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四章
8、覚えておいでですか
穏やかな夜に街が包まれる頃。
わたくしと旦那さまは住宅街を抜けて、二人で歩きました。
吹く風に、ワンピースの裾がひらりと翻ります。海は見えませんが、風に乗って潮の香りが鼻をかすめました。
小川にかかる木橋を渡ると、民家はなく周囲は草地でした。
「ほら、翠子さん」
右手でランタンを持った旦那さまが、左手を差し出してきます。
「また、迷子になられたら困るからな」
そう仰って、旦那さまはわたくしの手を握りました。
手をつないで、大きな背中を見上げながら歩いていると、小さい頃に迷子になって、笠井の家まで送り届けてもらったときの、お兄ちゃんのことを思い出しました。
「……お兄……ちゃん」
「なんだ?」
驚いて、わたくしは立ち止まってしまいました。
だって、まさか旦那さまに返事されるとは思っていなかったですから。
ランタンの仄かな明かりが、旦那さまの顔を照らしています。
切なそうに眉根を寄せて、でも柔らかい表情でわたくしを見つめています。
旦那さまの手の甲に残る傷。筋がひきつれたようなあの傷も、見覚えがあります。
高瀬邸のあたりの景色も、あの玄関も。そしてステンドグラスの光が満ちるダイニングも。
あの時は、緊張していて人の顔まで覚えることができませんでしたが。
もしかして……。
もしかして。旦那さまがあの時助けてくださった「お兄ちゃん」なのですか?
「どうした?」
「あ、あの。旦那さまは……昔、女の子の鼻緒を直したことがおありですか」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
旦那さまは少し屈んで、わたくしの顔の高さに合わせました。
「俺が切れた鼻緒を直そうとしたんだが。なにしろ不器用でな。結局、お清に取りあげられてしまった」
「その子の名前を覚えておいでですか?」
わたくしは、勇気を出して問いかけました。
旦那さまは、なかなか返事を下さいません。
「もし、そのお兄ちゃんが俺だったら、翠子さんはどうする?」
「お礼を言います」
「それで、他には?」
「言いたいことがあるので、お伝えします」
「お、おう」
なぜか旦那さまがひるんだように見えました。手になさったランタンが、かすかに震えて、明かりが揺れています。
旦那さまが瞼を閉じて、深呼吸なさるのが、仄かな明かりに照らされています。繋いだその大きな手が、少し汗ばんでいるのが分かります。
「笠井翠子。それが、迷子になって鼻緒が切れていた子の名だ」
それまで聞こえなかった虫の声が、耳に届きました。
告白にも似た旦那さまのお返事を、まるで祝福するかのように、軽やかに涼やかに虫が鳴いています。
「旦那さまが……先生が、あの『お兄ちゃん』だったのですね」
わたくしは、旦那さまにしがみつきました。勢い余って旦那さまはよろけましたが、さすがに力があるので転ぶことはありませんでした。
「ありがとうございます。あの時は心細くて、どうしようもなかったんです。ああ、どうしましょう。おぜんざいをくださったのは、お清さんだったんですね。わたくし知らぬ内に、お兄ちゃんの元に帰っていたんですね」
「ま、待て。翠子さん」
「早くに仰ってくだされば、よかったのに」
「いや、さすがにそれは……ところで、言いたいことって何なんだ?」
「はい」と、明るく返事をしてわたくしは旦那さまを見上げました。
「お兄ちゃんは、わたくしの初恋だったのです。いえ、ずっとお慕いしていた方なんです。もうお会いすることもないと思っていましたし、ずいぶんと大人の方でしたので。片思いでした」
「初恋……片思い。そういえば、うちに引き取った初日に、心に留めている人がいると」
「はい。お兄ちゃんのことです」
わたくしと旦那さまは住宅街を抜けて、二人で歩きました。
吹く風に、ワンピースの裾がひらりと翻ります。海は見えませんが、風に乗って潮の香りが鼻をかすめました。
小川にかかる木橋を渡ると、民家はなく周囲は草地でした。
「ほら、翠子さん」
右手でランタンを持った旦那さまが、左手を差し出してきます。
「また、迷子になられたら困るからな」
そう仰って、旦那さまはわたくしの手を握りました。
手をつないで、大きな背中を見上げながら歩いていると、小さい頃に迷子になって、笠井の家まで送り届けてもらったときの、お兄ちゃんのことを思い出しました。
「……お兄……ちゃん」
「なんだ?」
驚いて、わたくしは立ち止まってしまいました。
だって、まさか旦那さまに返事されるとは思っていなかったですから。
ランタンの仄かな明かりが、旦那さまの顔を照らしています。
切なそうに眉根を寄せて、でも柔らかい表情でわたくしを見つめています。
旦那さまの手の甲に残る傷。筋がひきつれたようなあの傷も、見覚えがあります。
高瀬邸のあたりの景色も、あの玄関も。そしてステンドグラスの光が満ちるダイニングも。
あの時は、緊張していて人の顔まで覚えることができませんでしたが。
もしかして……。
もしかして。旦那さまがあの時助けてくださった「お兄ちゃん」なのですか?
「どうした?」
「あ、あの。旦那さまは……昔、女の子の鼻緒を直したことがおありですか」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
旦那さまは少し屈んで、わたくしの顔の高さに合わせました。
「俺が切れた鼻緒を直そうとしたんだが。なにしろ不器用でな。結局、お清に取りあげられてしまった」
「その子の名前を覚えておいでですか?」
わたくしは、勇気を出して問いかけました。
旦那さまは、なかなか返事を下さいません。
「もし、そのお兄ちゃんが俺だったら、翠子さんはどうする?」
「お礼を言います」
「それで、他には?」
「言いたいことがあるので、お伝えします」
「お、おう」
なぜか旦那さまがひるんだように見えました。手になさったランタンが、かすかに震えて、明かりが揺れています。
旦那さまが瞼を閉じて、深呼吸なさるのが、仄かな明かりに照らされています。繋いだその大きな手が、少し汗ばんでいるのが分かります。
「笠井翠子。それが、迷子になって鼻緒が切れていた子の名だ」
それまで聞こえなかった虫の声が、耳に届きました。
告白にも似た旦那さまのお返事を、まるで祝福するかのように、軽やかに涼やかに虫が鳴いています。
「旦那さまが……先生が、あの『お兄ちゃん』だったのですね」
わたくしは、旦那さまにしがみつきました。勢い余って旦那さまはよろけましたが、さすがに力があるので転ぶことはありませんでした。
「ありがとうございます。あの時は心細くて、どうしようもなかったんです。ああ、どうしましょう。おぜんざいをくださったのは、お清さんだったんですね。わたくし知らぬ内に、お兄ちゃんの元に帰っていたんですね」
「ま、待て。翠子さん」
「早くに仰ってくだされば、よかったのに」
「いや、さすがにそれは……ところで、言いたいことって何なんだ?」
「はい」と、明るく返事をしてわたくしは旦那さまを見上げました。
「お兄ちゃんは、わたくしの初恋だったのです。いえ、ずっとお慕いしていた方なんです。もうお会いすることもないと思っていましたし、ずいぶんと大人の方でしたので。片思いでした」
「初恋……片思い。そういえば、うちに引き取った初日に、心に留めている人がいると」
「はい。お兄ちゃんのことです」
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