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第三章
静寂がふたりを結ぶ夜
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翌朝──。
雲ひとつない蒼天が広がり、澄みきった冬の空気が香月道場の庭をきりりと包み込んでいた。
凛と張りつめた静寂。
白木の縁側には夜の冷気がそのまま残り、足を運ぶたびに草履越しに伝わる硬質な冷たさが、背筋を自然と伸ばす。
吐く息は白く、胸の奥まで澄み渡るようだった。
寒さは厳しいはずなのに、不思議と心は晴れやかで──
まるで新しい年を迎えるための禊の朝のように、どこか神聖な気配が漂っている。
開門して、わずかひと月。
短い時であった。
だが、共に汗を流し、剣を交え、叱咤し合った日々は、確かな絆を育んでいた。
剣先が触れ合うたびに交わされた信頼は、目には見えずとも、今や道場の柱のように静かに根を張っている。
今日──
その節目として迎えた「稽古納め」と「年礼」が、厳かに始まった。
雪こそ降ってはいない。
けれど、透き通るような冷気が道場を白く清めているかのようだった。
静寂の中、正座する門弟たちの背筋は一糸乱れず揃い、畳の上に並ぶその姿は、まるで一本の線を引いたかのように端然としている。
道場中央に立つのは、香月悠臣。
無駄のない立ち姿。
ただそこに在るだけで、場の空気が整っていく。
「──この一年を納めるにふさわしい、皆の鍛錬だった」
静かな声だった。
だがその言葉は、冬空のように澄み渡り、門弟たちの胸にまっすぐ届いた。
面を上げた若者たちの目には、それぞれの歩みが宿っている。
緊張、誇らしさ、そして確かな達成感。
このひと月が、彼らの中に刻まれているのが分かる。
式が終わると、門弟たちは静かに礼を交わし、帰郷の支度へと散っていった。
風呂敷に包まれる土産。
だが荷に詰められているのは品物だけではない。
汗と悔しさ、そして一歩進んだ自分自身──それらすべてが、彼らの胸に携えられている。
庭先には、別れを惜しむ声と、旅立ちの期待が入り混じる。
けれど、すべてが去るわけではなかった。
廊下の端。
喧騒から少し離れた場所で、天城朔也は竹箒を手に庭の落ち葉を掃いていた。
白梅の蕾が、ひそやかに枝先で揺れる。
春はまだ遠いが、確かにそこに兆しがある。
箒の先が霜をなぞるたび、きし、と小さな音が立つ。
袴の裾がさらりと翻り、踏みしめた霜が砕ける。
「朔也、帰郷はしないのか」
背後からの声に、朔也は動きを止めた。
振り返らず、ただ柔らかく笑う。
「はい。……香月家にはたいへんお世話になりましたし」
一拍置き、少しだけ肩をすくめる。
「実家のほうは、少々ややこしくて。顔を出せば、かえって揉めるだけなんですよ。……家が評定所みたいなもんでして。審問を開かれても参りますから」
軽口の形をしているが、その奥に淡い影がある。
悠臣はそれを追わなかった。
ただ、まっすぐに言う。
「なら、正月の膳は共に囲もう。……このひと月、よく尽くしてくれた」
短い言葉。
だがそれは、労いであり、信頼の証だった。
凍てつく朝の空気の中で、朔也の胸に小さな灯がともる。
──ここにいていい。
その実感が、じわりと温もりを広げた。
土間では、桐原篤哉が大鍋の前で干し椎茸を吟味していた。
鼻先を近づけ、香りを確かめる。
「……いやぁ。帰る家があったら迷うとこやけどなぁ。俺には“実家”ってやつがどこにもあらへんし」
笑っているような声音。
だがそれは、意識して明るく灯した火のようだった。
悠臣が視線を向けると、篤哉は肩をすくめる。
「心配せんでええ。居候は居候らしく、雑煮ぐらいはちゃんと作るで」
