甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部一章 生還

信濃と上野

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 信繁の臥す布団の上に、甲斐と信濃を中心に書かれた地図を広げ、三人の兄弟は、その上に額を寄せた。
 まず、信繁が指さしたのは、信濃の上だ。

「……まずは、越後 (現在の新潟県)と信濃 (現在の長野県)との国境くにざかいの情勢を伺いとうございます」
「やはり――気になり申すか、典厩様」

 信繁の言葉に、信廉は微笑みを浮かべて頷いた。

「ご自身を死の淵まで追い込んだ、仇敵――上杉の事が」
「……そういう訳では無い」

 信廉の言葉に、信繁は仏頂面で頭を振った。

「単に、今の武田家われわれの周囲の勢力で、越後の上杉がもっとも強く、もっとも危険な存在だからだ。それに、我らが信濃から追い出した村上や高梨らからの、失地回復の助勢を乞う突き上げが熾烈だろうし、かつての越後守護代・長尾景虎は、今や圧しも圧されぬ関東管領・上杉政虎だ。信濃は、関東管領の管轄ゆえ、その地を我々が治めんとしている現状は看過できまい」
「……ははは。典厩様の仰る通りでございますが、ひとつお間違いが」
「……間違い?」
「ええ。今の彼奴は、政虎ではありませぬ。八幡原で我らと戦った後に、室町将軍・足利義輝公より一字を賜り、今は、上杉輝虎と名乗っております」

 信繁の言葉を、笑いながら信廉が正す。信繁は、「そうなのか……」と、早速に浦島子の気分を味わったが、

「……いや、それは違うな」

 信玄がキッパリと頭を振ったのを見て混乱した。
 信廉も、驚いた表情を浮かべて、信玄の顔を覗き込む。

「お……お屋形様? 何が違うのでござりますか? 現に――」
「……彼奴は、今も昔も、タダの越後守護代・長尾景虎じゃ。関東管領? 上杉輝虎? そんなモノ、儂は認めた覚えはないぞ!」

 信玄は、カッと目を見開くと、顔を真っ赤に紅潮させて叫んだ。ふたりの弟は、そんな彼の剣幕に気圧されて押し黙る。
 少しの間、部屋の中に、気まずい雰囲気が満ちた。
 ――が、

「……すまぬ」

 そんな場の空気を機敏に感じ取った信玄が、咳払いと共に謝罪の言葉を述べ、ぎこちない笑いを浮かべる。
 そして、気を取り直すように咳払いをひとつすると、再び地図の上に目を落とした。

「さて……話を戻すぞ。――越後と奥信濃の情勢……だったな、典厩」
「あ――、左様で……ございます」

 信繁も、慌てて地図に目を戻す。
 信玄は、扇子の先で地図の一点を指し示しながら、言葉を継ぐ。

「……奥信濃の情勢は、二年前と、然程変わってはおらぬ。海津の城に、香坂弾正こうさかだんじょうを置き、睨みを利かせておるゆえ、越後方も迂闊に手を出せぬ。無論、小競り合い程度の衝突は度々起こっておるようだが、二年前のあの戦のような、大規模なものになる可能性は低かろう」
「たとえ、大戦おおいくさになろうとも“逃げ弾正”香坂弾正は、当家稀代の戦巧者ですからな。上す――の軍勢相手にも一歩も引けを取りますまい」

 信玄の言葉に、信廉が大袈裟に頷いていたが、信繁の考えは少し違った。

(……成る程、だからこその香坂か)

 彼は、心中で唸った。敢えて、“逃げ弾正”香坂弾正虎綱こうさかだんじょうとらつなを、奥信濃随一の要衝にして、二年前の八幡原で発生した、武田と上杉の衝突の原因でもある海津城の城代に据えた意味を悟ったのである。
 そもそも、“逃げ弾正”とは、“逃げるのが上手い”という意味ではない。
 彼の“逃げ弾正”という二つ名は、香坂弾正虎綱が、敵に向かって攻めかかる戦いの指揮よりも、拠点を守る戦いや、撤退戦の指揮に優れていた事に由来する。
 ――つまり、

(お屋形様は、敢えて、守りの戦いに長けた香坂を海津城に置く事によって、敵方に『こちらから攻めかかる意志はない』と、暗に示しているのではないか?)

