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第三章
月のぬくもり、夜のやさしさ
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月が雲間から、そっと顔を覗かせた頃──
桐原篤哉の胸に寄り添っていた香月美織が、小さな寝息をふうっと立てはじめた。
微かに動く睫毛、ほのかに紅を帯びた頬。
その身をすっかり預け、安らかな寝顔を見せる様は、まるで親に守られる子猫のようで。
桐原の腕の中には、静かなぬくもりだけが残されていた。
「……寝てもうたんかい」
ぽつりと呟いた声に、呆れと微笑ましさが滲む。
真剣に話したつもりだったが、返ってきたのは静かな寝息。
想定外すぎて、思わず笑みがこぼれた。
「……無防備にもほどがあるわ。はぁ……どないせぇっちゅうねん……」
肩を軽くすくめながら、腕の中の温もりを抱き直す。
──と、そのときだった。
屋敷の庭から、さらさらと砂利を踏む足音がふたつ。
夜風に誘われるように、香月悠臣と天城朔也が並んで戻ってくる。
ふと見上げた朔也の視線が、屋根の上に佇む影を捉えた。
その目が見開かれる。
「……えっ……?」
一拍遅れて、体が強張る。次の瞬間──
「美織さんっ!? 桐原っ、お前……っ、何してんだよ!!」
驚きと怒りが入り混じったまま、屋根の真下へ駆け寄り、声を荒らげる。
「そんな高いところで──! もし落ちたらどうするんだよっ! 怪我じゃ済まないぞっ!!」
その勢いに屋根瓦まで震えそうな剣幕だったが、桐原は至って飄々と応じた。
「……そない俺の心配せんでもええ。案外、こう見えて身軽なんやで?」
口元に、いつもの調子の笑みを浮かべてみせるが──
「誰がお前の心配してるかっ! 美織さんに決まってるだろ!」
と、朔也が即座に噛みついた。
桐原はふっと肩を揺らし、そして片指を唇に当てて囁くように言った。
「──せやから、静かにせぇ。美織ちゃん、寝とるんや」
その言葉にようやく朔也も、美織が静かに寝息を立てていることに気づいた。
目をぱちくりとさせ、怒鳴り声を呑み込み──赤くなった顔をぷいと背ける。
「……っ、くそ……」
口元を引き結び、小さく唸るように地面を蹴る。
その様子を、悠臣はどこか諦めたような表情で見守りながら、静かに腕を組み、ため息を漏らす。
「……篤哉。降りられるのか?」
問いかけは軽く笑みを含んでいた。
「悠臣、ようぞ聞いてくれた」
桐原は妙に真剣な顔つきで頷いてみせる。
「美織ちゃんが寝てもうたんは……完全に想定外や。……正直、今の俺、降りれる自信はない」
堂々たる宣言に、朔也の額に青筋が浮かぶ。
「嘘つけっ! 絶対降りられるだろっ! 降りて来いっ!」
思わず叫ぶと、桐原はにやりと目を細め、いたずらっぽく囁く。
「……なんや。そんな怖い顔して。……ほんま、おぉこわ。──お前、羨ましいんやろ?」
「なっ……!?」
突然の一撃に、朔也の言葉が詰まり、顔が湯気でも出そうなほど真っ赤になる。
その様子を悠臣はちらと横目に見て、こともなげに問う。
「そうなのか?」
「ゆ、悠臣さんまで!? ち、違いますっ!! そんなんじゃ──!!」
朔也の声が裏返り、肩を震わせて全力で否定する。
その姿に、桐原はとうとう笑いを堪えきれず、肩を揺らして吹き出した。
月明かりが、屋根の上と庭の面々をやわらかに照らしていた。
“降りられない男”と、“焦れる青年”、そして“呆れる兄”。
不思議と和やかな空気が、夜の静寂の中に溶け込んでゆく。
──その中心で、香月美織の寝息だけが、静かに、静かに響いていた。
「……ん、ぅ……」
屋根の上に広がる月下の静寂のなかで、香月美織が小さく身じろぎした。
途切れた寝息とともに、長い睫毛がふるえ、まぶたがわずかに開く。
その動きに気づいた桐原篤哉が、ふと腕の中を覗き込む。
