶ声が震える。拳を握りしめる指先が白くなっている。
「……どうして……おひとりで……」
誰に向けたわけでもない、痛切な呟き。土方がちらと視線を向ける。
「御影。……道場まで案内してくれねぇか」
静かな声音。
そこには、確かな信頼があった。熙は即座に頷く。
「……承知しました」
前へ出て道を切り開き、土方は美織を抱いたまま、その後に続く。
町人たちは、自然と道を開けた。
ざわめきが広がる。
――あれが、香月家の娘……
――あんな目に遭っても、人を庇って……
――殺人道場、なんて……
言葉は最後まで続かなかった。
人々の瞳に焼きついたのは、ひとりの娘の気高さと、それを守る者たちの覚悟。
年の瀬の陽光が、石畳に静かに降り注ぐ。
その下で――
香月道場を巡る風向きが、確かに変わり始めていた。
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