52 / 247
四章
8、覚えておいでですか
しおりを挟む
穏やかな夜に街が包まれる頃。
わたくしと旦那さまは住宅街を抜けて、二人で歩きました。
吹く風に、ワンピースの裾がひらりと翻ります。海は見えませんが、風に乗って潮の香りが鼻をかすめました。
小川にかかる木橋を渡ると、民家はなく周囲は草地でした。
「ほら、翠子さん」
右手でランタンを持った旦那さまが、左手を差し出してきます。
「また、迷子になられたら困るからな」
そう仰って、旦那さまはわたくしの手を握りました。
手をつないで、大きな背中を見上げながら歩いていると、小さい頃に迷子になって、笠井の家まで送り届けてもらったときの、お兄ちゃんのことを思い出しました。
「……お兄……ちゃん」
「なんだ?」
驚いて、わたくしは立ち止まってしまいました。
だって、まさか旦那さまに返事されるとは思っていなかったですから。
ランタンの仄かな明かりが、旦那さまの顔を照らしています。
切なそうに眉根を寄せて、でも柔らかい表情でわたくしを見つめています。
旦那さまの手の甲に残る傷。筋がひきつれたようなあの傷も、見覚えがあります。
高瀬邸のあたりの景色も、あの玄関も。そしてステンドグラスの光が満ちるダイニングも。
あの時は、緊張していて人の顔まで覚えることができませんでしたが。
もしかして……。
もしかして。旦那さまがあの時助けてくださった「お兄ちゃん」なのですか?
「どうした?」
「あ、あの。旦那さまは……昔、女の子の鼻緒を直したことがおありですか」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
旦那さまは少し屈んで、わたくしの顔の高さに合わせました。
「俺が切れた鼻緒を直そうとしたんだが。なにしろ不器用でな。結局、お清に取りあげられてしまった」
「その子の名前を覚えておいでですか?」
わたくしは、勇気を出して問いかけました。
旦那さまは、なかなか返事を下さいません。
「もし、そのお兄ちゃんが俺だったら、翠子さんはどうする?」
「お礼を言います」
「それで、他には?」
「言いたいことがあるので、お伝えします」
「お、おう」
なぜか旦那さまがひるんだように見えました。手になさったランタンが、かすかに震えて、明かりが揺れています。
旦那さまが瞼を閉じて、深呼吸なさるのが、仄かな明かりに照らされています。繋いだその大きな手が、少し汗ばんでいるのが分かります。
「笠井翠子。それが、迷子になって鼻緒が切れていた子の名だ」
それまで聞こえなかった虫の声が、耳に届きました。
告白にも似た旦那さまのお返事を、まるで祝福するかのように、軽やかに涼やかに虫が鳴いています。
「旦那さまが……先生が、あの『お兄ちゃん』だったのですね」
わたくしは、旦那さまにしがみつきました。勢い余って旦那さまはよろけましたが、さすがに力があるので転ぶことはありませんでした。
「ありがとうございます。あの時は心細くて、どうしようもなかったんです。ああ、どうしましょう。おぜんざいをくださったのは、お清さんだったんですね。わたくし知らぬ内に、お兄ちゃんの元に帰っていたんですね」
「ま、待て。翠子さん」
「早くに仰ってくだされば、よかったのに」
「いや、さすがにそれは……ところで、言いたいことって何なんだ?」
「はい」と、明るく返事をしてわたくしは旦那さまを見上げました。
「お兄ちゃんは、わたくしの初恋だったのです。いえ、ずっとお慕いしていた方なんです。もうお会いすることもないと思っていましたし、ずいぶんと大人の方でしたので。片思いでした」
「初恋……片思い。そういえば、うちに引き取った初日に、心に留めている人がいると」
「はい。お兄ちゃんのことです」
わたくしと旦那さまは住宅街を抜けて、二人で歩きました。
吹く風に、ワンピースの裾がひらりと翻ります。海は見えませんが、風に乗って潮の香りが鼻をかすめました。
小川にかかる木橋を渡ると、民家はなく周囲は草地でした。
「ほら、翠子さん」
右手でランタンを持った旦那さまが、左手を差し出してきます。
「また、迷子になられたら困るからな」
そう仰って、旦那さまはわたくしの手を握りました。
手をつないで、大きな背中を見上げながら歩いていると、小さい頃に迷子になって、笠井の家まで送り届けてもらったときの、お兄ちゃんのことを思い出しました。
「……お兄……ちゃん」
「なんだ?」
驚いて、わたくしは立ち止まってしまいました。
だって、まさか旦那さまに返事されるとは思っていなかったですから。
ランタンの仄かな明かりが、旦那さまの顔を照らしています。
切なそうに眉根を寄せて、でも柔らかい表情でわたくしを見つめています。
旦那さまの手の甲に残る傷。筋がひきつれたようなあの傷も、見覚えがあります。
高瀬邸のあたりの景色も、あの玄関も。そしてステンドグラスの光が満ちるダイニングも。
あの時は、緊張していて人の顔まで覚えることができませんでしたが。
もしかして……。
もしかして。旦那さまがあの時助けてくださった「お兄ちゃん」なのですか?
