【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

文字の大きさ
26 / 33
第三章

月のぬくもり、夜のやさしさ

しおりを挟む
 月が雲間から、そっと顔を覗かせた頃──
 桐原篤哉の胸に寄り添っていた香月美織が、小さな寝息をふうっと立てはじめた。

 微かに動く睫毛、ほのかに紅を帯びた頬。
 その身をすっかり預け、安らかな寝顔を見せる様は、まるで親に守られる子猫のようで。
 桐原の腕の中には、静かなぬくもりだけが残されていた。

「……寝てもうたんかい」

 ぽつりと呟いた声に、呆れと微笑ましさが滲む。
 真剣に話したつもりだったが、返ってきたのは静かな寝息。
 想定外すぎて、思わず笑みがこぼれた。

「……無防備にもほどがあるわ。はぁ……どないせぇっちゅうねん……」

 肩を軽くすくめながら、腕の中の温もりを抱き直す。

 ──と、そのときだった。

 屋敷の庭から、さらさらと砂利を踏む足音がふたつ。
 夜風に誘われるように、香月悠臣と天城朔也が並んで戻ってくる。

 ふと見上げた朔也の視線が、屋根の上に佇む影を捉えた。

 その目が見開かれる。

「……えっ……?」

 一拍遅れて、体が強張る。次の瞬間──

「美織さんっ!? 桐原っ、お前……っ、何してんだよ!!」

 驚きと怒りが入り混じったまま、屋根の真下へ駆け寄り、声を荒らげる。

「そんな高いところで──! もし落ちたらどうするんだよっ! 怪我じゃ済まないぞっ!!」

 その勢いに屋根瓦まで震えそうな剣幕だったが、桐原は至って飄々と応じた。

「……そない俺の心配せんでもええ。案外、こう見えて身軽なんやで?」

 口元に、いつもの調子の笑みを浮かべてみせるが──

「誰がお前の心配してるかっ! 美織さんに決まってるだろ!」

 と、朔也が即座に噛みついた。

 桐原はふっと肩を揺らし、そして片指を唇に当てて囁くように言った。

「──せやから、静かにせぇ。美織ちゃん、寝とるんや」

 その言葉にようやく朔也も、美織が静かに寝息を立てていることに気づいた。
 目をぱちくりとさせ、怒鳴り声を呑み込み──赤くなった顔をぷいと背ける。

「……っ、くそ……」

 口元を引き結び、小さく唸るように地面を蹴る。

 その様子を、悠臣はどこか諦めたような表情で見守りながら、静かに腕を組み、ため息を漏らす。

「……篤哉。降りられるのか?」

 問いかけは軽く笑みを含んでいた。

「悠臣、ようぞ聞いてくれた」

 桐原は妙に真剣な顔つきで頷いてみせる。

「美織ちゃんが寝てもうたんは……完全に想定外や。……正直、今の俺、降りれる自信はない」

 堂々たる宣言に、朔也の額に青筋が浮かぶ。

「嘘つけっ! 絶対降りられるだろっ! 降りて来いっ!」

 思わず叫ぶと、桐原はにやりと目を細め、いたずらっぽく囁く。

「……なんや。そんな怖い顔して。……ほんま、おぉこわ。──お前、羨ましいんやろ?」

「なっ……!?」

 突然の一撃に、朔也の言葉が詰まり、顔が湯気でも出そうなほど真っ赤になる。

 その様子を悠臣はちらと横目に見て、こともなげに問う。

「そうなのか?」

「ゆ、悠臣さんまで!? ち、違いますっ!! そんなんじゃ──!!」

 朔也の声が裏返り、肩を震わせて全力で否定する。

 その姿に、桐原はとうとう笑いを堪えきれず、肩を揺らして吹き出した。

 月明かりが、屋根の上と庭の面々をやわらかに照らしていた。
 “降りられない男”と、“焦れる青年”、そして“呆れる兄”。
 不思議と和やかな空気が、夜の静寂の中に溶け込んでゆく。

 ──その中心で、香月美織の寝息だけが、静かに、静かに響いていた。

「……ん、ぅ……」

 屋根の上に広がる月下の静寂のなかで、香月美織が小さく身じろぎした。
 途切れた寝息とともに、長い睫毛がふるえ、まぶたがわずかに開く。

 その動きに気づいた桐原篤哉が、ふと腕の中を覗き込む。
 微睡みの中にいる彼女を見下ろし、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「おはようさん。お目覚めの……チュー、してみる?」