軽口の奥にある寂しさを、皆が感じていた。
だが誰もそれを指摘しない。
その代わり、彼がこの家を誰よりも大切に思っていることを知っている。
門前では、御影直熙が静かに礼をしていた。
「どうせ戻っても、小言ばかりでしょうから」
投げやりに聞こえるが、そこには確かな本音が滲む。
「正月ぐらいええ顔して過ごしてこいや~!」
篤哉が手を振る。
「耳に蜜でも塗っときぃ!」
直熙は鼻で笑う。
「なら、口に糊も貼っておくよ。余計な一言を封じてな」
軽妙なやり取りの中に、互いへの親愛がある。
だが──直熙の視線が、ふと屋敷の奥へ向いた。
その先に、香月美織の姿があった。
彼女は朝まで荷を結っていた。
前夜、悠臣に「本邸へ戻ります」と告げたのだが──朔也が残ると知り、篤哉もまたここで年を越すと聞いた瞬間、包みかけていた衣の紐から、指先がふと離れた。
ほんの刹那の迷い。けれどそれは、確かな決意へと変わる。
昼過ぎ、美織は兄の前で静かに頭を下げた。
「兄上。屋敷に残られる皆さまが、無事に年越しを迎えられるよう、支度を整えてから本邸へ戻ります」
澄んだ声。そこに迷いはなかった。
悠臣は短く頷いた。それだけで十分だった。
夕暮れ。
門弟の大半が旅立ち、屋敷は静けさを取り戻す。
残ったのは、美織、朔也、篤哉、悠臣──四人。
だがその空気は、不思議と温かい。
囲炉裏を囲む夕餉の席。
味噌の香が立ちのぼり、炭のはぜる音が小さく響く。
「……今年最後の夜は、何をして過ごしましょうか」
美織が箸を置いて言う。
「そらもう、年越し蕎麦やろ」
篤哉がにやりと笑う。
「蕎麦がなけりゃ、うどんでも味噌でもええけどな」
「うどんで年越し……それは少し重たくなりそうだな」
朔也が苦笑し、美織が柔らかく笑う。
ぱち、と火がはぜる。
年の瀬の香月邸に、小さく、しかし確かな灯がともっていた。
その夜。
まだ年明けぬ「新年」の支度が、誰に知られることもなく、そっと始まりつつあった──。
◆
夕餉の膳が片付けられたあとの静寂──
香月邸の廊下には、かすかに灯る行燈の光と、釜に残る余熱の温もりだけが、夜の気配と寄り添うように残っていた。
私室に戻った天城朔也は、膝を正し、黙々と刀の手入れに向き合っていた。
布でゆっくりと刃を拭うたび、微かに光る鍔元には、日々の鍛錬で刻まれた細やかな痕が浮かぶ。
手に伝わる金属の冷たさに、研ぎ澄ました意志を乗せるように──彼は一度たりとも手を止めなかった。
静まりかえった室内には、刀身を拭う布の音だけが淡く響いていた。そのささやかな音が、まるで自らの呼吸を映すように感じられる。
ふと、障子の向こうからふたりの男の声が届いてきた。
「……雪の中、どこ行くねん。悠臣」
「織宮から呼ばれてな。ちょっと顔を出してくるだけだ」
桐原篤哉と香月悠臣の声だった。
朔也は手を止め、刀をそっと脇に置いて耳を澄ませた。
「俺も一緒に行ったらアカン?」
「お前が行って、どうするつもりだ」
「……散歩や。なぁ、雪もええ頃合いやろ? 邪魔はせん」
一瞬の間が空き、低くため息混じりの声が続く。
「……好きにしろ。ただし、勝手に口を挟むなよ」
やり取りに、朔也は口元をほころばせた。
(まったく……相変わらずだな、桐原)
鞘に刀を納めたそのとき、視界の隅に白く舞うものが映った。
「……雪、か」
立ち上がって硝子戸に近づくと、夜空から静かに降る雪が、庭にうっすらと白を重ねていた。
その光景に、胸の奥がふと揺れる。
(……誰かと、この景色を分かち合いたい)
そんな想いが胸を過ぎったのは、いつぶりだったろうか。
羽織を肩に掛け、足音を忍ばせながら離れの廊下を進む。
やがて、ある部屋の前で足を止め、襖の前でそっと声をかけた。
「……美織さん」
呼吸を整える間もなく、襖が音もなく開く。
