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五章
2、おじさま
あー、焦った。
翠子さんと別れた俺は、頭を掻きながら廊下を歩いた。
以前、指導室で彼女に不埒なことをしたが。あの時は、鍵をかけていたからな。
さっき頭を撫でたのは、軽率だったかもしれない。なにしろ教室は鍵がかからない。うん、気を付けなければと思うのだが。
なんで俺は、翠子さんを前にすると理性が飛んでしまうんだ。
三十一年生きてきて、今が一番恋しているとかどうなんだ。青春なんて、全部すっ飛ばしてきたのにな。
だが「褒めてくださらないのですか」なんて、上目遣いで見られたら……。
いや、よく頭を撫でるだけで終わらせる自制心があったものだ。
うん、頑張った。家に戻ったら翠子さんに褒めてもらおう。
「高瀬先生、さようなら」
「さようなら、先生」
「ああ、気を付けて帰りなさい」
四年生の女生徒二人に声をかけられて、返事をする。その子らは、なぜか一様に大きく目を見開いて足を止めた。
「明日は嵐かもしれないわね。写生大会、大丈夫かしら」
「高瀬先生の満面の清々しい笑み。有り得ないものを見たわ」
◇◇◇
ちょうど凪の時間らしく、風はなく空気はねっとりと停滞しています。港には、外国航路の船が停まっています。
カモメが、船を係留しているロープに並んで休んでいる姿を眺めつつ、わたくしは歩きました。
海岸通りまで遠いので、かなり時間がかかってしまいました。でも絵の具も筆も買えましたし、用事は済みました。
ふいに、わたくしの名を呼ぶ声が聞こえました。
「翠子。ああ、やっぱり翠子じゃないか」
「達比古おじさま」
驚きました。わたくしに声をかけてきたのは、母の弟である達比古おじさまだったのですから。年は三十半ばですから、先生よりも少し上になります。
洋装に中折れ帽子をかぶったおじさまは、布でぐるぐる巻きにされた物を大事そうに抱えていらっしゃいました。
上が細くて、下が卵型をした大きな荷物です。
「どうなさったんですか? こんな所で」
「それはこっちの科白だ。笠井の家に行っても、全然翠子を見かけないから。心配していたんだ」
「それは……」
わたくしは口ごもりました。
両親は、わたくしが高瀬先生に引き取られたことを、なんと説明しているのでしょう。
まさか正直に、お金で買われたとは言っていないでしょうし。
「まぁ、ちょうどいい。これから笠井邸に行くつもりだったんだ。骨董の壺を買ってね。姉さんに見せようと思っていたのさ」
「壺ですか」
そういえば達比古おじさまは、骨董品がお好きでよく買い求めていました。
笠井家に来ては母と話し、しばらく後に舶来の絵画や壺を見せに来ていましたっけ。
「じゃあ、ぼくと一緒に帰ろう。この壺は重くてね。ああ、割らないように持ってくれないか?」
「でも、わたくしは家には……いえ、その用事があって」
「別に急ぎじゃないんだろう? 明日でいいじゃないか」
そんな、無茶を言わないでください。こちらにも都合があります。そろそろ父も家に戻る時間でしょう。今更わたくしが顔を出すのは、控えた方がいいに決まっています。
渋るわたくしに、おじさまは壺を押し付けました。
「済みません、おじさま。一緒には行けません」
「用事があるって? だから、そんなのどうでもいいって言ってるだろ」
誘いを断ったわたくしを、おじさまがぎろりと睨みつけてきました。
あ、この感覚です。懐かしいなんて思えませんが、久しく忘れていました。
意に染まぬことを言ったわたくしを、父も達比古おじさまも、憎らしそうに睨むことが多かったのです。
ずっしりとした壺の重みも、そうです。たとえブーツだけであっても、先生は荷物を持ってくださいました。
感謝の言葉を述べれば「当たり前のことをしただけだ」と、ぶっきらぼうに仰いますが。
でも、それが照れ隠しであることは、わたくしにだって分かります。
わたくしは壺をおじさまに押し付けて、走りだしました。
相当に高価な品のようですから、走って追いかけてくることはないでしょう。
双の袂をひるがえし、一目散に高瀬家に向かっていると、前方の人にぶつかってしまいました。
「きゃあ!」
「危ないなぁ」
てっきり転ぶと思っていたのに。わたくしは、ぶつかった相手に背中を支えられていました。
「申し訳ございません。お怪我はないですか?」
「俺はないけど。翠子さん、足を挫いていないか?」
この声は。わたくしを「翠子さん」と呼ぶ男性は、一人しかおりません。
