【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

文字の大きさ
53 / 247
四章

9、ここにいました

「つまり……それは」

 旦那さまは狼狽うろたえていらっしゃいます。
 珍しいことです。
 最近は、よく微笑んでいらっしゃいますが。おどおどする様子は、ほとんどお見掛けすることがないので。
 
「初恋は叶わないと申しますし。わたくしもお兄ちゃんのことは、うろ覚えだったので。諦めないといけないと自分に言い聞かせていたんです」
「諦めるって、俺を?」
「そうなりますね」
「待て……待ってくれ。好きになってくれたのに、勝手に諦められたら困るんだが」
 
 中に蝋燭が灯ったランタンを手に持つのは危ないと判断したのか、旦那さまは地面にランタンを置きました。
 急に明るくなったせいでびっくりしたのでしょう。
 バッタかキリギリスが、草から跳ねて出てきました。

「数学って怖いですね。あの優しいお兄ちゃんが、あんな恐ろしい数学の鎧をかぶってらっしゃると、もう別人に思えるのですから」

「この際、数学は置いておけ。つまり翠子さんは、俺のことを」
「ずっとお慕い申し上げていたんです。気づかないなんて、本当にうっかりです」

 ずるっ、と旦那さまがわたくしにもたれかかってきました。

「大丈夫ですか? 具合が悪いんですか?」
「目眩がした」
「大変です。歩いて家に戻れますか? しばらく休んだ方がいいですよね」
「平気だ」

 そう仰ると、旦那さまがわたくしの肩に顔を埋めます。
 檸檬と薄荷の混じった香り。そうです、なぜ気づかなかったのでしょう。お兄ちゃんの香りですのに。

「旦那さまは、とうに気づいていらっしゃったんですよね」
「翠子さんが入学してきた、その日からな」
「記憶力がいいんですね」

「違う」と、旦那さまのくぐもった声が、わたくしの肩を通して聞こえてきます。
 
「記憶力がいいんじゃない。あなたとの思い出を大事にしていたから、すぐに分かったんだ」
「あの雪の日のことをですか? わたくしは、ご迷惑をかけてしまったのに」
「迷惑なんかじゃない」

 旦那さまは上体を起こすと、わたくしをしっかりと抱きしめました。麻の浴衣のごわつく生地を通して、旦那さまの心臓が早鐘のように打っているのが聞こえます。

「俺にとっては、とても大事で温かな思い出だ」
「旦那さま……」
「名前で呼べ。先生でも旦那さまでもなく、欧之丞おうのすけと」

 耳元で囁くその低くて深い声に、心が痺れそうです。

「欧之丞……さま」
「翠子さん。俺の愛しい人」
 
 強い力で、わたくしはぎゅっと抱きしめられました。
 足元でちかちかと瞬くものがあります。ふわりと浮かんだ光は、次々に辺りを舞い始めました。

 明滅するその光は、恋の信号だといいます。
 ぼくはここにいる、と光で知らせているのです。
 ええ、わたくしの初恋のお兄ちゃんは、ここにいました。

 それからの二人は、無言でした。
 ランタンの明かりを消すと、蛍が乱れ飛んでいます。軽やかに上下する光を追いかけようとして、旦那さまに手をつながれました。

「ぬかるみに、足を突っ込むぞ」

 それは困ります。
 わたくしは旦那さまに寄り添って、蛍を眺めました。

 ふわりと重さのないような明かりの飛翔。光の瞬きは、眺めていると眠たさを感じます。
 西の空は、まだほんのりと夕暮れの名残が漂っています。川の石に当たったしぶきが、夜に白く散っていきました。
 草の葉にも足元にも、空にも。明るい黄緑の光の明滅に包まれていきます。

 聞こえてくるのは虫の声と、海の方から聞こえる汽笛の音。微かな風にそよぐ草の葉擦れだけでした。
感想 10

あなたにおすすめの小説

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

女の子がほとんど産まれない国に転生しました。

さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。 100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳 そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。 当面は2日に1話更新予定!

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

お隣さんはヤのつくご職業

古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。 残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。 元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。 ……え、ちゃんとしたもん食え? ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!! ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ 建築基準法と物理法則なんて知りません 登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。 2020/5/26 完結

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end** ◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です! https://estar.jp/novels/26513389

「職場では隙のない完璧な先輩が、家ではゆるニットで甘えてくる。それでも彼女は、まだ俺の恋人じゃない」

まさき
恋愛
会社では完璧で、誰も近づけない先輩。 そんな彼女と、俺は同じ部屋で暮らしている。 「…おかえり」 ゆるニット姿の彼女は、家でだけ甘い声を出す。 近い。甘い。それでも―― 「ちゃんと付き合ってから」 彼女は知っている。自分が好きになりすぎることを。 嫌われるのが怖くて、迷惑になるのが怖くて。 だから一歩手前で、いつも笑って止まる。 最初から好きなくせに、言えない彼女と。 気づいているのに、待っている俺の話。