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七章
6、さくらんぼ
俺が手にしたガラスの器を座卓に置くと、翠子さんは目を大きく見開いた。その瞳は、しだいに煌めく星を宿す。
「旦那さま、それ……」
「俺はご褒美を取りに行っていました。木々の多い庭に面したこの部屋に放置していたら、それこそご褒美が虫だらけになるかもしれないだろ」
「いただいてもいいんですか?」
「どうぞ」
「本当に食べちゃいますよ」
俺が頷くと、翠子さんは白魚のごとくしなやかな指で、さくらんぼの軸を抓んだ。真っ先に選ばれたその一粒は、彼女にうっとりと見つめられて、照れているかのように赤や朱に染まった色をしている。
「いただきます」と呟いて、翠子さんはさくらんぼを口に含んだ。少しして、彼女の笑顔が花開いたようにほころんだ。
「あなたが、そんなにさくらんぼが好きとは思わなかったな」
「はい、大好きです。でも、これはもっと特別」
「特別に甘い品種なのか?」
果物の種類の見分けくらいはつくが、その中での品種の違いまでは俺には分からない。どう見ても同じ形だろうに、名前が違ったりするのだからな。
「旦那さまと一緒に買いに行ったから、特別なんですよ」
「俺と?」
思いがけない答えに、俺は思わず身を乗り出した。座卓の向かいに座る翠子さんは、変わらずにこにこしている。
「一緒に寄り道して、真剣にさくらぼを選んで」
うん、真剣だったのは君だけだったけどな。
「本当のふ……いえ、家族みたいじゃありませんか? 素敵ですよね」
照れた彼女が飲み込んだ「ふ」に続く言葉を考えて、俺は顔だけではなく耳の根まで熱くなるのを感じた。
夫婦でも伴侶でも夫妻でも配偶者でも匹偶でも。どれでも大歓迎だ。ハ行万歳!
「もう一つどうぞ」
俺は次なる一粒の軸を持って、翠子さんに差し出した。彼女が手を伸ばしてきたから、さっとさくらんぼを避ける。
軸の先の果実は頼りなく揺れ、翠子さんは途方に暮れたように瞬きをくりかえした。
「こういう時は『あーん』だろ?」
「え? 自分で食べられます」
「うんうん。でも翠子さんは俺に食べさせてほしいんだよな」
ああ、駄目だ。あなたのことを愛しすぎて、構って構って、構い倒してしまう。欲望に任せて抱きつぶすような愚かな真似はしないが、愛が溢れて構いつぶすようなことはあるのだろうか。
いつもなら照れてしまう翠子さんだろうが、やはりさくらんぼの魅力には抗えないようだ。
俺は知っている。
帰宅した時のおやつは麦茶とサイダボンボンという寒天ゼリーだった。
さっき買って来たばかりのさくらんぼが出てくるわけはないと把握したらしく、翠子さんはサイダボンボンを美味しそうに食べていた。
夕食時にもさくらんぼは出てこなかった。翠子さんは「しょうがないですよね」と言いたげな風情で、おとなしくしていたが。
しかも、ようやくさくらんぼが供されたと思ったら、気づけば皿ごと消えていたんだもんな。
待ちに待った果実だ。たったの一粒で我慢できるはずもない。
彼女のふっくらとした唇に、艶のあるさくらんぼを触れさせる。すると喉元がこくりと動くのが見えた。
次の瞬間、翠子さんの両手が俺の右手に添えられた。しっとりと情感をたたえた舌先が、軸の先で揺れるさくらんぼを捉える。
そのまま宝石のような一粒は、可憐な唇へ、その奥へと消えていった。
夕暮れの空色の結晶を、翠子さんが飲み込んだかのようだ。
「どうしましょう」
翠子さんを見つめていると、ふいに困ったように彼女が手で口を押えた。
「種を飲み込んでしまいました」
「慌てて食べるからだよ」
「……辛抱できませんでした」
俺は、翠子さんの華奢な肩を引き寄せて、胸にもたれかけさせた。
