【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第三章

名を背負う者の痛み

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 夕刻――

 薄茜に染まりゆく空の下、香月鷹臣は離れの座敷を静かに抜けると、縁側に腰を下ろした。
 冴え冴えと澄んだ冬の空気に、吐く息が白く浮かび、すぐに淡く散っていく。
 庭先には、傾いた陽光が斜めに差し込み、植え込みの影を長く引いていた。
 凛と張り詰めた冷気のなか、香月家の屋敷はひときわ深い静けさに包まれているようだった。

 やがて、畳を踏む音すら立てずに、ひとつの気配が背後から近づく。
 弟・悠臣だった。隣に並んで腰を下ろすと、しばしの間、二人のあいだに言葉はなかった。

 風が庭をかすめ、枯れかけた椿の葉を、そっと揺らして通り過ぎていく。

 その静けさを破るように、鷹臣が口を開いた。

「……美織の容態。医師は、何と言っていた」

 落ち着いた声音の奥には、静かに揺れる怒りと、不安の色が滲んでいた。
 弟にとっては、それが痛いほど伝わってくる。

「意識は……戻りつつある。けど……」

 悠臣の声は低く、言葉を噛みしめるような響きを帯びていた。

「身体は癒えても、心のほうは……時間がかかると思う」

 その言葉の端々に滲むのは、焦燥と悔しさ。
 妹を想う兄としての、痛切な感情だった。

 鷹臣は目を伏せ、ふっと息を吐くと、視線を庭へと向けたまま、ぽつりと呟いた。

「……天城朔也。あの“天城家”の次男坊か」

 それは問いというより、過去の記憶をなぞるような口調だった。

 悠臣は一瞬だけ眉を動かし、言葉を選ぶように間を置いてから、静かに応じる。

「ああ。……才も心も、申し分ない。俺は、彼を信じている」

 その声には、揺るがぬ確信があった。

「……信じているからこそ、黙っていたか」

 兄の問いに、悠臣は視線を落とし、言葉を返さなかった。
 その沈黙が、すべてを物語っていた。

 鷹臣は責めることはしなかった。
 ただ、知るべきことは知りたい――そうした静かな意志が、そのまなざしに宿っていた。

「……美織は、一人で出かけたのか。あの場に、彼の姿はなかったな」

 悠臣の喉がわずかに動く。

「それは……」

「責めているわけではない」

 鷹臣が、やわらかに言葉を挟む。

「むしろ、だからこそ気になる。
 ──彼が、自らの無力を噛み締めていたことも、自責の念に沈んでいたことも、私は……見て取れた」

 その眼差しは、冷静で鋭く、そしてたしかに優しかった。

 悠臣は少し間を置いて、問い返す。

「……兄上は、彼をどう見ている?」

 それはただの問いではなかった。
 香月家の嫡男として、兄として、そして──妹の未来に関わるかもしれぬ男を、見極めようとする問いだった。

 鷹臣は、背筋を少し伸ばし、整えるように吐息をついた。

「……天城朔也という男は、己の立場を理解している。
 だからこそ、常に他者との距離を測り、自分自身の輪郭を探っているように見える」

 そこで一度言葉を切り、目を細めて続けた。

「だが、彼の目は濁っていない。
 情に迷い、苦しみながらも、筋を違えていない。……それは、簡単に真似できる強さじゃない」

 悠臣はゆっくりと頷く。

「……兄上は、妹の幸せを望まぬ人ではないと、俺は信じている」

 その言葉に、鷹臣は微かに笑みを浮かべた。
 感情を表に出さぬ彼にしては、珍しいほどのやわらかな表情だった。

「香月家の名に、泥を塗ることは許されぬ。……だが、“家の名”だけがすべてではない」

 言葉の調子を落とし、遠くを見やるように続けた。

「香月家の者が、ただ“正しくあれ”と縛られるのではなく……誰かに“守られている”と感じられるなら。
 ──それもまた、強さの一つかもしれんな」

 悠臣は兄の言葉を胸に深く刻むように、静かに頷いた。

 そしてふと、目元を和らげる。

「……兄上にしては、ずいぶん優しいことを言う」

「……たまにはな。妹のことだ」

 それきり、ふたりの口は閉ざされた。

 夕暮れの空はますます赤みを帯び、
 庭の片隅では、冬椿の一輪が、冷たい風にそっと揺れていた。

 ◆

 離れの座敷を出た天城朔也は、雪の名残がまだ残る庭の端に、じっと佇んでいた。

 夕刻の光はすでに傾き、空の端には冬の群青がじわじわと滲み始めている。
 凛と冷えた空気に白い吐息がふわりと立ちのぼり、沈黙に閉ざされた空気をわずかに揺らした。

 庭の片隅、軒下に残る雪が橙がかった夕陽に照らされ、薄氷のように淡く輝いている。
 その景色をただ見つめていた朔也の背後に、足音も気配もないまま、ひとつの影が近づいた。

