41 / 47
憧れの2月
2
しおりを挟む
「うー、寒い」
ふいに聞こえてきた声に振り返ると、鼻と耳を赤くした彼がやって来たところだった。どうやら、日直仕事が終わったようだ。
マフラーで口元を覆い、手はコートのポケットの中に突っ込んでいる。
「さくらさん、お待たせ。早く行こう」
私が枝の上にいるために、上目遣いで懇願された。
ああ、もう……可愛いなあ。
「さくらさんは、寒くないの?」
「そういうのは、わからないの」
「いいなあ……うー、さっむー」
二人並んで、図書室へと歩く。教室が暖かかったのだろう。あとは、寒さが苦手なのかもしれない。時折、体を震わせては足早に、それでも私の姿を確認しながら、暖かい室内へと足を踏み入れた。
良かった。私、ちゃんと笑えているみたい。彼と、いつも通りでいられている。
いつ言おう……タイミングは、きちんと見計らって伝えないとだよね……。
「本当に寒い……今日、降るって言ってたっけ?」
振られた話題にきょとんとして、目を瞬かせた。
誰が言っていたって? それは独り言だよね? と思いながら、私が知る由もないことを口にする彼を胡乱に見た。
「さくらさんって、天気とかそういうのは毎日チェックしてそう」
何だか笑いながら言われたけれど……うん、まあ、そうね。していましたよ。
窓から、外の様子を見る。積もる気配もないが、止むようにも見えない。早く、暖かい家に帰った方が賢いのではないだろうか。
「風邪ひいてもあれだし、今日はもう帰ったら?」
自転車で来ているのだ。夜にかけて、もっと寒くなるだろうに。漕いでいても、風が冷たいだろう。耳なんて冷たすぎて、寒いより痛いという感覚になる時期だ。
だというのに、彼の表情は案の定、ムスッとしていた。
「大丈夫」
意地を張るほど、一緒にいたいものだろうか。私は、もちろん嬉しい。けれど、そのせいで風邪をひいたりされるのは、嬉しくない。
そうは思いつつも、本人がこう言っているので、これ以上は何も言わないのだけれど。
「宿題するの?」
「そ。今日は量が多くて」
古典のプリントと戦い始めた彼を、隣で黙って見つめる。
テスト勉強の時もそうだが、彼は宿題もすべて学校で取り組む。家だと漫画やらゲームやらの誘惑に負けて、集中できないからだそうだ。
「……」
黙々とペンが進んでいく。聞こえるのは、ページを捲る紙の擦れる音と、カリカリという記入の音。そして、コチコチと時を刻む音。
「……」
静かだと、どうも思考の波が走ってやってくる。それは気付かないうちに私を呑み込んで、渦に押し込むのだ。そうしていつの間にか、囚われている。
内容は、専ら現状と未来のこと。
リアルによって願望は打ち砕かれ、選択肢は二つ。
そうあるべきと思うことと、そうしたいと思うことが相反していて、ズルズルとこうして今日まで来てしまった。
リュウにあんなことを言っておきながら、彼を前にすると怖くなる。私は、何も言えなくなってしまっていた。
このままがいい……いつまでもこのままでいられたら、どれだけ幸せだろうか。
だけど、それは望んではならないこと。
それでも、今だけはと、縋ってしまう。
弱い私が、現状に縋りついていた。
「ねえ、バレンタインどうする?」
突然聞こえて来たのは、今しがた図書室へ入ってきた女子たちの会話。そうか、もうすぐバレンタインか。
「私は毎年、板チョコ配ってる」
「え、何それ。面白いんだけど」
「私は、トリュフ作ろうかな」
小声ながらも、キャッキャと楽しそうな子たち。彼女たちが手にしているのは、お菓子作りの本だった。レオくんなら、紙袋の用意が必要なのでは……。
たくさん貰うのだろうなということは、容易に想像できた。別にそれを羨ましいとか、嫉妬とか、そういう感情はどうしてだか生まれることはなく、強がりでも何でもなく平気だった。
ただ、何もしてあげられないことに心の中で「ごめんね」と呟いたのだった。
そうして、数日が経ったある日のこと。私は誰に教えてもらうこともなく、今日が何の日かを察した。
朝からそわそわしている男子たちを尻目に、友チョコを配り歩く女子たち。残念ながら、本命イベントは本当に極小らしい。それどころか、女子のお祭りと化している。私の時も、周りは友達にあげたりしていたけれど。というか、私は誰にも渡すことはなかったのだけれど。このイベントって、こんな感じだったかな……。心なしか、教師までそわそわしているってどうなの。この学校、平和だなあ。