微睡みの中にいる彼女を見下ろし、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「おはようさん。お目覚めの……チュー、してみる?」
軽く揺れる声に、意地の悪い笑みが滲んだ。
──だが次の瞬間。
「桐原っ! お前っ……ふざけんな!!」
下から突き上げるように響いたのは、朔也の怒号だった。
堪忍袋の緒が切れたその声に、夜の静けさが揺らぐ。
けれど美織の意識は、まだぼんやりと靄の中にいた。
半ば夢のなかのように、ゆっくりと桐原を見上げる。
「……きり、はらさん……?」
名前を呼んだその瞬間──
「……はっ……ち、チューだなんてっ……!!」
顔をぱっと赤らめ、驚愕と混乱が一気に押し寄せる。
反射的に桐原の腕の中から抜け出そうと、ばたばたと暴れ始めた。
「うわっ、あかんっ! あかんて、美織ちゃん、動いたら──!」
桐原が慌てて支え直すが、思いのほか激しい動きに、必死でバランスを取る。
「美織さんっ! 駄目ですっ! 暴れないでくださいっ! 落ちたら危ないっ!」
下から朔也の悲鳴のような声が上がる。顔はみるみる蒼白になり、今にも屋根をよじ登りそうな勢いだった。
「きゃっ……!」
その声にようやく我に返った美織は、足元を見下ろす──
遥か下に見える庭。そして自分が屋根の上にいることに、ようやく気づいた。
「ひっ……!?」
途端に顔を強ばらせ、咄嗟に桐原にしがみつく。
「……せやから言うたやろ、寝起きに暴れるの禁止や」
桐原は苦笑を漏らしながら、美織の身体をしっかりと抱え直す。
その声はどこか安心したようでもあった。
騒ぎを見上げていた悠臣は、腕を組んだまま小さく息を吐く。
「……騒がしいな、まったく」
呆れたような声の裏に、どこか愉快げな響きが混じっていた。
◆
桐原が、美織を抱きかかえたままひょいと屋根の縁に足をかけ、しなやかな動きで地上へと降り立つ。
その足元に着くや否や、朔也が駆け寄った。
「美織さんっ!」
桐原はゆっくりと美織を下ろし、彼女が地に足をつけると、肩を軽く回して首筋をほぐす。
「大丈夫ですか? 怪我とか……ないですか?」
真剣な眼差しで問う朔也に、美織は小さく首を振る。
「……はい。大丈夫です……。桐原さん、その……申し訳ございません。気づいたら、眠ってしまっていて……」
ぺこりと頭を下げる美織に、桐原はふっと優しく笑った。
「気にせんでええよ。寝てすぐ、うるさいのんが帰ってきたからなぁ」
そう言ってちらりと朔也に視線をやると、「うっ……」と彼は言葉を詰まらせる。
その様子に、美織は思わずくすくすと笑った。
その笑顔を見届けるように、桐原は彼女の頭をそっと撫でる。
「──さっきの話は、俺と美織ちゃんだけの秘密やで」
やわらかく告げたその言葉とともに、くるりと背を向ける。
「おやすみな」
そう言って屋敷のほうへ歩き出すその背を、美織は名残惜しそうに見送っていた。
ふと隣を見ると、朔也もまた、黙ってその後ろ姿を見つめている。
胸の奥が、きゅっと軋んだ。
桐原の背を見送る美織の眼差しが、自分には向けられないと気づいたとき──
言葉にもできない、名前のない感情が、静かに喉元までせり上がってくる。
その横顔を、悠臣は静かに見つめていた。
言葉にはせず、ただ物思わしげに。
「……兄上」
控えめな呼び声に、悠臣はゆっくりと彼女の方へ歩を進めた。
「眺めは良かったか?」
穏やかで、変わらぬ兄の声。
その温もりに、美織はホッと安堵の表情を浮かべた。
少し瞳を揺らしながらも、微笑んで頷く。
「……はい。とても……見晴らしが良かったです。
機会があれば、兄上も──ぜひ」
そう口にすると、悠臣は口元を緩めた。
「──桐原の腕の中で、か? ……遠慮しておこう」
ふざけた調子に、美織は頬を染めながらも、はにかむように笑う。
その笑顔はどこか切なく、けれど心からの安堵が滲んでいた。
「すっかり遅くなってしまったな」
悠臣は空を仰ぎ、夜の深さを確かめるように呟く。
「明日は稽古納めだ。美織、風邪を引かぬようにな。
朔也──美織のこと、頼めるか?」
突然の言葉に、朔也は思わず目を見開いた。
