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五章
8、写生大会
俺の腕の中で、翠子さんは静かに寝入っている。
けれど、それまでが少し大変だった。
顔を見せてほしいのに、土鍋の件で間違ったことが相当恥ずかしかったのだろう。
どれほど頼んでも俺の胸から顔を離してくれない。
「翠子さん、機嫌をなおして。ほら、顔を見せてくれないか?」
「嫌です。翠子はもう眠っています」
なんとかあごに手をかけて、上を向かせようとするが、どこにそんな力があるんだというくらい抵抗してくる。
髪の間から覗くうなじは赤く染まり、見ているだけで愛おしくてならない。
「わたくし、格好良くふるまえません」
「俺はあなたに格好良さを求めてはいないが。でも翠子さんはすでに眠っているんじゃなかったのか?」
「……寝言です」
まぁ、あまり虐めてもかわいそうだ。
俺は彼女をしっかりと抱きしめて、再び眠りについた。腕に閉じ込めた翠子さんはとても温かくて。まぁ、保温力もあながち間違いではないなと考えながら……。
◇◇◇
毎朝、お清さんがお弁当を持たせてくださいます。わたくしは、お清さんが作ってくれた料理を、お弁当箱に詰める係です。
でも、今朝は違いました。
先生とわたくし、二つ並んだお弁当箱には、別々の料理がすでに詰めてあったのです。
卵料理は、先生の分はだし巻き卵、わたくしのは炒り卵。煮物は同じですが、わたくしのは人参が花形に抜いてあります。
「お清さん。手間がかかったんじゃないですか?」
「そうでもないですよ。中身は同じですけど、見た目が違うと別の物に見えるでしょう?」
「ええ。ありがとうございます」
わたくしはお弁当箱に蓋をしてお箸を添えて、風呂敷で包みました。
「今日は校外で写生大会があるのでしょう? 美術の先生と担任の先生が引率すると、欧之丞さまに伺いましたよ」
「それで、わざわざ用意してくださったんですね」
「普段は欧之丞さまは職員室で召し上がってらっしゃるでしょうけど。今日は生徒さんもいますしね。担任と生徒が同じお弁当では、いろいろと詮索されてしまいますからね」
本当にありがたいことです。
お清さんは、細やかな気配りでわたくしを守ってくださいます。
「おはよう」
旦那さまがダイニングにいらした時、わたくしは照れて思わず背を向けてしまいました。
◇◇◇
今日は、一限目から昼にかけて四年生の写生大会がある。
俺は、晴れ渡る濁りのない青空を見上げた。
梅雨明けの、こんな暑い時期にしなくてもいいと思うんだが。もっと気候のいい時期にすべきなんじゃないかと、以前、会議で発言したが却下された。
開校当時からの日程なんだと。
授業がほとんど潰れるから、生徒たちは呑気なもんだ。昼の弁当もいつものように教室ではなく、野外で食べるので遠足気分で華やいでいる。
学校裏の丘に移動すると、皆思い思いの場所に座り、画板を膝の上に置いた。
丘に立つと広がる海が見える。
ちょうど商船が入港するのだろう。水先案内人の乗る小舟が、大型船に向けて湾内を航行している。
「ねぇ、翠子さん。この辺りにしない?」
「はい。いいですね」
翠子さんは、友人の深山文子さんと丘の中ほどにいた。
吹き下ろす風に、着物の袂がふわりとなびき、三つ編みにした翠子さんの髪も揺らした。
「あら、高瀬先生。どうなさったんですか?」
腰を下ろした二人の近くにいた俺に、深山さんが声をかける。
しまった。つい、当たり前のように翠子さんの傍に立ってしまっていた。習慣とは恐ろしい。
「いや、ここは日差しが強いから。木陰に行った方が良くないかと思ってね」
「平気ですよ。ね、翠子さん」
深山さんが翠子さんに同意を求める。
いや、君に訊いているわけじゃないんだが。と、担任だから言えるはずもない。ここは教室ではないが、今は授業中と同じだ。生徒を特別扱いしてはいけない。
俺は他の生徒の様子を見に、周囲を歩いた。
「暇そうですわね、高瀬先生」
「まぁ、引率の俺たちが忙しい方がまずいですから。これでいいんじゃないですか」
俺に声をかけてきたのは、美術担当の皆月先生だ。いつもは油絵の具のしみついた白衣を着ているが、さすがに校外なので白衣姿ではない。
皆月先生の話に適当に相槌を打ちつつ、俺は生徒たちに目を配った。
ふと視界の端で、翠子さんが深山さんと楽しそうに会話しているのが見えた。
何を喋っているんだろう。あんな屈託のない笑顔が見られるのだから、きっと学校は楽しいんだろうな。
あなたが楽しければ、俺も嬉しい。
俺は自分の頬が緩むのを感じた。
「ここしばらくで、随分とお変わりになられましたのね」
皆月先生の言っていることが何なのか、すぐには理解できなかった。
「何ですか? 俺が何か?」
「いえ、少し前まで高瀬先生というと、不愛想で融通が利かなくて、目鼻立ちが良くて上背があるものだから、一部の女生徒には人気がありますけど。大半の生徒には恐れられている……という感じでしたのにね」
「分かるように言ってもらえますか。具体例だけ並べられても困るんですが。結論が見えない」
「ああ、ごめんなさい」
皆月先生は、短い髪からのぞく自分の首筋をてのひらで撫でた。
「可愛らしい恋をなさっているのね」
「はぁーぁ?」
妙な声が出てしまった。
皆月先生は俺よりもずいぶんと若い。その相手から「可愛らしい恋」だと?
