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第二部五章 応酬
金山衆と任務
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ちょうど、保科正俊が柵の奥の斎藤陣に侵入した頃――、
武田軍の本陣で、馬に跨ったまま険しい表情で前線へ目を凝らしていた信繁の元に、ひとりの男が駆けてきた。
「典厩様! 大井三河守貞昌、お召しにより罷り越し申した!」
「ああ、そのままで良い。時が惜しい」
信繁は、通礼に従い下馬しようする男に軽く手を挙げて制する。
そして、野趣の溢れた彼の髭面を真っ直ぐに見据えながら、言葉を継いだ。
「わざわざ後備から呼び出して済まぬな。ひとつ、お主らに頼みたい事があってな」
「アレの事でございますな?」
男――大井三河守貞昌は、ニヤリと微笑って、前方に目を向ける。
そして、敵陣と自軍の間を隔てるように設置されている一重の柵を見据えながら、大きく頷いた。
「なるほど……確かに、あの目障りな馬防ぎの柵をどうにかするのは、我ら“金山衆”こそが適役でしょうな」
――金山衆とは、平時は甲斐国内の金山で金採掘に従事している鉱山夫たちで構成された部隊である。
彼らは、戦時においては武田家の招集に応じて軍に加わり、自分たちが持つ採掘や土木工事の技術を城攻めや築陣に活かす――現代軍制における「工兵部隊」に近い役割を担っていた。
そんな金山衆を束ねる将が、この大井三河守貞昌である。
武田家の庶流・大井氏の分家筋の出である貞昌は、天文十年 (西暦1541年)に父信虎を駿河へ逐って武田家の家督を継いだ晴信 (後の信玄)によって、金山衆を束ね監督する蔵前衆のひとりに任じられた。
彼と金山衆が、戦において最も名を上げたのは、天文十六年 (西暦1547年)閏七月の志賀城攻めである。
晴信から先陣を任された貞昌は、志賀城を取り囲むや、連れてきた金山衆を動員して、城の横腹を掘り進めさせたのだ。
その結果、翌日には城の水の手を断つ事に成功し、城の井戸が涸れた志賀城兵たちの士気は大いに下がり、後に着到した本軍による城攻めは、より容易なものになったのである。
また、最近では、永禄六年 (西暦1563年)の北条家の武蔵松山城攻めに援軍として出陣した武田軍に加わり、城山に坑道を掘って地下から爆破しようとしたものの、この作戦は失敗に終わっている……。
――閑話休題。
「……本当なら、城攻めに移るまで、お主らを動かす気は無かったのだが――」
と、信繁は、馬上で畏まる貞昌に向けて、すまなさそうに言う。
「――今は、状況が変わった。直ちに総懸かりに移るゆえ、お主ら金山衆にあの柵を取り除いてもらいたい」
「承り申した!」
貞昌は、信繁の言葉を聞くや、間髪を入れずに大音声で応え、まるで山師のような厳つい髭面に不敵な笑みを浮かべ、その分厚い胸板を叩いてみせた。
彼の快諾に小さく頷いた信繁は、ふと天を振り仰ぐ。
そして、空を覆い尽くすどんよりとした分厚い黒雲を一瞥してから、すまなさそうに言葉を継いだ。
「……出来れば、いま少し機を待ちたいところなのだが、このままモタモタしていては、あそこで戦っておる弾正たちの身が危うい。本来は最前線に出る役目では無い金山衆に頼むのは、些か酷かもしれぬが――」
「何をおっしゃいます、典厩様!」
信繁の言葉に、貞昌は大げさに頭を振る。
「むしろ、滅多にない戦働きの機会を頂けたと、皆これまでになく意気軒昂で御座りまする! どうぞ、大船に乗った気持ちで我らの働きぶりを見ていて下され!」
「そうか……」