「……天城」

 低く、澄んだ声が空気を震わせる。

 朔也はゆるやかに振り返り、名を呼ぶ。

「……直熙」

 その声には、ほっとしたような安堵と、どこか怯えにも似た響きが滲んでいた。

 直熙は彼の隣に静かに並び立つと、しばし無言のまま庭に視線を落とす。
 枝の先で風に揺れる葉擦れの音すら、ふたりのあいだに漂う張り詰めた空気を乱すことはなかった。

 やがて、直熙が口を開いた。

「……聞いてもいいか?」

 その声音に、責める色はなかった。
 ただ、真実を知りたいという、静かな意志だけが込められていた。

「なぜ、美織さんを一人で町へ行かせた?」

 朔也の肩が、わずかに揺れる。

「責めたいわけじゃない。……未来なんて、誰にも予測できるものじゃない」

 直熙の声は静かで落ち着いていたが、その言葉一つひとつは鋭く核心を突いていた。

「だが……攘夷派の動きが荒れていた今、あの穏やかな令嬢を一人にしておくとは、正直思わなかった」

 その指摘は真っ直ぐで、容赦なく胸に刺さる。

 朔也は視線を落とし、拳をゆっくりと握りしめる。

「……その通りだ。俺も……そうすべきだったと、分かってる」

 絞り出すようなその声には、滲む悔いと後悔が濃く沈んでいた。

「けれど──」

 一拍置いて、彼は喉の奥に引っかかったものを押し出すように続ける。

「……俺には、彼女と並んで歩く資格なんて、ないんだ」

 その呟きは、己を断罪するかのように低く重い。

「天城家は……もはや名ばかりの家だ。身分も、立場も、もはや過去のもの。
 そんな俺が、香月家の令嬢であり、縁談を控える身の彼女と肩を並べて歩けば――彼女の名を汚すことになる。香月の名を貶めることになる」

 自嘲とあきらめ、そして愛しさすらも混じった苦い言葉が、静かに空へ溶けていく。

 口を開けば、すべてが言い訳になる気がした。
 沈黙すれば、逃げていると責められる。
 それでもなお、自分には踏み越えられない一線があった。

「……一緒に行きたかった。守りたかった。それは、心から思っていた」

 朔也の声が、かすかに震える。

「けれど、それを口にした瞬間……俺は、“彼女の未来”を縛ってしまうことになる」

 色を失いつつある冬の空の下で、その告白は静かに吐き出された。

 直熙はしばし黙し、それからゆっくりと朔也へ視線を向けた。

「……お前が抱えている痛みは、お前にしか分からない」

 その声音は穏やかで、決して責めるものではなかった。

「私が何を言っても、今のお前には皮肉にしか聞こえないかもしれない。……だが、それでも言わせてくれ」

 朔也の睫毛が、かすかに震える。

「家格が並び得ても、政や縁談のような“表の場”で問われるのは、“名”じゃない。“役割”だ。
 名を継ぐことと、名を背負うことは違う。……どれほど誇り高い家に生まれようと、“選ばれる者”は決して平等ではない」

 その言葉には、己の人生で刻まれた矛盾と覚悟が滲んでいた。

「美織さんの前で、私もまた“選ばれる者”ではない。最初から“対等”を許されていない立場だ」

 その静かな告白に、朔也は驚いたように顔を上げた。

「……それでも、私は彼女を守ることを厭わない」

 直熙の瞳には、迷いは一切なかった。

「立場なんて関係ない。役割なんて、あとから決まる。
 だが――“見捨てたかどうか”という事実は、生涯お前の胸に刻まれる」

 その静かな言葉が、朔也の胸に鋭く刺さった。

「美織さんが町に出ること自体に問題があるわけじゃない。
 護衛を必要としないと判断したのなら、それでいい。だが……もしお前が、“天城の名を恥じたがゆえ”に引き止められなかったのだとしたら――」

