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七章
7、召し上がってください
俺の胸にもたれる翠子さんの肌からは、俺と同じ石鹸の香りがした。
ガラスの器に盛ったさくらんぼをじっと見つめて、そして一粒を俺の口元へ持ってくる。
「どうぞ召し上がってください」
「翠子さんを?」
「ち、違います。さくらんぼです」
「なんだ。一度じゃ足りないのかと思った」
俺の言葉の意味を察したのだろう。翠子さんは、俺から体を離そうとした。
だが残念だったな。力は俺の方が強い。彼女の胸の下あたりに腕をまわして、さらにぐいっと引き寄せる。
「……俺は足りない」
「だから、そういうことを言わないでください」
「理不尽だな。真実を口にすると怒られるとは」
「や……、もう。旦那さまには、さくらんぼはあげません」
おいおい。たいそう重要な駆け引きのように言うんだな。俺にとって、さくらんぼはそこまでの価値はないぞ。
だが、交渉をしようというのなら、こっちにも切り札がある。
翠子さんのことは、あなた以上に知っているのだからな。
「そうかー。困ったなー。お清に頼んで茄子の料理を作ってもらおうと考えていたんだが。翠子さんはもう茄子ではなく、さくらんぼの人なんだな」
「お茄子……」
呆然と呟く彼女の瞳から光が消えた。
いや、ちょっと待ってくれ。俺、そんなにひどいことを言ったか? まるで虐めているみたいじゃないか。
以前、お清に翠子さんを虐めていないか問い詰められたことがあるが。もしかして、俺はやはり彼女のことを虐めているのか?
翠子さんは、さくらんぼの入った器をじっと見つめている。まるでそこに重大な証文でも入っているかのように真剣な表情だ。そして、ぎゅっと瞼を閉じた。
「みどり……」
「差し上げます。これ、全部。だからそんな酷いことを仰らないでください」
へ? 俺はぽかんと口が開いてしまった。
これではまるで俺が、さくらんぼ大好き人間で、人のものまで奪うような悪漢になってやしないか?
「と、取らないから」
「でも、旦那さまは、まださくらんぼを召し上がっていません。わたくしが独り占めして、ほんの一粒だけさしあげようとしたから、怒ってらっしゃるんですよね。だから、その……またお仕置きをされてしまうんですよね?」
「しないから」
したいけど。
心の声が口から出てしまいそうで、俺は翠子さんを抱きしめた。
この世のさくらんぼも茄子も、全部あなたにあげるから。だから、そんな悲壮な決意で俺を見つめないでくれ。
さっきあなたを抱いたばかりなのに、足りないのは俺の方なんだ。
なんとか翠子さんをなだめて、俺はさくらんぼを一粒だけもらった。
あぁ、女の子と暮らすのも初めてなら、こんな身近で接することもなかったから。扱いが難しい。
この感覚は覚えがあるぞ。そうだ、猫に似ているんだ。
俺は貴重な一粒を口に含んだ。張りがあるが薄い皮を噛むと、しつこさのない甘い果汁が口の中に広がる。
まぁ、甘いのは得意ではないが。翠子さんと買いに行き、彼女の手からもらったものだから、悪くはない。
「そういえば明日は帰りが遅くなるかもしれない。他校の先生方がうちの学校の見学に来るからな。仕事の終わる時間がはっきりしないんだ」
俺の胸にもたれる翠子さんの肩が、ぴくりと動いた。
こんな些細なことでも、あなたの愛を感じてしまう。きっと一緒に帰れないことが不安なのだろう。
「旦那さまとご一緒できないんですか? どうしましょう」
さくらんぼの種を飲み込んだ時よりも、もっと途方に暮れた表情を浮かべて翠子さんが振り返る。
ほらな、思った通りだ。
「いつまでもあなたを教室に残しておくわけにもいかないし。そうだな、明日の迎えは銀司に頼んでおくよ」
「はい」と了承しながらも、翠子さんは俺の浴衣の袖を掴んだ。
