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第一部九章 愛憎
帰宅と来訪
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三日後――。
古府中 (現在の山梨県甲府市古府中町)に建つ大泉寺において、前甲斐国守護・武田信虎の葬儀が、大々的に執り行われた。
大泉寺は、大永元年 (1521年)に信虎の開基によって開かれた曹洞宗の寺院であり、その所縁によって、信虎の葬儀を請け負ったのである。
信虎の遺体は、既に荼毘に付され、小さな骨壺に収まっていた。
葬儀には、信玄や信繁・信廉、そして一条信龍らといった、彼の息子たちはもちろん、孫である義信・勝頼・盛信・信豊ら、そして、馬場信春・工藤昌秀ら譜代の家臣たちが集い、彼の死を悼んだのだった――。
そして、
信虎の葬儀の翌日――。
太陽が西に傾き、蜩が鳴き始める時分に、武田信繁の屋敷の門前に、珍しい客人が訪れた。
「母上! 綾! ただ今帰りましたぞ!」
馬から降りる間も惜しんで、屋敷の玄関の方に向けて声を上げたのは、信繁の嫡男にして、信濃小諸城主である、武田六郎次郎信豊であった。
「おかえりなさいませ! あにうえーっ!」
その声に応じて、玄関から飛び出してきたのは、彼の妹である綾だった。
彼女は、履物も履かずに、裸足のまま走り寄ると、信豊に飛びついた。
「おあいしとうございました、あにうえっ!」
「お、おいっ、綾! 武家の息女の癖に、何だその振る舞いは! はしたないぞ、まったく……」
彼女の勢いに驚いた信豊は咎めるように言ったが、言葉とは裏腹に、その顔には満面の笑みが浮かぶ。
「まあまあ、赦してあげて下さい、六郎次郎殿。綾も、大好きな兄上と久しぶりに会えて嬉しいのですよ」
「あ……母上……ただ今帰りました」
娘に続いて玄関から出てきた母に、信豊は威儀を正して、深々と頭を下げた。
そんな息子に、桔梗は優しい声で言う。
「お帰りなさいませ。元気そうで、何よりです」
「はっ……。母上もお変わりなく……」
久方ぶりの母の声に思わず瞳を潤ませながら、信豊は微笑み――ハッと何かに気づいた表情を浮かべた。そして、慌てて半身になり、自分の背後に立つ人物に門内へ入るよう促す。
桔梗は手を前に組んで、信豊に招き入れられて門をくぐってきた人物に向けて、深々と頭を下げた。
「これはこれは……お待ち申し上げておりました。――四郎様」
「あ……お久しぶりで御座います。……叔母上」
高遠城主・諏訪四郎勝頼は、その白皙の貌にぎこちない笑みを浮かべながら、叔母に向けて頭を下げた。
「本日は、六郎次郎殿のお招きで罷り越しました。……お邪魔致します」
「まあ、お邪魔だなんて、とんでもございません。ささやかなおもてなししか出来ぬかもしれませぬが、どうぞごゆるりとお過ごし下さいませ」
勝頼の言葉に、穏やかな笑みを浮かべながら、桔梗は言った。
と、その時、
「ごろうさま!」
信豊の身体に抱きついたままだった綾が、勝頼の後ろに控える小さな人影に気付いて、途端に声を弾ませた。
そして、あっさりと信豊から離れると、小走りでその影の方へと向かう。
「あ、綾どの。それに叔母上様も。御無沙汰しておりました」
仁科五郎盛信は、そのあどけない顔に笑みを浮かべて、ちょこんと頭を下げた。
綾は、盛信の元に駆け寄ると、頬を真っ赤に染めつつ、満面の笑みを浮かべて言った。
「ようこそおいでくださいました、ごろうさま! ずっとあやは、ごろうさまにおあいしとうございました!」
「こ、これ、綾! だから、はしたない行いは慎めと……! あ――それよりも、四郎殿にもご挨拶せぬか!」
妹の振る舞いに、信豊は顔を赤くしたり青くしたりしながら怒鳴る。
兄の言葉を聞いた綾は、盛信の隣に立つ勝頼に、ニコリと愛想笑いを向けると、
