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第二部七章 帰陣
追跡と意図
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「……佐助」
野良着姿の藤吉郎と又十郎の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、信繁は静かな声で佐助を呼んだ。
「ああ」と応えて馬の側に寄った佐助に、信繁は低い声で囁く。
「――あのふたりに乱破衆をひとり……いや、ふたり付けよ。奴らに感づかれぬ程度の距離を保ってな」
「分かった」
信繁の指示に、佐助は小さく頷く。
「……まあ、既にひとり付けてある。言う通り、もうひとり見繕って後を追わせよう」
「さすがだな」
佐助の返事を聞いて、満足げに頷き返した信繁は、「ただし……」と続けた。
「後を追わせるのは、濃尾国境までだ。尾張に入った時点で、監視を打ち切って帰着せよと伝えよ」
「国境までで宜しいのですか?」
信繁の言葉を横で聞いていた昌幸が、訝しげに尋ねる。
それに対し、信繁は「ああ」と小さく頷いた。
「木下藤吉郎らが何もせずに美濃を出れば、それで良い。万が一、我が方の乱破が尾張国内で織田方の忍びに見つけられでもしたら、織田との関係が面倒な事になりかねぬ」
「確かに……」
「今の武田家は、一刻も早く東美濃の基盤を固めねばならぬ時だ。まだ、織田との関係を無闇に荒立てたくはない。無用な深追いは避けるべきだろう」
「了解した」
すぐに信繁の意図を理解した佐助は、無表情を保ったまま短く応えると、すぐに踵を返して彼の指示を配下の乱破に伝えに行く。
そんな彼の姿を見送った信繁だったが、自分に非難が混じった視線が向けられている事に気付き、困り顔を浮かべた。
「……お主が何を言いたいのかは解るが、そんな顔で睨んでくれるな、新八郎」
「ですが……」
信繁の言葉に、仙石久勝は不満を隠しきれぬ様子で言う。
「あの男の謀に嵌められて仙石家当主の座を逐われた某には解ります。あの男……木下藤吉郎は、稀代の策士です。このまま野放しにしていては、後々武田家に障りを齎すに違い御座いませぬ」
そう荒い語気で捲し立てた久勝は、腰の刀を引き寄せ、藤吉郎たちの後を追おうとした。
「待て。何をする気だ?」
「決まっておりまする!」
久勝は、呼び止めた信繁に覚悟を決めた目を向けて答える。
「今からあの男を追いかけ、我が手にて討ち果たし申す!」
「やめよ!」
信繁は、いきり立つ久勝を厳しい声で一喝した。
「先ほども申したであろう! 一度放免するとした者の後を追って殺したとあらば、武田家の恥となる。このまま、何もせずに行かせよ!」
「ご安心を」
だが、久勝は信繁の言葉に対し、大きく首を横に振って言う。
「今から某が為そうとしているのは、あくまでもこの仙石新八郎久勝自身が受けた恥辱を雪ぐ行いに御座る。……幸い、今の某は、まだ“武田家に降った斎藤家の将”。そのような立場の某がどんなことを仕出かそうと、御当家とは一切係わりの無い事――」
「それでも、ならぬ!」
信繁は、鋭い口調で久勝の声を遮った。
そして、小さく首を横に振りながら、諭すように彼へ言う。
「そのような事をされたら、儂はお主を罰せざるを得なくなる。儂は……そのような事はしたくない」
「……! し、しかし……」
「典厩様の仰る通りですぞ、仙石殿」
信繁の言葉になおも言い返そうとする久勝へ静かに声をかけたのは、昌幸だった。
彼は馬から下りると、久勝の肩を軽く叩く。
「仙谷殿の持つ美濃の知識や人脈は、今後の美濃攻略に欠かせませぬ。此度のような些事で失う訳には参らぬのです」
「武藤殿……しかし――」
昌幸がかけた言葉に心を動かされながらも、なおも言い返そうとした久勝だったが、
「――武藤殿の申される通り」
「――!」
唐突に上がった涼やかな声に、ハッと目を見開いた。
「た……竹中様……!」
「自重しなさい、新八郎殿」