 軽く揺れる声に、意地の悪い笑みが滲んだ。

 ──だが次の瞬間。

「桐原っ! お前っ……ふざけんな!!」

 下から突き上げるように響いたのは、朔也の怒号だった。
 堪忍袋の緒が切れたその声に、夜の静けさが揺らぐ。

 けれど美織の意識は、まだぼんやりと靄の中にいた。
 半ば夢のなかのように、ゆっくりと桐原を見上げる。

「……きり、はらさん……?」

 名前を呼んだその瞬間──

「……はっ……ち、チューだなんてっ……!!」

 顔をぱっと赤らめ、驚愕と混乱が一気に押し寄せる。
 反射的に桐原の腕の中から抜け出そうと、ばたばたと暴れ始めた。

「うわっ、あかんっ! あかんて、美織ちゃん、動いたら──!」

 桐原が慌てて支え直すが、思いのほか激しい動きに、必死でバランスを取る。

「美織さんっ! 駄目ですっ! 暴れないでくださいっ! 落ちたら危ないっ!」

 下から朔也の悲鳴のような声が上がる。顔はみるみる蒼白になり、今にも屋根をよじ登りそうな勢いだった。

「きゃっ……!」

 その声にようやく我に返った美織は、足元を見下ろす──
 遥か下に見える庭。そして自分が屋根の上にいることに、ようやく気づいた。

「ひっ……!?」

 途端に顔を強ばらせ、咄嗟に桐原にしがみつく。

「……せやから言うたやろ、寝起きに暴れるの禁止や」

 桐原は苦笑を漏らしながら、美織の身体をしっかりと抱え直す。
 その声はどこか安心したようでもあった。

 騒ぎを見上げていた悠臣は、腕を組んだまま小さく息を吐く。

「……騒がしいな、まったく」

 呆れたような声の裏に、どこか愉快げな響きが混じっていた。

   ◆

 桐原が、美織を抱きかかえたままひょいと屋根の縁に足をかけ、しなやかな動きで地上へと降り立つ。
 その足元に着くや否や、朔也が駆け寄った。

「美織さんっ!」

 桐原はゆっくりと美織を下ろし、彼女が地に足をつけると、肩を軽く回して首筋をほぐす。

「大丈夫ですか? 怪我とか……ないですか?」

 真剣な眼差しで問う朔也に、美織は小さく首を振る。

「……はい。大丈夫です……。桐原さん、その……申し訳ございません。気づいたら、眠ってしまっていて……」

 ぺこりと頭を下げる美織に、桐原はふっと優しく笑った。

「気にせんでええよ。寝てすぐ、うるさいのんが帰ってきたからなぁ」

 そう言ってちらりと朔也に視線をやると、「うっ……」と彼は言葉を詰まらせる。
 その様子に、美織は思わずくすくすと笑った。

 その笑顔を見届けるように、桐原は彼女の頭をそっと撫でる。

「──さっきの話は、俺と美織ちゃんだけの秘密やで」

 やわらかく告げたその言葉とともに、くるりと背を向ける。

「おやすみな」

 そう言って屋敷のほうへ歩き出すその背を、美織は名残惜しそうに見送っていた。

 ふと隣を見ると、朔也もまた、黙ってその後ろ姿を見つめている。

 胸の奥が、きゅっと軋んだ。
 桐原の背を見送る美織の眼差しが、自分には向けられないと気づいたとき──
 言葉にもできない、名前のない感情が、静かに喉元までせり上がってくる。

