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三章

3、ただの散歩【2】

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 澱んだ大気の中を、俺は彷徨うように歩いた。

 いつもなら隣を見下ろせば、愛らしいリボンを揺らしながらちょこちょこと歩く絲さんの姿があるのに。

 俺を見上げて「早く歩いた方がいいですか?」なんて、そもそも無理なことを言ってくれるのに。

「この道、こんなに広かったかなぁ」

 ふと目の端に、ひらひらとなびく布が目に入った。それは菓子舗の幟というか旗というか……よう知らんけど、そういうのやった。

 その布には「わらび餅」と書いてある。
 わらび餅か、あのつるんとして清涼感のある菓子やな。
 ガラスの器に水を張って、涼し気な雰囲気を出したら。絲さんの食欲がなくても、食べてくれるやろ。
 そう考えた時には、店に入り会計を済ませた後やった。

 しまった。
 俺は経木の箱に入ったわらび餅を手にして、呆然とした。
 絲さん、もうおらへんのや。
 蝉の声が、やたらとうるさく聞こえて。ただ道の真ん中に立ち尽くすことしかできなかった。

「困った。ああ、困ったなぁ」

 ぶつぶつと呟きながら歩く俺とすれ違う人が、あからさまに距離を置く。
 うん、そうやな。変な奴やろな。

「うちに持って帰っても、こんな甘いの食べる奴おらへんし。土産にするなら、酒やろ」

 あー、困った。俺は思案しながら通りを曲がった。海風が俺の紬の袂を撫でていく。上空の風が強いのか、カモメが飛びにくそうにしているのが見えた。

 凌霄花のうぜんかずらが眩い橙色の花を、ふんだんにつけている。一つ一つが夏の太陽に色づけられたような、艶やかさや。
 厳ついとか怖いとか言われる俺やけど、意外と花の名前は詳しい。まぁ、風情がないと短歌は詠まれへんからな。

 懐に手を入れて、さっき短歌をしたためた紙を取りだす。郵便受けに入れといたら、届くやろか。
 そう思いつつ、錬鉄の門の向こうに建つ洋館を見上げた。
 表札には『遠野』と書いてある。

「蒼一郎さん?」

 頭上から降ってくる声に、俺の胸は締めつけられた。続いて動悸に襲われる。
 あまりの苦しさに胸に手を当てて、塀にもたれかかる。

「大丈夫ですか? 蒼一郎さんっ!」

 違う、心配いらへんから。俺は絲さんみたいに体が弱いわけやない。
 ただ、あんたの声を聞いたら……なんかもう。

 ぱたぱたと軽い音がして、錬鉄の門を開く金属音が聞こえた。
 見れば、草履を履いた絲さんがスカートの裾を翻して、門から飛び出してきた。

 俺は両腕を広げて、飛び込んでくる絲さんを受け止めた。全速力なのに、重量感がないから。これっぽっちも俺はよろけたりせぇへん。

 一つにまとめて結んだ柔らかな髪が、ふわりと風になびいた。

「こら、走ったらあかんやろ」
「だって、蒼一郎さんが。そうだわ、ばあやにお医者さまを呼んでもらいますから」

 久しぶりに見た絲さんは、ずっと家におったせいか、さらに色が白なっとった。
 それに、うちとは違う石鹸の匂いがした。
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