【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第三章

静寂がふたりを結ぶ夜

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 翌朝──。
 雲ひとつない蒼天が広がり、澄みきった冬の空気が香月道場の庭をきりりと包み込んでいた。

 凛と張りつめた静寂。
 白木の縁側には夜の冷気がそのまま残り、足を運ぶたびに草履越しに伝わる硬質な冷たさが、背筋を自然と伸ばす。

 吐く息は白く、胸の奥まで澄み渡るようだった。
 寒さは厳しいはずなのに、不思議と心は晴れやかで──
 まるで新しい年を迎えるための禊の朝のように、どこか神聖な気配が漂っている。

 開門して、わずかひと月。

 短い時であった。
 だが、共に汗を流し、剣を交え、叱咤し合った日々は、確かな絆を育んでいた。
 剣先が触れ合うたびに交わされた信頼は、目には見えずとも、今や道場の柱のように静かに根を張っている。

 今日──
 その節目として迎えた「稽古納め」と「年礼」が、厳かに始まった。

 雪こそ降ってはいない。
 けれど、透き通るような冷気が道場を白く清めているかのようだった。

 静寂の中、正座する門弟たちの背筋は一糸乱れず揃い、畳の上に並ぶその姿は、まるで一本の線を引いたかのように端然としている。

 道場中央に立つのは、香月悠臣。

 無駄のない立ち姿。
 ただそこに在るだけで、場の空気が整っていく。

 「──この一年を納めるにふさわしい、皆の鍛錬だった」

 静かな声だった。
 だがその言葉は、冬空のように澄み渡り、門弟たちの胸にまっすぐ届いた。

 面を上げた若者たちの目には、それぞれの歩みが宿っている。
 緊張、誇らしさ、そして確かな達成感。
 このひと月が、彼らの中に刻まれているのが分かる。

 式が終わると、門弟たちは静かに礼を交わし、帰郷の支度へと散っていった。

 風呂敷に包まれる土産。
 だが荷に詰められているのは品物だけではない。
 汗と悔しさ、そして一歩進んだ自分自身──それらすべてが、彼らの胸に携えられている。

 庭先には、別れを惜しむ声と、旅立ちの期待が入り混じる。

 けれど、すべてが去るわけではなかった。

 廊下の端。
 喧騒から少し離れた場所で、天城朔也は竹箒を手に庭の落ち葉を掃いていた。

 白梅の蕾が、ひそやかに枝先で揺れる。
 春はまだ遠いが、確かにそこに兆しがある。

 箒の先が霜をなぞるたび、きし、と小さな音が立つ。
 袴の裾がさらりと翻り、踏みしめた霜が砕ける。

 「朔也、帰郷はしないのか」

 背後からの声に、朔也は動きを止めた。
 振り返らず、ただ柔らかく笑う。

 「はい。……香月家にはたいへんお世話になりましたし」

 一拍置き、少しだけ肩をすくめる。

 「実家のほうは、少々ややこしくて。顔を出せば、かえって揉めるだけなんですよ。……家が評定所みたいなもんでして。審問を開かれても参りますから」

 軽口の形をしているが、その奥に淡い影がある。

 悠臣はそれを追わなかった。
 ただ、まっすぐに言う。

 「なら、正月の膳は共に囲もう。……このひと月、よく尽くしてくれた」

 短い言葉。
 だがそれは、労いであり、信頼の証だった。

 凍てつく朝の空気の中で、朔也の胸に小さな灯がともる。

 ──ここにいていい。

 その実感が、じわりと温もりを広げた。

 土間では、桐原篤哉が大鍋の前で干し椎茸を吟味していた。

 鼻先を近づけ、香りを確かめる。

 「……いやぁ。帰る家があったら迷うとこやけどなぁ。俺には“実家”ってやつがどこにもあらへんし」

 笑っているような声音。
 だがそれは、意識して明るく灯した火のようだった。

 悠臣が視線を向けると、篤哉は肩をすくめる。

 「心配せんでええ。居候は居候らしく、雑煮ぐらいはちゃんと作るで」

 軽口の奥にある寂しさを、皆が感じていた。
 だが誰もそれを指摘しない。
 その代わり、彼がこの家を誰よりも大切に思っていることを知っている。

 門前では、御影直熙が静かに礼をしていた。

 「どうせ戻っても、小言ばかりでしょうから」

 投げやりに聞こえるが、そこには確かな本音が滲む。

 「正月ぐらいええ顔して過ごしてこいや~!」
 篤哉が手を振る。

 「耳に蜜でも塗っときぃ!」

 直熙は鼻で笑う。

 「なら、口に糊も貼っておくよ。余計な一言を封じてな」

 軽妙なやり取りの中に、互いへの親愛がある。

 だが──直熙の視線が、ふと屋敷の奥へ向いた。

 その先に、香月美織の姿があった。

 彼女は朝まで荷を結っていた。
 前夜、悠臣に「本邸へ戻ります」と告げたのだが──朔也が残ると知り、篤哉もまたここで年を越すと聞いた瞬間、包みかけていた衣の紐から、指先がふと離れた。

