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四章
4、独り言
翌日は、朝からしとしとと雨が降っていました。
「夕方までには、やむでしょうか」
「やむといいな」
座敷で読書をなさっている旦那さまは、気だるそうに顔を上げて庭を見遣りました。
わたくしは不本意ながら宿題をしています。
数学はもちろん、英語もあるので大変です。とくにわたくしは和文英訳が得意ではないので、辞書と首っ引きで文を組み立てています。
もちろん和訳もありますし。
数学は……後で高瀬先生に教えていただくことにしましょう。
「英和辞典と、和英辞典を使っているのか」
「はい」
何を当たり前のことを、旦那さまは問うのでしょう。
なのに、旦那さまはおかしなことを仰いました。
「英語を学ぶのなら、英英辞典を使うといいぞ」
「英語の単語を引くのに、説明が英語なのですか? それでは到底分かりません」
「だが、その方が理解しやすいんだが」
まぁ、俺は英語の担当ではないからな、と仰いますが。わたくしは、思わず頬を膨らませてしまいました。
「先生は優秀ですもの。わたくしみたいな劣等生とは違います」
「いや、そういうつもりではなくて。困ったな」
机に教科書や帳面を広げたわたくしは、旦那さまに背中を向けました。
旦那さまは立ち上がり、座敷を出ていきました。
しばらく待ちましたが、戻っていらっしゃいません。もしかして、わたくしが失礼なことを言ってしまったからでしょうか。
「ど、どうしましょう。嫌われてしまったかもしれません」
そうです。同じ家で暮らし、親しくなったからといっても相手は担任の先生なのです。
生意気な口をきいて、いいはずがありません。
栞の挟まれた読みかけの本と、夏用の藺草の座布団がそのまま置かれています。
わたくしはその座布団に座り、本を手に取りました。
紙とインクのにおいに混じって、檸檬と薄荷が、ほのかに香ります。
旦那さまの香りです。
学校で、先生と生徒として接しているだけでは気づかなかったその匂いが、今は大好きになっています。
すっとした涼しい香りなのに、温かみを伴った懐かしさを覚えるのです。
「……先生」
「なんだ?」
独り言に返事されて、わたくしは跳び上がるほど驚きました。だって先生の本の匂いをかいでいたんですよ。それはもう、びっくりしました。
「あ、あの。違うんです、わたくし」
「違うって? 俺の本の匂いを嗅いでいたように見えたが」
「いえ、その」
「ふーん。俺が少し離れていただけで、寂しくなった?」
わたくしはきゅっと瞼を閉じて、手にした本を下ろしました。
愛しさが溢れて、思わず「先生」と呼んでいたことがばれていたなんて。
もう、もう……恥ずかしさでどうにかなってしまいそう。
「サイダーを持ってきたんだ。喉が渇いただろう?」
旦那さまは、机の上に盆を置きました。瓶詰のサイダーのふたを、ぽんっと栓抜きで開けます。
グラスに注がれたサイダーは、しゅわしゅわと爽快な音を立てています。
ご自分にはコーヒーを淹れてらしたようです。
「どうしてサイダーを?」
「え、カフェーでオレンジジュースと悩んでいたじゃないか。なかなか選べなかったようだったけど」
そんな細かなことまで覚えていてくださるなんて。でも、メニュー選びで吟味を重ねていたのを見られているのも、どうかと思うのですが。
面映ゆいのに嬉しいって、変でしょうか。
「夕方までには、やむでしょうか」
「やむといいな」
座敷で読書をなさっている旦那さまは、気だるそうに顔を上げて庭を見遣りました。
わたくしは不本意ながら宿題をしています。
数学はもちろん、英語もあるので大変です。とくにわたくしは和文英訳が得意ではないので、辞書と首っ引きで文を組み立てています。
もちろん和訳もありますし。
数学は……後で高瀬先生に教えていただくことにしましょう。
「英和辞典と、和英辞典を使っているのか」
「はい」
何を当たり前のことを、旦那さまは問うのでしょう。
なのに、旦那さまはおかしなことを仰いました。
「英語を学ぶのなら、英英辞典を使うといいぞ」
「英語の単語を引くのに、説明が英語なのですか? それでは到底分かりません」
「だが、その方が理解しやすいんだが」
まぁ、俺は英語の担当ではないからな、と仰いますが。わたくしは、思わず頬を膨らませてしまいました。
「先生は優秀ですもの。わたくしみたいな劣等生とは違います」
「いや、そういうつもりではなくて。困ったな」
机に教科書や帳面を広げたわたくしは、旦那さまに背中を向けました。
旦那さまは立ち上がり、座敷を出ていきました。
しばらく待ちましたが、戻っていらっしゃいません。もしかして、わたくしが失礼なことを言ってしまったからでしょうか。
「ど、どうしましょう。嫌われてしまったかもしれません」
そうです。同じ家で暮らし、親しくなったからといっても相手は担任の先生なのです。
生意気な口をきいて、いいはずがありません。
栞の挟まれた読みかけの本と、夏用の藺草の座布団がそのまま置かれています。
わたくしはその座布団に座り、本を手に取りました。
紙とインクのにおいに混じって、檸檬と薄荷が、ほのかに香ります。
旦那さまの香りです。
学校で、先生と生徒として接しているだけでは気づかなかったその匂いが、今は大好きになっています。
すっとした涼しい香りなのに、温かみを伴った懐かしさを覚えるのです。
「……先生」
「なんだ?」
独り言に返事されて、わたくしは跳び上がるほど驚きました。だって先生の本の匂いをかいでいたんですよ。それはもう、びっくりしました。
「あ、あの。違うんです、わたくし」
「違うって? 俺の本の匂いを嗅いでいたように見えたが」
「いえ、その」
「ふーん。俺が少し離れていただけで、寂しくなった?」
わたくしはきゅっと瞼を閉じて、手にした本を下ろしました。
愛しさが溢れて、思わず「先生」と呼んでいたことがばれていたなんて。
もう、もう……恥ずかしさでどうにかなってしまいそう。
「サイダーを持ってきたんだ。喉が渇いただろう?」
旦那さまは、机の上に盆を置きました。瓶詰のサイダーのふたを、ぽんっと栓抜きで開けます。
グラスに注がれたサイダーは、しゅわしゅわと爽快な音を立てています。
ご自分にはコーヒーを淹れてらしたようです。
「どうしてサイダーを?」
「え、カフェーでオレンジジュースと悩んでいたじゃないか。なかなか選べなかったようだったけど」
そんな細かなことまで覚えていてくださるなんて。でも、メニュー選びで吟味を重ねていたのを見られているのも、どうかと思うのですが。
面映ゆいのに嬉しいって、変でしょうか。
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