陣列の後方からゆっくりと現れた竹中半兵衛は、静かな――それでいて有無を言わせぬ圧を持った声を久勝にかける。
その声を聞いた久勝は、肩で大きく息を吐きながら「……畏まり申した」と答え、刀にかけていた手を離した。
それを見て小さく頷いた半兵衛は、信繁の前に進み出ると、深々と頭を下げる。
「申し訳ございませぬ。もし木下殿に見つかったら色々と話が拗れると思い、兵の中に紛れて姿を隠しておりました」
「ああ、だろうな」
半兵衛の謝罪に、信繁は鷹揚に頷いた。
「あの男の事だ。お主の姿を見つけたら、さも懐かしそうに声をかけ、以前から織田方の自分と面識があるという事を我らに印象づけようとでも考えておったのだろう。あわよくば、我らに『今も織田家と通じているのではないか?』という疑念を抱かせ、家中で半兵衛を重用する事を躊躇うように仕向けようとしてな」
「あ、そういう事でしたか……!」
信繁の言葉を聞いて、昌幸はハッとする。
「それであの男は、最後に『自分の誘いに乗ってもらえなくて残念だ』と、わざとらしく言い残したのですね」
「そういう事だ。恐らくな」
昌幸の声に頷いた信繁は、ニヤリと笑いかけた。
「……ひょっとして、あの男の話術にまんまと引っかかったか、昌幸?」
「あ、いえ……」
少しからかうような口調での信繁の問いかけに、昌幸は慌てて首を横に振る。
「断じて引っかかった訳では……ただ、奇妙に思っただけです。あの話の流れで、急に竹中殿の事を持ち出してきたのはどうしてなのか……と」
「まあ……」
少しムキになっている昌幸に微笑みながら、半兵衛が口を開いた。
「彼が私の事を持ち出したのは、あくまで物の序ででしょう」
「序で……」
半兵衛の言葉に、浅利信種が訝しげに首を傾げる。
「はて……では、あの男――木下藤吉郎の狙いの本丸は何だったのでしょう?」
「……いくつか考えつくが、あの短い時間でのやり取りでは、絞り込む事は難しいな」
信種の問いかけに、信繁は難しい顔をして腕を組んだ。
昌幸と半兵衛も、彼の言葉に同調するように頷く。
――と、
「……だが、ひとつだけはっきりした事がある」
信繁はそう呟くと、眉間に深い皺を寄せ、それから苦々しげに言葉を継いだ。
「――先日、三国山で琴殿の一行を根切りしたのは……あの者たちだ」
野良着姿の藤吉郎と又十郎の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、信繁は静かな声で佐助を呼んだ。
「ああ」と応えて馬の側に寄った佐助に、信繁は低い声で囁く。
「――あのふたりに乱破衆をひとり……いや、ふたり付けよ。奴らに感づかれぬ程度の距離を保ってな」
「分かった」
信繁の指示に、佐助は小さく頷く。
「……まあ、既にひとり付けてある。言う通り、もうひとり見繕って後を追わせよう」
「さすがだな」
佐助の返事を聞いて、満足げに頷き返した信繁は、「ただし……」と続けた。
「後を追わせるのは、濃尾国境までだ。尾張に入った時点で、監視を打ち切って帰着せよと伝えよ」
「国境までで宜しいのですか?」
信繁の言葉を横で聞いていた昌幸が、訝しげに尋ねる。
それに対し、信繁は「ああ」と小さく頷いた。
「木下藤吉郎らが何もせずに美濃を出れば、それで良い。万が一、我が方の乱破が尾張国内で織田方の忍びに見つけられでもしたら、織田との関係が面倒な事になりかねぬ」
「確かに……」
「今の武田家は、一刻も早く東美濃の基盤を固めねばならぬ時だ。まだ、織田との関係を無闇に荒立てたくはない。無用な深追いは避けるべきだろう」
「了解した」
すぐに信繁の意図を理解した佐助は、無表情を保ったまま短く応えると、すぐに踵を返して彼の指示を配下の乱破に伝えに行く。
そんな彼の姿を見送った信繁だったが、自分に非難が混じった視線が向けられている事に気付き、困り顔を浮かべた。
「……お主が何を言いたいのかは解るが、そんな顔で睨んでくれるな、新八郎」
「ですが……」
信繁の言葉に、仙石久勝は不満を隠しきれぬ様子で言う。
「あの男の謀に嵌められて仙石家当主の座を逐われた某には解ります。あの男……木下藤吉郎は、稀代の策士です。このまま野放しにしていては、後々武田家に障りを齎すに違い御座いませぬ」