けれど、それまでが少し大変だった。
顔を見せてほしいのに、土鍋の件で間違ったことが相当恥ずかしかったのだろう。
どれほど頼んでも俺の胸から顔を離してくれない。
「翠子さん、機嫌をなおして。ほら、顔を見せてくれないか?」
「嫌です。翠子はもう眠っています」
なんとかあごに手をかけて、上を向かせようとするが、どこにそんな力があるんだというくらい抵抗してくる。
髪の間から覗くうなじは赤く染まり、見ているだけで愛おしくてならない。
「わたくし、格好良くふるまえません」
「俺はあなたに格好良さを求めてはいないが。でも翠子さんはすでに眠っているんじゃなかったのか?」
「……寝言です」
まぁ、あまり虐めてもかわいそうだ。
俺は彼女をしっかりと抱きしめて、再び眠りについた。腕に閉じ込めた翠子さんはとても温かくて。まぁ、保温力もあながち間違いではないなと考えながら……。
◇◇◇
毎朝、お清さんがお弁当を持たせてくださいます。わたくしは、お清さんが作ってくれた料理を、お弁当箱に詰める係です。
でも、今朝は違いました。
先生とわたくし、二つ並んだお弁当箱には、別々の料理がすでに詰めてあったのです。
卵料理は、先生の分はだし巻き卵、わたくしのは炒り卵。煮物は同じですが、わたくしのは人参が花形に抜いてあります。
「お清さん。手間がかかったんじゃないですか?」
「そうでもないですよ。中身は同じですけど、見た目が違うと別の物に見えるでしょう?」
「ええ。ありがとうございます」
わたくしはお弁当箱に蓋をしてお箸を添えて、風呂敷で包みました。
「今日は校外で写生大会があるのでしょう? 美術の先生と担任の先生が引率すると、欧之丞さまに伺いましたよ」
「それで、わざわざ用意してくださったんですね」
「普段は欧之丞さまは職員室で召し上がってらっしゃるでしょうけど。今日は生徒さんもいますしね。担任と生徒が同じお弁当では、いろいろと詮索されてしまいますからね」
本当にありがたいことです。
お清さんは、細やかな気配りでわたくしを守ってくださいます。
「おはよう」
旦那さまがダイニングにいらした時、わたくしは照れて思わず背を向けてしまいました。
◇◇◇
今日は、一限目から昼にかけて四年生の写生大会がある。
俺は、晴れ渡る濁りのない青空を見上げた。
梅雨明けの、こんな暑い時期にしなくてもいいと思うんだが。もっと気候のいい時期にすべきなんじゃないかと、以前、会議で発言したが却下された。
開校当時からの日程なんだと。
授業がほとんど潰れるから、生徒たちは呑気なもんだ。昼の弁当もいつものように教室ではなく、野外で食べるので遠足気分で華やいでいる。
学校裏の丘に移動すると、皆思い思いの場所に座り、画板を膝の上に置いた。
丘に立つと広がる海が見える。
ちょうど商船が入港するのだろう。水先案内人の乗る小舟が、大型船に向けて湾内を航行している。
「ねぇ、翠子さん。この辺りにしない?」
「はい。いいですね」
翠子さんは、友人の深山文子さんと丘の中ほどにいた。
吹き下ろす風に、着物の袂がふわりとなびき、三つ編みにした翠子さんの髪も揺らした。
「あら、高瀬先生。どうなさったんですか?」
腰を下ろした二人の近くにいた俺に、深山さんが声をかける。
しまった。つい、当たり前のように翠子さんの傍に立ってしまっていた。習慣とは恐ろしい。
「いや、ここは日差しが強いから。木陰に行った方が良くないかと思ってね」
「平気ですよ。ね、翠子さん」
深山さんが翠子さんに同意を求める。
いや、君に訊いているわけじゃないんだが。と、担任だから言えるはずもない。ここは教室ではないが、今は授業中と同じだ。生徒を特別扱いしてはいけない。
俺は他の生徒の様子を見に、周囲を歩いた。
「暇そうですわね、高瀬先生」
「まぁ、引率の俺たちが忙しい方がまずいですから。これでいいんじゃないですか」
俺に声をかけてきたのは、美術担当の皆月先生だ。いつもは油絵の具のしみついた白衣を着ているが、さすがに校外なので白衣姿ではない。
皆月先生の話に適当に相槌を打ちつつ、俺は生徒たちに目を配った。
ふと視界の端で、翠子さんが深山さんと楽しそうに会話しているのが見えた。
何を喋っているんだろう。あんな屈託のない笑顔が見られるのだから、きっと学校は楽しいんだろうな。
あなたが楽しければ、俺も嬉しい。
俺は自分の頬が緩むのを感じた。
「ここしばらくで、随分とお変わりになられましたのね」
皆月先生の言っていることが何なのか、すぐには理解できなかった。
「何ですか? 俺が何か?」
「いえ、少し前まで高瀬先生というと、不愛想で融通が利かなくて、目鼻立ちが良くて上背があるものだから、一部の女生徒には人気がありますけど。大半の生徒には恐れられている……という感じでしたのにね」
「分かるように言ってもらえますか。具体例だけ並べられても困るんですが。結論が見えない」
「ああ、ごめんなさい」
皆月先生は、短い髪からのぞく自分の首筋をてのひらで撫でた。
「可愛らしい恋をなさっているのね」
「はぁーぁ?」
妙な声が出てしまった。
皆月先生は俺よりもずいぶんと若い。その相手から「可愛らしい恋」だと?
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