【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第三章

雪明かりに浮かぶ、ひと夜の想い

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 そっと、朔也の前に立ち、美織は小さく背伸びをした。

 「……雪が、付いています」

 細い指先がふわりと宙をなぞり、朔也の黒髪へと届く。
 髪に舞い落ちた小さな雪片を、羽に触れるような繊細さでそっと払った。

 その仕草には、無意識のやさしさと、奥に秘めた静かな想いが滲んでいた。

 思いがけない接触に、朔也が小さくまばたきをすると、美織は、いたずらを仕掛けた子供のように、ふわりと微笑んだ。
 冬の闇に灯る行燈のようなその笑みに、朔也の胸の奥がほのかに温もる。

「……お返しをしないと、いけませんね」

 小さく笑った彼は、美織の横顔へそっと視線を落とす。

「睫毛に……雪が」

 囁くように告げながら、彼の手がゆっくりと伸びてゆく。
 白く揺れる吐息のなか、美織の頬に指先が近づく。

 長く繊細な睫毛にふれた、わずかな雪を払うために──
 添えられた指が、頬を包むように静かに触れた。

 はらりと伝わる掌の温もり。
 それはためらいがちでありながらも、驚くほどやさしくて──
 美織の呼吸がふっと止まった。

 彼女は、そっと目を閉じる。

 その姿は、まるで雪明かりに浮かぶ夢のようだった。

  白く透きとおるような肌に、長く美しい睫毛が影を落とし──
 凛と結ばれた唇は、柔らかな花びらのようにふるえている。

 その姿は、言葉を失うほどに美しく、静謐で──
 まるで、この世のものではないかのように。

 朔也は、ただその面差しを見つめることしかできなかった。
 触れてしまったことを悔いるでもなく、それ以上の距離を詰めることもできずに。

 胸に満ちていたのは、溢れるような切なさだった。

 美織の胸もまた、波打つように高鳴っていた。

 頬を包む手のぬくもりと、睫毛にふれた指のやさしさ──
 どちらも、心の奥深くにまで染みわたり、離れなかった。

(……このまま、時間が止まってしまえばいい)

 そんな想いが、切実に胸を占める。

 このひとときが終われば、また現実が待っている。
 決められた未来と、避けられない役目。
 縁談も、義務も、すべてがもう定められている道の上。

 この想いを忘れなければいけない。
 この高鳴りを、感じてはいけない。

 ……それでも。

 せめて、今だけは。
 この瞬間のぬくもりだけは──胸の奥に刻んでいたかった。

 ゆっくりと、まぶたを上げる。

 そこには、心の奥まで見透かすような朔也の瞳があった。
 切なげに揺れるその眼差しは、言葉よりも深く、美織の心を揺らす。

「……天城さん……わたくし……」

 声にならない言葉が、喉の奥で絡まった。

 言ってはいけない。
 でも、黙ってはいられない。

 此処を離れたくない。
 あなたの傍に、いたい──

 ……けれど、それを伝えれば、きっと彼は困ってしまう。
 わがままになってしまう。不義理になる。
 そして何より、叶わぬ想いだと、知っているのに。

(どうして、こんなにも……惹かれてしまったのだろう)

 朔也の手が、そっと離れた。

 けれど、それは拒むような仕草ではなかった。
 むしろ、触れ続けることを恐れるような戸惑いと、引き留める勇気を持てない迷い──
 そして、それ以上に。彼なりの、精一杯のやさしさがそこにあった。

