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六章
13、散策路
旦那さまは、何ということを仰るのでしょう。確かにわたくしは力が足りませんが。もう少し頑張れば、この子を抱えることだってできるはずですのに。
ひとしきりお笑いになった旦那さまは、片腕で女の子を軽々と抱え上げて木馬に乗せてあげました。
「ちゃんと持ち手につかまっているんだよ。揺らすからね」
「うん」
木馬の前にかがみこんで、ゆっくりと揺らす旦那さまは、穏やかな表情で女の子を見つめていらっしゃいます。
女の子は目をきらめかせ、木のお馬さんに夢中です。
きっと空に近いこの場所を、乗馬して駆け抜けている心地がするのでしょう。
下界を見下ろし、空を行く馬。まるで天馬です。なんて素敵なのでしょう。
その内に女の子のご両親がいらっしゃって、旦那さまにお礼を仰っていました。
「おじちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
帽子をとって、旦那さまは女の子に会釈なさいます。そんなさりげない仕草も素敵です。
「おじちゃんと呼ばれてしまいましたね」
「三歳児から見れば、俺などおじさんだろ」
「ショックじゃないのですか?」
「なんでだ?」
旦那さまは、心底不思議そうな顔をなさいました。
奇妙ではありませんか。わたくしと兄妹に見られたことを気にしていらしたのに。おじちゃんと呼ばれるのは平気だなんて。
「旦那さまは、子どもがお好きなんですね」
「好きかどうかはよく分からんが。あの子を見ていると、翠子さんの小さい頃を思い出したな。まぁ、あなたは三歳児ではなく七歳児だったが」
「似ていましたか? わたくし、子どもの頃はおかっぱでしたかしら。自分のことってあまり覚えていなくて」
「見た目は違うが。まぁ、似てるんじゃないかな」
「どこがですか?」
うーん、と旦那さまは首を傾げた後で、意味ありげに口の端を上げました。
「可愛いところが似ている、かな」
「答えになっていません」
「子どもってあんな風だよな、と思ってな」
ますます分かりません。混乱しているわたくしの手を、旦那さまが握りました。
導かれるままに山上の散策路に入っていきます。
「この山は標高がさほど高くないからな。山頂といっても木が茂っているだろう?」
「はい」
見上げると、わたくしの視界を緑の葉が覆い尽くしています。葉と葉の重なる間から青い空が見える程度で、空気は浅い緑に染まって見えます。まさに緑陰という風情です。
「もっと標高が高くなると、木々は腰よりも低いハイマツだけになる。さらに上に行くと今度は森林限界だ。木は生えず育たず、高山植物のみが咲いている」
「山の上にお花畑があるのですか? それは素敵です」
「ああ、綺麗だよ。翠子さんにも見せてあげたい。学生の頃は琥太兄……友人と登っていたが、あの当時は人知れず咲き誇る花畑を誰かに見せたいとは思わなかったな」
「旦那さま」
「こんな風に感動を分かち合いたいと思う相手を、恋人と呼ぶのかもしれないな」
旦那さまは、わたくしの手をぎゅっと握りました。
「俺があなたを選んだんだ。ずっと会いたいと願っていて、再会してからは恋い焦がれた人だ」
四年生に上がるまで、いえ旦那さまのお家で暮らすようになるまで。高瀬先生のことは怜悧で厳しい人だとばかり思っていました。
なのに、わたくしを想っていてくださったなんて。
こんなにも惜しげもなく愛情を注いでくださるなんて。
「だから、俺に好かれることを恐れ多いなんていう必要はない」
「……はい」
優しくて深い旦那さまの声に重なるように、澄んだ鳥の鳴き声が聞こえました。
街中では春にしか聞こえない鶯の鳴き声も、夏山では当たり前のように耳に届きます。瑠璃色の翼を休める小鳥、どこかうら寂しいカッコウの声。
そして花から花へ渡る虫の微かな羽音も。
山は静かだと思っていましたが、こんなにも音にあふれていたのですね。
「わたくし達、恋人ですか?」
「恋人同士だね」
旦那さまの言葉は静かですが、その手にはさらに力がこもりました。強く握られて、指が窮屈なほどです。
「今はそれを隠しておかねばならないが。俺たちの関係を公言したいわけでもない」
「旦那さま」
「誰にも知られずとも、俺が知っていればいいだけのことだ。そして翠子さんが、俺の恋人であると自覚してくれているなら、もっといい」
旦那さまは立ち止まって、わたくしを見つめました。
聞こえるのは鳥のさえずりばかりで、周囲に人はおりません。
柔らかな緑の葉から、木洩れ日が煌めいています。
わたくしは背伸びをして、旦那さまの頬にくちづけました。
「お約束の証です。翠子が、欧之丞さんの恋人であることの」
旦那さまは驚くでもなく、茶化すでもなく、静かに微笑んでくださいました。
でも、とても嬉しそうな表情で、目を細めていらっしゃいます。
そして少ししゃがみこんで、わたくしの頬にもくちづけをくださいました。
ええ。わたくしも嬉しいです。とてもとても。
わたくしは緑陰の隧道を、旦那さまと手をつないで進んでいきます。
迷子になったあの幼い日は、降る雪を見上げてお兄ちゃんと手をつないでおりました。
