猫を追いかけて異世界に来たら、拾ってくれたのは優しい貴族様でした

水無瀬 蒼

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静かな夜の扉2

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 俺は小さく呟いて廊下を書斎側へ少し歩いた。でも、また戻って来てしまう。まるで心がドアの前で留まれって言ってるみたいだ。でも、臆病な俺はそれができないでいる。そうして立ち尽くしていると、足元のルナの鈴が微かに聞こえた気がした。ルナ、動いてないのに。でも、その音は俺の迷っている背中を押すかのように鳴っている。その鈴の音に従って、俺はまた書斎の方へと行く。途中で怖じ気づいて戻ろうと思ってしまったけど、それでもあの痛そうな顔が目の前にチラついて自分の部屋には戻れないでいる。俺なんかじゃなんの役にもたたない。そんなのわかってる。それでも、辛そうな顔は見たくない。だって、1人で抱えてるんだ。そんなの放っておけるわけがないだろ。だから、行かなきゃ。せめて、ドアの前にだけでも。その決意とともに俺は書斎へと足を向けた。戻ってしまいそうな足を叱咤激励して、なんとか書斎の前まで行く。そのとき、書斎のドアの向こうからばさりと紙が落ちる音がした。俺は思わず足を止めた。なんの音もしない静けさの中、その音だけが響いた。ドアの前まで来たのはただ心配だからだ。だけど、来たところでどうするつもりだったんだろう。ほんとに「口に合いましたか」って訊くつもりか。いや、俺がかけられる言葉なんてそれしかないけど。
 部屋の中からはぐしゃっと紙を握りつぶすような音がした。胸の中でなにかがざわつく。ヴァルター侯爵が来てからレオニスさんは書斎に籠もるようになってしまった。朝も食べずに行っているみたいだし、夜は残すことが多いとアベルさんは言っていた。だからあの日以来きちんと顔を見ていないということになる。
 あまりの心配に、ここまで来てしまった。ドアを叩こうかとしたとき、中から声が聞こえてきた。

「理想を掲げるほど、守りたいものが、遠ざかっている気がする。それは気のせいだろうか」

 押し殺した声がドア越しに染みこむように届いた。俺は息を呑んだ。そんな弱い声、初めて聞いた。今までのレオニスさんはヴァルター侯爵を前にしても礼を乱さず、一歩も退かなかった。それはみんなの旗印みたいに揺るがなかったのに。それなのに今、その旗が折れかかっている。
 助けたい。でも、開けられない。俺なんかが踏み込んだら、レオニスさんはもっと自分のことを責めてしまうかもしれない。それは避けたい。余計に苦しめるために来たんじゃない。少しでも気持ちをほぐして欲しくて来たんだ。そう思ったらドアを叩くのを躊躇してしまう。そもそも今は誰にも会いたくないのかもしれない。だから夕食も書斎で食べているんだろう。もしなんでもないのならダイニングルームに来て俺と一緒に食べているはずだ。そもそも俺は庶民だ。ここの国の人間ではないけれど貴族じゃないのは確かだ。庶民を救うために動いているレオニスさんが庶民の俺の顔なんか見たら、ほんとに自分を責めてしまいそうだ。そうしたら今日は黙って自分の部屋に戻った方がいいのかもしれない。ドアを叩いたわけじゃないから、レオニスさんは俺に気づいてはいない。戻るのなら今だ。そう思うのに、今度は足が縫い付けられたように動けない。さっきはあんなに行ったり来たりして足は動いていたというのに、今度は動かないなんて。それはドアをノックして声をかけろっていうことなんだろうか。さっき鈴の音がして、背中を押されたような気がしてここまできたけれど、それは逆だったのかもしれない。書斎へ行けってことじゃなくて、逆に部屋に戻れっていう音だったのかもしれない。俺はしゃがみこんでルナに小さな声で話した。レオニスさんには聞こえないように。

「なあ、ルナ。俺、どうしたらいい?」

 ルナに訊いてどうする。それが証拠に、ルナは小首をかしげて俺の顔を見ている。そうだよな。訊かれたルナだって困っちゃうよな。そう思うと苦笑いしか出てこない。

「ルナ。部屋に戻ろうか」

 そう言ってルナの頭を撫でてから立ち上がる。レオニスさんを責めたくはない。それなら戻る方がいい。そうしたとき、また鈴が微かに鳴った。慰めにも似た余韻。鼓動が早くなる。聞こえてしまったかもしれない。こんな静けさの中だ。どんな小さな音だって聞こえてしまいそうだ。俺はどうしたらいいのかパニックを起こしてしまった。戻ったらいいのか? それとも音が聞こえたと仮定して開き直るか。そう思った瞬間だった。書斎の中で椅子が軋む音がし、床にかすかに影が揺れた。

「!」

 扉の向こうでレオニスさんが立ち上がった気がした。ヤバい。逃げる時間がない。レオニスさんがこちらに歩いてくる。静かだけど、確実に。どうしよう、ドアが開いてしまう。俺は反射的に背を伸ばした。心臓がどくどくと煩い。そのときもう1度鈴の音がした。どうしよう。そうだ、ルナを探していたって言おう。そう言い訳を決め、俺はドアが開くのを覚悟した。

 
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