「えっ……あ、はいっ!」
慌てたように返すその声に、悠臣はひとつ頷くと、屋敷の奥へと背を向けた。
冬の夜風が、ひとひら吹き抜ける。
その風に乗って、ほんのかすかな白梅の香が漂ってくる。
その香に包まれながら、朔也はそっと美織の横顔を見る。
悠臣の背が静かに屋敷の奥へと消え、その場に残されたのは──美織と朔也、ふたりきりだった。
庭には冬の静寂が降りていた。
風のざわめきさえも遠く、凍てついた空気がしんと張り詰めている。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、夜は静まり返っていた。
「……ふふ、なんだか、少し不思議な夜ですね」
美織はそう言って、どこか照れたように目を伏せる。頬にはまだ仄かな朱が残り、睫毛の影が静かに揺れていた。
「ほんとですよ……。まさかあんな高い屋根の上で寝てるなんて……心臓、止まるかと思いましたよ」
朔也が半ば呆れたように肩を落とすと、美織は口元に手を添え、くすりと笑った。
「……すみません。天城さんを、驚かせてしまって」
「驚いただけじゃ……なくて。……怖かったんです」
ふと口をついて出た言葉に、自分でも驚いたのか、朔也はわずかに目を見開く。
その表情を、美織は静かに、まっすぐ見つめた。
「……天城さん」
名前を呼ばれただけで、胸がどくんと跳ねた。
目を逸らしかけたその瞬間──美織の声が、そっと引き止める。
「……ありがとうございます。わたくしのことを、そんなふうに心配してくれて」
その声は、冬の風のように優しく、けれど確かなぬくもりを持っていた。
「兄上にも、桐原さんにも見守られているのは嬉しいです。でも……」
言葉を選ぶように、美織はひとつ呼吸を置き、小さく囁いた。
「……天城さんがいてくれると、いちばん安心できるんです」
そのひと言に、朔也の頬が一気に熱を帯びる。
胸の奥に広がっていくものを、もう止めることができなかった。
「お、俺……が?」
思わずこぼれた声に、美織はこくりと静かに頷いた。
「……どんなに騒がしくても、怒ってても──最後には、そばにいてくれるから」
その言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
朔也は何も言えず、ただそのまなざしを見つめ返す。
夜空のように澄んだ瞳。
少し泣きたくなるほど、優しい光をたたえていた。
月は静かに冴えわたり、凛とした夜の気配が深まってゆく。
明日は稽古納め──年の終わりに差し掛かる、節目の夜。
ふたりは静かに歩き出す。
白木の廊下を照らす淡い灯りが、肩を並べるふたりの影を、長く引いていた。
すれ違う者はいない。
誰にも邪魔されない静寂が、今宵だけの小さな世界を作っていた。
「……明日で、今年も最後の稽古なんですね」
美織がそっと漏らすように言う。
「はい。たったひと月でしたけど……でも、いろんなことがありました。あっという間で……濃い時間でした」
噛みしめるような口調で朔也が応えると、美織はゆっくりと頷いた。
「来年は、どんな年になりますかね」
その問いかけに、朔也の喉が小さく鳴った。
そして気づけば、言葉がこぼれていた。
「……美織さんが、笑っていてくれる年なら……それで、いいです」
──しまった。
言い終えた瞬間、朔也は息を呑んだ。
けれど美織は、驚いたように瞬きをしたあと、ふわりと微笑んだ。
「……そうですね。わたくしも──天城さんが元気で、怪我なく過ごしてくれるなら、それで」
思いがけない返事に、鼓動がまたひとつ、高鳴る。
ふたりの足が、廊下の角でふと止まった。
夜風がそっと吹き抜け、衣擦れとともに、かすかな白梅の香が漂う。
「……また、明日」
「はい。また、明日」
静かに交わされる別れの言葉。
美織がそっと頭を下げたその横顔に、朔也はなにかを言いかけ──そして飲み込んだ。
言葉よりも深く残るのは、彼女の笑顔と、香り立つ余韻。
──この一歩一歩が、いつか彼女に届く道へとつながっていくのなら。
そう信じながら、朔也はその背に、そっと祈るような眼差しを向けていた。
桐原篤哉の胸に寄り添っていた香月美織が、小さな寝息をふうっと立てはじめた。
微かに動く睫毛、ほのかに紅を帯びた頬。
その身をすっかり預け、安らかな寝顔を見せる様は、まるで親に守られる子猫のようで。
桐原の腕の中には、静かなぬくもりだけが残されていた。
「……寝てもうたんかい」
ぽつりと呟いた声に、呆れと微笑ましさが滲む。
真剣に話したつもりだったが、返ってきたのは静かな寝息。
想定外すぎて、思わず笑みがこぼれた。
「……無防備にもほどがあるわ。はぁ……どないせぇっちゅうねん……」
肩を軽くすくめながら、腕の中の温もりを抱き直す。
──と、そのときだった。
屋敷の庭から、さらさらと砂利を踏む足音がふたつ。
夜風に誘われるように、香月悠臣と天城朔也が並んで戻ってくる。
ふと見上げた朔也の視線が、屋根の上に佇む影を捉えた。
その目が見開かれる。
「……えっ……?」
一拍遅れて、体が強張る。次の瞬間──
「美織さんっ!? 桐原っ、お前……っ、何してんだよ!!」
驚きと怒りが入り混じったまま、屋根の真下へ駆け寄り、声を荒らげる。
「そんな高いところで──! もし落ちたらどうするんだよっ! 怪我じゃ済まないぞっ!!」
その勢いに屋根瓦まで震えそうな剣幕だったが、桐原は至って飄々と応じた。
「……そない俺の心配せんでもええ。案外、こう見えて身軽なんやで?」
口元に、いつもの調子の笑みを浮かべてみせるが──
「誰がお前の心配してるかっ! 美織さんに決まってるだろ!」
と、朔也が即座に噛みついた。
桐原はふっと肩を揺らし、そして片指を唇に当てて囁くように言った。
「──せやから、静かにせぇ。美織ちゃん、寝とるんや」
その言葉にようやく朔也も、美織が静かに寝息を立てていることに気づいた。
目をぱちくりとさせ、怒鳴り声を呑み込み──赤くなった顔をぷいと背ける。
「……っ、くそ……」
口元を引き結び、小さく唸るように地面を蹴る。
その様子を、悠臣はどこか諦めたような表情で見守りながら、静かに腕を組み、ため息を漏らす。
「……篤哉。降りられるのか?」
問いかけは軽く笑みを含んでいた。
「悠臣、ようぞ聞いてくれた」
桐原は妙に真剣な顔つきで頷いてみせる。
「美織ちゃんが寝てもうたんは……完全に想定外や。……正直、今の俺、降りれる自信はない」
堂々たる宣言に、朔也の額に青筋が浮かぶ。
「嘘つけっ! 絶対降りられるだろっ! 降りて来いっ!」
思わず叫ぶと、桐原はにやりと目を細め、いたずらっぽく囁く。
「……なんや。そんな怖い顔して。……ほんま、おぉこわ。──お前、羨ましいんやろ?」
「なっ……!?」
突然の一撃に、朔也の言葉が詰まり、顔が湯気でも出そうなほど真っ赤になる。
その様子を悠臣はちらと横目に見て、こともなげに問う。
「そうなのか?」
「ゆ、悠臣さんまで!? ち、違いますっ!! そんなんじゃ──!!」
朔也の声が裏返り、肩を震わせて全力で否定する。
その姿に、桐原はとうとう笑いを堪えきれず、肩を揺らして吹き出した。
月明かりが、屋根の上と庭の面々をやわらかに照らしていた。
“降りられない男”と、“焦れる青年”、そして“呆れる兄”。
不思議と和やかな空気が、夜の静寂の中に溶け込んでゆく。
──その中心で、香月美織の寝息だけが、静かに、静かに響いていた。
「……ん、ぅ……」
屋根の上に広がる月下の静寂のなかで、香月美織が小さく身じろぎした。
途切れた寝息とともに、長い睫毛がふるえ、まぶたがわずかに開く。
その動きに気づいた桐原篤哉が、ふと腕の中を覗き込む。
微睡みの中にいる彼女を見下ろし、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「おはようさん。お目覚めの……チュー、してみる?」
軽く揺れる声に、意地の悪い笑みが滲んだ。
──だが次の瞬間。
「桐原っ! お前っ……ふざけんな!!」