そんなことを思いながら、いつものように桜の枝に乗って正面を見る。いつも何故だか、気付くことも考えることもなく、この方向を向いていた。それが、一番しっくりきたからだ。
そして、これからも見続けていくのだろう。もしくは……。
「……」
三文字が浮かんで、瞼の裏に色濃く残る。
どうして、リアルはこんなにも迷路なのだろうか。
私は、シンデレラのように耐えて努力してきた人間ではないから、逃げてばかりいたから、だから私には魔女が現れないのだろうか。
それとも、もうこれ以上の奇跡は望んではならないという、私の強欲を戒められているのだろうか。
この現状がシアワセなのだと、そう思えたなら――
「さくらさん!」
ガヤガヤと騒めき始めた校舎から一人出てきたのは、彼だった。カバンが重そうに見えるのは、気のせいではないだろう。
「いっぱい貰ったみたいね」
「ああ、これ? そうなんだ。にしても、本当に女子ってすごいよね。クラス全員に配ってたみたい」
きっと、そういう口実で君に渡している子もいるんじゃないの? ――なんて過ったことは流して、私は枝から下りて彼の元へと行った。
「もしかして、断った方が良かった? 彼女がいるから、貰えないって」
「何で?」
「……嫉妬させちゃったかなーって、思って」
「いや、別に」
あっけらかんと即答すると、彼が苦笑した。おかしなことでも言っただろうか。
「やっぱり、さくらさんだね。ドライっていうか、何ていうか……」
「嫌だった?」
「ううん。そういうところも好き。それに、嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。俺の愛がしっかり伝わってるから、嫉妬する必要がないってことでしょ? だから、嬉しい」
「あ、そう……」
マフラーで隠れた口元が、嬉しそうにいつもの笑みを浮かべている……そんな表情が、見えるようだった。
「今日も寒いね。図書室行く?」
「えっと、ごめん。一回、家に帰ってくるよ」
「え?」
「ここで待っててくれる?」
「あ、うん……」
別に、帰ろうが構いやしないのだけれど、また来るとはいったい。私からは何もないので、期待されていたりすると困るのだが……。
私は、初めてのことにただただ戸惑うことしかできないでいた。
「さくらさん」
「あ、おかえり」
学校に戻ってきた彼は、もちろん制服姿で。手には、紙袋を持っていた。
「さくらさん、さくらさん」
手招きされて、近くへ行く。
彼の顔を見れば、はにかんだような照れた笑顔の中に、緊張があった。
緊張? 何故――突然の表情に戸惑いを重ねていると、目の前に一輪のバラが差し出された。
「赤い、バラ……?」
意外な物の登場に、ただただ驚く。まさか、こんなところで見ることに……それも、差し出されることになろうとは。
そして、だからこその意図があるのだろう。確かバラは、色や本数で意味が変わるものだったはず。
一輪は、そう――
「一目惚れ。貴方だけ……これ……」
「うん。これが、俺の気持ち」
「っ……」
花言葉を口にした途端、じわり。そして急速に、言い表すことのできない想いが広がっていく。それは、どんどんと溢れて。そうして、胸が苦しくなった。
なんて子なのだろう。いつも、私の予想の斜め上をいく。
まさか、バレンタインに高校一年生の男の子が一輪のバラを贈るなんてこと、彼以外の誰がするというのだろうか。
これじゃあ、まるで――
「さくらさん、受け取って。俺の気持ち」
「……」
「大好き。一生、一緒にいたい。さくらさん、俺と――」
「――だめ……」
まるで、夢の中であるかのようなシチュエーション――しかし遮ったのは、弱々しい声だった。
「さくらさん?」
期待に満ちた瞳が、翳る。
ああ、私は何をしているのだろうか。本当はどうしたいかなんて、わかっていたのに。
それでも、私が選ぶのは――
「ごめん……受け取れないよ……」
それは、物理的な問題などではなく。私が、彼を拒否したのだ。
「どうして?」
「ごめん……」
彼から目を逸らす。決意が鈍らないうちに、終わらせなくては。
「それじゃ、わからない。わからないよ」
「ごめん……」
「さくらさん」
理由なんて、明快だ。私が弱いからだ。
強くなりたいと、少しは強くなれたかと、そう思っていたのに。