 ほんの刹那の迷い。けれどそれは、確かな決意へと変わる。

 昼過ぎ、美織は兄の前で静かに頭を下げた。

 「兄上。屋敷に残られる皆さまが、無事に年越しを迎えられるよう、支度を整えてから本邸へ戻ります」

 澄んだ声。そこに迷いはなかった。
 悠臣は短く頷いた。それだけで十分だった。

 夕暮れ。
 門弟の大半が旅立ち、屋敷は静けさを取り戻す。

 残ったのは、美織、朔也、篤哉、悠臣──四人。

 だがその空気は、不思議と温かい。

 囲炉裏を囲む夕餉の席。
 味噌の香が立ちのぼり、炭のはぜる音が小さく響く。

 「……今年最後の夜は、何をして過ごしましょうか」

 美織が箸を置いて言う。

 「そらもう、年越し蕎麦やろ」
 篤哉がにやりと笑う。

 「蕎麦がなけりゃ、うどんでも味噌でもええけどな」

 「うどんで年越し……それは少し重たくなりそうだな」

 朔也が苦笑し、美織が柔らかく笑う。

 ぱち、と火がはぜる。
 年の瀬の香月邸に、小さく、しかし確かな灯がともっていた。

 その夜。
 まだ年明けぬ「新年」の支度が、誰に知られることもなく、そっと始まりつつあった──。

 ◆

 夕餉の膳が片付けられたあとの静寂──

 香月邸の廊下には、かすかに灯る行燈の光と、釜に残る余熱の温もりだけが、夜の気配と寄り添うように残っていた。

 私室に戻った天城朔也は、膝を正し、黙々と刀の手入れに向き合っていた。

 布でゆっくりと刃を拭うたび、微かに光る鍔元には、日々の鍛錬で刻まれた細やかな痕が浮かぶ。

 手に伝わる金属の冷たさに、研ぎ澄ました意志を乗せるように──彼は一度たりとも手を止めなかった。

 静まりかえった室内には、刀身を拭う布の音だけが淡く響いていた。そのささやかな音が、まるで自らの呼吸を映すように感じられる。

 ふと、障子の向こうからふたりの男の声が届いてきた。

「……雪の中、どこ行くねん。悠臣」
「織宮から呼ばれてな。ちょっと顔を出してくるだけだ」

 桐原篤哉と香月悠臣の声だった。

 朔也は手を止め、刀をそっと脇に置いて耳を澄ませた。

「俺も一緒に行ったらアカン?」
「お前が行って、どうするつもりだ」
「……散歩や。なぁ、雪もええ頃合いやろ? 邪魔はせん」

 一瞬の間が空き、低くため息混じりの声が続く。

「……好きにしろ。ただし、勝手に口を挟むなよ」

 やり取りに、朔也は口元をほころばせた。

(まったく……相変わらずだな、桐原)

 鞘に刀を納めたそのとき、視界の隅に白く舞うものが映った。

「……雪、か」

 立ち上がって硝子戸に近づくと、夜空から静かに降る雪が、庭にうっすらと白を重ねていた。
 その光景に、胸の奥がふと揺れる。

(……誰かと、この景色を分かち合いたい)

 そんな想いが胸を過ぎったのは、いつぶりだったろうか。
 羽織を肩に掛け、足音を忍ばせながら離れの廊下を進む。
 やがて、ある部屋の前で足を止め、襖の前でそっと声をかけた。

「……美織さん」

 呼吸を整える間もなく、襖が音もなく開く。
 行燈の光に照らされた彼女の頬はほのかに朱を帯び、やわらかな笑みが咲いた。

「天城さん……。どうかなさいましたか?」

 室内からは白檀と梅が混じるような、どこか懐かしく安らぐ香が漂っていた。
 冷えた空気の中に、ほのかな温もりを感じさせるその香りに、朔也は心を緩める。

「雪が降っています。……よろしければ、庭にご一緒しませんか?」

 美織は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに微笑んで頷いた。

「……もちろん、よろこんで」

 羽織を肩に掛けた彼女が、襖を静かに閉める。
 ふたりは並んで縁側へ向かい、庭を見下ろした。

 降り積もり始めた雪が、苔や飛石の上を柔らかく白く覆っていく。
 耳を澄ませば、雪の音さえ聞こえない──まるで時が止まったような夜。

 ふたりは、そっと肩を並べて腰を下ろす。

 言葉はなかった。
 だがその沈黙こそが、何より心地よい。

(このひと月……美織さんがこの屋敷にいた時間は、自分にとってどれほど大きかったか)

