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第二部七章 帰陣
行動と根拠
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「そ、そうか……」
誇るように胸を張った藤吉郎を前に、又十郎はぎこちなく頷いた。
「そういう事だったのか……うむ……」
正直言って、尾張の国衆の弟でしかない又十郎にとって、藤吉郎の話はちんぷんかんぷんだった。
尾張と隣接する美濃ならともかく、その向こうにある近江や越前の事となると、国主の名前すら良く知らない。
ましてや、それらの勢力がどのように絡み合っているのかなど、今まで碌に考えた事もなかったし、兄の小六や藤吉郎の命に唯々諾々と従っていればいいから、考える必要も無かった。
だから、藤吉郎の言葉が正しいものなのかどうかを判断できるだけの知見を、彼は持ち合わせていないのである。
だが――藤吉郎の前で己の無知を晒すのがどうにも癪だった彼は、いかにも納得したというように表情を作ってみせた。
……と、
「……待てよ?」
そこで、ふとある事に思い至った彼は、ハッとして藤吉郎の顔を見返す。
「では……あの時、お前がわざわざ自分から武田信繁に声をかけたのは……?」
「はい」
又十郎の問いかけに、藤吉郎は猿面を綻ばせながら、得たりとばかりに大きく頷いた。
「ご明察の通り。あれは、後で殿に密書を届けられなかった事をご報告する際に、『道中で偶然武田左馬助と出くわしてしまったので、密書の存在が露見せぬようにと思い、やむなく処分しました』と言い訳ができるようにでございます」
「そ……」
藤吉郎の答えを聞いた又十郎は、自分の頭に浮かんだ推察が正しかった異に唖然とする。
「そんな理由で……自分から声をかけたというのか、お前は……?」
「はい」
「はいじゃないわ!」
悪びれもせずに頷いた藤吉郎に向かって、又十郎は思わず声を荒げた。
そして、信じられぬといった目で藤吉郎の顔を凝視する。
「お前……正気かっ? 今や、織田と武田は、いつ敵になってもおかしくない状況だぞ! 一歩間違えば、オレたちはあの場で斬り殺されていたかもしれんのだッ! それなのに、自ら刀の刃に首を乗せるような真似を――」
「いやいや」
藤吉郎は、血相を変えて怒声を上げる又十郎とは正反対に、涼しい顔で頭を振った。
「さすがの某も、そのような死にたがりではありませぬ。あれは、殺されぬようにちゃんと算段をつけた上での行いです」
そこまで言ったところで、藤吉郎は不意に顔を顰め、盛大なくしゃみをした。
そして、鼻の頭に指を当てて洟を啜りながら話を続ける。
「人というものは、相手があまりにも無防備で堂々と構えていると、却って手を下せぬようになる生き物でしてな。それも、知恵が回る者であればあるほど、『何か裏があるのでは?』と邪推して、思考の迷い路に陥りやすくなるのです」
そう言った藤吉郎は、又十郎が訝しげに首を傾げるのを見て苦笑した。
「まあ……知恵が回るような頭も無く、腕っ節一辺倒な又十郎殿にとっては腑に落ちぬ話やもしれませぬがね」
「何だと……?」
「ああ、些か口が滑り申した。申し訳ない」
又十郎にギロリと睨まれた藤吉郎は、然程恐れ入った様子も無い態度で軽く頭を下げると、先ほどの続きを舌に乗せる。
「……その点、武田左馬助はかなりの知恵者ですから、その場で斬り捨てるような真似は決してせぬだろうと踏んでおりました。――そして、我らの身体から怪しい密書が出てこねば、無傷で放免してくれるとも」
そう言うと、彼はニヤリと薄笑みを浮かべた。
「まだ斎藤以外と事を構えたくないのは、武田も同じですからな。いくら武田の領内といえど、れっきとした織田家家臣である我らを斬り捨てて藪蛇となるのは避けたいところでしょう」
