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四章
6、見失うはずがない
午後には、雨もやみました。
「旦那さま、むしむししていますよ。風もありません。絶好の蛍日和ですね」
「蛍日和? 嬉しそうだな、翠子さん」
「はい。蛍狩りって行ったことがないので、楽しみです」
旦那さまは授業の準備、わたくしは宿題をなんとかこなしてから、早めの夕食をとりました。
お素麺を頂きながら、わたくしは外ばかり眺めていました。濡れ縁越しの庭の木々の葉は、陽光を受けてきらきらと眩いほどに煌めいています。
めんつゆの入ったガラスの器に、旦那さまが具や薬味を入れてくださいました。
まずは細かく切った大葉。それに錦糸卵。
「翠子さんは、茗荷は平気だな。つみれ汁にも入っていたもんな」
「はい。薬味は大好きです」
刻み海苔に、白ごま。細切りのキュウリ。どれも入れたいところですが、一度に入れると味が混ざってしまいそうです。
「雨上がりで地面が湿っている。出かけるときは、君は浴衣ではない方がいいだろう」
「じゃあ、洋装ですね」
「草履も浴衣の裾も、泥で汚れるだろうからな」
「旦那さまは?」
「俺は平気だ」
わたくしは蛍狩りが初めてなので、確かに浮かれてしまう可能性はありますね。
大皿に盛られた茄子の煮びたしを取り皿に入れながら、わたくしは頷きました。
茄子を口に入れると、油とお出汁の味が広がり、にやけてしまいます。彩に添えられた、ししとうを揚げたのも美味しいです。
「ほら、もっと食べなさい」
旦那さまは、わたくしの取り皿に茄子をこんもりと盛りました。
「え、いいんですか? だって旦那さまの分がなくなりますよ」
「いいよ。どうぞ」
「だって、食べなくていいんですか? 茄子ですよ」
「うん。君が茄子が好きってことは、とてもよく分かった」
不思議です。わたくしなら、そんな気前よく茄子を人にあげることはできません。
「旦那さまは、聖人君子ですか」
「なんだ、それは」
「では、天使ですね」
「いや、違うし」
「それなら、女神さまです」
「明らかに性別を間違っているだろうが」
箸置きにお箸をおいて、わたくしは旦那さまを拝みました。
「なむなむなむ」
「翠子さん。たとえば俺が性別を飛び越えて女神だったとしよう。その女神さまにだな、君は念仏を唱えるのか」
「神仏習合です」
まったく、と旦那さまは万年筆と帳面を取りだしました。
「茄子は煮びたしだけが好きなのか?」
「お味噌味の鍋しぎも好きです。浅漬け、しかも水茄子の浅漬けなんて最高ですね。こう、お箸で持つと水が滴るんです。素敵じゃありませんか。ああ、忘れていました。茄子の挟み揚げもありますね」
「茄子でもそんなに献立があるのか」
「まだまだありますよ。この間いただいた、茄子の柴漬けも、とても美味しかったです」
「お清が喜ぶだろうな」
旦那さまは「茄子の鍋しぎ」「水茄子の浅漬け」「茄子の挟み揚げ」「茄子の柴漬け」と記しています。
何をなさっているのかと覗きこむと、旦那さまはわたくしの頭にぽんっと手を置きました。
「お清が献立を考えるのが大変だと言っていたから、作ってもらうように伝えておく」
「いいんですか?」
きっとわたくしの目は煌めいていたでしょう。
「まぁ、茄子ばかり食べると体を冷やすから、あまり良くないだろうが。夏の間くらいはいいかな」
「なぜ体を冷やすと、良くないんですか? 暑いので暑気払いにいいのではありませんか?」
「授業でも、それくらい積極的に質問してもらいたいものだが」
旦那さまの顔つきが、高瀬先生のものに変化しました。少し眉根を寄せて、呆れたようなため息をつきながら話す、わたくしの苦手な、あれです。
「どこが理解できていないのか分からないのに、質問なんてできないです」
「……だから授業中、どこまでも存在を消すように静かなのか」
「いいんですよ。こう、教室の背景に溶け込むように。自分を『くのいち』だと思い込んで、気配をなくすんです。そうすれば、理科の授業でも先生にあてられることが少ないんですよ」
「ほーぅ。そんな技を身につけていたのか」
「なのに、高瀬先生の数学だけは一年生の頃からうまくいきません。入学してすぐの頃から、よく問題を前で解かされるんですもの」
「何を愚かなことを言ってるんだ。この俺が、君を見失うはずがないだろ」