過去も今も、こうしてわたくしと手をつないでくださいます。
そして未来も。
ひとしきりお笑いになった旦那さまは、片腕で女の子を軽々と抱え上げて木馬に乗せてあげました。
「ちゃんと持ち手につかまっているんだよ。揺らすからね」
「うん」
木馬の前にかがみこんで、ゆっくりと揺らす旦那さまは、穏やかな表情で女の子を見つめていらっしゃいます。
女の子は目をきらめかせ、木のお馬さんに夢中です。
きっと空に近いこの場所を、乗馬して駆け抜けている心地がするのでしょう。
下界を見下ろし、空を行く馬。まるで天馬です。なんて素敵なのでしょう。
その内に女の子のご両親がいらっしゃって、旦那さまにお礼を仰っていました。
「おじちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
帽子をとって、旦那さまは女の子に会釈なさいます。そんなさりげない仕草も素敵です。
「おじちゃんと呼ばれてしまいましたね」
「三歳児から見れば、俺などおじさんだろ」
「ショックじゃないのですか?」
「なんでだ?」
旦那さまは、心底不思議そうな顔をなさいました。
奇妙ではありませんか。わたくしと兄妹に見られたことを気にしていらしたのに。おじちゃんと呼ばれるのは平気だなんて。
「旦那さまは、子どもがお好きなんですね」
「好きかどうかはよく分からんが。あの子を見ていると、翠子さんの小さい頃を思い出したな。まぁ、あなたは三歳児ではなく七歳児だったが」
「似ていましたか? わたくし、子どもの頃はおかっぱでしたかしら。自分のことってあまり覚えていなくて」
「見た目は違うが。まぁ、似てるんじゃないかな」
「どこがですか?」
うーん、と旦那さまは首を傾げた後で、意味ありげに口の端を上げました。
「可愛いところが似ている、かな」
「答えになっていません」
「子どもってあんな風だよな、と思ってな」
ますます分かりません。混乱しているわたくしの手を、旦那さまが握りました。
導かれるままに山上の散策路に入っていきます。
「この山は標高がさほど高くないからな。山頂といっても木が茂っているだろう?」
「はい」
見上げると、わたくしの視界を緑の葉が覆い尽くしています。葉と葉の重なる間から青い空が見える程度で、空気は浅い緑に染まって見えます。まさに緑陰という風情です。
「もっと標高が高くなると、木々は腰よりも低いハイマツだけになる。さらに上に行くと今度は森林限界だ。木は生えず育たず、高山植物のみが咲いている」
「山の上にお花畑があるのですか? それは素敵です」
「ああ、綺麗だよ。翠子さんにも見せてあげたい。学生の頃は琥太兄……友人と登っていたが、あの当時は人知れず咲き誇る花畑を誰かに見せたいとは思わなかったな」
「旦那さま」
「こんな風に感動を分かち合いたいと思う相手を、恋人と呼ぶのかもしれないな」
旦那さまは、わたくしの手をぎゅっと握りました。
「俺があなたを選んだんだ。ずっと会いたいと願っていて、再会してからは恋い焦がれた人だ」
四年生に上がるまで、いえ旦那さまのお家で暮らすようになるまで。高瀬先生のことは怜悧で厳しい人だとばかり思っていました。
なのに、わたくしを想っていてくださったなんて。
こんなにも惜しげもなく愛情を注いでくださるなんて。
「だから、俺に好かれることを恐れ多いなんていう必要はない」
「……はい」
優しくて深い旦那さまの声に重なるように、澄んだ鳥の鳴き声が聞こえました。
街中では春にしか聞こえない鶯の鳴き声も、夏山では当たり前のように耳に届きます。瑠璃色の翼を休める小鳥、どこかうら寂しいカッコウの声。
そして花から花へ渡る虫の微かな羽音も。
山は静かだと思っていましたが、こんなにも音にあふれていたのですね。
「わたくし達、恋人ですか?」
「恋人同士だね」
旦那さまの言葉は静かですが、その手にはさらに力がこもりました。強く握られて、指が窮屈なほどです。
「今はそれを隠しておかねばならないが。俺たちの関係を公言したいわけでもない」
「旦那さま」
「誰にも知られずとも、俺が知っていればいいだけのことだ。そして翠子さんが、俺の恋人であると自覚してくれているなら、もっといい」
旦那さまは立ち止まって、わたくしを見つめました。
聞こえるのは鳥のさえずりばかりで、周囲に人はおりません。
柔らかな緑の葉から、木洩れ日が煌めいています。
わたくしは背伸びをして、旦那さまの頬にくちづけました。
「お約束の証です。翠子が、欧之丞さんの恋人であることの」
旦那さまは驚くでもなく、茶化すでもなく、静かに微笑んでくださいました。
でも、とても嬉しそうな表情で、目を細めていらっしゃいます。
そして少ししゃがみこんで、わたくしの頬にもくちづけをくださいました。
ええ。わたくしも嬉しいです。とてもとても。
わたくしは緑陰の隧道を、旦那さまと手をつないで進んでいきます。
迷子になったあの幼い日は、降る雪を見上げてお兄ちゃんと手をつないでおりました。
過去も今も、こうしてわたくしと手をつないでくださいます。
そして未来も。
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