と、得意顔で言った藤吉郎だったが、ふっと表情を曇らせ、「……とはいえ」と呟く。
「あの時、仙石新八郎が刀を抜いた時は、さすがに少しヒヤリとしましたな。さすがに又十郎殿ほどではありませんが、あの者も頭より体が先に動く類の男ですからな」
「……『オレほどではない』は余計だ」
藤吉郎の言葉に、又十郎は露骨に不機嫌な表情を浮かべた。
それに対して「ああ、失礼しました」と、相変わらず人を食った態度で謝った藤吉郎は、ふと何かに気付いて空を見上げた。
「ああ、これはいかん」
「何がだ?」
「雪が降り出してまいりました」
そう答えた藤吉郎は、掌を返して空から降ってきた小さく白い塊を受け止め、又十郎に見せる。
「しかも……この雪粒は積もりますな。急いで山を抜けねば、ふたり仲良く凍え死にしてしまいます」
「それはいかん」
藤吉郎の言葉を聞いた又十郎は、慌てて立ち上がった。
「せっかく尾張に戻ってきたのに、こんなところでお前なんぞと枕を並べて死ぬのは御免だ。先を急ぐぞ」
「はいな」
さっさと歩き出す又十郎に軽い調子で返事をし、藤吉郎も腰を上げる。
そして、竹筒を腰紐に挟みながら、先へ行く又十郎の背中をチラリと見た。
「やれやれ……」
と溜息を吐いた藤吉郎は、軽く首を横に振る。
「まあ……ああ言い繕っておけば、それ以上詮索はせぬじゃろう。……というより、詮索出来るほどの知恵も持ち合わせておらぬか」
そう独り言ちて忍び嘲笑いを漏らしながら、彼は背中にしょっていた笠を被った。
「……にしても、腕っ節の強さだけは重宝するが、それ以外はからっきしじゃのう。頭も……肝も」
笠に隠れた彼の目が、やにわに鋭くなる。
「……小六殿の手前、今まで飼ってきたが……」
「おい! 何をしておる!」
振り返った又十郎が、物思いに沈んでいた藤吉郎に向けて怒鳴った。
「何を呆けておる! 置いていくぞ!」
「はいはい、ただ今」
又十郎の怒声におどけた調子で返した藤吉郎は、笠の下でこっそり舌打ちをし、低い声で呟く。
「……そろそろ切り捨て時かもしれぬな」
誇るように胸を張った藤吉郎を前に、又十郎はぎこちなく頷いた。
「そういう事だったのか……うむ……」
正直言って、尾張の国衆の弟でしかない又十郎にとって、藤吉郎の話はちんぷんかんぷんだった。
尾張と隣接する美濃ならともかく、その向こうにある近江や越前の事となると、国主の名前すら良く知らない。
ましてや、それらの勢力がどのように絡み合っているのかなど、今まで碌に考えた事もなかったし、兄の小六や藤吉郎の命に唯々諾々と従っていればいいから、考える必要も無かった。
だから、藤吉郎の言葉が正しいものなのかどうかを判断できるだけの知見を、彼は持ち合わせていないのである。
だが――藤吉郎の前で己の無知を晒すのがどうにも癪だった彼は、いかにも納得したというように表情を作ってみせた。
……と、
「……待てよ?」
そこで、ふとある事に思い至った彼は、ハッとして藤吉郎の顔を見返す。
「では……あの時、お前がわざわざ自分から武田信繁に声をかけたのは……?」
「はい」
又十郎の問いかけに、藤吉郎は猿面を綻ばせながら、得たりとばかりに大きく頷いた。
「ご明察の通り。あれは、後で殿に密書を届けられなかった事をご報告する際に、『道中で偶然武田左馬助と出くわしてしまったので、密書の存在が露見せぬようにと思い、やむなく処分しました』と言い訳ができるようにでございます」
「そ……」
藤吉郎の答えを聞いた又十郎は、自分の頭に浮かんだ推察が正しかった異に唖然とする。
「そんな理由で……自分から声をかけたというのか、お前は……?」
「はい」
「はいじゃないわ!」
悪びれもせずに頷いた藤吉郎に向かって、又十郎は思わず声を荒げた。
そして、信じられぬといった目で藤吉郎の顔を凝視する。