「先生……どうして?」
翠子さんと別れた俺は、頭を掻きながら廊下を歩いた。
以前、指導室で彼女に不埒なことをしたが。あの時は、鍵をかけていたからな。
さっき頭を撫でたのは、軽率だったかもしれない。なにしろ教室は鍵がかからない。うん、気を付けなければと思うのだが。
なんで俺は、翠子さんを前にすると理性が飛んでしまうんだ。
三十一年生きてきて、今が一番恋しているとかどうなんだ。青春なんて、全部すっ飛ばしてきたのにな。
だが「褒めてくださらないのですか」なんて、上目遣いで見られたら……。
いや、よく頭を撫でるだけで終わらせる自制心があったものだ。
うん、頑張った。家に戻ったら翠子さんに褒めてもらおう。
「高瀬先生、さようなら」
「さようなら、先生」
「ああ、気を付けて帰りなさい」
四年生の女生徒二人に声をかけられて、返事をする。その子らは、なぜか一様に大きく目を見開いて足を止めた。
「明日は嵐かもしれないわね。写生大会、大丈夫かしら」
「高瀬先生の満面の清々しい笑み。有り得ないものを見たわ」
◇◇◇
ちょうど凪の時間らしく、風はなく空気はねっとりと停滞しています。港には、外国航路の船が停まっています。
カモメが、船を係留しているロープに並んで休んでいる姿を眺めつつ、わたくしは歩きました。
海岸通りまで遠いので、かなり時間がかかってしまいました。でも絵の具も筆も買えましたし、用事は済みました。
ふいに、わたくしの名を呼ぶ声が聞こえました。
「翠子。ああ、やっぱり翠子じゃないか」
「達比古おじさま」
驚きました。わたくしに声をかけてきたのは、母の弟である達比古おじさまだったのですから。年は三十半ばですから、先生よりも少し上になります。
洋装に中折れ帽子をかぶったおじさまは、布でぐるぐる巻きにされた物を大事そうに抱えていらっしゃいました。
上が細くて、下が卵型をした大きな荷物です。
「どうなさったんですか? こんな所で」
「それはこっちの科白だ。笠井の家に行っても、全然翠子を見かけないから。心配していたんだ」
「それは……」
わたくしは口ごもりました。
両親は、わたくしが高瀬先生に引き取られたことを、なんと説明しているのでしょう。
まさか正直に、お金で買われたとは言っていないでしょうし。
「まぁ、ちょうどいい。これから笠井邸に行くつもりだったんだ。骨董の壺を買ってね。姉さんに見せようと思っていたのさ」
「壺ですか」
そういえば達比古おじさまは、骨董品がお好きでよく買い求めていました。
笠井家に来ては母と話し、しばらく後に舶来の絵画や壺を見せに来ていましたっけ。
「じゃあ、ぼくと一緒に帰ろう。この壺は重くてね。ああ、割らないように持ってくれないか?」
「でも、わたくしは家には……いえ、その用事があって」
「別に急ぎじゃないんだろう? 明日でいいじゃないか」
そんな、無茶を言わないでください。こちらにも都合があります。そろそろ父も家に戻る時間でしょう。今更わたくしが顔を出すのは、控えた方がいいに決まっています。
渋るわたくしに、おじさまは壺を押し付けました。
「済みません、おじさま。一緒には行けません」
「用事があるって? だから、そんなのどうでもいいって言ってるだろ」
誘いを断ったわたくしを、おじさまがぎろりと睨みつけてきました。
あ、この感覚です。懐かしいなんて思えませんが、久しく忘れていました。
意に染まぬことを言ったわたくしを、父も達比古おじさまも、憎らしそうに睨むことが多かったのです。
ずっしりとした壺の重みも、そうです。たとえブーツだけであっても、先生は荷物を持ってくださいました。
感謝の言葉を述べれば「当たり前のことをしただけだ」と、ぶっきらぼうに仰いますが。
でも、それが照れ隠しであることは、わたくしにだって分かります。
わたくしは壺をおじさまに押し付けて、走りだしました。
相当に高価な品のようですから、走って追いかけてくることはないでしょう。
双の袂をひるがえし、一目散に高瀬家に向かっていると、前方の人にぶつかってしまいました。
「きゃあ!」
「危ないなぁ」
てっきり転ぶと思っていたのに。わたくしは、ぶつかった相手に背中を支えられていました。
「申し訳ございません。お怪我はないですか?」
「俺はないけど。翠子さん、足を挫いていないか?」
この声は。わたくしを「翠子さん」と呼ぶ男性は、一人しかおりません。
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