 それも、まもなく終わる。

 美織は香月家の令嬢。
 本邸に戻れば、縁談がある。
 この道場に顔を出すことさえ、もう数えるほどしかないのかもしれない。

 考えるだけで、胸の奥がきりきりと痛んだ。

 そのとき、美織が立ち上がり、履物を手にして庭へ降りようとする。

「……天城さん、庭に出ましょう?」

 雪の上にそっと足を下ろす美織。
 白い息を吐きながら、淡い光に溶け込むようなその姿は、幻想めいて見えた。

 朔也は縁側に立ったまま、微笑みながら言う。

「風邪を引きますよ、美織さん」

 くるりと振り返った美織が、雪の中から手を差し出す。
 その手はやわらかく開かれ、頬には紅が差し、唇には静かな笑みが宿っていた。

「雪を見ると……どうしてこんなに心が躍るのでしょうか。
 ……天城さんも、ご一緒にいかがですか?」

 差し出された手に、朔也の胸が大きく脈打つ。

 あの手を取ってしまえば、何かが変わってしまう気がして──けれど、それでも。

(彼女の隣に、立ちたい)

 伸ばしかけた手は、葛藤に引き留められた。

(……この手を握る資格が、俺にあるのか)

 答えの出ない問いが胸をよぎる。

 けれど次の瞬間、ただ一歩、彼女の隣に足を踏み出していた。

 その一歩に、朔也のすべてが込められていた。

 ふたりの足音が、雪の上にふわりと吸い込まれていく。
 きしりとも、ざくりとも違う。
 新雪を踏むとき特有の、やわらかく沈む音だった。

 白に包まれた庭へと足を踏み入れた瞬間、
 まるで世界の音が、すべて遠のいたように感じられた。

 風は凪ぎ、木々の葉もひとつとして揺れない。
 ただ、空から静かに舞い落ちる雪が、景色をやさしく包み込んでゆく。
 その白さは、まるで時間そのものをゆるやかに凍らせてしまったかのようで──。

 言葉はなかった。

 けれど、不思議と苦ではなかった。
 沈黙は、ふたりを隔てるものではなく、
 かえってそっと結ぶ、細くも確かな糸のように感じられた。

 やがて、美織がそっと膝を折り、手を伸ばして雪をすくう。
 その指先は、壊れものを扱うように繊細でやさしく、
 掌に集めた雪を、ゆっくりと丸めてみせる。

「……冷たくて、でも……きれい」

 白く煙る吐息に紛れて、小さくこぼれたその声。
 朔也はその横顔に、胸の奥をそっと掴まれるような思いがした。

 月のない曇り空の下、雪明かりだけが頼りの庭先。
 けれどその柔らかな光が、美織の頬をほのかに照らしていた。
 指先のひとつひとつまで、静かな美しさに満ちていて──
 まるで夢のなかの光景のようだった。

(……どうして、こんなにも惹かれてしまうのだろう)

 凛としていながら、やさしさを隠さずにいられる人。
 強くあろうとして、それでも弱さに寄り添える人。

 ──そして、手の届かない場所にいる人。

 朔也は視線を落とし、足元の雪を見つめるふりをする。
 胸のざわめきを、なんとか押し殺すように。

 そのとき──

「……天城さんは」

 不意に、美織が彼の名を呼んだ。

「わたくしが本邸に戻ったあとも……この道場に、いてくださいますか?」

 声は静かで、けれど確かだった。
 確かめるようでいて、どこか祈るようでもあり。
 揺れはないけれど、胸の奥から紡ぎ出された「願い」がそこにあった。

 朔也は、一瞬だけ息を詰める。
 胸を貫いたその問いは、痛みと喜びの境界を曖昧にし、
 言葉を返す術を一瞬だけ奪った。

「……わたくし、この場所で……天城さんに、たくさん助けていただきました。
 怖いときも、迷ったときも……あなたがいてくださって、わたし、前を向けたんです」

 その声は、雪に吸い込まれるように柔らかく、けれど深く響いた。
 朔也の中で、ずっと閉ざしていた場所に、確かに届いていた。

「だから……また、戻ってきたときに。
 この同じ景色の中で、天城さんがそこにいてくださったら──嬉しい、です」

 視界が、わずかに滲んだ。

 こんなにも人の言葉に、救われることがあるのかと、思った。

「居場所」など、自分には縁のないものだと。
 欲しいと願うことさえ、許されないと──そう思い続けてきた。

 けれど彼女は、そうではないと伝えてくれた。

 ──「あなたがいてくれたら、嬉しい」と。

 その言葉は、長く纏っていた罪悪感や遠慮を、そっとほどくように温かく沁み渡った。

「……戻ってきてください。美織さん」

 声は掠れていたが、言葉は揺らがなかった。

「何があっても……俺は、ここにいます」

 その誓いは、朔也にできる、精一杯の誠だった。

 美織は、目を細めて微笑んだ。
 それは強さとやさしさを湛えた、まっすぐな微笑み。

 雪明かりのなかで、それは宝石のように輝いて見えた。

 再びふたりのあいだに沈黙が訪れる。

 けれど、それはさっきまでの静けさとは違った。

 今そこにあるのは、言葉を超えたぬくもりだった。
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