空を見上げると儚い星が一つ、つと斜めに流れた。
「旦那さま、それ……」
「俺はご褒美を取りに行っていました。木々の多い庭に面したこの部屋に放置していたら、それこそご褒美が虫だらけになるかもしれないだろ」
「いただいてもいいんですか?」
「どうぞ」
「本当に食べちゃいますよ」
俺が頷くと、翠子さんは白魚のごとくしなやかな指で、さくらんぼの軸を抓んだ。真っ先に選ばれたその一粒は、彼女にうっとりと見つめられて、照れているかのように赤や朱に染まった色をしている。
「いただきます」と呟いて、翠子さんはさくらんぼを口に含んだ。少しして、彼女の笑顔が花開いたようにほころんだ。
「あなたが、そんなにさくらんぼが好きとは思わなかったな」
「はい、大好きです。でも、これはもっと特別」
「特別に甘い品種なのか?」
果物の種類の見分けくらいはつくが、その中での品種の違いまでは俺には分からない。どう見ても同じ形だろうに、名前が違ったりするのだからな。
「旦那さまと一緒に買いに行ったから、特別なんですよ」
「俺と?」
思いがけない答えに、俺は思わず身を乗り出した。座卓の向かいに座る翠子さんは、変わらずにこにこしている。
「一緒に寄り道して、真剣にさくらぼを選んで」
うん、真剣だったのは君だけだったけどな。
「本当のふ……いえ、家族みたいじゃありませんか? 素敵ですよね」
照れた彼女が飲み込んだ「ふ」に続く言葉を考えて、俺は顔だけではなく耳の根まで熱くなるのを感じた。
夫婦でも伴侶でも夫妻でも配偶者でも匹偶でも。どれでも大歓迎だ。ハ行万歳!
「もう一つどうぞ」
俺は次なる一粒の軸を持って、翠子さんに差し出した。彼女が手を伸ばしてきたから、さっとさくらんぼを避ける。
軸の先の果実は頼りなく揺れ、翠子さんは途方に暮れたように瞬きをくりかえした。
「こういう時は『あーん』だろ?」
「え? 自分で食べられます」
「うんうん。でも翠子さんは俺に食べさせてほしいんだよな」
ああ、駄目だ。あなたのことを愛しすぎて、構って構って、構い倒してしまう。欲望に任せて抱きつぶすような愚かな真似はしないが、愛が溢れて構いつぶすようなことはあるのだろうか。
いつもなら照れてしまう翠子さんだろうが、やはりさくらんぼの魅力には抗えないようだ。
俺は知っている。
帰宅した時のおやつは麦茶とサイダボンボンという寒天ゼリーだった。
さっき買って来たばかりのさくらんぼが出てくるわけはないと把握したらしく、翠子さんはサイダボンボンを美味しそうに食べていた。
夕食時にもさくらんぼは出てこなかった。翠子さんは「しょうがないですよね」と言いたげな風情で、おとなしくしていたが。
しかも、ようやくさくらんぼが供されたと思ったら、気づけば皿ごと消えていたんだもんな。
待ちに待った果実だ。たったの一粒で我慢できるはずもない。
彼女のふっくらとした唇に、艶のあるさくらんぼを触れさせる。すると喉元がこくりと動くのが見えた。
次の瞬間、翠子さんの両手が俺の右手に添えられた。しっとりと情感をたたえた舌先が、軸の先で揺れるさくらんぼを捉える。
そのまま宝石のような一粒は、可憐な唇へ、その奥へと消えていった。
夕暮れの空色の結晶を、翠子さんが飲み込んだかのようだ。
「どうしましょう」
翠子さんを見つめていると、ふいに困ったように彼女が手で口を押えた。
「種を飲み込んでしまいました」
「慌てて食べるからだよ」
「……辛抱できませんでした」
俺は、翠子さんの華奢な肩を引き寄せて、胸にもたれかけさせた。
空を見上げると儚い星が一つ、つと斜めに流れた。
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