「ええと……、しろうさまも、ようこそおいでくださいました」
盛信に対してしたのとは対照的な、よそよそしい挨拶をした。
勝頼は、目をパチクリさせながら、
「あ……。これはこれは……綾どのもご健勝の様で……」
と、ぎこちなく笑いかけながら頷き返す。
「……綾め……」
そんなふたりのやりとりを見た信豊が、思わず頭を抱えた。
と、その時、
「いやはや……。この有様を典厩様が見たら、さぞお気落ちされますでしょうなぁ。『我が娘が嫁入りする日も、そう遠くないな……』などと仰って……」
「……にやにや笑いながら言うな、昌幸」
玄関から姿を現した男に、信豊は渋い顔を向ける。
彼の言う通り、愉快そうに口元を綻ばせていた武藤喜兵衛昌幸だったが、勝頼と盛信の視線が自分に向いたのを見ると、おもむろに威儀を正し、三人に向かって恭しく頭を下げた。
「四郎様、五郎様、そして六郎次郎様……。ようこそ御出で下されました」
昌幸の挨拶に対し、勝頼は鷹揚に頷く。
「うむ……。武藤よ、世話になる」
「はっ」
勝頼の言葉に、昌幸は短く応えた。そして、館に向かって手を差し伸ばし、三人を中へと誘う。
「……典厩様達が、既に部屋にてお待ちです。――どうぞ、こちらへ」
「……叔父上“達”?」
昌幸の言葉に違和感を感じ、片眉を上げたのは、勝頼だった。
彼は怪訝な表情を浮かべながら、先に立って歩き始めようとする昌幸の背中に向けて声をかける。
「おい、昌幸……。何だ? 叔父上の他にも、どなたかが居られるのか?」
「……左様に御座ります」
勝頼の問いかけに、昌幸は小さく頷いた。
「それは……いったい誰――」
「四郎様……。誠に申し訳御座いませぬが……」
問いを重ねようとする勝頼に、昌幸は深々と頭を下げる。
そして、静かな口調で言葉を継いだ。
「――その点につきましては、典厩様より、固く口留めをされておりますゆえ、拙者の口からお答えする事が出来かねまする。御懸念は御座いましょうが、何卒ご寛恕のほどを賜りたく……」
古府中 (現在の山梨県甲府市古府中町)に建つ大泉寺において、前甲斐国守護・武田信虎の葬儀が、大々的に執り行われた。
大泉寺は、大永元年 (1521年)に信虎の開基によって開かれた曹洞宗の寺院であり、その所縁によって、信虎の葬儀を請け負ったのである。
信虎の遺体は、既に荼毘に付され、小さな骨壺に収まっていた。
葬儀には、信玄や信繁・信廉、そして一条信龍らといった、彼の息子たちはもちろん、孫である義信・勝頼・盛信・信豊ら、そして、馬場信春・工藤昌秀ら譜代の家臣たちが集い、彼の死を悼んだのだった――。
そして、
信虎の葬儀の翌日――。
太陽が西に傾き、蜩が鳴き始める時分に、武田信繁の屋敷の門前に、珍しい客人が訪れた。
「母上! 綾! ただ今帰りましたぞ!」
馬から降りる間も惜しんで、屋敷の玄関の方に向けて声を上げたのは、信繁の嫡男にして、信濃小諸城主である、武田六郎次郎信豊であった。
「おかえりなさいませ! あにうえーっ!」
その声に応じて、玄関から飛び出してきたのは、彼の妹である綾だった。
彼女は、履物も履かずに、裸足のまま走り寄ると、信豊に飛びついた。
「おあいしとうございました、あにうえっ!」
「お、おいっ、綾! 武家の息女の癖に、何だその振る舞いは! はしたないぞ、まったく……」
彼女の勢いに驚いた信豊は咎めるように言ったが、言葉とは裏腹に、その顔には満面の笑みが浮かぶ。
「まあまあ、赦してあげて下さい、六郎次郎殿。綾も、大好きな兄上と久しぶりに会えて嬉しいのですよ」
「あ……母上……ただ今帰りました」
娘に続いて玄関から出てきた母に、信豊は威儀を正して、深々と頭を下げた。
そんな息子に、桔梗は優しい声で言う。
「お帰りなさいませ。元気そうで、何よりです」
「はっ……。母上もお変わりなく……」