「君の想いは、受け取れない。だって、私はやっぱり、ここから出られないの。どうしたって、出ることはできないの。だから、もうこれ以上は――」
貴方を殺せない私は、泡となって消えるの。
魔女すら現れない私は、どんな対価を捧げても足を手に入れることはできないの。
あるべき輪から外れた異端は、大地に、海に、空に、還っていくの。
そういうものなんだ。
そうあるべきものなんだ。
だから、さよならを選ぶの――
「わかった……」
俯きながら言った彼は、そのまま校舎内へと歩いていく。
これで良かったんだ。これ以上、彼に依存するものではない。こうするべきだったんだ、初めから。
少しの間だけでも、一緒に過ごせたことが奇跡だったのだから。だから、今日までの想い出をしっかりと抱いていこう。そして彼の卒業までをこっそり見守って、そうして、消えるんだ。
これで、いい。
こうあるべきだ。
最初に、そう決めたじゃないか。
それなのに。
なのに――
「どうして……」
苦しい。これ以上ないほどに。苦しすぎて、辛くて、胸が張り裂けそうだ。目の前がぼやけて、何も見えない。
これは、彼の想いを踏み躙って逃げた、私への罰だ。だから、本当は私が泣くべきではない。きっと、泣きたいのは彼の方だ。
そう思うのに。
「うっ、あ……ごめん、なさい……」
嗚咽が漏れる。溢れて零れて、涙は止まりそうにない。
本当は、嬉しかった。
受け取りたかった。
まっすぐな想いを抱き締めて、同じだけ、いや、それ以上を返したかった。
「好き……私も……」
それができたなら、どんなに――
「ねえ、どうして泣いてまで、嘘吐いたの?」
「――っ!」
心臓が止まるかと思った。それくらいびっくりして、しばらく枯れそうになかった涙さえ止まってしまった。
顔が、上げられない。――どうして? 私、あんなひどいことをしたのに。
もう聞くこともないと思っていた声。
もう向けられることもないと思っていた視線。
もう見ることもないと思っていた表情。
それらがまた、私の前にある――
「最初と一緒だ……幽霊だから、出られないから、ダメだなんて――そんなの、もう通じないから」
まっすぐだ――向けられる視線も、想いも。
いつだって、そうだった。
「難しいことは、一人で考えて決めたりしないで……さくらさんの思う幸せが、俺の幸せだと決めないで!」
「あ……」
――ストン、と何かが落ちる音がした。
「ねえ、どうして泣いてるの? 教えて」
「っ……私……」
「うん」
「ごめん、なさい……」
逃げて、ごめんなさい。
踏み躙って、ごめんなさい。
泣いて、ごめんなさい。
嘘を吐かせて、ごめんなさい。
「私、本当は離れたくない。本当は、嬉しかった」
「もう……本当に、不器用だなあ」
俯く私に屈みこんで、彼は一輪のバラを差し出した。
「さくらさん、俺は貴方だけを愛しています」
花言葉になぞらえた告白。
やっぱり私、彼には敵わない。
「ありがとう」
花を受け取るように、ギュッと想いを抱き締める。
ああ、触れられたなら。そうしたら、今すぐ彼へと飛び込んでいくのに――
「いい? 俺は、さくらさんを手放す気なんてないから。覚悟しててもらわないと」
「う……」
にっこりと微笑まれて、タジタジになる。
「じゃあ、怖がりなさくらさんがまた逃げちゃう前に、ちゃんと話し合おうか」
「……はい」
今の私に、反論など許されてはいなかった。
ふいに聞こえてきた声に振り返ると、鼻と耳を赤くした彼がやって来たところだった。どうやら、日直仕事が終わったようだ。
マフラーで口元を覆い、手はコートのポケットの中に突っ込んでいる。
「さくらさん、お待たせ。早く行こう」
私が枝の上にいるために、上目遣いで懇願された。
ああ、もう……可愛いなあ。
「さくらさんは、寒くないの?」
「そういうのは、わからないの」
「いいなあ……うー、さっむー」
二人並んで、図書室へと歩く。教室が暖かかったのだろう。あとは、寒さが苦手なのかもしれない。時折、体を震わせては足早に、それでも私の姿を確認しながら、暖かい室内へと足を踏み入れた。
良かった。私、ちゃんと笑えているみたい。彼と、いつも通りでいられている。
いつ言おう……タイミングは、きちんと見計らって伝えないとだよね……。
「本当に寒い……今日、降るって言ってたっけ?」
振られた話題にきょとんとして、目を瞬かせた。
誰が言っていたって? それは独り言だよね? と思いながら、私が知る由もないことを口にする彼を胡乱に見た。
「さくらさんって、天気とかそういうのは毎日チェックしてそう」
何だか笑いながら言われたけれど……うん、まあ、そうね。していましたよ。
窓から、外の様子を見る。積もる気配もないが、止むようにも見えない。早く、暖かい家に帰った方が賢いのではないだろうか。
「風邪ひいてもあれだし、今日はもう帰ったら?」
自転車で来ているのだ。夜にかけて、もっと寒くなるだろうに。漕いでいても、風が冷たいだろう。耳なんて冷たすぎて、寒いより痛いという感覚になる時期だ。
だというのに、彼の表情は案の定、ムスッとしていた。
「大丈夫」
意地を張るほど、一緒にいたいものだろうか。私は、もちろん嬉しい。けれど、そのせいで風邪をひいたりされるのは、嬉しくない。
そうは思いつつも、本人がこう言っているので、これ以上は何も言わないのだけれど。
「宿題するの?」
「そ。今日は量が多くて」
古典のプリントと戦い始めた彼を、隣で黙って見つめる。
テスト勉強の時もそうだが、彼は宿題もすべて学校で取り組む。家だと漫画やらゲームやらの誘惑に負けて、集中できないからだそうだ。
「……」
黙々とペンが進んでいく。聞こえるのは、ページを捲る紙の擦れる音と、カリカリという記入の音。そして、コチコチと時を刻む音。
「……」
静かだと、どうも思考の波が走ってやってくる。それは気付かないうちに私を呑み込んで、渦に押し込むのだ。そうしていつの間にか、囚われている。
内容は、専ら現状と未来のこと。
リアルによって願望は打ち砕かれ、選択肢は二つ。
そうあるべきと思うことと、そうしたいと思うことが相反していて、ズルズルとこうして今日まで来てしまった。
リュウにあんなことを言っておきながら、彼を前にすると怖くなる。私は、何も言えなくなってしまっていた。
このままがいい……いつまでもこのままでいられたら、どれだけ幸せだろうか。
だけど、それは望んではならないこと。
それでも、今だけはと、縋ってしまう。
弱い私が、現状に縋りついていた。
「ねえ、バレンタインどうする?」
突然聞こえて来たのは、今しがた図書室へ入ってきた女子たちの会話。そうか、もうすぐバレンタインか。
「私は毎年、板チョコ配ってる」
「え、何それ。面白いんだけど」
「私は、トリュフ作ろうかな」
小声ながらも、キャッキャと楽しそうな子たち。彼女たちが手にしているのは、お菓子作りの本だった。レオくんなら、紙袋の用意が必要なのでは……。
たくさん貰うのだろうなということは、容易に想像できた。別にそれを羨ましいとか、嫉妬とか、そういう感情はどうしてだか生まれることはなく、強がりでも何でもなく平気だった。
ただ、何もしてあげられないことに心の中で「ごめんね」と呟いたのだった。
そうして、数日が経ったある日のこと。私は誰に教えてもらうこともなく、今日が何の日かを察した。
朝からそわそわしている男子たちを尻目に、友チョコを配り歩く女子たち。残念ながら、本命イベントは本当に極小らしい。それどころか、女子のお祭りと化している。私の時も、周りは友達にあげたりしていたけれど。というか、私は誰にも渡すことはなかったのだけれど。このイベントって、こんな感じだったかな……。心なしか、教師までそわそわしているってどうなの。この学校、平和だなあ。
そんなことを思いながら、いつものように桜の枝に乗って正面を見る。いつも何故だか、気付くことも考えることもなく、この方向を向いていた。それが、一番しっくりきたからだ。
そして、これからも見続けていくのだろう。もしくは……。
「……」
三文字が浮かんで、瞼の裏に色濃く残る。
どうして、リアルはこんなにも迷路なのだろうか。
私は、シンデレラのように耐えて努力してきた人間ではないから、逃げてばかりいたから、だから私には魔女が現れないのだろうか。
それとも、もうこれ以上の奇跡は望んではならないという、私の強欲を戒められているのだろうか。
この現状がシアワセなのだと、そう思えたなら――
「さくらさん!」
ガヤガヤと騒めき始めた校舎から一人出てきたのは、彼だった。カバンが重そうに見えるのは、気のせいではないだろう。
「いっぱい貰ったみたいね」
「ああ、これ? そうなんだ。にしても、本当に女子ってすごいよね。クラス全員に配ってたみたい」
きっと、そういう口実で君に渡している子もいるんじゃないの? ――なんて過ったことは流して、私は枝から下りて彼の元へと行った。
「もしかして、断った方が良かった? 彼女がいるから、貰えないって」
「何で?」
「……嫉妬させちゃったかなーって、思って」
「いや、別に」
あっけらかんと即答すると、彼が苦笑した。おかしなことでも言っただろうか。
「やっぱり、さくらさんだね。ドライっていうか、何ていうか……」
「嫌だった?」
「ううん。そういうところも好き。それに、嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。俺の愛がしっかり伝わってるから、嫉妬する必要がないってことでしょ? だから、嬉しい」
「あ、そう……」
マフラーで隠れた口元が、嬉しそうにいつもの笑みを浮かべている……そんな表情が、見えるようだった。
「今日も寒いね。図書室行く?」
「えっと、ごめん。一回、家に帰ってくるよ」
「え?」
「ここで待っててくれる?」
「あ、うん……」
別に、帰ろうが構いやしないのだけれど、また来るとはいったい。私からは何もないので、期待されていたりすると困るのだが……。
私は、初めてのことにただただ戸惑うことしかできないでいた。
「さくらさん」
「あ、おかえり」
学校に戻ってきた彼は、もちろん制服姿で。手には、紙袋を持っていた。
「さくらさん、さくらさん」
手招きされて、近くへ行く。
彼の顔を見れば、はにかんだような照れた笑顔の中に、緊張があった。
緊張? 何故――突然の表情に戸惑いを重ねていると、目の前に一輪のバラが差し出された。
「赤い、バラ……?」
意外な物の登場に、ただただ驚く。まさか、こんなところで見ることに……それも、差し出されることになろうとは。
そして、だからこその意図があるのだろう。確かバラは、色や本数で意味が変わるものだったはず。
一輪は、そう――
「一目惚れ。貴方だけ……これ……」
「うん。これが、俺の気持ち」
「っ……」
花言葉を口にした途端、じわり。そして急速に、言い表すことのできない想いが広がっていく。それは、どんどんと溢れて。そうして、胸が苦しくなった。
なんて子なのだろう。いつも、私の予想の斜め上をいく。
まさか、バレンタインに高校一年生の男の子が一輪のバラを贈るなんてこと、彼以外の誰がするというのだろうか。
これじゃあ、まるで――
「さくらさん、受け取って。俺の気持ち」
「……」
「大好き。一生、一緒にいたい。さくらさん、俺と――」
「――だめ……」
まるで、夢の中であるかのようなシチュエーション――しかし遮ったのは、弱々しい声だった。
「さくらさん?」
期待に満ちた瞳が、翳る。
ああ、私は何をしているのだろうか。本当はどうしたいかなんて、わかっていたのに。
それでも、私が選ぶのは――
「ごめん……受け取れないよ……」
それは、物理的な問題などではなく。私が、彼を拒否したのだ。
「どうして?」
「ごめん……」
彼から目を逸らす。決意が鈍らないうちに、終わらせなくては。
「それじゃ、わからない。わからないよ」
「ごめん……」
「さくらさん」
理由なんて、明快だ。私が弱いからだ。
強くなりたいと、少しは強くなれたかと、そう思っていたのに。
「君の想いは、受け取れない。だって、私はやっぱり、ここから出られないの。どうしたって、出ることはできないの。だから、もうこれ以上は――」
貴方を殺せない私は、泡となって消えるの。
魔女すら現れない私は、どんな対価を捧げても足を手に入れることはできないの。
あるべき輪から外れた異端は、大地に、海に、空に、還っていくの。
そういうものなんだ。
そうあるべきものなんだ。
だから、さよならを選ぶの――
「わかった……」
俯きながら言った彼は、そのまま校舎内へと歩いていく。
これで良かったんだ。これ以上、彼に依存するものではない。こうするべきだったんだ、初めから。
少しの間だけでも、一緒に過ごせたことが奇跡だったのだから。だから、今日までの想い出をしっかりと抱いていこう。そして彼の卒業までをこっそり見守って、そうして、消えるんだ。
これで、いい。
こうあるべきだ。
最初に、そう決めたじゃないか。
それなのに。
なのに――
「どうして……」
苦しい。これ以上ないほどに。苦しすぎて、辛くて、胸が張り裂けそうだ。目の前がぼやけて、何も見えない。
これは、彼の想いを踏み躙って逃げた、私への罰だ。だから、本当は私が泣くべきではない。きっと、泣きたいのは彼の方だ。