下から突き上げるように響いたのは、朔也の怒号だった。
堪忍袋の緒が切れたその声に、夜の静けさが揺らぐ。
けれど美織の意識は、まだぼんやりと靄の中にいた。
半ば夢のなかのように、ゆっくりと桐原を見上げる。
「……きり、はらさん……?」
名前を呼んだその瞬間──
「……はっ……ち、チューだなんてっ……!!」
顔をぱっと赤らめ、驚愕と混乱が一気に押し寄せる。
反射的に桐原の腕の中から抜け出そうと、ばたばたと暴れ始めた。
「うわっ、あかんっ! あかんて、美織ちゃん、動いたら──!」
桐原が慌てて支え直すが、思いのほか激しい動きに、必死でバランスを取る。
「美織さんっ! 駄目ですっ! 暴れないでくださいっ! 落ちたら危ないっ!」
下から朔也の悲鳴のような声が上がる。顔はみるみる蒼白になり、今にも屋根をよじ登りそうな勢いだった。
「きゃっ……!」
その声にようやく我に返った美織は、足元を見下ろす──
遥か下に見える庭。そして自分が屋根の上にいることに、ようやく気づいた。
「ひっ……!?」
途端に顔を強ばらせ、咄嗟に桐原にしがみつく。
「……せやから言うたやろ、寝起きに暴れるの禁止や」
桐原は苦笑を漏らしながら、美織の身体をしっかりと抱え直す。
その声はどこか安心したようでもあった。
騒ぎを見上げていた悠臣は、腕を組んだまま小さく息を吐く。
「……騒がしいな、まったく」
呆れたような声の裏に、どこか愉快げな響きが混じっていた。
◆
桐原が、美織を抱きかかえたままひょいと屋根の縁に足をかけ、しなやかな動きで地上へと降り立つ。
その足元に着くや否や、朔也が駆け寄った。
「美織さんっ!」
桐原はゆっくりと美織を下ろし、彼女が地に足をつけると、肩を軽く回して首筋をほぐす。
「大丈夫ですか? 怪我とか……ないですか?」
真剣な眼差しで問う朔也に、美織は小さく首を振る。
「……はい。大丈夫です……。桐原さん、その……申し訳ございません。気づいたら、眠ってしまっていて……」
ぺこりと頭を下げる美織に、桐原はふっと優しく笑った。
「気にせんでええよ。寝てすぐ、うるさいのんが帰ってきたからなぁ」
そう言ってちらりと朔也に視線をやると、「うっ……」と彼は言葉を詰まらせる。
その様子に、美織は思わずくすくすと笑った。
その笑顔を見届けるように、桐原は彼女の頭をそっと撫でる。
「──さっきの話は、俺と美織ちゃんだけの秘密やで」
やわらかく告げたその言葉とともに、くるりと背を向ける。
「おやすみな」
そう言って屋敷のほうへ歩き出すその背を、美織は名残惜しそうに見送っていた。
ふと隣を見ると、朔也もまた、黙ってその後ろ姿を見つめている。
胸の奥が、きゅっと軋んだ。
桐原の背を見送る美織の眼差しが、自分には向けられないと気づいたとき──
言葉にもできない、名前のない感情が、静かに喉元までせり上がってくる。
その横顔を、悠臣は静かに見つめていた。
言葉にはせず、ただ物思わしげに。
「……兄上」
控えめな呼び声に、悠臣はゆっくりと彼女の方へ歩を進めた。
「眺めは良かったか?」
穏やかで、変わらぬ兄の声。
その温もりに、美織はホッと安堵の表情を浮かべた。
少し瞳を揺らしながらも、微笑んで頷く。
「……はい。とても……見晴らしが良かったです。
機会があれば、兄上も──ぜひ」
そう口にすると、悠臣は口元を緩めた。
「──桐原の腕の中で、か? ……遠慮しておこう」
ふざけた調子に、美織は頬を染めながらも、はにかむように笑う。
その笑顔はどこか切なく、けれど心からの安堵が滲んでいた。
「すっかり遅くなってしまったな」
悠臣は空を仰ぎ、夜の深さを確かめるように呟く。
「明日は稽古納めだ。美織、風邪を引かぬようにな。
朔也──美織のこと、頼めるか?」
突然の言葉に、朔也は思わず目を見開いた。
「えっ……あ、はいっ!」
慌てたように返すその声に、悠臣はひとつ頷くと、屋敷の奥へと背を向けた。
冬の夜風が、ひとひら吹き抜ける。
その風に乗って、ほんのかすかな白梅の香が漂ってくる。
