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四章
9、ここにいました
「つまり……それは」
旦那さまは狼狽えていらっしゃいます。
珍しいことです。
最近は、よく微笑んでいらっしゃいますが。おどおどする様子は、ほとんどお見掛けすることがないので。
「初恋は叶わないと申しますし。わたくしもお兄ちゃんのことは、うろ覚えだったので。諦めないといけないと自分に言い聞かせていたんです」
「諦めるって、俺を?」
「そうなりますね」
「待て……待ってくれ。好きになってくれたのに、勝手に諦められたら困るんだが」
中に蝋燭が灯ったランタンを手に持つのは危ないと判断したのか、旦那さまは地面にランタンを置きました。
急に明るくなったせいでびっくりしたのでしょう。
バッタかキリギリスが、草から跳ねて出てきました。
「数学って怖いですね。あの優しいお兄ちゃんが、あんな恐ろしい数学の鎧をかぶってらっしゃると、もう別人に思えるのですから」
「この際、数学は置いておけ。つまり翠子さんは、俺のことを」
「ずっとお慕い申し上げていたんです。気づかないなんて、本当にうっかりです」
ずるっ、と旦那さまがわたくしにもたれかかってきました。
「大丈夫ですか? 具合が悪いんですか?」
「目眩がした」
「大変です。歩いて家に戻れますか? しばらく休んだ方がいいですよね」
「平気だ」
そう仰ると、旦那さまがわたくしの肩に顔を埋めます。
檸檬と薄荷の混じった香り。そうです、なぜ気づかなかったのでしょう。お兄ちゃんの香りですのに。
「旦那さまは、とうに気づいていらっしゃったんですよね」
「翠子さんが入学してきた、その日からな」
「記憶力がいいんですね」
「違う」と、旦那さまのくぐもった声が、わたくしの肩を通して聞こえてきます。
「記憶力がいいんじゃない。あなたとの思い出を大事にしていたから、すぐに分かったんだ」
「あの雪の日のことをですか? わたくしは、ご迷惑をかけてしまったのに」
「迷惑なんかじゃない」
旦那さまは上体を起こすと、わたくしをしっかりと抱きしめました。麻の浴衣のごわつく生地を通して、旦那さまの心臓が早鐘のように打っているのが聞こえます。
「俺にとっては、とても大事で温かな思い出だ」
「旦那さま……」
「名前で呼べ。先生でも旦那さまでもなく、欧之丞と」
耳元で囁くその低くて深い声に、心が痺れそうです。
「欧之丞……さま」
「翠子さん。俺の愛しい人」
強い力で、わたくしはぎゅっと抱きしめられました。
足元でちかちかと瞬くものがあります。ふわりと浮かんだ光は、次々に辺りを舞い始めました。
明滅するその光は、恋の信号だといいます。
ぼくはここにいる、と光で知らせているのです。
ええ、わたくしの初恋のお兄ちゃんは、ここにいました。
それからの二人は、無言でした。
ランタンの明かりを消すと、蛍が乱れ飛んでいます。軽やかに上下する光を追いかけようとして、旦那さまに手をつながれました。
「ぬかるみに、足を突っ込むぞ」
それは困ります。
わたくしは旦那さまに寄り添って、蛍を眺めました。
ふわりと重さのないような明かりの飛翔。光の瞬きは、眺めていると眠たさを感じます。
西の空は、まだほんのりと夕暮れの名残が漂っています。川の石に当たったしぶきが、夜に白く散っていきました。
草の葉にも足元にも、空にも。明るい黄緑の光の明滅に包まれていきます。
聞こえてくるのは虫の声と、海の方から聞こえる汽笛の音。微かな風にそよぐ草の葉擦れだけでした。
旦那さまは狼狽えていらっしゃいます。
珍しいことです。
最近は、よく微笑んでいらっしゃいますが。おどおどする様子は、ほとんどお見掛けすることがないので。
「初恋は叶わないと申しますし。わたくしもお兄ちゃんのことは、うろ覚えだったので。諦めないといけないと自分に言い聞かせていたんです」
「諦めるって、俺を?」
「そうなりますね」
「待て……待ってくれ。好きになってくれたのに、勝手に諦められたら困るんだが」
中に蝋燭が灯ったランタンを手に持つのは危ないと判断したのか、旦那さまは地面にランタンを置きました。
急に明るくなったせいでびっくりしたのでしょう。
バッタかキリギリスが、草から跳ねて出てきました。
「数学って怖いですね。あの優しいお兄ちゃんが、あんな恐ろしい数学の鎧をかぶってらっしゃると、もう別人に思えるのですから」
「この際、数学は置いておけ。つまり翠子さんは、俺のことを」
「ずっとお慕い申し上げていたんです。気づかないなんて、本当にうっかりです」
ずるっ、と旦那さまがわたくしにもたれかかってきました。
「大丈夫ですか? 具合が悪いんですか?」
「目眩がした」
「大変です。歩いて家に戻れますか? しばらく休んだ方がいいですよね」
「平気だ」
そう仰ると、旦那さまがわたくしの肩に顔を埋めます。
檸檬と薄荷の混じった香り。そうです、なぜ気づかなかったのでしょう。お兄ちゃんの香りですのに。
「旦那さまは、とうに気づいていらっしゃったんですよね」
「翠子さんが入学してきた、その日からな」
「記憶力がいいんですね」
「違う」と、旦那さまのくぐもった声が、わたくしの肩を通して聞こえてきます。
「記憶力がいいんじゃない。あなたとの思い出を大事にしていたから、すぐに分かったんだ」
「あの雪の日のことをですか? わたくしは、ご迷惑をかけてしまったのに」
「迷惑なんかじゃない」
旦那さまは上体を起こすと、わたくしをしっかりと抱きしめました。麻の浴衣のごわつく生地を通して、旦那さまの心臓が早鐘のように打っているのが聞こえます。
「俺にとっては、とても大事で温かな思い出だ」
「旦那さま……」
「名前で呼べ。先生でも旦那さまでもなく、欧之丞と」
耳元で囁くその低くて深い声に、心が痺れそうです。
「欧之丞……さま」
「翠子さん。俺の愛しい人」
強い力で、わたくしはぎゅっと抱きしめられました。
足元でちかちかと瞬くものがあります。ふわりと浮かんだ光は、次々に辺りを舞い始めました。
明滅するその光は、恋の信号だといいます。
ぼくはここにいる、と光で知らせているのです。
ええ、わたくしの初恋のお兄ちゃんは、ここにいました。
それからの二人は、無言でした。
ランタンの明かりを消すと、蛍が乱れ飛んでいます。軽やかに上下する光を追いかけようとして、旦那さまに手をつながれました。
「ぬかるみに、足を突っ込むぞ」
それは困ります。
わたくしは旦那さまに寄り添って、蛍を眺めました。
ふわりと重さのないような明かりの飛翔。光の瞬きは、眺めていると眠たさを感じます。
西の空は、まだほんのりと夕暮れの名残が漂っています。川の石に当たったしぶきが、夜に白く散っていきました。
草の葉にも足元にも、空にも。明るい黄緑の光の明滅に包まれていきます。
聞こえてくるのは虫の声と、海の方から聞こえる汽笛の音。微かな風にそよぐ草の葉擦れだけでした。
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