甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
163 / 263
第二部五章 応酬

金山衆と任務

しおりを挟む
 ちょうど、保科正俊が柵の奥の斎藤陣に侵入した頃――、
 武田軍の本陣で、馬に跨ったまま険しい表情で前線へ目を凝らしていた信繁の元に、ひとりの男が駆けてきた。

「典厩様! 大井三河守貞昌、お召しにより罷り越し申した!」
「ああ、そのままで良い。時が惜しい」

 信繁は、通礼に従い下馬しようする男に軽く手を挙げて制する。
 そして、野趣の溢れた彼の髭面を真っ直ぐに見据えながら、言葉を継いだ。

「わざわざ後備から呼び出して済まぬな。ひとつ、お主らに頼みたい事があってな」
「アレの事でございますな?」

 男――大井三河守貞昌は、ニヤリと微笑わらって、前方に目を向ける。
 そして、敵陣と自軍の間を隔てるように設置されている一重の柵を見据えながら、大きく頷いた。

「なるほど……確かに、あの目障りな馬防ぎの柵をどうにかするのは、我ら“金山衆”こそが適役でしょうな」


 ――金山衆とは、平時は甲斐国内の金山で金採掘に従事している鉱山夫たちで構成された部隊である。
 彼らは、戦時においては武田家の招集に応じて軍に加わり、自分たちが持つ採掘や土木工事の技術を城攻めや築陣に活かす――現代軍制における「工兵部隊」に近い役割を担っていた。
 そんな金山衆を束ねる将が、この大井三河守貞昌である。
 武田家の庶流・大井氏の分家筋の出である貞昌は、天文十年 (西暦1541年)に父信虎を駿河へ逐って武田家の家督を継いだ晴信 (後の信玄)によって、金山衆を束ね監督する蔵前衆のひとりに任じられた。

 彼と金山衆が、戦において最も名を上げたのは、天文十六年 (西暦1547年)閏七月の志賀城攻めである。
 晴信から先陣を任された貞昌は、志賀城を取り囲むや、連れてきた金山衆を動員して、城の横腹を掘り進めさせたのだ。
 その結果、翌日には城の水の手を断つ事に成功し、城の井戸が涸れた志賀城兵たちの士気は大いに下がり、後に着到した本軍による城攻めは、より容易なものになったのである。

 また、最近では、永禄六年 (西暦1563年)の北条家の武蔵松山城攻めに援軍として出陣した武田軍に加わり、城山に坑道を掘って地下から爆破しようとしたものの、この作戦は失敗に終わっている……。


 ――閑話休題。


「……本当なら、城攻めに移るまで、お主らを動かす気は無かったのだが――」

 と、信繁は、馬上で畏まる貞昌に向けて、すまなさそうに言う。

「――今は、状況が変わった。直ちに総懸かりに移るゆえ、お主ら金山衆にあの柵を取り除いてもらいたい」
「承り申した!」

 貞昌は、信繁の言葉を聞くや、間髪を入れずに大音声で応え、まるで山師のような厳つい髭面に不敵な笑みを浮かべ、その分厚い胸板を叩いてみせた。
 彼の快諾に小さく頷いた信繁は、ふとそらを振り仰ぐ。
 そして、空を覆い尽くすどんよりとした分厚い黒雲を一瞥してから、すまなさそうに言葉を継いだ。

「……出来れば、いま少し機を待ちたいところなのだが、このままモタモタしていては、あそこで戦っておる弾正たちの身が危うい。本来は最前線に出る役目では無い金山衆おぬしらに頼むのは、些か酷かもしれぬが――」
「何をおっしゃいます、典厩様!」

 信繁の言葉に、貞昌は大げさにかぶりを振る。

「むしろ、滅多にない戦働きの機会を頂けたと、皆これまでになく意気軒昂で御座りまする! どうぞ、大船に乗った気持ちで我らの働きぶりを見ていて下され!」
「そうか……」

 自信と気合いに満ちた貞昌の力強い言葉に、信繁は思わず相好を崩した。

「よし、任せた。くれぐれも頼むぞ」
「畏まり申した!」

 信繁が全幅の信頼を寄せ、かけた激励の声に心が打ち震えるのを感じながら、貞昌は満面に笑みを浮かべながら大きく頷き、おもむろに馬首を返す。

「では、御免! 我ら金山衆が華々しき働きを、どうぞご覧あれ!」

 そう言い残すや、彼は馬に鞭を当て、自隊の指揮に向かう為、駆け去っていった。
 そんな彼の後ろ姿を頼もしげに見送った信繁は、おもむろに控えていた供廻りへ目を向け、気迫の籠もった雄々しき声で告げる。


「――よし、中備なかぞなえの各隊に使番を送れ! 金山衆が首尾よく柵を引き倒したら、すぐに敵陣へ雪崩れ込む! 努々後れを取るな、とな!」
「はっ!」

 信繁の言葉に短く頷いた供廻りたちが、その命令を各隊へ遍く知らしめる為、一斉に馬を駆った。
 彼らの背中を見送った信繁は、もう一度顔を上げ、今にも泣き出しそうな曇天に目を凝らす。

「――昌幸の読みが確かなら、あと四半刻 (約三十分)ほどか……」

 そう低く呟いた彼は、気を落ち着かせるように小さく息を吐きながら、右手で腰帯に差していた采配を抜き取り、馬の横腹を軽く蹴った。
 主にうながされた乗騎は、それに応えるように軽く嘶くと小走りで前へと進み出る。
 そして、中備の先頭まで行くと脚を止める。
 信繁は、止まった馬の背の上で前方に目を凝らし、大井貞昌率いる金山衆が緩々と動き始めたのを確認すると、采配を握った右手を高々と掲げた。
 彼の動きに合わせるように、腹に響く陣太鼓の音がドン……ドン……と規則正しく打ち鳴らされ始める。
 徐々に太鼓を打つ間隔が短くなり、遂には連打になった頃合いで、信繁は掲げた采配を素早く振り下ろし、大音声で叫んだ。

「者ども、懸かれぇ――――ッ!」

 彼の絶叫に続き、総懸かりを報せる法螺貝が一斉に吹き鳴らされる。
 そして――
 満を持した武田軍の本隊が、前方の斎藤軍の陣へ向け、まるでひとつの生き物のように足並みを揃えながら一斉に動き出したのだった――!
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

日本が危機に?第二次日露戦争

歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。 なろう、カクヨムでも連載しています。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

電子の帝国

Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか 明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。

克全
歴史・時代
 西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。  幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。  北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。  清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。  色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。 一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。 印旛沼開拓は成功するのか? 蝦夷開拓は成功するのか? オロシャとは戦争になるのか? 蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか? それともオロシャになるのか? 西洋帆船は導入されるのか? 幕府は開国に踏み切れるのか? アイヌとの関係はどうなるのか? 幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?

処理中です...