行燈の光に照らされた彼女の頬はほのかに朱を帯び、やわらかな笑みが咲いた。
「天城さん……。どうかなさいましたか?」
室内からは白檀と梅が混じるような、どこか懐かしく安らぐ香が漂っていた。
冷えた空気の中に、ほのかな温もりを感じさせるその香りに、朔也は心を緩める。
「雪が降っています。……よろしければ、庭にご一緒しませんか?」
美織は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに微笑んで頷いた。
「……もちろん、よろこんで」
羽織を肩に掛けた彼女が、襖を静かに閉める。
ふたりは並んで縁側へ向かい、庭を見下ろした。
降り積もり始めた雪が、苔や飛石の上を柔らかく白く覆っていく。
耳を澄ませば、雪の音さえ聞こえない──まるで時が止まったような夜。
ふたりは、そっと肩を並べて腰を下ろす。
言葉はなかった。
だがその沈黙こそが、何より心地よい。
(このひと月……美織さんがこの屋敷にいた時間は、自分にとってどれほど大きかったか)
それも、まもなく終わる。
美織は香月家の令嬢。
本邸に戻れば、縁談がある。
この道場に顔を出すことさえ、もう数えるほどしかないのかもしれない。
考えるだけで、胸の奥がきりきりと痛んだ。
そのとき、美織が立ち上がり、履物を手にして庭へ降りようとする。
「……天城さん、庭に出ましょう?」
雪の上にそっと足を下ろす美織。
白い息を吐きながら、淡い光に溶け込むようなその姿は、幻想めいて見えた。
朔也は縁側に立ったまま、微笑みながら言う。
「風邪を引きますよ、美織さん」
くるりと振り返った美織が、雪の中から手を差し出す。
その手はやわらかく開かれ、頬には紅が差し、唇には静かな笑みが宿っていた。
「雪を見ると……どうしてこんなに心が躍るのでしょうか。
……天城さんも、ご一緒にいかがですか?」
差し出された手に、朔也の胸が大きく脈打つ。
あの手を取ってしまえば、何かが変わってしまう気がして──けれど、それでも。
(彼女の隣に、立ちたい)
伸ばしかけた手は、葛藤に引き留められた。
(……この手を握る資格が、俺にあるのか)
答えの出ない問いが胸をよぎる。
けれど次の瞬間、ただ一歩、彼女の隣に足を踏み出していた。
その一歩に、朔也のすべてが込められていた。
ふたりの足音が、雪の上にふわりと吸い込まれていく。
きしりとも、ざくりとも違う。
新雪を踏むとき特有の、やわらかく沈む音だった。
白に包まれた庭へと足を踏み入れた瞬間、
まるで世界の音が、すべて遠のいたように感じられた。
風は凪ぎ、木々の葉もひとつとして揺れない。
ただ、空から静かに舞い落ちる雪が、景色をやさしく包み込んでゆく。
その白さは、まるで時間そのものをゆるやかに凍らせてしまったかのようで──。
言葉はなかった。
けれど、不思議と苦ではなかった。
沈黙は、ふたりを隔てるものではなく、
かえってそっと結ぶ、細くも確かな糸のように感じられた。
やがて、美織がそっと膝を折り、手を伸ばして雪をすくう。
その指先は、壊れものを扱うように繊細でやさしく、
掌に集めた雪を、ゆっくりと丸めてみせる。
「……冷たくて、でも……きれい」
白く煙る吐息に紛れて、小さくこぼれたその声。
朔也はその横顔に、胸の奥をそっと掴まれるような思いがした。
月のない曇り空の下、雪明かりだけが頼りの庭先。
けれどその柔らかな光が、美織の頬をほのかに照らしていた。
指先のひとつひとつまで、静かな美しさに満ちていて──
まるで夢のなかの光景のようだった。
(……どうして、こんなにも惹かれてしまうのだろう)
凛としていながら、やさしさを隠さずにいられる人。
強くあろうとして、それでも弱さに寄り添える人。
──そして、手の届かない場所にいる人。