自信と気合いに満ちた貞昌の力強い言葉に、信繁は思わず相好を崩した。
「よし、任せた。くれぐれも頼むぞ」
「畏まり申した!」
信繁が全幅の信頼を寄せ、かけた激励の声に心が打ち震えるのを感じながら、貞昌は満面に笑みを浮かべながら大きく頷き、おもむろに馬首を返す。
「では、御免! 我ら金山衆が華々しき働きを、どうぞご覧あれ!」
そう言い残すや、彼は馬に鞭を当て、自隊の指揮に向かう為、駆け去っていった。
そんな彼の後ろ姿を頼もしげに見送った信繁は、おもむろに控えていた供廻りへ目を向け、気迫の籠もった雄々しき声で告げる。
「――よし、中備の各隊に使番を送れ! 金山衆が首尾よく柵を引き倒したら、すぐに敵陣へ雪崩れ込む! 努々後れを取るな、とな!」
「はっ!」
信繁の言葉に短く頷いた供廻りたちが、その命令を各隊へ遍く知らしめる為、一斉に馬を駆った。
彼らの背中を見送った信繁は、もう一度顔を上げ、今にも泣き出しそうな曇天に目を凝らす。
「――昌幸の読みが確かなら、あと四半刻 (約三十分)ほどか……」
そう低く呟いた彼は、気を落ち着かせるように小さく息を吐きながら、右手で腰帯に差していた采配を抜き取り、馬の横腹を軽く蹴った。
主に促された乗騎は、それに応えるように軽く嘶くと小走りで前へと進み出る。
そして、中備の先頭まで行くと脚を止める。
信繁は、止まった馬の背の上で前方に目を凝らし、大井貞昌率いる金山衆が緩々と動き始めたのを確認すると、采配を握った右手を高々と掲げた。
彼の動きに合わせるように、腹に響く陣太鼓の音がドン……ドン……と規則正しく打ち鳴らされ始める。
徐々に太鼓を打つ間隔が短くなり、遂には連打になった頃合いで、信繁は掲げた采配を素早く振り下ろし、大音声で叫んだ。
「者ども、懸かれぇ――――ッ!」
彼の絶叫に続き、総懸かりを報せる法螺貝が一斉に吹き鳴らされる。
そして――
満を持した武田軍の本隊が、前方の斎藤軍の陣へ向け、まるでひとつの生き物のように足並みを揃えながら一斉に動き出したのだった――!
武田軍の本陣で、馬に跨ったまま険しい表情で前線へ目を凝らしていた信繁の元に、ひとりの男が駆けてきた。
「典厩様! 大井三河守貞昌、お召しにより罷り越し申した!」
「ああ、そのままで良い。時が惜しい」
信繁は、通礼に従い下馬しようする男に軽く手を挙げて制する。
そして、野趣の溢れた彼の髭面を真っ直ぐに見据えながら、言葉を継いだ。
「わざわざ後備から呼び出して済まぬな。ひとつ、お主らに頼みたい事があってな」
「アレの事でございますな?」
男――大井三河守貞昌は、ニヤリと微笑って、前方に目を向ける。
そして、敵陣と自軍の間を隔てるように設置されている一重の柵を見据えながら、大きく頷いた。
「なるほど……確かに、あの目障りな馬防ぎの柵をどうにかするのは、我ら“金山衆”こそが適役でしょうな」
――金山衆とは、平時は甲斐国内の金山で金採掘に従事している鉱山夫たちで構成された部隊である。
彼らは、戦時においては武田家の招集に応じて軍に加わり、自分たちが持つ採掘や土木工事の技術を城攻めや築陣に活かす――現代軍制における「工兵部隊」に近い役割を担っていた。
そんな金山衆を束ねる将が、この大井三河守貞昌である。
武田家の庶流・大井氏の分家筋の出である貞昌は、天文十年 (西暦1541年)に父信虎を駿河へ逐って武田家の家督を継いだ晴信 (後の信玄)によって、金山衆を束ね監督する蔵前衆のひとりに任じられた。
彼と金山衆が、戦において最も名を上げたのは、天文十六年 (西暦1547年)閏七月の志賀城攻めである。
晴信から先陣を任された貞昌は、志賀城を取り囲むや、連れてきた金山衆を動員して、城の横腹を掘り進めさせたのだ。