そういういじらしいことをすると、また抱かれてしまいますよ。お嬢さま。
ガラスの器に盛ったさくらんぼをじっと見つめて、そして一粒を俺の口元へ持ってくる。
「どうぞ召し上がってください」
「翠子さんを?」
「ち、違います。さくらんぼです」
「なんだ。一度じゃ足りないのかと思った」
俺の言葉の意味を察したのだろう。翠子さんは、俺から体を離そうとした。
だが残念だったな。力は俺の方が強い。彼女の胸の下あたりに腕をまわして、さらにぐいっと引き寄せる。
「……俺は足りない」
「だから、そういうことを言わないでください」
「理不尽だな。真実を口にすると怒られるとは」
「や……、もう。旦那さまには、さくらんぼはあげません」
おいおい。たいそう重要な駆け引きのように言うんだな。俺にとって、さくらんぼはそこまでの価値はないぞ。
だが、交渉をしようというのなら、こっちにも切り札がある。
翠子さんのことは、あなた以上に知っているのだからな。
「そうかー。困ったなー。お清に頼んで茄子の料理を作ってもらおうと考えていたんだが。翠子さんはもう茄子ではなく、さくらんぼの人なんだな」
「お茄子……」
呆然と呟く彼女の瞳から光が消えた。
いや、ちょっと待ってくれ。俺、そんなにひどいことを言ったか? まるで虐めているみたいじゃないか。
以前、お清に翠子さんを虐めていないか問い詰められたことがあるが。もしかして、俺はやはり彼女のことを虐めているのか?
翠子さんは、さくらんぼの入った器をじっと見つめている。まるでそこに重大な証文でも入っているかのように真剣な表情だ。そして、ぎゅっと瞼を閉じた。
「みどり……」
「差し上げます。これ、全部。だからそんな酷いことを仰らないでください」
へ? 俺はぽかんと口が開いてしまった。
これではまるで俺が、さくらんぼ大好き人間で、人のものまで奪うような悪漢になってやしないか?
「と、取らないから」
「でも、旦那さまは、まださくらんぼを召し上がっていません。わたくしが独り占めして、ほんの一粒だけさしあげようとしたから、怒ってらっしゃるんですよね。だから、その……またお仕置きをされてしまうんですよね?」
「しないから」
したいけど。
心の声が口から出てしまいそうで、俺は翠子さんを抱きしめた。
この世のさくらんぼも茄子も、全部あなたにあげるから。だから、そんな悲壮な決意で俺を見つめないでくれ。
さっきあなたを抱いたばかりなのに、足りないのは俺の方なんだ。
なんとか翠子さんをなだめて、俺はさくらんぼを一粒だけもらった。
あぁ、女の子と暮らすのも初めてなら、こんな身近で接することもなかったから。扱いが難しい。
この感覚は覚えがあるぞ。そうだ、猫に似ているんだ。
俺は貴重な一粒を口に含んだ。張りがあるが薄い皮を噛むと、しつこさのない甘い果汁が口の中に広がる。
まぁ、甘いのは得意ではないが。翠子さんと買いに行き、彼女の手からもらったものだから、悪くはない。
「そういえば明日は帰りが遅くなるかもしれない。他校の先生方がうちの学校の見学に来るからな。仕事の終わる時間がはっきりしないんだ」
俺の胸にもたれる翠子さんの肩が、ぴくりと動いた。
こんな些細なことでも、あなたの愛を感じてしまう。きっと一緒に帰れないことが不安なのだろう。
「旦那さまとご一緒できないんですか? どうしましょう」
さくらんぼの種を飲み込んだ時よりも、もっと途方に暮れた表情を浮かべて翠子さんが振り返る。
ほらな、思った通りだ。
「いつまでもあなたを教室に残しておくわけにもいかないし。そうだな、明日の迎えは銀司に頼んでおくよ」
「はい」と了承しながらも、翠子さんは俺の浴衣の袖を掴んだ。
そういういじらしいことをすると、また抱かれてしまいますよ。お嬢さま。
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