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四章
13、呼び名
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浴室の窓からは、風にそよぐ笹の葉が見えています。遠くから聞こえる船の汽笛の音。
わたくしと旦那さまは、寄り添うようにお湯につかっています。
不思議です。これまでなら沈黙が訪れると、何か喋らなくてはと気が急いていたのに。
今夜は無言でも気まずく思うことがありません。
檜の広い浴槽で、ゆったりと湯の動くかすかな音がしました。旦那さまが、わたくしの手をそっと握りしめてきます。
「初めて名前で呼んでくれたな」
「あれは……その」
欧之丞と呼ぶことを命じられように覚えています。でも、その時のことは、あまりよく覚えていません。
「結婚しているわけでもありませんし。旦那さまのことを、お名前で呼ぶのは、さすがに」
「うーん。また『旦那さま』に逆戻りか。まぁ、仕方ないか」
旦那さまは、わたくしの手を湯から上げて、ご自分の頬に触れさせました。
わたくしが殿方の肌に触れるのは、旦那さましかおりませんが。意外とすべらかな頬をなさっています。
まぁ、他の殿方と比べようもないのですけど。
「あの、そろそろ離していただけませんか?」
「なぜ?」
「面映ゆいです」
「そうだな。じゃあ、もう一度名前を呼べば、離してもいい」
どうしてそうなるのでしょう。わたくしにとって「旦那さま」であり「先生」でいらっしゃる方のお名前を、気軽に呼ぶのは難しいというのに。
あっ。ありました。もう一つの呼び名が。
わたくしは顔を上げて、旦那さまをじっと見つめました。もちろん、左手は囚われたままです。
「お兄ちゃん。離してください」
刹那、旦那さまが目を丸くなさいました。徐々に頬も耳も首も赤くなっていくのが分かります。
わたくしの手を握る旦那さまの指から、力が抜けていきました。
そして、そのままわたくしの肩に顔を埋めます。
ぱしゃん、と湯がはねる音がしました。
「あの、旦那さま。どうかなさいましたか」
「……どうもしていない」
そんなはずないです。全然平気そうではないんですもの。
「もしかして湯あたりなさいましたか?」
「あたった」
「え? 大変です。早く湯から上がりましょう。わたくし、お水を用意しますから」
「……違うんだ」
旦那さまの声は、かすれています。
琥珀色に濡れた瞳を伏せ、頬の赤さを隠すためか、顔の下半分を手で覆っておられます。
珍しいです。
これまでほとんど目にしたことのない、旦那さまの恥じらった表情です。
「俺は、あなたという甘美な毒に当てられてしまったようだ」
「毒? わたくしがですか?」
そりゃあ、薬になれるほどの賢婦ではありませんが。毒だなんて、妖婦とか毒婦ということでしょうか。
いくら旦那さまでも、それは失礼です。
わたくしは、頬を膨らませて横を向きました。
こんなにも心配しているのに。失礼ですよ。
「毒だよ、翠子さんは。あなたが欲しいと淫らに抱いても、たった一言だけで俺を保護者へと引き戻すのだから」
「そうなのですか?」
仰っていることが、よく分かりません。
「あなたを抱いている時は、旦那さまではなく欧之丞と呼んでほしい。ただ、それ以外の呼称は……勘弁してもらってもいいかな」
「お兄ちゃん、とかですか?」
旦那さまは、なぜか頭を抱えました。
「それだ、それがいけない。幼い頃のあなたが脳裏にちらついて。やましい気分になり、自分を責めてしまう」
「それは、大変ですね」
「他人事のように言わないでくれ」
そう申されましても。
わたくしは、首をかしげました。
わたくしと旦那さまは、寄り添うようにお湯につかっています。
不思議です。これまでなら沈黙が訪れると、何か喋らなくてはと気が急いていたのに。
今夜は無言でも気まずく思うことがありません。
檜の広い浴槽で、ゆったりと湯の動くかすかな音がしました。旦那さまが、わたくしの手をそっと握りしめてきます。
「初めて名前で呼んでくれたな」
「あれは……その」
欧之丞と呼ぶことを命じられように覚えています。でも、その時のことは、あまりよく覚えていません。
「結婚しているわけでもありませんし。旦那さまのことを、お名前で呼ぶのは、さすがに」
「うーん。また『旦那さま』に逆戻りか。まぁ、仕方ないか」
旦那さまは、わたくしの手を湯から上げて、ご自分の頬に触れさせました。
わたくしが殿方の肌に触れるのは、旦那さましかおりませんが。意外とすべらかな頬をなさっています。
まぁ、他の殿方と比べようもないのですけど。
「あの、そろそろ離していただけませんか?」
「なぜ?」
「面映ゆいです」
「そうだな。じゃあ、もう一度名前を呼べば、離してもいい」
どうしてそうなるのでしょう。わたくしにとって「旦那さま」であり「先生」でいらっしゃる方のお名前を、気軽に呼ぶのは難しいというのに。
あっ。ありました。もう一つの呼び名が。
わたくしは顔を上げて、旦那さまをじっと見つめました。もちろん、左手は囚われたままです。
「お兄ちゃん。離してください」
刹那、旦那さまが目を丸くなさいました。徐々に頬も耳も首も赤くなっていくのが分かります。
わたくしの手を握る旦那さまの指から、力が抜けていきました。
そして、そのままわたくしの肩に顔を埋めます。
ぱしゃん、と湯がはねる音がしました。
「あの、旦那さま。どうかなさいましたか」
「……どうもしていない」
そんなはずないです。全然平気そうではないんですもの。
「もしかして湯あたりなさいましたか?」
「あたった」
「え? 大変です。早く湯から上がりましょう。わたくし、お水を用意しますから」
「……違うんだ」
旦那さまの声は、かすれています。
琥珀色に濡れた瞳を伏せ、頬の赤さを隠すためか、顔の下半分を手で覆っておられます。
珍しいです。
これまでほとんど目にしたことのない、旦那さまの恥じらった表情です。
「俺は、あなたという甘美な毒に当てられてしまったようだ」
「毒? わたくしがですか?」
そりゃあ、薬になれるほどの賢婦ではありませんが。毒だなんて、妖婦とか毒婦ということでしょうか。
いくら旦那さまでも、それは失礼です。
わたくしは、頬を膨らませて横を向きました。
こんなにも心配しているのに。失礼ですよ。
「毒だよ、翠子さんは。あなたが欲しいと淫らに抱いても、たった一言だけで俺を保護者へと引き戻すのだから」
「そうなのですか?」
仰っていることが、よく分かりません。
「あなたを抱いている時は、旦那さまではなく欧之丞と呼んでほしい。ただ、それ以外の呼称は……勘弁してもらってもいいかな」
「お兄ちゃん、とかですか?」
旦那さまは、なぜか頭を抱えました。
「それだ、それがいけない。幼い頃のあなたが脳裏にちらついて。やましい気分になり、自分を責めてしまう」
「それは、大変ですね」
「他人事のように言わないでくれ」
そう申されましても。
わたくしは、首をかしげました。
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