朔也は視線を落とし、足元の雪を見つめるふりをする。
胸のざわめきを、なんとか押し殺すように。
そのとき──
「……天城さんは」
不意に、美織が彼の名を呼んだ。
「わたくしが本邸に戻ったあとも……この道場に、いてくださいますか?」
声は静かで、けれど確かだった。
確かめるようでいて、どこか祈るようでもあり。
揺れはないけれど、胸の奥から紡ぎ出された「願い」がそこにあった。
朔也は、一瞬だけ息を詰める。
胸を貫いたその問いは、痛みと喜びの境界を曖昧にし、
言葉を返す術を一瞬だけ奪った。
「……わたくし、この場所で……天城さんに、たくさん助けていただきました。
怖いときも、迷ったときも……あなたがいてくださって、わたし、前を向けたんです」
その声は、雪に吸い込まれるように柔らかく、けれど深く響いた。
朔也の中で、ずっと閉ざしていた場所に、確かに届いていた。
「だから……また、戻ってきたときに。
この同じ景色の中で、天城さんがそこにいてくださったら──嬉しい、です」
視界が、わずかに滲んだ。
こんなにも人の言葉に、救われることがあるのかと、思った。
「居場所」など、自分には縁のないものだと。
欲しいと願うことさえ、許されないと──そう思い続けてきた。
けれど彼女は、そうではないと伝えてくれた。
──「あなたがいてくれたら、嬉しい」と。
その言葉は、長く纏っていた罪悪感や遠慮を、そっとほどくように温かく沁み渡った。
「……戻ってきてください。美織さん」
声は掠れていたが、言葉は揺らがなかった。
「何があっても……俺は、ここにいます」
その誓いは、朔也にできる、精一杯の誠だった。
美織は、目を細めて微笑んだ。
それは強さとやさしさを湛えた、まっすぐな微笑み。
雪明かりのなかで、それは宝石のように輝いて見えた。
再びふたりのあいだに沈黙が訪れる。
けれど、それはさっきまでの静けさとは違った。
今そこにあるのは、言葉を超えたぬくもりだった。
雲ひとつない蒼天が広がり、澄みきった冬の空気が香月道場の庭をきりりと包み込んでいた。
凛と張りつめた静寂。
白木の縁側には夜の冷気がそのまま残り、足を運ぶたびに草履越しに伝わる硬質な冷たさが、背筋を自然と伸ばす。
吐く息は白く、胸の奥まで澄み渡るようだった。
寒さは厳しいはずなのに、不思議と心は晴れやかで──
まるで新しい年を迎えるための禊の朝のように、どこか神聖な気配が漂っている。
開門して、わずかひと月。
短い時であった。
だが、共に汗を流し、剣を交え、叱咤し合った日々は、確かな絆を育んでいた。
剣先が触れ合うたびに交わされた信頼は、目には見えずとも、今や道場の柱のように静かに根を張っている。
今日──
その節目として迎えた「稽古納め」と「年礼」が、厳かに始まった。
雪こそ降ってはいない。
けれど、透き通るような冷気が道場を白く清めているかのようだった。
静寂の中、正座する門弟たちの背筋は一糸乱れず揃い、畳の上に並ぶその姿は、まるで一本の線を引いたかのように端然としている。
道場中央に立つのは、香月悠臣。
無駄のない立ち姿。
ただそこに在るだけで、場の空気が整っていく。
「──この一年を納めるにふさわしい、皆の鍛錬だった」
静かな声だった。
だがその言葉は、冬空のように澄み渡り、門弟たちの胸にまっすぐ届いた。
面を上げた若者たちの目には、それぞれの歩みが宿っている。
緊張、誇らしさ、そして確かな達成感。
このひと月が、彼らの中に刻まれているのが分かる。
式が終わると、門弟たちは静かに礼を交わし、帰郷の支度へと散っていった。
風呂敷に包まれる土産。
だが荷に詰められているのは品物だけではない。
汗と悔しさ、そして一歩進んだ自分自身──それらすべてが、彼らの胸に携えられている。