その結果、翌日には城の水の手を断つ事に成功し、城の井戸が涸れた志賀城兵たちの士気は大いに下がり、後に着到した本軍による城攻めは、より容易なものになったのである。
また、最近では、永禄六年 (西暦1563年)の北条家の武蔵松山城攻めに援軍として出陣した武田軍に加わり、城山に坑道を掘って地下から爆破しようとしたものの、この作戦は失敗に終わっている……。
――閑話休題。
「……本当なら、城攻めに移るまで、お主らを動かす気は無かったのだが――」
と、信繁は、馬上で畏まる貞昌に向けて、すまなさそうに言う。
「――今は、状況が変わった。直ちに総懸かりに移るゆえ、お主ら金山衆にあの柵を取り除いてもらいたい」
「承り申した!」
貞昌は、信繁の言葉を聞くや、間髪を入れずに大音声で応え、まるで山師のような厳つい髭面に不敵な笑みを浮かべ、その分厚い胸板を叩いてみせた。
彼の快諾に小さく頷いた信繁は、ふと天を振り仰ぐ。
そして、空を覆い尽くすどんよりとした分厚い黒雲を一瞥してから、すまなさそうに言葉を継いだ。
「……出来れば、いま少し機を待ちたいところなのだが、このままモタモタしていては、あそこで戦っておる弾正たちの身が危うい。本来は最前線に出る役目では無い金山衆に頼むのは、些か酷かもしれぬが――」
「何をおっしゃいます、典厩様!」
信繁の言葉に、貞昌は大げさに頭を振る。
「むしろ、滅多にない戦働きの機会を頂けたと、皆これまでになく意気軒昂で御座りまする! どうぞ、大船に乗った気持ちで我らの働きぶりを見ていて下され!」
「そうか……」
自信と気合いに満ちた貞昌の力強い言葉に、信繁は思わず相好を崩した。
「よし、任せた。くれぐれも頼むぞ」
「畏まり申した!」
信繁が全幅の信頼を寄せ、かけた激励の声に心が打ち震えるのを感じながら、貞昌は満面に笑みを浮かべながら大きく頷き、おもむろに馬首を返す。
「では、御免! 我ら金山衆が華々しき働きを、どうぞご覧あれ!」
そう言い残すや、彼は馬に鞭を当て、自隊の指揮に向かう為、駆け去っていった。
そんな彼の後ろ姿を頼もしげに見送った信繁は、おもむろに控えていた供廻りへ目を向け、気迫の籠もった雄々しき声で告げる。
「――よし、中備の各隊に使番を送れ! 金山衆が首尾よく柵を引き倒したら、すぐに敵陣へ雪崩れ込む! 努々後れを取るな、とな!」
「はっ!」
信繁の言葉に短く頷いた供廻りたちが、その命令を各隊へ遍く知らしめる為、一斉に馬を駆った。
彼らの背中を見送った信繁は、もう一度顔を上げ、今にも泣き出しそうな曇天に目を凝らす。
「――昌幸の読みが確かなら、あと四半刻 (約三十分)ほどか……」
そう低く呟いた彼は、気を落ち着かせるように小さく息を吐きながら、右手で腰帯に差していた采配を抜き取り、馬の横腹を軽く蹴った。
主に促された乗騎は、それに応えるように軽く嘶くと小走りで前へと進み出る。
そして、中備の先頭まで行くと脚を止める。
信繁は、止まった馬の背の上で前方に目を凝らし、大井貞昌率いる金山衆が緩々と動き始めたのを確認すると、采配を握った右手を高々と掲げた。
彼の動きに合わせるように、腹に響く陣太鼓の音がドン……ドン……と規則正しく打ち鳴らされ始める。
徐々に太鼓を打つ間隔が短くなり、遂には連打になった頃合いで、信繁は掲げた采配を素早く振り下ろし、大音声で叫んだ。
「者ども、懸かれぇ――――ッ!」
彼の絶叫に続き、総懸かりを報せる法螺貝が一斉に吹き鳴らされる。
そして――
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