【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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六章

12、恋人

 山頂駅に到着すると、市街地よりもずいぶんと涼しく感じられました。日差しは強いのですが、木陰に入ると風は冷涼です。
 強い風にわたくしのスカートの裾が翻ります。髪を結んでおいてよかったです。でないと、ばさばさに乱れてしまいそうですから。
 髪に結んだ細い藤色のリボンも風に吹かれ、なびいております。

「しかし兄妹に見えるとは……」

 旦那さまがぽつりと呟きました。さきほどの老紳士の言葉が気にかかっているのでしょう。地味に傷ついておられるようです。

「先生と生徒と見抜かれるよりは、よろしいのでは?」
「まぁ、それはそうなんだが」
「では旦那さまは、どんな関係と見られたいのですか?」

 うーん、と難しい顔をなさって、旦那さまは腕を組んでいらっしゃいます。よく分かりませんが、こだわりがあるようです。

「夫婦は今はまだ無理としても、恋人と見られたいものだ」
「恋人……ですか」

 思わぬ単語に、わたくしは声が裏返ってしまいました。
 わたくしと旦那さまは、恋人同士なのですか? はっ。ではこれは逢引きですね。
 何という事でしょう。雑誌『少女の友』の体験談で「書生さんとの逢引き」という投稿がありましたが。それに近いです。

「書生さん好き好き。彼から接吻を求められたの、どうすればよろしいかしら」というような投稿内容でしたが。
 それに対する作家先生のお返事は「恋愛などにうつつを抜かしてはなりません」と、厳しいものでした。

 接吻くらいで叱られてしまうなんて。わたくしの場合は……どうなってしまうのでしょう。

「恋人と言われて、なんで驚くんだ?」

 旦那さまは片方の眉を上げて、訝し気に尋ねます。

「あなたは俺の婚約者だ。だが世間一般の親同士が決めた許嫁とは違い、あなたのことは未来の妻であり、今は恋人だと思っている」
「考えたこともありませんでした」
「ないのか?」
「だって、恐れ多いです。わたくしが旦那さまの恋人だなんて」

◇◇◇

 翠子さんの言葉に、俺は自分の額を指で押さえた。
 なるほど、盲点だった。
 この国では自由恋愛は推奨されていないのだ。
 俺に恋文を送ってきたカフェーの女給もいたが。うちの学校の生徒たちのような良家の娘は、さっき俺が言った通り、親が決めた婚約者の元へと嫁ぐ。愛情の有る無しなど関係なく。

 翠子さんが恐れ多いと言ったのは、劇場で演じられる情熱的な恋人同士を指しているのだろう。あれは悲恋が多いが。

 そういえば彼女が愛読している『少女の友』に「恋愛など不埒なことに惑わされずに、賢夫人けんぷじんになるべく励みなさい」と書いてある頁があったな。

 恋愛を……俺が翠子さんをこんなにも愛していることを不埒だなど。あの雑誌は、教育上良くないんじゃないのか?
 そもそも恋もせずに結婚をして、相手のことを尊重できるはずがない。

「『少女の友』の購入は、やめることを前提に検討した方がいいな」
「え、どうしてですか? 楽しみにしているのに。ひどいです」
「だが……」
「だって、少女小説の続きも気になります。実際に恋愛なさっている方の投稿も楽しみなんです。大概、作家先生に叱られていますけど」

 叱られているのに楽しいのか?

 考えながらプラットを出ると、ケーブル休憩所があった。床と柱と屋根だけの東屋で、床は履物を脱いで座ることができるように高さがある。
 
 休憩所の前には遊具の木馬があり、子どもが楽しそうに揺らして遊んでいる。三歳くらいのおかっぱの女の子が木馬に乗りたそうに手をかけて、でもすぐに離してしまう。

 きっと怖いんだろうな。両親は? と見ると、どうやら山頂からの景色を眺めて楽しんでいる。
 ふいに俺の隣にいた翠子さんが、木馬へ向かって歩き出した。

「大丈夫ですよ。お姉さんが手伝いますからね」
「お姉ちゃんが?」
「ええ。わたくしも乗ったことがありますけど。最初が少し怖いんですよね」

 翠子さんのその言葉に、女の子は口を尖らせた。

「平気。一人で乗れるもん。全然怖くないもん」
「そうですね。でも、お姉さんはお手伝いしたいんですよ。いいかしら?」
「どうしてもって言うなら、手伝わせてあげてもいいけど」

 女の子はちらっと翠子さんを見上げては、またそっぽを向く。
 ふふ、と翠子さんは微笑むと、女の子の両脇に手を入れた。
 多分、ひょいっと持ち上げるつもりだったんだろう。だが彼女に三歳児は抱えることはできなかった。
 ブラウスの半袖からのぞく腕が、ふるふると小刻みに震えている。

 俺は思わず吹き出してしまった。
 いや、悪いとは思うが。笑いが止まらない。

「それはないだろ、翠子さん。非力にも程があるぞ」
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