「お前……正気かっ? 今や、織田と武田は、いつ敵になってもおかしくない状況だぞ! 一歩間違えば、オレたちはあの場で斬り殺されていたかもしれんのだッ! それなのに、自ら刀の刃に首を乗せるような真似を――」
「いやいや」
藤吉郎は、血相を変えて怒声を上げる又十郎とは正反対に、涼しい顔で頭を振った。
「さすがの某も、そのような死にたがりではありませぬ。あれは、殺されぬようにちゃんと算段をつけた上での行いです」
そこまで言ったところで、藤吉郎は不意に顔を顰め、盛大なくしゃみをした。
そして、鼻の頭に指を当てて洟を啜りながら話を続ける。
「人というものは、相手があまりにも無防備で堂々と構えていると、却って手を下せぬようになる生き物でしてな。それも、知恵が回る者であればあるほど、『何か裏があるのでは?』と邪推して、思考の迷い路に陥りやすくなるのです」
そう言った藤吉郎は、又十郎が訝しげに首を傾げるのを見て苦笑した。
「まあ……知恵が回るような頭も無く、腕っ節一辺倒な又十郎殿にとっては腑に落ちぬ話やもしれませぬがね」
「何だと……?」
「ああ、些か口が滑り申した。申し訳ない」
又十郎にギロリと睨まれた藤吉郎は、然程恐れ入った様子も無い態度で軽く頭を下げると、先ほどの続きを舌に乗せる。
「……その点、武田左馬助はかなりの知恵者ですから、その場で斬り捨てるような真似は決してせぬだろうと踏んでおりました。――そして、我らの身体から怪しい密書が出てこねば、無傷で放免してくれるとも」
そう言うと、彼はニヤリと薄笑みを浮かべた。
「まだ斎藤以外と事を構えたくないのは、武田も同じですからな。いくら武田の領内といえど、れっきとした織田家家臣である我らを斬り捨てて藪蛇となるのは避けたいところでしょう」
と、得意顔で言った藤吉郎だったが、ふっと表情を曇らせ、「……とはいえ」と呟く。
「あの時、仙石新八郎が刀を抜いた時は、さすがに少しヒヤリとしましたな。さすがに又十郎殿ほどではありませんが、あの者も頭より体が先に動く類の男ですからな」
「……『オレほどではない』は余計だ」
藤吉郎の言葉に、又十郎は露骨に不機嫌な表情を浮かべた。
それに対して「ああ、失礼しました」と、相変わらず人を食った態度で謝った藤吉郎は、ふと何かに気付いて空を見上げた。
「ああ、これはいかん」
「何がだ?」
「雪が降り出してまいりました」
そう答えた藤吉郎は、掌を返して空から降ってきた小さく白い塊を受け止め、又十郎に見せる。
「しかも……この雪粒は積もりますな。急いで山を抜けねば、ふたり仲良く凍え死にしてしまいます」
「それはいかん」
藤吉郎の言葉を聞いた又十郎は、慌てて立ち上がった。
「せっかく尾張に戻ってきたのに、こんなところでお前なんぞと枕を並べて死ぬのは御免だ。先を急ぐぞ」
「はいな」
さっさと歩き出す又十郎に軽い調子で返事をし、藤吉郎も腰を上げる。
そして、竹筒を腰紐に挟みながら、先へ行く又十郎の背中をチラリと見た。
「やれやれ……」
と溜息を吐いた藤吉郎は、軽く首を横に振る。
「まあ……ああ言い繕っておけば、それ以上詮索はせぬじゃろう。……というより、詮索出来るほどの知恵も持ち合わせておらぬか」
そう独り言ちて忍び嘲笑いを漏らしながら、彼は背中にしょっていた笠を被った。
「……にしても、腕っ節の強さだけは重宝するが、それ以外はからっきしじゃのう。頭も……肝も」
笠に隠れた彼の目が、やにわに鋭くなる。
「……小六殿の手前、今まで飼ってきたが……」
「おい! 何をしておる!」
振り返った又十郎が、物思いに沈んでいた藤吉郎に向けて怒鳴った。
「何を呆けておる! 置いていくぞ!」
「はいはい、ただ今」
又十郎の怒声におどけた調子で返した藤吉郎は、笠の下でこっそり舌打ちをし、低い声で呟く。
「……そろそろ切り捨て時かもしれぬな」
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