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五章
10、帰り道
わたくしは、離れた場所で二人並んでいる高瀬先生と皆月先生に目を向けていました。
教師同士、大事な話をなさっているのでしょうか。
「ねぇ、翠子さん。あの二人、お似合いだと思わない?」
文子さんが内緒話をするように、わたくしに寄り添って座ります。
確かに雰囲気があるお二人です。でも「そうね」と頷くことができません。
買ったばかりの絵の具で、眼下に広がる街と海を塗っていきます。なんだかうまく塗れません。妙に青がかすれてしまったり、水を含ませれば滲んでしまったり。
「少し暑くなってきたわ。移動しましょうか」
文子さんの言う通りです。額にじんわりと汗が浮いてきました。やはり木陰に移った方がいいかもしれません。
その時、ふいに手元が仄暗くなりました。
陰ったとたん、不思議と涼しさを覚えます。きっと湿気がないからでしょう。
でも、雲なんて出ていないのにとわたくしは空を見上げました。
同時に、高瀬先生と目があいました。琥珀色の瞳が、わたくしを見下ろしています。
「え、どうして? 先生が」
思わず声に出してしまい、隣の文子さんも驚いて振り返りました。
ちょうどわたくしと文子さんの二人が、先生の影に入っている状態です。
「いきなり濃い色を置くのではなく、先にそれっぽい色を全体的に薄く塗っておいた方がいいんじゃないか」
「は、はい」
びっくりして、思わず声が裏返ってしまいました。どうしてこんな近くにいらっしゃるんですか?
「あと、今から場所を変えたら、適当な絵になってしまうぞ。まぁ、俺は美術教師ではないから、詳しくは知らんが」
苦々しげに仰ると先生は腕を組んで、仁王立ちなさいました。この場を離れるつもりはなさそうです。
「やっぱり怖いね。高瀬先生」
文子さんが耳元で囁きます。
「聞こえているぞ、深山さん。堂々と悪口を言うとは、いい度胸だ」
「きゃあ」
小さく悲鳴を上げると、文子さんはわたくしにしがみついてきました。真後ろに立っていらっしゃるんですもの。そりゃあ、小声でも聞こえますよね。
それに先生は、怖くなんてありません。だってご自分も暑いだろうに、こうして影を作ってくださるんですもの。
きっと伝わりにくい優しさなんだと思います。
言葉は……その、少しきついですけれど。
放課後、わたくしは先生が学校から出てこられるのを、途中の道で待っていました。
今日提出した絵に、本当は丘に立つ先生の姿を描き足したかったのですけれど。でも他の人を描かずに先生だけを加えるのは不自然と思い、やめました。
学校ではあくまでも先生と生徒です。皆月先生のように、教師同士であれば学校でも自然に話すことができるのかもしれませんが。
いいえ、つまらない嫉妬はやめましょう。
◇◇◇
「待たせたな。翠子さん」
花の盛りをとうに過ぎた紫陽花に埋もれるように、翠子さんは石垣に座っていた。
帳面を開いて、どうやら勉強をしているらしい。俺が声をかけても聞こえないようだ。
日中、屋外にいたせいか彼女の顔がうっすらと赤らんでいる。帰宅したら、水で冷やしてやった方がいいだろう。
「翠子さん」
再び呼びかけて、緑濃い紫陽花の葉をかき分け、彼女の肩に手を置く。驚いたように翠子さんは瞠目したが、俺だと分かるとすぐに表情を和らげた。
――今の笠井は危ないですよ。
あれから皆月先生の言葉が、耳について離れない。この待ち合わせ場所は人目につかずちょうどよいのだが、逆に言うと人通りがなくて危険かもしれない。
居残りの勉強がない日でも、教室で待ってもらった方がいいだろうか。
帳面を片付ける翠子さんの手を取り、きゅっと握りしめる。
翠子さんが膝に置いた風呂敷包みが地面に落ちて、筆入れも鉛筆も帳面も散乱してしまった。
だが、俺はなおも彼女の手を離さない。
「先生。外ですよ」
「そうなんだ、困ったな。離したくないんだ」
「ええ、困った先生ですね」
翠子さんは石垣から飛び降りた。ひらりと双の袂が揺れて、袴の裾が乱れる。
そして俺に向き合うと、にっこりと微笑んだ。
むろん、手は握ったままだ。
「でも、わたくしも困った生徒です。先生の手を離したくないんですもの」
つないだ彼女の爪の先が、青く染まっている。手を洗っても絵の具が落ちなかったのだろう。