 直熙の声音が、ふっと低くなった。

「……私はお前を絶対に許さない」

 その語気は穏やかなままだったが、静かな怒りが、芯に確かに宿っていた。

 それは、誰よりも“名”に縛られて生きてきた者の、誇りと痛み、そして譲れぬ想いだった。

 朔也は、言葉を返すことができなかった。

 風が庭をかすめ、枯れ枝をかすかに揺らす。
 その音が、ふたりの沈黙の隙間に柔らかく落ちた。

 遠く、軒の雪がぽとりと音を立てて落ちる。

 その響きに乗せるように、朔也はゆっくりと目を伏せ、深く、苦く、息を吐いた。

 それは、胸の奥に沈めていた悔いと恐れ、そして“名”に縛られた己への問いかけだった。

 ――俺は、彼女の隣に立ってもいいのだろうか。

 直熙は、それ以上何も言わなかった。

 ただ静かに一歩だけ朔也の前から身を引くと、そのまま背を向け、庭の奥へと歩き出す。

 振り返ることはなかった。
 その背には、怒りも悲しみも、ましてや哀れみすらも宿っていない。ただ一つ――「託すに値する男かどうか」。
 それだけを見極めようとした者の眼差しだけが、夕映えの余光に淡く残っていた。

 足音は、雪の残る飛び石の上でわずかに響いたが、それさえも、しんしんと冷える冬の空気に吸い込まれるように消えていく。

 やがて、その姿が庭の奥、渡り廊下の陰に完全に溶けるようにして消えた。

 残された朔也は、ようやく胸の奥に溜め込んでいた息を、大きく吐き出した。
 その白い吐息が夜の帳に溶けていくさまを、彼はぼんやりと見つめる。

 景色は何一つ変わっていない。
 けれど空気は違っていた。
 直熙が立っていた場所には、言葉にならない圧のようなものが、確かに残っていた。

 庭は静まり返っていた。だが、その静けさは先ほどまでとは違う。
 たったひとりになった空間が、どこまでも重たく、胸を圧するように濃く感じられる。

 朔也はゆっくりと視線を落とし、無意識に握りしめていた拳を解いた。
 手のひらには、深く刻まれた爪痕。そこだけが確かに熱を持ち、現実を突きつけてくる。

(……立場など、関係ない、か)

 “名”に誰よりも厳格だった直熙が、その言葉を口にした――
 その事実が、胸の奥に鈍く響いていた。

(言い訳だった。……俺は、俺自身が“名”に囚われていたんだ)

 香月の名を穢すまいとしたのではなかった。
 彼女の未来を守りたかったわけでもなかった。
 本当は――
 “香月美織の隣に立つ勇気”を、自分が持てなかっただけなのだ。

(“守る”ということが、彼女の未来を奪うことになる?)

 思い返せば、美織はいつも毅然としていた。
 誰かに庇護されることなく、凛と背筋を伸ばし、自らの意志で言葉を選び、行動していた。
 恐れることなく、人の痛みに手を差し伸べる。――そんな強さを持った人だった。

(……あの人は、誰よりも自由に、生きようとしていた)

 では、自分は?
 その隣で、過去の栄光にすがり、名ばかりの家格に囚われ、手を伸ばすことすらためらっていた。

 無力さから目を背け、勝手に自分で限界を決めていたのは、他でもない――自分自身だった。

 唇を強く引き結び、朔也はゆっくりと顔を上げる。
 頭上では、夕暮れが夜へと変わりゆく空。
 濃く沈んだ群青に、まだ一つの星も見えない。
 冷たい風が頬をかすめて吹き抜ける。

 だが、どこかで――
 胸の奥にあった鈍い痛みが、少しだけ輪郭を持った気がした。

 ――もう一度、彼女の隣に立つために。
 赦されるのを待つのではなく、自らの足で向き合わなければならない。

 そして、その時が来るのを、ただ黙って待つのではない。
 その時を、自分で掴み取るのだ。

 朔也は、そっと目を閉じた。

 かつて“誇り”と信じていたものを、いま一度、自らの手で問い直すために。
 そして、手放しかけた未来を、再びこの手で選び直すために。

 胸の内に、かすかに熱が灯る。
 それはまだ名もなく、頼りないほどに小さな、小さな決意だった。

 けれど、確かに――
 その胸の奥には、前へ踏み出すための光が、静かに宿っていた。
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