【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

文字の大きさ
57 / 247
四章

13、呼び名

 浴室の窓からは、風にそよぐ笹の葉が見えています。遠くから聞こえる船の汽笛の音。
 わたくしと旦那さまは、寄り添うようにお湯につかっています。

 不思議です。これまでなら沈黙が訪れると、何か喋らなくてはと気がいていたのに。
 今夜は無言でも気まずく思うことがありません。

 檜の広い浴槽で、ゆったりと湯の動くかすかな音がしました。旦那さまが、わたくしの手をそっと握りしめてきます。

「初めて名前で呼んでくれたな」
「あれは……その」

 欧之丞と呼ぶことを命じられように覚えています。でも、その時のことは、あまりよく覚えていません。
 
「結婚しているわけでもありませんし。旦那さまのことを、お名前で呼ぶのは、さすがに」
「うーん。また『旦那さま』に逆戻りか。まぁ、仕方ないか」

 旦那さまは、わたくしの手を湯から上げて、ご自分の頬に触れさせました。
 わたくしが殿方の肌に触れるのは、旦那さましかおりませんが。意外とすべらかな頬をなさっています。
 まぁ、他の殿方と比べようもないのですけど。

「あの、そろそろ離していただけませんか?」
「なぜ?」
「面映ゆいです」
「そうだな。じゃあ、もう一度名前を呼べば、離してもいい」

 どうしてそうなるのでしょう。わたくしにとって「旦那さま」であり「先生」でいらっしゃる方のお名前を、気軽に呼ぶのは難しいというのに。

 あっ。ありました。もう一つの呼び名が。

 わたくしは顔を上げて、旦那さまをじっと見つめました。もちろん、左手は囚われたままです。

「お兄ちゃん。離してください」

 刹那、旦那さまが目を丸くなさいました。徐々に頬も耳も首も赤くなっていくのが分かります。
 わたくしの手を握る旦那さまの指から、力が抜けていきました。
 そして、そのままわたくしの肩に顔を埋めます。

 ぱしゃん、と湯がはねる音がしました。

「あの、旦那さま。どうかなさいましたか」
「……どうもしていない」

 そんなはずないです。全然平気そうではないんですもの。

「もしかして湯あたりなさいましたか?」
「あたった」
「え? 大変です。早く湯から上がりましょう。わたくし、お水を用意しますから」
「……違うんだ」

 旦那さまの声は、かすれています。
 琥珀色に濡れた瞳を伏せ、頬の赤さを隠すためか、顔の下半分を手で覆っておられます。
 珍しいです。
 これまでほとんど目にしたことのない、旦那さまの恥じらった表情です。

「俺は、あなたという甘美な毒に当てられてしまったようだ」
「毒? わたくしがですか?」

 そりゃあ、薬になれるほどの賢婦ではありませんが。毒だなんて、妖婦とか毒婦ということでしょうか。
 いくら旦那さまでも、それは失礼です。
 わたくしは、頬を膨らませて横を向きました。
 こんなにも心配しているのに。失礼ですよ。

「毒だよ、翠子さんは。あなたが欲しいと淫らに抱いても、たった一言だけで俺を保護者へと引き戻すのだから」
「そうなのですか?」
 
 仰っていることが、よく分かりません。

「あなたを抱いている時は、旦那さまではなく欧之丞と呼んでほしい。ただ、それ以外の呼称は……勘弁してもらってもいいかな」
「お兄ちゃん、とかですか?」

 旦那さまは、なぜか頭を抱えました。

「それだ、それがいけない。幼い頃のあなたが脳裏にちらついて。やましい気分になり、自分を責めてしまう」
「それは、大変ですね」
「他人事のように言わないでくれ」

 そう申されましても。
 わたくしは、首をかしげました。
感想 10

あなたにおすすめの小説

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

女の子がほとんど産まれない国に転生しました。

さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。 100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳 そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。 当面は2日に1話更新予定!

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

お隣さんはヤのつくご職業

古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。 残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。 元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。 ……え、ちゃんとしたもん食え? ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!! ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ 建築基準法と物理法則なんて知りません 登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。 2020/5/26 完結

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end** ◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です! https://estar.jp/novels/26513389

「職場では隙のない完璧な先輩が、家ではゆるニットで甘えてくる。それでも彼女は、まだ俺の恋人じゃない」

まさき
恋愛
会社では完璧で、誰も近づけない先輩。 そんな彼女と、俺は同じ部屋で暮らしている。 「…おかえり」 ゆるニット姿の彼女は、家でだけ甘い声を出す。 近い。甘い。それでも―― 「ちゃんと付き合ってから」 彼女は知っている。自分が好きになりすぎることを。 嫌われるのが怖くて、迷惑になるのが怖くて。 だから一歩手前で、いつも笑って止まる。 最初から好きなくせに、言えない彼女と。 気づいているのに、待っている俺の話。