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六章

4、宿題

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 翌朝、わたしはせっせと温泉に持っていく荷物を吟味していました。
 温泉ですって。初めてなの。

 着替えの服や着物はどれにしようかしら。手拭いは旅館にあるのかしら。それとも自分のを持って行った方がいいのかしら。
 
 そうだわ、浴衣もいるわね。

「絲さん。旅行の用意もええけど。登校せなあかん時間やで」
「はい」

 わたしは立ち上がると、今日の時間割の教科書と筆記帳、それに辞書を風呂敷に包みました。

「あ……っ」
「なんや。どうしたんや?」

 學校まで送ってくださる蒼一郎さんが、羽織に腕を通しながら尋ねてきます。

「いえ、何でもありません」
「何でもなくないやろ。『あっ』って言うたやんか」

 ぐいっと蒼一郎さんがわたしの前に立ちはだかります。
 ええ、まるで岩のように。

「時間割が合わせられません。退いてください」
「いーや。絲さんがちゃんと白状するまで退かへん」
「授業に遅れます」
「すぐに言うたら、間に合うで」

 ううっ。わたしは俯きながら、とうとう小さい声で白状しました。

「宿題をしていません」
「ふーん。昨日は俺が帰るまでに時間あったよな。それに夜も月を眺めとったやろ」

 返す言葉もございません。
 それに朝も宿題のことはきれいさっぱり忘れて、温泉旅行の用意をしてました。

「で? どうするん」
「……お友達に写させてもらいます」

 叱られるでしょうか。なんで自分でちゃんと宿題をせぇへんのかって、きっとお小言をくらいますよね。

 蒼一郎さんは、ため息をつきながらわたしの頭に手を置きました。
 大きな手が少し重いです。

「まぁ、ええやろ。どんな手ぇ使てでも、提出せんよりはした方がええ」
「あら?」

 これは予想外の展開です。わたし、叱られないわ。

「けど、まともな學生でいたいんなら、ちゃんと自分で宿題をしぃや。絲さんは先生を騙すようなことしたら気ぃ引けるやろ」
「……はい」
「それに、絲さんがさぼると俺の責任になるからな。成績が下がったら、遠野の実家に帰ってこいって言われるで」

 確かにその通りです。
 
「三條の家はヤクザやから、絲はあんな悪い子になってしもた、って言われたら俺も困るしな」

 ああ、良心がちくりと痛みます。再び返す言葉もございません。
 
「明日から……いいえ、今日からちゃんと自分で宿題をします」
「せやな。それでこそ絲さんや」

 とても柔らかい声。恐る恐る顔を上げると、蒼一郎さんは目を細めて微笑んでいらっしゃったの。
 その表情はとても大人で。
 蒼一郎さんにお子さんはいらっしゃらないけど。まるで父親のように思えたんです。

 わたし、蒼一郎さんとつり合いの取れる大人になれるのかしら。
 いえ、ならなくちゃ。

◇◇◇
 
 女學院まで絲さんを送って行った俺は、彼女が校舎に入るのを見届けてから校門を離れた。

 以前は、修道女や學生にじろじろ見られとったけど。毎日、俺か波多野が送り迎えをしとうから、逆に「おはようございます」と律儀に挨拶をしてくれるようになった。

 色とりどりの着物の袖を翻し、お揃いの袴。きらきらした女學生と、灰色のベールに修道服を着てロザリオを首から下げた修道女。

 何度訪れても不思議な空間やし、俺の居る世界とはほんまはかけ離れとんやな、と思う。

 宿題をせんかったのは、あかんけど。絲さんは、町とかいう友人と並んで楽しそうに笑っている。
 構内にある教会の十字架が、朝日に照らされて。校庭にその十字架の長い影が落ちている。

 俺は勿論クリスチャンやあらへんし。信心深いこともない。
 けど、絲さんの毎日が明るく息災であることを願わずにはおられんかった。

 まぁ、そのためには現実的には栄養やな。
 よし、今の内に買い物や。
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