「どうした?」
「あ、あの。旦那さまは……昔、女の子の鼻緒を直したことがおありですか」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
旦那さまは少し屈んで、わたくしの顔の高さに合わせました。
「俺が切れた鼻緒を直そうとしたんだが。なにしろ不器用でな。結局、お清に取りあげられてしまった」
「その子の名前を覚えておいでですか?」
わたくしは、勇気を出して問いかけました。
旦那さまは、なかなか返事を下さいません。
「もし、そのお兄ちゃんが俺だったら、翠子さんはどうする?」
「お礼を言います」
「それで、他には?」
「言いたいことがあるので、お伝えします」
「お、おう」
なぜか旦那さまがひるんだように見えました。手になさったランタンが、かすかに震えて、明かりが揺れています。
旦那さまが瞼を閉じて、深呼吸なさるのが、仄かな明かりに照らされています。繋いだその大きな手が、少し汗ばんでいるのが分かります。
「笠井翠子。それが、迷子になって鼻緒が切れていた子の名だ」
それまで聞こえなかった虫の声が、耳に届きました。
告白にも似た旦那さまのお返事を、まるで祝福するかのように、軽やかに涼やかに虫が鳴いています。
「旦那さまが……先生が、あの『お兄ちゃん』だったのですね」
わたくしは、旦那さまにしがみつきました。勢い余って旦那さまはよろけましたが、さすがに力があるので転ぶことはありませんでした。
「ありがとうございます。あの時は心細くて、どうしようもなかったんです。ああ、どうしましょう。おぜんざいをくださったのは、お清さんだったんですね。わたくし知らぬ内に、お兄ちゃんの元に帰っていたんですね」
「ま、待て。翠子さん」
「早くに仰ってくだされば、よかったのに」
「いや、さすがにそれは……ところで、言いたいことって何なんだ?」
「はい」と、明るく返事をしてわたくしは旦那さまを見上げました。
「お兄ちゃんは、わたくしの初恋だったのです。いえ、ずっとお慕いしていた方なんです。もうお会いすることもないと思っていましたし、ずいぶんと大人の方でしたので。片思いでした」
「初恋……片思い。そういえば、うちに引き取った初日に、心に留めている人がいると」
「はい。お兄ちゃんのことです」
2
あなたにおすすめの小説
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
虚弱なヤクザの駆け込み寺
菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。
「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」
「脅してる場合ですか?」
ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。
※なろう、カクヨムでも投稿
お隣さんはヤのつくご職業
古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。
残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。
元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。
……え、ちゃんとしたもん食え?
ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!!
ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ
建築基準法と物理法則なんて知りません
登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。
2020/5/26 完結
【完結】女当主は義弟の手で花開く
はるみさ
恋愛
シャノンは若干25歳でありながら、プレスコット伯爵家の女当主。男勝りな彼女は、由緒ある伯爵家の当主として男性と互角に渡り合っていた。しかし、そんな彼女には結婚という大きな悩みが。伯爵家の血筋を残すためにも結婚しなくてはと思うが、全く相手が見つからない。途方に暮れていたその時……「義姉さん、それ僕でいいんじゃない?」昔拾ってあげた血の繋がりのない美しく成長した義弟からまさかの提案……!?
恋に臆病な姉と、一途に義姉を想い続けてきた義弟の大人の恋物語。
※他サイトにも掲載しています。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる