47 / 247
四章
3、思い出【6】
その日、俺は登山に出かけるところだった。
この街は南に海、北に山がある。海と山の距離は近く、その間に街が広がっているようなもので坂も多い。
さして高くはない山脈がつらなり、稜線を歩いて山向こうの町に下りれば温泉地もある。
山頂から見る海もきれいなもんだ。
川にかかる橋を越えて、普段歩かない道を通っていると、黒塗りの車が二台停まっているのが見えた。
笠井男爵邸の前だ。
洋風の門から、はしゃぐ子どもの声が聞こえる。
「走っては危ないわ」
飛び出してきた少年を、走って追いかけてきたのは翠子さんだった。
これから避暑地に行くのだろうか。半袖の白いブラウスにふわりと広がる淡い水色のスカートをはいている。頭には、つばの広い麦わら帽子。
普段、学校で見るのとはまったく違う姿に、俺は思わず立ち止まってしまった。
なんと愛らしいのだろう。
頭をよぎった感想に、自分でも驚いてしまう。
いや、学校では和装だから、洋装が珍しいだけではないか。そうだ、そうに決まっている。
教師である俺が、一介の生徒を可愛いなどと思ったらいけないだろう。
翠子さんのことを可愛いと思ったのは、これで二度目だ。
二度あることは三度あるではなく、三度めがないようにしないと。
俺は口をへの字に結んだ。
「高瀬先生……」
呆然と呟いた後、翠子さんは慌てて「こんにちは」と頭を下げた。彼女にまとわりついているのは、弟だろう。まだ年端もいかない少年だ。
どこへ行くのかと尋ねるのでもなく、俺がどこへ行くのかと教えるでもなく、ただ挨拶を交わすだけだ。いっそ担任なら、もうすこし打ち解けてもらえたかもしれないのに。
いや、だから。打ち解けたりしたら、また愛らしいと思う機会が増えてしまうだろ。
三度めはないと、今心に誓ったのではないか? しっかりしろ、俺。
「翠子。荷物を運ぶから、君は先に車に乗っていなさい」
「はい、おじさま」
「おや、そちらの方は?」
おじさまと呼ばれた若い男性が、俺の方へ目を向けた。中折れ帽をかぶり、開襟シャツにサスペンダーという洒落た姿だ。
「女学校で数学を教えてくださっている高瀬先生です。先生、こちらはわたくしの叔父で、三木達比古さんです」
紹介されて挨拶をしたのに、その叔父とやらは「あぁ」と皮肉気に笑った。
「翠子がよく居残りをさせられている先生かな。なるほど厳しそうな方だ。でも令嬢や婦人に難しい学問など必要ないですよ。彼女たちはその美こそが宝なんですからね」
なんか、嫌な奴だ。俺は直感した。
口をへの字に結ぶだけではなく、眉根に力がこもるのが自分でも分かった。
とはいえ、翠子さんの肉親だ。無難に挨拶をしてその場は立ち去った。
あの頃の男爵家は羽振りが良かったようだが。内情はどうだか、俺には分からない。
◇◇◇
ほんの少し前までは、とても遠い人だったのに。今では俺の腕の中にいてくれることが多い。
彼女が避暑地で過ごすのが当たり前の、裕福で幸せなお嬢さんのままでいたなら叶わなかったことだ。
俺は隣の布団で眠る翠子さんに、団扇で風を送り続けた。
彼女が寝返りをうったので、夏布団がはだけてしまった。寝間着の袖から伸びる白い腕を、俺はそっと手にのせた。
華奢な彼女の手を、自分の頬にそっと寄せる。
幼い頃と違い、少し低い体温だ。
家族に捨てられるというつらい現実を経験したのだ。俺があなたを幸せにしよう。
この街は南に海、北に山がある。海と山の距離は近く、その間に街が広がっているようなもので坂も多い。
さして高くはない山脈がつらなり、稜線を歩いて山向こうの町に下りれば温泉地もある。
山頂から見る海もきれいなもんだ。
川にかかる橋を越えて、普段歩かない道を通っていると、黒塗りの車が二台停まっているのが見えた。
笠井男爵邸の前だ。
洋風の門から、はしゃぐ子どもの声が聞こえる。
「走っては危ないわ」
飛び出してきた少年を、走って追いかけてきたのは翠子さんだった。
これから避暑地に行くのだろうか。半袖の白いブラウスにふわりと広がる淡い水色のスカートをはいている。頭には、つばの広い麦わら帽子。
普段、学校で見るのとはまったく違う姿に、俺は思わず立ち止まってしまった。
なんと愛らしいのだろう。
頭をよぎった感想に、自分でも驚いてしまう。
いや、学校では和装だから、洋装が珍しいだけではないか。そうだ、そうに決まっている。
教師である俺が、一介の生徒を可愛いなどと思ったらいけないだろう。
翠子さんのことを可愛いと思ったのは、これで二度目だ。
二度あることは三度あるではなく、三度めがないようにしないと。