久方ぶりの母の声に思わず瞳を潤ませながら、信豊は微笑み――ハッと何かに気づいた表情を浮かべた。そして、慌てて半身になり、自分の背後に立つ人物に門内へ入るよう促す。
桔梗は手を前に組んで、信豊に招き入れられて門をくぐってきた人物に向けて、深々と頭を下げた。
「これはこれは……お待ち申し上げておりました。――四郎様」
「あ……お久しぶりで御座います。……叔母上」
高遠城主・諏訪四郎勝頼は、その白皙の貌にぎこちない笑みを浮かべながら、叔母に向けて頭を下げた。
「本日は、六郎次郎殿のお招きで罷り越しました。……お邪魔致します」
「まあ、お邪魔だなんて、とんでもございません。ささやかなおもてなししか出来ぬかもしれませぬが、どうぞごゆるりとお過ごし下さいませ」
勝頼の言葉に、穏やかな笑みを浮かべながら、桔梗は言った。
と、その時、
「ごろうさま!」
信豊の身体に抱きついたままだった綾が、勝頼の後ろに控える小さな人影に気付いて、途端に声を弾ませた。
そして、あっさりと信豊から離れると、小走りでその影の方へと向かう。
「あ、綾どの。それに叔母上様も。御無沙汰しておりました」
仁科五郎盛信は、そのあどけない顔に笑みを浮かべて、ちょこんと頭を下げた。
綾は、盛信の元に駆け寄ると、頬を真っ赤に染めつつ、満面の笑みを浮かべて言った。
「ようこそおいでくださいました、ごろうさま! ずっとあやは、ごろうさまにおあいしとうございました!」
「こ、これ、綾! だから、はしたない行いは慎めと……! あ――それよりも、四郎殿にもご挨拶せぬか!」
妹の振る舞いに、信豊は顔を赤くしたり青くしたりしながら怒鳴る。
兄の言葉を聞いた綾は、盛信の隣に立つ勝頼に、ニコリと愛想笑いを向けると、
「ええと……、しろうさまも、ようこそおいでくださいました」
盛信に対してしたのとは対照的な、よそよそしい挨拶をした。
勝頼は、目をパチクリさせながら、
「あ……。これはこれは……綾どのもご健勝の様で……」
と、ぎこちなく笑いかけながら頷き返す。
「……綾め……」
そんなふたりのやりとりを見た信豊が、思わず頭を抱えた。
と、その時、
「いやはや……。この有様を典厩様が見たら、さぞお気落ちされますでしょうなぁ。『我が娘が嫁入りする日も、そう遠くないな……』などと仰って……」
「……にやにや笑いながら言うな、昌幸」
玄関から姿を現した男に、信豊は渋い顔を向ける。
彼の言う通り、愉快そうに口元を綻ばせていた武藤喜兵衛昌幸だったが、勝頼と盛信の視線が自分に向いたのを見ると、おもむろに威儀を正し、三人に向かって恭しく頭を下げた。
「四郎様、五郎様、そして六郎次郎様……。ようこそ御出で下されました」
昌幸の挨拶に対し、勝頼は鷹揚に頷く。
「うむ……。武藤よ、世話になる」
「はっ」
勝頼の言葉に、昌幸は短く応えた。そして、館に向かって手を差し伸ばし、三人を中へと誘う。
「……典厩様達が、既に部屋にてお待ちです。――どうぞ、こちらへ」
「……叔父上“達”?」
昌幸の言葉に違和感を感じ、片眉を上げたのは、勝頼だった。
彼は怪訝な表情を浮かべながら、先に立って歩き始めようとする昌幸の背中に向けて声をかける。
「おい、昌幸……。何だ? 叔父上の他にも、どなたかが居られるのか?」
「……左様に御座ります」
勝頼の問いかけに、昌幸は小さく頷いた。
「それは……いったい誰――」
「四郎様……。誠に申し訳御座いませぬが……」
問いを重ねようとする勝頼に、昌幸は深々と頭を下げる。
そして、静かな口調で言葉を継いだ。
「――その点につきましては、典厩様より、固く口留めをされておりますゆえ、拙者の口からお答えする事が出来かねまする。御懸念は御座いましょうが、何卒ご寛恕のほどを賜りたく……」
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