庭先には、別れを惜しむ声と、旅立ちの期待が入り混じる。
けれど、すべてが去るわけではなかった。
廊下の端。
喧騒から少し離れた場所で、天城朔也は竹箒を手に庭の落ち葉を掃いていた。
白梅の蕾が、ひそやかに枝先で揺れる。
春はまだ遠いが、確かにそこに兆しがある。
箒の先が霜をなぞるたび、きし、と小さな音が立つ。
袴の裾がさらりと翻り、踏みしめた霜が砕ける。
「朔也、帰郷はしないのか」
背後からの声に、朔也は動きを止めた。
振り返らず、ただ柔らかく笑う。
「はい。……香月家にはたいへんお世話になりましたし」
一拍置き、少しだけ肩をすくめる。
「実家のほうは、少々ややこしくて。顔を出せば、かえって揉めるだけなんですよ。……家が評定所みたいなもんでして。審問を開かれても参りますから」
軽口の形をしているが、その奥に淡い影がある。
悠臣はそれを追わなかった。
ただ、まっすぐに言う。
「なら、正月の膳は共に囲もう。……このひと月、よく尽くしてくれた」
短い言葉。
だがそれは、労いであり、信頼の証だった。
凍てつく朝の空気の中で、朔也の胸に小さな灯がともる。
──ここにいていい。
その実感が、じわりと温もりを広げた。
土間では、桐原篤哉が大鍋の前で干し椎茸を吟味していた。
鼻先を近づけ、香りを確かめる。
「……いやぁ。帰る家があったら迷うとこやけどなぁ。俺には“実家”ってやつがどこにもあらへんし」
笑っているような声音。
だがそれは、意識して明るく灯した火のようだった。
悠臣が視線を向けると、篤哉は肩をすくめる。
「心配せんでええ。居候は居候らしく、雑煮ぐらいはちゃんと作るで」
軽口の奥にある寂しさを、皆が感じていた。
だが誰もそれを指摘しない。
その代わり、彼がこの家を誰よりも大切に思っていることを知っている。
門前では、御影直熙が静かに礼をしていた。
「どうせ戻っても、小言ばかりでしょうから」
投げやりに聞こえるが、そこには確かな本音が滲む。
「正月ぐらいええ顔して過ごしてこいや~!」
篤哉が手を振る。
「耳に蜜でも塗っときぃ!」
直熙は鼻で笑う。
「なら、口に糊も貼っておくよ。余計な一言を封じてな」
軽妙なやり取りの中に、互いへの親愛がある。
だが──直熙の視線が、ふと屋敷の奥へ向いた。
その先に、香月美織の姿があった。
彼女は朝まで荷を結っていた。
前夜、悠臣に「本邸へ戻ります」と告げたのだが──朔也が残ると知り、篤哉もまたここで年を越すと聞いた瞬間、包みかけていた衣の紐から、指先がふと離れた。
ほんの刹那の迷い。けれどそれは、確かな決意へと変わる。
昼過ぎ、美織は兄の前で静かに頭を下げた。
「兄上。屋敷に残られる皆さまが、無事に年越しを迎えられるよう、支度を整えてから本邸へ戻ります」
澄んだ声。そこに迷いはなかった。
悠臣は短く頷いた。それだけで十分だった。
夕暮れ。
門弟の大半が旅立ち、屋敷は静けさを取り戻す。
残ったのは、美織、朔也、篤哉、悠臣──四人。
だがその空気は、不思議と温かい。
囲炉裏を囲む夕餉の席。
味噌の香が立ちのぼり、炭のはぜる音が小さく響く。
「……今年最後の夜は、何をして過ごしましょうか」
美織が箸を置いて言う。
「そらもう、年越し蕎麦やろ」
篤哉がにやりと笑う。
「蕎麦がなけりゃ、うどんでも味噌でもええけどな」
「うどんで年越し……それは少し重たくなりそうだな」
朔也が苦笑し、美織が柔らかく笑う。
ぱち、と火がはぜる。
年の瀬の香月邸に、小さく、しかし確かな灯がともっていた。
その夜。
まだ年明けぬ「新年」の支度が、誰に知られることもなく、そっと始まりつつあった──。
◆
夕餉の膳が片付けられたあとの静寂──
香月邸の廊下には、かすかに灯る行燈の光と、釜に残る余熱の温もりだけが、夜の気配と寄り添うように残っていた。