俺は口をへの字に結んだ。
「高瀬先生……」
呆然と呟いた後、翠子さんは慌てて「こんにちは」と頭を下げた。彼女にまとわりついているのは、弟だろう。まだ年端もいかない少年だ。
どこへ行くのかと尋ねるのでもなく、俺がどこへ行くのかと教えるでもなく、ただ挨拶を交わすだけだ。いっそ担任なら、もうすこし打ち解けてもらえたかもしれないのに。
いや、だから。打ち解けたりしたら、また愛らしいと思う機会が増えてしまうだろ。
三度めはないと、今心に誓ったのではないか? しっかりしろ、俺。
「翠子。荷物を運ぶから、君は先に車に乗っていなさい」
「はい、おじさま」
「おや、そちらの方は?」
おじさまと呼ばれた若い男性が、俺の方へ目を向けた。中折れ帽をかぶり、開襟シャツにサスペンダーという洒落た姿だ。
「女学校で数学を教えてくださっている高瀬先生です。先生、こちらはわたくしの叔父で、三木達比古さんです」
紹介されて挨拶をしたのに、その叔父とやらは「あぁ」と皮肉気に笑った。
「翠子がよく居残りをさせられている先生かな。なるほど厳しそうな方だ。でも令嬢や婦人に難しい学問など必要ないですよ。彼女たちはその美こそが宝なんですからね」
なんか、嫌な奴だ。俺は直感した。
口をへの字に結ぶだけではなく、眉根に力がこもるのが自分でも分かった。
とはいえ、翠子さんの肉親だ。無難に挨拶をしてその場は立ち去った。
あの頃の男爵家は羽振りが良かったようだが。内情はどうだか、俺には分からない。
◇◇◇
ほんの少し前までは、とても遠い人だったのに。今では俺の腕の中にいてくれることが多い。
彼女が避暑地で過ごすのが当たり前の、裕福で幸せなお嬢さんのままでいたなら叶わなかったことだ。
俺は隣の布団で眠る翠子さんに、団扇で風を送り続けた。
彼女が寝返りをうったので、夏布団がはだけてしまった。寝間着の袖から伸びる白い腕を、俺はそっと手にのせた。
華奢な彼女の手を、自分の頬にそっと寄せる。
幼い頃と違い、少し低い体温だ。
家族に捨てられるというつらい現実を経験したのだ。俺があなたを幸せにしよう。
あなたにおすすめの小説
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
女の子がほとんど産まれない国に転生しました。
さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。
100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳
そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。
当面は2日に1話更新予定!
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
お隣さんはヤのつくご職業
古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。
残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。
元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。
……え、ちゃんとしたもん食え?
ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!!
ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ
建築基準法と物理法則なんて知りません
登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。
2020/5/26 完結
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
「職場では隙のない完璧な先輩が、家ではゆるニットで甘えてくる。それでも彼女は、まだ俺の恋人じゃない」
まさき
恋愛
会社では完璧で、誰も近づけない先輩。
そんな彼女と、俺は同じ部屋で暮らしている。
「…おかえり」
ゆるニット姿の彼女は、家でだけ甘い声を出す。
近い。甘い。それでも――
「ちゃんと付き合ってから」
彼女は知っている。自分が好きになりすぎることを。
嫌われるのが怖くて、迷惑になるのが怖くて。
だから一歩手前で、いつも笑って止まる。
最初から好きなくせに、言えない彼女と。
気づいているのに、待っている俺の話。