番になんてなりたくなかった──執着王太子に望まれた逃亡オメガ

春夜夢

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第一話 「獣が微笑む城」

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夜明け前の王都は、まだ霧に包まれていた。

ひとけのない裏道を、ひとりの青年が息を潜めるように歩いている。
肩までの黒髪に、濃い紫の瞳――そして、黒いフードの奥で強張った顔は、何かから逃れるための覚悟を滲ませていた。

「……番なんて、いらない。俺には……もう」

そう呟く声はかすかに震えていた。

青年――セイルは、王立薬師院の見習いオメガ。
半年前の初めての発情期、番とされかけたあの男のことを思い出すたび、胸が締めつけられるようだった。

「あのときの、あの目……獣みたいだった……」

それでも――

その“王太子”に気づかれぬまま、薬師院を辞し、王都を離れる手はずだった。

だが、逃げる者がいれば、追う者もいる。

「――セイル・レヴィン。王命により、ここに連行する」

背後から響いた凛とした低音に、セイルは目を見開いた。
その声は、忘れることなどできるはずがなかった。

振り向くと、銀髪の男が、すぐそこにいた。

漆黒の軍服に身を包み、冷たい眼差しをたたえたまま、彼はセイルを見下ろしていた。

「……どうして」

「見逃すとでも思ったか?」

王太子レイグラン・アストレイア。
この国の第一王子にして、最も強いアルファ。

「俺は、お前の番じゃない……!」

セイルの叫びにも、彼は動じなかった。
ただ、淡々と――けれど確実に、距離を詰める。

「まだ逃げられると思っているのか。お前の匂いは、俺の中に刻まれている」

「……!」

「番になりたくない? ならば、それ以外の方法でお前を手に入れる。
 だが、どんな形であれ――お前は、俺のものだ」

その言葉と同時に、セイルの身体は強く引き寄せられた。
触れた瞬間、背筋を駆けるような記憶が蘇る。

半年前の、あの夜。
甘く、熱く、暴力的なほどに支配された記憶。

「っ、やめろ……!」

「やめる? それは俺の命令か?」

――理性が欠けているわけではない。
むしろ、完全な理性の中で執着してくるこの男が怖いのだ。

それでも、身体は、抗えない。

近づけば近づくほど、記憶が疼く。
あの夜、確かに触れられた。体の奥に、言葉では言えない熱が生まれた。

(逃げられない……)

もう一度、あの瞳がセイルを捉えた。

「覚悟しろ、セイル。
 “番”という形を捨てても、お前を俺から逃がすことはできない」

そして、銀の王子は――
逃げるように震えるセイルの唇へ、ゆっくりと口づけた。

それは獣の吻ではなく、
支配者の印だった。
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