私室に戻った天城朔也は、膝を正し、黙々と刀の手入れに向き合っていた。
布でゆっくりと刃を拭うたび、微かに光る鍔元には、日々の鍛錬で刻まれた細やかな痕が浮かぶ。
手に伝わる金属の冷たさに、研ぎ澄ました意志を乗せるように──彼は一度たりとも手を止めなかった。
静まりかえった室内には、刀身を拭う布の音だけが淡く響いていた。そのささやかな音が、まるで自らの呼吸を映すように感じられる。
ふと、障子の向こうからふたりの男の声が届いてきた。
「……雪の中、どこ行くねん。悠臣」
「織宮から呼ばれてな。ちょっと顔を出してくるだけだ」
桐原篤哉と香月悠臣の声だった。
朔也は手を止め、刀をそっと脇に置いて耳を澄ませた。
「俺も一緒に行ったらアカン?」
「お前が行って、どうするつもりだ」
「……散歩や。なぁ、雪もええ頃合いやろ? 邪魔はせん」
一瞬の間が空き、低くため息混じりの声が続く。
「……好きにしろ。ただし、勝手に口を挟むなよ」
やり取りに、朔也は口元をほころばせた。
(まったく……相変わらずだな、桐原)
鞘に刀を納めたそのとき、視界の隅に白く舞うものが映った。
「……雪、か」
立ち上がって硝子戸に近づくと、夜空から静かに降る雪が、庭にうっすらと白を重ねていた。
その光景に、胸の奥がふと揺れる。
(……誰かと、この景色を分かち合いたい)
そんな想いが胸を過ぎったのは、いつぶりだったろうか。
羽織を肩に掛け、足音を忍ばせながら離れの廊下を進む。
やがて、ある部屋の前で足を止め、襖の前でそっと声をかけた。
「……美織さん」
呼吸を整える間もなく、襖が音もなく開く。
行燈の光に照らされた彼女の頬はほのかに朱を帯び、やわらかな笑みが咲いた。
「天城さん……。どうかなさいましたか?」
室内からは白檀と梅が混じるような、どこか懐かしく安らぐ香が漂っていた。
冷えた空気の中に、ほのかな温もりを感じさせるその香りに、朔也は心を緩める。
「雪が降っています。……よろしければ、庭にご一緒しませんか?」
美織は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに微笑んで頷いた。
「……もちろん、よろこんで」
羽織を肩に掛けた彼女が、襖を静かに閉める。
ふたりは並んで縁側へ向かい、庭を見下ろした。
降り積もり始めた雪が、苔や飛石の上を柔らかく白く覆っていく。
耳を澄ませば、雪の音さえ聞こえない──まるで時が止まったような夜。
ふたりは、そっと肩を並べて腰を下ろす。
言葉はなかった。
だがその沈黙こそが、何より心地よい。
(このひと月……美織さんがこの屋敷にいた時間は、自分にとってどれほど大きかったか)
それも、まもなく終わる。
美織は香月家の令嬢。
本邸に戻れば、縁談がある。
この道場に顔を出すことさえ、もう数えるほどしかないのかもしれない。
考えるだけで、胸の奥がきりきりと痛んだ。
そのとき、美織が立ち上がり、履物を手にして庭へ降りようとする。
「……天城さん、庭に出ましょう?」
雪の上にそっと足を下ろす美織。
白い息を吐きながら、淡い光に溶け込むようなその姿は、幻想めいて見えた。
朔也は縁側に立ったまま、微笑みながら言う。
「風邪を引きますよ、美織さん」
くるりと振り返った美織が、雪の中から手を差し出す。
その手はやわらかく開かれ、頬には紅が差し、唇には静かな笑みが宿っていた。
「雪を見ると……どうしてこんなに心が躍るのでしょうか。
……天城さんも、ご一緒にいかがですか?」
差し出された手に、朔也の胸が大きく脈打つ。
あの手を取ってしまえば、何かが変わってしまう気がして──けれど、それでも。
(彼女の隣に、立ちたい)
伸ばしかけた手は、葛藤に引き留められた。