 その横顔を、悠臣は静かに見つめていた。
 言葉にはせず、ただ物思わしげに。

「……兄上」

 控えめな呼び声に、悠臣はゆっくりと彼女の方へ歩を進めた。

「眺めは良かったか?」

 穏やかで、変わらぬ兄の声。
 その温もりに、美織はホッと安堵の表情を浮かべた。

 少し瞳を揺らしながらも、微笑んで頷く。

「……はい。とても……見晴らしが良かったです。
 機会があれば、兄上も──ぜひ」

 そう口にすると、悠臣は口元を緩めた。

「──桐原の腕の中で、か? ……遠慮しておこう」

 ふざけた調子に、美織は頬を染めながらも、はにかむように笑う。

 その笑顔はどこか切なく、けれど心からの安堵が滲んでいた。

「すっかり遅くなってしまったな」

 悠臣は空を仰ぎ、夜の深さを確かめるように呟く。

「明日は稽古納めだ。美織、風邪を引かぬようにな。
 朔也──美織のこと、頼めるか?」

 突然の言葉に、朔也は思わず目を見開いた。

「えっ……あ、はいっ!」

 慌てたように返すその声に、悠臣はひとつ頷くと、屋敷の奥へと背を向けた。

 冬の夜風が、ひとひら吹き抜ける。
 その風に乗って、ほんのかすかな白梅の香が漂ってくる。

 その香に包まれながら、朔也はそっと美織の横顔を見る。

 悠臣の背が静かに屋敷の奥へと消え、その場に残されたのは──美織と朔也、ふたりきりだった。

 庭には冬の静寂が降りていた。
 風のざわめきさえも遠く、凍てついた空気がしんと張り詰めている。

 先ほどまでの騒がしさが嘘のように、夜は静まり返っていた。

「……ふふ、なんだか、少し不思議な夜ですね」

 美織はそう言って、どこか照れたように目を伏せる。頬にはまだ仄かな朱が残り、睫毛の影が静かに揺れていた。

「ほんとですよ……。まさかあんな高い屋根の上で寝てるなんて……心臓、止まるかと思いましたよ」

 朔也が半ば呆れたように肩を落とすと、美織は口元に手を添え、くすりと笑った。

「……すみません。天城さんを、驚かせてしまって」

「驚いただけじゃ……なくて。……怖かったんです」

 ふと口をついて出た言葉に、自分でも驚いたのか、朔也はわずかに目を見開く。
 その表情を、美織は静かに、まっすぐ見つめた。

「……天城さん」

 名前を呼ばれただけで、胸がどくんと跳ねた。
 目を逸らしかけたその瞬間──美織の声が、そっと引き止める。

「……ありがとうございます。わたくしのことを、そんなふうに心配してくれて」

 その声は、冬の風のように優しく、けれど確かなぬくもりを持っていた。

「兄上にも、桐原さんにも見守られているのは嬉しいです。でも……」

 言葉を選ぶように、美織はひとつ呼吸を置き、小さく囁いた。

「……天城さんがいてくれると、いちばん安心できるんです」

 そのひと言に、朔也の頬が一気に熱を帯びる。
 胸の奥に広がっていくものを、もう止めることができなかった。

「お、俺……が?」

 思わずこぼれた声に、美織はこくりと静かに頷いた。

「……どんなに騒がしくても、怒ってても──最後には、そばにいてくれるから」

 その言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
 朔也は何も言えず、ただそのまなざしを見つめ返す。

 夜空のように澄んだ瞳。
 少し泣きたくなるほど、優しい光をたたえていた。

 月は静かに冴えわたり、凛とした夜の気配が深まってゆく。
 明日は稽古納め──年の終わりに差し掛かる、節目の夜。

 ふたりは静かに歩き出す。
 白木の廊下を照らす淡い灯りが、肩を並べるふたりの影を、長く引いていた。

 すれ違う者はいない。
 誰にも邪魔されない静寂が、今宵だけの小さな世界を作っていた。

「……明日で、今年も最後の稽古なんですね」

 美織がそっと漏らすように言う。

「はい。たったひと月でしたけど……でも、いろんなことがありました。あっという間で……濃い時間でした」

 噛みしめるような口調で朔也が応えると、美織はゆっくりと頷いた。

「来年は、どんな年になりますかね」

 その問いかけに、朔也の喉が小さく鳴った。
 そして気づけば、言葉がこぼれていた。

「……美織さんが、笑っていてくれる年なら……それで、いいです」

 ──しまった。
 言い終えた瞬間、朔也は息を呑んだ。

 けれど美織は、驚いたように瞬きをしたあと、ふわりと微笑んだ。

「……そうですね。わたくしも──天城さんが元気で、怪我なく過ごしてくれるなら、それで」

 思いがけない返事に、鼓動がまたひとつ、高鳴る。

 ふたりの足が、廊下の角でふと止まった。
 夜風がそっと吹き抜け、衣擦れとともに、かすかな白梅の香が漂う。

「……また、明日」

「はい。また、明日」

 静かに交わされる別れの言葉。

 美織がそっと頭を下げたその横顔に、朔也はなにかを言いかけ──そして飲み込んだ。

 言葉よりも深く残るのは、彼女の笑顔と、香り立つ余韻。

 ──この一歩一歩が、いつか彼女に届く道へとつながっていくのなら。

 そう信じながら、朔也はその背に、そっと祈るような眼差しを向けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

処理中です...