 ……だとしたら、

(――これ以上、北へ勢力を伸ばすお考えはお持ちではないようだ)

 信繁は、地図を眺めながら、主君の意図を読み取ろうと、頭脳を盛んに働かせる。
 そして、彼は地図の右へと指を這わせた。

「奥信濃は分かり申した。――では、上野こうずけ(現在の群馬県)はどうでしょう?」
「うむ」

 信玄も頷くと、信濃の右に位置する上野国を扇子で指した。

「――こちらは今のところ、真田にほぼ任せておる。主に調略を以て、長尾方についている城を、丹念に引き入れておるところだな」
「真田……弾正幸綱ゆきつな殿ですか」
「ああ」

 信繁の言葉に、信玄は小さく頷いた。

「彼奴は一時期、領地を逐われて、箕輪の長野業正を頼っていた事があったからな。知己も多い。攻略を任せるにはうってつけじゃ。――の攻略には、手こずっておるようだがの」
「――その口ぶりですと、箕輪の城は、まだ陥ちておらぬのですな」
「――ああ」

 信繁の言葉に、信玄は苦々しげに、小さく頷いた。
 ――箕輪城とは、上野国の中央 (現在の高崎市)にある、屈指の要害である。城の西に流れる榛名白川と南の榛名沼を天然の水堀と成し、広大な縄張りを有する。
 その城に拠っていたのは、“上野の黄斑 (虎)”との異名を持つ傑物・長野信濃守業正で、彼は信玄からの誘いを断り続け、越後に遁走した主・前関東管領上杉憲政に忠を尽くすべく、箕輪城に籠もって、その知略と地の利を存分に活かし、度々押し寄せる武田軍の猛攻を凌ぎ続けていたのだ。
 だが――、

「一昨年の冬、業正は死んだ。今は、息子の業盛が後を継いでおるが――生意気にも、父親の教えを愚直に守って、我々に牙を剥こうとしておる。……しかし、その将器は父親に及ぶべくもない。――保って、せいぜいあと数ヶ月といったところだ」
「……何と。業正は死んだのですか!」

 信玄の言葉に、またもや驚く信繁。自分が寝ている間にも、時間は刻々と進み続けていた――そんな当たり前の事を残酷に突きつけられた気がして、彼は目眩を感じた。
 ――と、

「……と、そうじゃ、真田と言えば――」

 信玄は、何かを思い出したかのように膝を打った。
 そして、信繁の顔を見て言う。

「実は……典厩、お主に逢いたいとしつこく儂に頼んでくる者がおってな……。あまりにも五月蠅くてしようがないので、ここまで連れてきたのだが……、会ってやってはくれぬかの?」

 彼は、どことなくバツが悪そうに、しきりと剃り上げた頭を触りながら、信繁に訊いた。
 信繁は、そんな兄の様子を珍しく思いながらも、大きく頷いた。

「――ええ、もちろん。某は構いませぬが……」
「すまぬな。――逍遙、ご苦労だが、連れてきてくれぬか?」
「あ――ハッ! 畏まってござる」

 信繁の承諾を得た信玄に頼まれ、戯けた調子で気安く引き受けた信廉が腰を上げて、部屋の外に出て行く。
 そして、数分後、

「――お待たせ致しました、お屋形様。仰せの通り、連れて参った」

 戻ってきた信廉の背後に、背の高い男が立っていた。
 信繁が、彼の顔を見て最初に思ったのは、

(若い――)

 であった。
 彼は、隻眼を眇めて、男の顔をじっくりと観察する。
 ――男の顔は、まだあどけなさを残しており、六郎次郎と大して変わらぬように思う。だが、その目に宿る光は、とても鋭い。キリリと吊り上がった目尻は、まるで狐の様だったが、ただの狐ではなく、伝説の九尾の狐のそれを彷彿とさせた。
 まだ若いが、いずれ立派な武将となるに違いない傑物――。信繁が彼に抱いた第一印象は、そういったものであった。
 ……と、やにわに男はその場に膝をつくと、深々と頭を下げた。

「典厩様! お逢いしとうござりました! お目もじ叶い、この武藤喜兵衛昌幸むとうきへえまさゆき、身が震える思いにございます!」
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