(……この手を握る資格が、俺にあるのか)
答えの出ない問いが胸をよぎる。
けれど次の瞬間、ただ一歩、彼女の隣に足を踏み出していた。
その一歩に、朔也のすべてが込められていた。
ふたりの足音が、雪の上にふわりと吸い込まれていく。
きしりとも、ざくりとも違う。
新雪を踏むとき特有の、やわらかく沈む音だった。
白に包まれた庭へと足を踏み入れた瞬間、
まるで世界の音が、すべて遠のいたように感じられた。
風は凪ぎ、木々の葉もひとつとして揺れない。
ただ、空から静かに舞い落ちる雪が、景色をやさしく包み込んでゆく。
その白さは、まるで時間そのものをゆるやかに凍らせてしまったかのようで──。
言葉はなかった。
けれど、不思議と苦ではなかった。
沈黙は、ふたりを隔てるものではなく、
かえってそっと結ぶ、細くも確かな糸のように感じられた。
やがて、美織がそっと膝を折り、手を伸ばして雪をすくう。
その指先は、壊れものを扱うように繊細でやさしく、
掌に集めた雪を、ゆっくりと丸めてみせる。
「……冷たくて、でも……きれい」
白く煙る吐息に紛れて、小さくこぼれたその声。
朔也はその横顔に、胸の奥をそっと掴まれるような思いがした。
月のない曇り空の下、雪明かりだけが頼りの庭先。
けれどその柔らかな光が、美織の頬をほのかに照らしていた。
指先のひとつひとつまで、静かな美しさに満ちていて──
まるで夢のなかの光景のようだった。
(……どうして、こんなにも惹かれてしまうのだろう)
凛としていながら、やさしさを隠さずにいられる人。
強くあろうとして、それでも弱さに寄り添える人。
──そして、手の届かない場所にいる人。
朔也は視線を落とし、足元の雪を見つめるふりをする。
胸のざわめきを、なんとか押し殺すように。
そのとき──
「……天城さんは」
不意に、美織が彼の名を呼んだ。
「わたくしが本邸に戻ったあとも……この道場に、いてくださいますか?」
声は静かで、けれど確かだった。
確かめるようでいて、どこか祈るようでもあり。
揺れはないけれど、胸の奥から紡ぎ出された「願い」がそこにあった。
朔也は、一瞬だけ息を詰める。
胸を貫いたその問いは、痛みと喜びの境界を曖昧にし、
言葉を返す術を一瞬だけ奪った。
「……わたくし、この場所で……天城さんに、たくさん助けていただきました。
怖いときも、迷ったときも……あなたがいてくださって、わたし、前を向けたんです」
その声は、雪に吸い込まれるように柔らかく、けれど深く響いた。
朔也の中で、ずっと閉ざしていた場所に、確かに届いていた。
「だから……また、戻ってきたときに。
この同じ景色の中で、天城さんがそこにいてくださったら──嬉しい、です」
視界が、わずかに滲んだ。
こんなにも人の言葉に、救われることがあるのかと、思った。
「居場所」など、自分には縁のないものだと。
欲しいと願うことさえ、許されないと──そう思い続けてきた。
けれど彼女は、そうではないと伝えてくれた。
──「あなたがいてくれたら、嬉しい」と。
その言葉は、長く纏っていた罪悪感や遠慮を、そっとほどくように温かく沁み渡った。
「……戻ってきてください。美織さん」
声は掠れていたが、言葉は揺らがなかった。
「何があっても……俺は、ここにいます」
その誓いは、朔也にできる、精一杯の誠だった。
美織は、目を細めて微笑んだ。
それは強さとやさしさを湛えた、まっすぐな微笑み。
雪明かりのなかで、それは宝石のように輝いて見えた。
再びふたりのあいだに沈黙が訪れる。
けれど、それはさっきまでの静けさとは違った。
今そこにあるのは、言葉を超えたぬくもりだった。
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