 温もりを残すように、指先が名残惜しげに空気へと溶けていく。

 ふと、ふたりのあいだに、小さな沈黙が生まれる。

 見つめ合っていた視線が、どちらからともなく、そっと逸れた。
 その刹那、降り積もる雪の白さが、やけに目に沁みた。

「……」

 言葉は、出なかった。
 美織も朔也も、胸の奥にあふれかけた想いを、静かに飲み込む。
 それは互いを思えばこその、交わすことをためらった想いだった。

 ほんの一歩、距離が開いただけで──
 さっきまで確かにあったはずのぬくもりが、こんなにも遠く感じられる。

 凍てつく風が庭をすり抜け、白梅の枝先を揺らす。
 花はまだ咲いていないはずなのに、その音が切なく響いた。

 ふたりは、同時に目を伏せた。

 「……冷えますね、美織さん。中に戻りましょう」

 朔也の声は静かだった。
 あくまで穏やかに、それでもどこか、言い知れぬ未練が滲んでいる。

 美織は黙って頷き、身を翻す。

 袂の奥でそっと握りしめた手は、かすかに震えていた。
 そこに残るのは──彼の掌の温度。

 ふたりは、肩を並べて歩き出す。

 足音は雪に吸い込まれ、静かに沈んでいく。
 白く染まった庭に刻まれたふたつの足跡は、夜の闇に溶けるように並んでいた。

 けれどその足跡も、やがてまた、降り積もる雪に埋もれていく。

 まるで、何事もなかったかのように──
 踏みしめる雪の音が、かすかに夜の静寂を彩っていた。

 肩を並べて歩くふたりの影が、白く染まる庭の上に淡く揺れている。
 もう言葉は交わされない。
 ただ、同じ歩幅で、同じ寒さと灯りの余韻を分かち合いながら──。

 やがて縁側へと戻った美織が、そっと襖に手をかけた。
 きぃ……という微かな音とともに開かれたその先には、やわらかな灯りに包まれた室内があった。
 火鉢にくべられた炭が、小さく赤い光を宿している。

 美織が一歩、部屋へと足を踏み入れ、朔也も静かにそのあとを追う。
 襖が閉じられる音が、またひとつ夜の静けさに溶けていった。

 部屋の中には、清らかで穏やかな沈黙が流れていた。

 美織は座布団にそっと身を沈め、膝の上に両手を重ねる。
 さきほどまで浮かんでいた笑みは消えていたが、その横顔には、静かな覚悟とやさしさが滲んでいた。

 朔也は火鉢のそばに腰を下ろし、無言のまま手をかざす。

 目を合わせるでもなく、言葉を交わすでもなく──
 ふたりは、ただ同じ小さな炎を見つめていた。

 ゆらゆらと揺れる火の影が、障子にふたりの影を重ねる。
 そのかすかなゆらぎの中に、声にならない想いがそっと染み込んでいた。

 「……」

 ふと、美織の視線が朔也へと向けられる。
 けれど朔也は、まだじっと炎を見つめていた。

 その横顔をしばし見つめたのち──
 何かを言いかけて、美織はそっと視線を落とす。
 この沈黙の温もりを壊してはいけないと、胸の奥で直感するように。

 冬の夜は、なお深まりゆく。

 けれど、その静けさは決して冷たいものではなかった。

 そこにあったのは、まだ伝えきれぬ想いと──
 ただ、傍にいられるという、それだけで十分なぬくもりだった。

 揺れる火鉢の灯りを見つめながら、美織は膝の上に置いた両手を、そっと握りしめた。
 その指先が、かすかに震えている。
 気づかぬふりをしていても、もう隠しきれないほどに。

 ──わたくしは、この手を差し出してはいけない。

 ほんの少し前。
 雪の庭で、朔也の手が頬に触れたあの瞬間──
 胸の奥に、これまで感じたことのない熱が、静かに灯った。

 それは、怖いほどのぬくもりだった。
 この想いを受け入れてしまえば、もう二度と引き返せなくなる。
 そんな予感が、肌を伝い、心まで染み込んでくるようだった。

 ……けれど、それでも。
 「この人の傍にいたい」と、心の奥底から願ってしまった。

 本邸に戻れば、香月家の娘としての役目が待っている。
 いずれ、縁談の話も持ち上がるだろう。

 それは“家”を守るためであり、
 兄上の顔に泥を塗らぬためであり──
 そして何より、自分自身に課せられた「義務」であることも、分かっている。

 ……分かっているのに。

 どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。

 朔也と過ごした、このひと月の記憶が、
 雪のように、静かに、そして深く胸の奥へと降り積もっていく。

 優しい声。
 そっと差し出された手。
 不器用で、まっすぐで、あたたかな眼差し。

 それらは──縁談という言葉の冷たさに比べて、あまりにも現実味があって。
 そして、あまりにも……恋しかった。

 もしも、この想いを言葉にしてしまったら。
 「傍にいてほしい」──そのひとことが、
 彼を縛り、傷つけてしまうかもしれない。

 そんなことは、決して望んでいない。

 ……だから、言えない。

 心が叫びたがっていても、唇は何も語ろうとしなかった。

 ただ、火鉢の炎を見つめる。
 そして、隣に座る彼の横顔を、そっと盗み見る。

 その眼差しにもまた、何かを押しとどめているような影が、かすかに見えた。

 ──わたくしたちは、きっと似ているのかもしれない。

 言葉で飾るよりも、沈黙の中にすべてを預けてしまう。
 そんな、不器用なところまで。

 ……でも、今夜だけは。

 この沈黙の中に、わたくしの想いが、そっと届きますように──

 そう願いながら、美織は静かに、火の灯りへと視線を戻した。
 静けさが、ふたりのあいだをそっと包み込み、朔也は伏せ目がちに視線を落とした。

 ──あのとき、ほんの少し手を伸ばせば、彼女の指先に触れられた。

 雪の庭で、美織が差し出した、小さな白い手。
 お淑やかに、穏やかに微笑んでいたその表情は、まるで何事もなかったかのようだった。
 けれど、その指先は確かに、かすかに震えていた。

 あの瞬間、自分もその手に重ねたいと、心の底から願った。
 たとえ、それが──一瞬の夢でしかなかったとしても。

 だが。

(……俺に、その手を取る資格はない)

 火鉢の灯が、わずかに揺れた。
 赤く脈打つような炎が、部屋の片隅に淡い影を落とす。

 目の前の彼女は、静かに灯りを見つめていた。
 何も語らず、ただそこにいるだけなのに──その姿が、痛いほど美しかった。
 儚くて、どこか遠い。手の届かない場所にいるようで。

 香月家という名家に生まれ、その名と責任を背負って生きてきた人。

 ──それに比べて、自分は。

 没落した旧幕臣の家の、次男坊にすぎない。
 名を出せば、陰口のひとつやふたつは当然のように囁かれる。
 再興を志す兄のように道を切り拓いてきたわけでもなく、ただ剣と信念だけで、ようやく人に認められるようになった、そんな男だ。

 ……自分に、香月家に差し出せるものなど、あるのか。

 彼女の未来を、その手を、自分に託す資格が──本当にあるのか。

 想いは募る。
 けれど──想いだけでは、届かない。
 彼女の幸せを願うのなら。
 本当に願うのなら──その手を、握ってはいけないのかもしれない。

 ──美織さん

 思わずこぼれそうになった声を、唇を噛んで押しとどめた。
 もしも今、彼女の名を呼んでしまえば──
 その先に、自分は何を望んでしまうのだろう。

 数刻前。
 美織の睫毛に、ふわりと雪が降りた。
 そのひとひらを払うために伸ばした手。
 頬に触れた、柔らかなぬくもり。
 閉じられたまぶた。
 まるで、すべてを委ねるように。
 確かに、あのとき──彼女は、心を開いてくれていた。

 あれは、夢だったのか。
 そう疑いたくなるほどに、胸が締めつけられる。

 ──けれど。

 もしも、もう一度だけ。
 あの手が、自分に向けて差し出されることがあるのなら。
 今度こそ、迷わずに──応えたい。

 ……いや。

 そんな願いを抱くこと自体、きっと許されない。

 まだ、自分は──
 その手に応える器ではないのだから。

 そう思い込むことでしか、いまの自分を保つ術はなかった。

 火鉢の灯りが、ふわりと揺れる。
 その微かな光の中、彼女の横顔が静かに浮かび上がる。

 まるで、凪いだ水面のように。
 穏やかで、そして──この上なく美しかった。

 ──どうか、この人が、笑っていられる人生を。

 それだけを、ただ。
 心の底から、祈るように願った。
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