その香に包まれながら、朔也はそっと美織の横顔を見る。
悠臣の背が静かに屋敷の奥へと消え、その場に残されたのは──美織と朔也、ふたりきりだった。
庭には冬の静寂が降りていた。
風のざわめきさえも遠く、凍てついた空気がしんと張り詰めている。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、夜は静まり返っていた。
「……ふふ、なんだか、少し不思議な夜ですね」
美織はそう言って、どこか照れたように目を伏せる。頬にはまだ仄かな朱が残り、睫毛の影が静かに揺れていた。
「ほんとですよ……。まさかあんな高い屋根の上で寝てるなんて……心臓、止まるかと思いましたよ」
朔也が半ば呆れたように肩を落とすと、美織は口元に手を添え、くすりと笑った。
「……すみません。天城さんを、驚かせてしまって」
「驚いただけじゃ……なくて。……怖かったんです」
ふと口をついて出た言葉に、自分でも驚いたのか、朔也はわずかに目を見開く。
その表情を、美織は静かに、まっすぐ見つめた。
「……天城さん」
名前を呼ばれただけで、胸がどくんと跳ねた。
目を逸らしかけたその瞬間──美織の声が、そっと引き止める。
「……ありがとうございます。わたくしのことを、そんなふうに心配してくれて」
その声は、冬の風のように優しく、けれど確かなぬくもりを持っていた。
「兄上にも、桐原さんにも見守られているのは嬉しいです。でも……」
言葉を選ぶように、美織はひとつ呼吸を置き、小さく囁いた。
「……天城さんがいてくれると、いちばん安心できるんです」
そのひと言に、朔也の頬が一気に熱を帯びる。
胸の奥に広がっていくものを、もう止めることができなかった。
「お、俺……が?」
思わずこぼれた声に、美織はこくりと静かに頷いた。
「……どんなに騒がしくても、怒ってても──最後には、そばにいてくれるから」
その言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
朔也は何も言えず、ただそのまなざしを見つめ返す。
夜空のように澄んだ瞳。
少し泣きたくなるほど、優しい光をたたえていた。
月は静かに冴えわたり、凛とした夜の気配が深まってゆく。
明日は稽古納め──年の終わりに差し掛かる、節目の夜。
ふたりは静かに歩き出す。
白木の廊下を照らす淡い灯りが、肩を並べるふたりの影を、長く引いていた。
すれ違う者はいない。
誰にも邪魔されない静寂が、今宵だけの小さな世界を作っていた。
「……明日で、今年も最後の稽古なんですね」
美織がそっと漏らすように言う。
「はい。たったひと月でしたけど……でも、いろんなことがありました。あっという間で……濃い時間でした」
噛みしめるような口調で朔也が応えると、美織はゆっくりと頷いた。
「来年は、どんな年になりますかね」
その問いかけに、朔也の喉が小さく鳴った。
そして気づけば、言葉がこぼれていた。
「……美織さんが、笑っていてくれる年なら……それで、いいです」
──しまった。
言い終えた瞬間、朔也は息を呑んだ。
けれど美織は、驚いたように瞬きをしたあと、ふわりと微笑んだ。
「……そうですね。わたくしも──天城さんが元気で、怪我なく過ごしてくれるなら、それで」
思いがけない返事に、鼓動がまたひとつ、高鳴る。
ふたりの足が、廊下の角でふと止まった。
夜風がそっと吹き抜け、衣擦れとともに、かすかな白梅の香が漂う。
「……また、明日」
「はい。また、明日」
静かに交わされる別れの言葉。
美織がそっと頭を下げたその横顔に、朔也はなにかを言いかけ──そして飲み込んだ。
言葉よりも深く残るのは、彼女の笑顔と、香り立つ余韻。
──この一歩一歩が、いつか彼女に届く道へとつながっていくのなら。
そう信じながら、朔也はその背に、そっと祈るような眼差しを向けていた。
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