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三章

36、呼んでもらいたかっただけです【1】

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 どうしても絲さんは、俺に土下座をさせたくないらしい。

「あー、絲さん。ごめんな」
「聞きたくないです」

 またまたぎゅううーと首を締められる。まぁ、力がないからそんなに息苦しないけど。ほどほどにな。喉には急所があるんやで。

「謝らせてくれへんのか?」
「謝ってほしくないの」
「けど、俺は絲さんに無茶したやろ。その所為で、三日も寝込んで」
「ええ、わたしは三日も寝込むほど、弱い人間なんです。冬野さんなら、そんなことないわ」
「はい?」

 なんでそこで冬野の話がでるんや?
 あいつを抱こうとか、悪夢そのものでしかないやろ。考えるだけでも恐ろしい。

 というか、俺と冬野がそういう場面になったら(ならへんけど)あいつは懐に隠したドスで俺の心臓を一突きして「おーほっほっほ。三條組の命運もこれまでね」とか高笑いしそうや。
 報復とか仇討ちとか、そういうの楽しそうに眺めるんやろなぁ。性質たち悪いなぁ。
 絶対にあいつに背中を見せんとこ。

 絲さんは何か勘違いをしとうようやけど。俺は別に女好きなんやのうて、絲さん好きなんやで。
 そもそも絲さん以外に恋文を書いたこともないし。書こうと思ったこともない。

「冬野が強い人間なんは認める」
「……やっぱり」
「いや、強いて言うたんは絲さんやんか」

 困った。心底困った。
 どうしたらええんやろ。

「けど冬野と寝ることなんか絶対にあらへんし、そんな事態になったら冬野に殺されるからな。間違いなく」
「さっきだけで……三回も言いました……ぁ」

 絲さんは、またしくしくと泣きはじめる。
 俺は子どもをあやすように、震える背中を手でさすってやった。

「絲さんはええ子やで。だからもう泣き止み」
「子どもじゃ……ない、です」
「うーん。ええお嬢さんやで」
「う……ううっ」

 俺の肩に顔を埋めて、静かに泣いている。まずはこの間のことを、謝らせてくれへんかなぁ。

◇◇◇

 絲さんが泣き止んだ時には、瞼が腫れてしもとった。
 俺は結局絲さんを抱っこしたまま、座敷の中をぐるぐるとまわって、彼女を慰めて。
 わりと辛抱強いよな、俺。

 泣き腫らした顔が恥ずかしいんか、絲さんは両手で顔を隠している。
 彼女を座布団に降ろして、その手をそっと外した。抵抗されたが、彼女の力など他愛もない。

「で、何が三回目なん?」
「……呼び捨てにしました」
「うん?」

 もうちょっと具体的に言うてくれんと、分からんなぁ。絲さんは、ほんまにお勉強苦手なんやなぁ。
 ちょっと遠い目になってしもたわ。

 とりあえず俺は絲さんの向かいに座った。室内は相変わらず暑いけど、床の間に飾られた紫色の桔梗は清々しく見える。

「蒼一郎さんは、冬野さんのことを呼び捨てになさるんです」
「そうやったか?」
「はい」

 正座して揃えた膝の上に、ちょこんと載せられた絲さんの両手。握りしめたその手が、小刻みに震えている。

 あ、これは彼女にとっては冗談じゃない奴や、と悟った。
 確かに言われてみれば、冬野のことは呼び捨てや。
 けどそれは、ガキの頃から俺の顔を見れば膝蹴りを食らわせ、あいつが五歳の頃から十歳やった俺を隙あらば俺を溝に突き落とそうとしていた性格の悪さから、どうあっても「さん」づけでなんか呼ばへんやろ。

「あのな、絲さん。俺は呼び捨てにするよりも「さん」づけの方が、大事な人なんやで?」
「でも、呼び捨ての方が特別感があります」

 そうかなぁ?
 普段から波多野だの、なんだのと組員を呼び捨てにしとうから、まったく特別感はないんやけど。
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