そう荒い語気で捲し立てた久勝は、腰の刀を引き寄せ、藤吉郎たちの後を追おうとした。
「待て。何をする気だ?」
「決まっておりまする!」
久勝は、呼び止めた信繁に覚悟を決めた目を向けて答える。
「今からあの男を追いかけ、我が手にて討ち果たし申す!」
「やめよ!」
信繁は、いきり立つ久勝を厳しい声で一喝した。
「先ほども申したであろう! 一度放免するとした者の後を追って殺したとあらば、武田家の恥となる。このまま、何もせずに行かせよ!」
「ご安心を」
だが、久勝は信繁の言葉に対し、大きく首を横に振って言う。
「今から某が為そうとしているのは、あくまでもこの仙石新八郎久勝自身が受けた恥辱を雪ぐ行いに御座る。……幸い、今の某は、まだ“武田家に降った斎藤家の将”。そのような立場の某がどんなことを仕出かそうと、御当家とは一切係わりの無い事――」
「それでも、ならぬ!」
信繁は、鋭い口調で久勝の声を遮った。
そして、小さく首を横に振りながら、諭すように彼へ言う。
「そのような事をされたら、儂はお主を罰せざるを得なくなる。儂は……そのような事はしたくない」
「……! し、しかし……」
「典厩様の仰る通りですぞ、仙石殿」
信繁の言葉になおも言い返そうとする久勝へ静かに声をかけたのは、昌幸だった。
彼は馬から下りると、久勝の肩を軽く叩く。
「仙谷殿の持つ美濃の知識や人脈は、今後の美濃攻略に欠かせませぬ。此度のような些事で失う訳には参らぬのです」
「武藤殿……しかし――」
昌幸がかけた言葉に心を動かされながらも、なおも言い返そうとした久勝だったが、
「――武藤殿の申される通り」
「――!」
唐突に上がった涼やかな声に、ハッと目を見開いた。
「た……竹中様……!」
「自重しなさい、新八郎殿」
陣列の後方からゆっくりと現れた竹中半兵衛は、静かな――それでいて有無を言わせぬ圧を持った声を久勝にかける。
その声を聞いた久勝は、肩で大きく息を吐きながら「……畏まり申した」と答え、刀にかけていた手を離した。
それを見て小さく頷いた半兵衛は、信繁の前に進み出ると、深々と頭を下げる。
「申し訳ございませぬ。もし木下殿に見つかったら色々と話が拗れると思い、兵の中に紛れて姿を隠しておりました」
「ああ、だろうな」
半兵衛の謝罪に、信繁は鷹揚に頷いた。
「あの男の事だ。お主の姿を見つけたら、さも懐かしそうに声をかけ、以前から織田方の自分と面識があるという事を我らに印象づけようとでも考えておったのだろう。あわよくば、我らに『今も織田家と通じているのではないか?』という疑念を抱かせ、家中で半兵衛を重用する事を躊躇うように仕向けようとしてな」
「あ、そういう事でしたか……!」
信繁の言葉を聞いて、昌幸はハッとする。
「それであの男は、最後に『自分の誘いに乗ってもらえなくて残念だ』と、わざとらしく言い残したのですね」
「そういう事だ。恐らくな」
昌幸の声に頷いた信繁は、ニヤリと笑いかけた。
「……ひょっとして、あの男の話術にまんまと引っかかったか、昌幸?」
「あ、いえ……」
少しからかうような口調での信繁の問いかけに、昌幸は慌てて首を横に振る。
「断じて引っかかった訳では……ただ、奇妙に思っただけです。あの話の流れで、急に竹中殿の事を持ち出してきたのはどうしてなのか……と」
「まあ……」
少しムキになっている昌幸に微笑みながら、半兵衛が口を開いた。
「彼が私の事を持ち出したのは、あくまで物の序ででしょう」
「序で……」
半兵衛の言葉に、浅利信種が訝しげに首を傾げる。
「はて……では、あの男――木下藤吉郎の狙いの本丸は何だったのでしょう?」
「……いくつか考えつくが、あの短い時間でのやり取りでは、絞り込む事は難しいな」
信種の問いかけに、信繁は難しい顔をして腕を組んだ。
昌幸と半兵衛も、彼の言葉に同調するように頷く。
――と、
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