そう思うのに。
「うっ、あ……ごめん、なさい……」
嗚咽が漏れる。溢れて零れて、涙は止まりそうにない。
本当は、嬉しかった。
受け取りたかった。
まっすぐな想いを抱き締めて、同じだけ、いや、それ以上を返したかった。
「好き……私も……」
それができたなら、どんなに――
「ねえ、どうして泣いてまで、嘘吐いたの?」
「――っ!」
心臓が止まるかと思った。それくらいびっくりして、しばらく枯れそうになかった涙さえ止まってしまった。
顔が、上げられない。――どうして? 私、あんなひどいことをしたのに。
もう聞くこともないと思っていた声。
もう向けられることもないと思っていた視線。
もう見ることもないと思っていた表情。
それらがまた、私の前にある――
「最初と一緒だ……幽霊だから、出られないから、ダメだなんて――そんなの、もう通じないから」
まっすぐだ――向けられる視線も、想いも。
いつだって、そうだった。
「難しいことは、一人で考えて決めたりしないで……さくらさんの思う幸せが、俺の幸せだと決めないで!」
「あ……」
――ストン、と何かが落ちる音がした。
「ねえ、どうして泣いてるの? 教えて」
「っ……私……」
「うん」
「ごめん、なさい……」
逃げて、ごめんなさい。
踏み躙って、ごめんなさい。
泣いて、ごめんなさい。
嘘を吐かせて、ごめんなさい。
「私、本当は離れたくない。本当は、嬉しかった」
「もう……本当に、不器用だなあ」
俯く私に屈みこんで、彼は一輪のバラを差し出した。
「さくらさん、俺は貴方だけを愛しています」
花言葉になぞらえた告白。
やっぱり私、彼には敵わない。
「ありがとう」
花を受け取るように、ギュッと想いを抱き締める。
ああ、触れられたなら。そうしたら、今すぐ彼へと飛び込んでいくのに――
「いい? 俺は、さくらさんを手放す気なんてないから。覚悟しててもらわないと」
「う……」
にっこりと微笑まれて、タジタジになる。
「じゃあ、怖がりなさくらさんがまた逃げちゃう前に、ちゃんと話し合おうか」
「……はい」
今の私に、反論など許されてはいなかった。
0
あなたにおすすめの小説
ハチミツ色の絵の具に溺れたい
桃本もも
青春
大学生になったばかりの梅若佐保には、ひとつだけ悔やんでも悔やみきれないことがあった。
高校で唯一仲良くしていた美術部の後輩、茜谷まほろが事故に遭うきっかけを作ってしまったことだ。
まほろは一命を取りとめたものの、意識不明がつづいている。
まほろがいない、無味乾燥な日々。
そんな佐保のもとに、入院しているはずのまほろが現れる。
「あたし、やりたいことがあって、先輩のところに来たんです」
意識だけの存在になったまほろとの、不思議なふたり暮らしがはじまる――
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
僕《わたし》は誰でしょう
紫音みけ🐾新刊2月中旬発売!
青春
※第7回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
交通事故の後遺症で記憶喪失になってしまった女子高生・比良坂すずは、自分が女であることに違和感を抱く。
「自分はもともと男ではなかったか?」
事故後から男性寄りの思考になり、周囲とのギャップに悩む彼女は、次第に身に覚えのないはずの記憶を思い出し始める。まるで別人のものとしか思えないその記憶は、一体どこから来たのだろうか。
見知らぬ思い出をめぐる青春SF。
※表紙イラスト=ミカスケ様
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
Blue Bird ―初恋の人に再会したのに奔放な同級生が甘すぎるっ‼【完結】
remo
恋愛
「…溶けろよ」 甘く響くかすれた声と奔放な舌にどこまでも落とされた。
本宮 のい。新社会人1年目。
永遠に出来そうもない彼氏を夢見つつ、目の前の仕事に奮闘中。
なんだけど。
青井 奏。
高校時代の同級生に再会した。 と思う間もなく、
和泉 碧。
初恋の相手らしき人も現れた。
幸せの青い鳥は一体どこに。
【完結】 ありがとうございました‼︎
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる