甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
144 / 263
第二部三章 始末

髭面と猿面

しおりを挟む
 武田信繁率いる武田軍が、苗木城下を発って木曾街道を西へ向かってから、遅れる事三日の後。
 左腕を負傷して甲斐へ戻る諏訪四郎勝頼が、岩村城主遠山景任夫人のつやと、苗木城主遠山直廉の息女・龍を伴って岩村城へと向かった。
 岩村城までつやを送った後は、中山道を辿って信濃と美濃の国境を越え、甲斐に向かう予定である。
 勝頼は、輿に乗った龍姫と、彼女の世話をする為に甲斐府中まで同行する侍女たちを護衛するように、その周囲を数十騎の武田兵で囲い、昼過ぎ頃に苗木城を発ったのだった。

 ――それから数刻後、日が落ちた後に、人目を避けるようにひっそりと一基の輿が苗木城を出た。輿の周りには、苗木城の兵が十数名付き従う。
 その輿に乗っているのは、実家の尾張織田家の為に苗木城を乗っ取り、西美濃へ向かう武田軍の背後を衝いて信繁を討とうと画策したものの、策を見破られて敗北し、その咎によって夫の遠山直廉から離縁された彼の妻・琴であった。
 苗木城を出た彼女は、苗木兵に護衛――否、監視されながら、尾張国主であり、自身の兄である織田信長の居城である小牧山城 (現在の愛知県小牧市)を目指すのだった――。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 ここは――苗木城から南西に三里ほど離れた森の中。
 鬱蒼と草木が茂る小山の頂上に、ひとつの小さな砦があった。
 元々は南北朝時代頃に築かれたものだが、人里からも主要な街道から離れていた事もあって戦略上の重要な拠点には成り得ず、いつしか守る者も居なくなり、今から百年ほど前に打ち棄てられた廃砦である。
 百年近くもの間、訪れる者もおらず、人の気配が絶えて久しかったこの地だが――、今はそうではなかった。
 かつて本丸だった僅かな平地には、まだ充分に乾き切っていない真新しい木材で急造された掘っ立て小屋が数棟建ち、その内外には粗末な胴丸を着崩した野卑な顔立ちの男たちが屯している。
 と――、

「猿! 猿はおるかっ?」

 乱暴な口ぶりで叫びながら、数名の部下を引き連れた髭面の男が細い山道を登って来た。
 彼の姿を見た途端、それまで暇そうに酒盛りや博打で暇を潰していた男たちが表情を変え、大急ぎで姿勢を正すと、髭面の男に向かって深々と首を垂れる。
 そんな彼らを一瞥した髭面の男は、男たちの周りにサイコロや盃が散乱しているのを見て不機嫌そうに眉を顰めるが、特に何も言わずに通り過ぎ、点在する掘っ立て小屋の中で最も大きい一棟の中に入っていった。
 そして、薄暗い室内を睥睨し、床に広げた地図の前で、戸口に背を向けて座っている一人の男の姿を見留めると、少し怒気を孕んだ口ぶりで声をかける。

「おい、猿。オレが呼んでいたのが聞こえなかったか? 居るんだったら、さっさと返事をし――」

 そこまで言いかけたところで、彼は口を噤んだ。
 相変わらず自分に背を向けたままの男の丸まった背中が、ゆっくりと船を漕ぐように前後に揺れている事に気付いたからだ。
 次の瞬間、こめかみに青筋を立てた彼は、居眠りをしている男に向けて、あらん限りの大音声で怒鳴りつける。

「おい! 起きんか、猿ぅっ!」
「――はいぃっ!」

 髭面の男の怒声が上がった瞬間、ビクンと体を震わせて、その場で小さく跳ね上がった男は、慌てた様子で周囲を見回した。
 男の、まるで餌を探す雉のような滑稽な仕草に思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、髭面の男は言葉をかける。

「……後ろだ、このたわけ」
「あぁ、そちらで御座ったか!」

 彼の呆れ混じりの声に、男は大袈裟な仕草で頷いてみせ、反動をつけて一気にその場で体を回転させた。
 そして、その猿のような顔をくしゃくしゃに綻ばせながら、仁王立ちしている髭面の男を見上げる。

「これはこれは、お疲れ様に御座ります、又十郎殿!」
「……お前も、寝落ちる程に疲れておるようだな、猿」

 男の柔和な笑顔にすっかり気勢を削がれた髭面の男――蜂須賀又十郎は、憮然とした顔で嫌味を言った。
 それに対して、“猿”と呼ばれた男は、更にニコニコとしながら、照れくさげに頭を掻いてみせる。

「いやぁ、御気遣いのお言葉、痛み入りまする」
「気遣ったつもりは無いのだがな」
「いやはや。昔とは違って、今はすっかり柔らかい布団の上で寝る事に慣れてしまいましてなぁ。茣蓙ではなんとも寝つきが悪うて、最近ではまんじりとも出来ませなんだ。まったく……贅沢に慣れると、逆に不便になる事もあるようで……ウフフ」
「……」

 嫌味が通じていない様子の“猿”に呆れ顔を浮かべる又十郎。
 ――と、次の瞬間、“猿”が不意に表情を消した。
 そして、細めた目で又十郎の目を見据えながら、「では――お気遣いついでに」と言葉を継ぐ。

「――もう、お兄上の小六殿にお仕えしていた頃とは立場が違います故、いい加減にそれがしの事を“猿”と呼ぶのはおやめ下され。今の某には、“木下藤吉郎秀吉”という立派な名前が御座りますので」
「……っ!」

 又十郎は、猿――木下藤吉郎秀吉が上げた、これまでの口調とは一変した低い声を聞き、自分を睨め上げる蛇のような冷たい瞳を見た瞬間、息が詰まって二の句が継げなくなった。
 同時に全身が粟立ち、吹き出した冷たい汗が背中を伝い落ちるのを感じる。
 彼は、心中に湧いた動揺を藤吉郎に悟られぬよう、殊更に顔の筋肉に力を込めながら、ぎこちなく頷いた。

「わ……分かった、さる……藤吉郎」
「ははは……早速の御配慮、かたじけのう御座る、又十郎殿」

 藤吉郎は、又十郎の返事を聞いた途端に、先ほどと同じような屈託の無い笑みを満面に浮かべる。
 その笑顔からは、先ほど垣間見えた怖気立つような凄惨さが綺麗さっぱり消え去っていた。
 だが、それを見た又十郎の心を占めたのは、安堵では無く、より強い嫌悪……いや、であった。

(この……妖怪めが)

 彼は、表面では素知らぬ顔をしつつ、心の中で秘かに毒づくのだった――。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...