あなたが描いた青空ごと、握りしめている心地がした。
教師同士、大事な話をなさっているのでしょうか。
「ねぇ、翠子さん。あの二人、お似合いだと思わない?」
文子さんが内緒話をするように、わたくしに寄り添って座ります。
確かに雰囲気があるお二人です。でも「そうね」と頷くことができません。
買ったばかりの絵の具で、眼下に広がる街と海を塗っていきます。なんだかうまく塗れません。妙に青がかすれてしまったり、水を含ませれば滲んでしまったり。
「少し暑くなってきたわ。移動しましょうか」
文子さんの言う通りです。額にじんわりと汗が浮いてきました。やはり木陰に移った方がいいかもしれません。
その時、ふいに手元が仄暗くなりました。
陰ったとたん、不思議と涼しさを覚えます。きっと湿気がないからでしょう。
でも、雲なんて出ていないのにとわたくしは空を見上げました。
同時に、高瀬先生と目があいました。琥珀色の瞳が、わたくしを見下ろしています。
「え、どうして? 先生が」
思わず声に出してしまい、隣の文子さんも驚いて振り返りました。
ちょうどわたくしと文子さんの二人が、先生の影に入っている状態です。
「いきなり濃い色を置くのではなく、先にそれっぽい色を全体的に薄く塗っておいた方がいいんじゃないか」
「は、はい」
びっくりして、思わず声が裏返ってしまいました。どうしてこんな近くにいらっしゃるんですか?
「あと、今から場所を変えたら、適当な絵になってしまうぞ。まぁ、俺は美術教師ではないから、詳しくは知らんが」
苦々しげに仰ると先生は腕を組んで、仁王立ちなさいました。この場を離れるつもりはなさそうです。
「やっぱり怖いね。高瀬先生」
文子さんが耳元で囁きます。
「聞こえているぞ、深山さん。堂々と悪口を言うとは、いい度胸だ」
「きゃあ」
小さく悲鳴を上げると、文子さんはわたくしにしがみついてきました。真後ろに立っていらっしゃるんですもの。そりゃあ、小声でも聞こえますよね。
それに先生は、怖くなんてありません。だってご自分も暑いだろうに、こうして影を作ってくださるんですもの。
きっと伝わりにくい優しさなんだと思います。
言葉は……その、少しきついですけれど。
放課後、わたくしは先生が学校から出てこられるのを、途中の道で待っていました。
今日提出した絵に、本当は丘に立つ先生の姿を描き足したかったのですけれど。でも他の人を描かずに先生だけを加えるのは不自然と思い、やめました。
学校ではあくまでも先生と生徒です。皆月先生のように、教師同士であれば学校でも自然に話すことができるのかもしれませんが。
いいえ、つまらない嫉妬はやめましょう。
◇◇◇
「待たせたな。翠子さん」
花の盛りをとうに過ぎた紫陽花に埋もれるように、翠子さんは石垣に座っていた。
帳面を開いて、どうやら勉強をしているらしい。俺が声をかけても聞こえないようだ。
日中、屋外にいたせいか彼女の顔がうっすらと赤らんでいる。帰宅したら、水で冷やしてやった方がいいだろう。
「翠子さん」
再び呼びかけて、緑濃い紫陽花の葉をかき分け、彼女の肩に手を置く。驚いたように翠子さんは瞠目したが、俺だと分かるとすぐに表情を和らげた。
――今の笠井は危ないですよ。
あれから皆月先生の言葉が、耳について離れない。この待ち合わせ場所は人目につかずちょうどよいのだが、逆に言うと人通りがなくて危険かもしれない。
居残りの勉強がない日でも、教室で待ってもらった方がいいだろうか。
帳面を片付ける翠子さんの手を取り、きゅっと握りしめる。
翠子さんが膝に置いた風呂敷包みが地面に落ちて、筆入れも鉛筆も帳面も散乱してしまった。
だが、俺はなおも彼女の手を離さない。
「先生。外ですよ」
「そうなんだ、困ったな。離したくないんだ」
「ええ、困った先生ですね」
翠子さんは石垣から飛び降りた。ひらりと双の袂が揺れて、袴の裾が乱れる。
そして俺に向き合うと、にっこりと微笑んだ。
むろん、手は握ったままだ。
「でも、わたくしも困った生徒です。先生の手を離したくないんですもの」
つないだ彼女の爪の先が、青く染まっている。手を洗っても絵の具が落ちなかったのだろう。
あなたが描いた青空ごと、握りしめている心地がした。
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