突然の告白にも似た旦那さまの言葉に、わたくしは目を見開きました。
「旦那さま、むしむししていますよ。風もありません。絶好の蛍日和ですね」
「蛍日和? 嬉しそうだな、翠子さん」
「はい。蛍狩りって行ったことがないので、楽しみです」
旦那さまは授業の準備、わたくしは宿題をなんとかこなしてから、早めの夕食をとりました。
お素麺を頂きながら、わたくしは外ばかり眺めていました。濡れ縁越しの庭の木々の葉は、陽光を受けてきらきらと眩いほどに煌めいています。
めんつゆの入ったガラスの器に、旦那さまが具や薬味を入れてくださいました。
まずは細かく切った大葉。それに錦糸卵。
「翠子さんは、茗荷は平気だな。つみれ汁にも入っていたもんな」
「はい。薬味は大好きです」
刻み海苔に、白ごま。細切りのキュウリ。どれも入れたいところですが、一度に入れると味が混ざってしまいそうです。
「雨上がりで地面が湿っている。出かけるときは、君は浴衣ではない方がいいだろう」
「じゃあ、洋装ですね」
「草履も浴衣の裾も、泥で汚れるだろうからな」
「旦那さまは?」
「俺は平気だ」
わたくしは蛍狩りが初めてなので、確かに浮かれてしまう可能性はありますね。
大皿に盛られた茄子の煮びたしを取り皿に入れながら、わたくしは頷きました。
茄子を口に入れると、油とお出汁の味が広がり、にやけてしまいます。彩に添えられた、ししとうを揚げたのも美味しいです。
「ほら、もっと食べなさい」
旦那さまは、わたくしの取り皿に茄子をこんもりと盛りました。
「え、いいんですか? だって旦那さまの分がなくなりますよ」
「いいよ。どうぞ」
「だって、食べなくていいんですか? 茄子ですよ」
「うん。君が茄子が好きってことは、とてもよく分かった」
不思議です。わたくしなら、そんな気前よく茄子を人にあげることはできません。
「旦那さまは、聖人君子ですか」
「なんだ、それは」
「では、天使ですね」
「いや、違うし」
「それなら、女神さまです」
「明らかに性別を間違っているだろうが」
箸置きにお箸をおいて、わたくしは旦那さまを拝みました。
「なむなむなむ」
「翠子さん。たとえば俺が性別を飛び越えて女神だったとしよう。その女神さまにだな、君は念仏を唱えるのか」
「神仏習合です」
まったく、と旦那さまは万年筆と帳面を取りだしました。
「茄子は煮びたしだけが好きなのか?」
「お味噌味の鍋しぎも好きです。浅漬け、しかも水茄子の浅漬けなんて最高ですね。こう、お箸で持つと水が滴るんです。素敵じゃありませんか。ああ、忘れていました。茄子の挟み揚げもありますね」
「茄子でもそんなに献立があるのか」
「まだまだありますよ。この間いただいた、茄子の柴漬けも、とても美味しかったです」
「お清が喜ぶだろうな」
旦那さまは「茄子の鍋しぎ」「水茄子の浅漬け」「茄子の挟み揚げ」「茄子の柴漬け」と記しています。
何をなさっているのかと覗きこむと、旦那さまはわたくしの頭にぽんっと手を置きました。
「お清が献立を考えるのが大変だと言っていたから、作ってもらうように伝えておく」
「いいんですか?」
きっとわたくしの目は煌めいていたでしょう。
「まぁ、茄子ばかり食べると体を冷やすから、あまり良くないだろうが。夏の間くらいはいいかな」
「なぜ体を冷やすと、良くないんですか? 暑いので暑気払いにいいのではありませんか?」
「授業でも、それくらい積極的に質問してもらいたいものだが」
旦那さまの顔つきが、高瀬先生のものに変化しました。少し眉根を寄せて、呆れたようなため息をつきながら話す、わたくしの苦手な、あれです。
「どこが理解できていないのか分からないのに、質問なんてできないです」
「……だから授業中、どこまでも存在を消すように静かなのか」
「いいんですよ。こう、教室の背景に溶け込むように。自分を『くのいち』だと思い込んで、気配をなくすんです。そうすれば、理科の授業でも先生にあてられることが少ないんですよ」
「ほーぅ。そんな技を身につけていたのか」
「なのに、高瀬先生の数学だけは一年生の頃からうまくいきません。入学してすぐの頃から、よく問題を前で解かされるんですもの」
「何を愚かなことを言ってるんだ。この俺が、君を見失うはずがないだろ」
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